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aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1

2025-03-20 13:58:27 | 履歴稿
DCP_0343
 
履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1
 
私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越た年の秋に、末弟の渡四男が誕生をした。
 
父は、その末弟の誕生を、
一、大正二年十月二十八日、四男出生、渡四男と命名す。
と、その履歴稿に記録をして居る。
 
 父が末弟の名を渡四男(トシヲと読む)と言った一寸変わった命名をしたのは、北海道へ渡ってから、四男として生まれたと言うことを意味づけたのだと、後年の父は私達兄弟に聞かせて居た。
 
 病身の母は、その末弟の渡四男が生まれてからは、めっきり弱くなった。
 
 当時小学校の尋常科六年生であった私が、次弟の義憲を連れて登校をするようになったのも、父も兄も、そして私が登校をした留守中を隣の夫人(私はおばさんと呼んで居た)の世話になって居たので、次弟の義憲が居ると言うことが、母もそして隣の夫人も、お互に負担になるからと言う母の意思によったものであったが、朝夕の炊事には殆んど私が当たって居た。
 
 その翌年の三月に私は、公立似湾尋常小学校を首席の成績で卒業をした。
 
 
 
DCP_0344
 
 その当時の似湾村には、高等科と言うものの設置が無かったことが、そうさせたのだと思うのだが、私の同級生で高等科へ進学した者は、役場の戸長をして居た家の三男坊であって、私と同じ机に席のあった、高松獅郎と言う少年が只一人と言う状態であった。
 
 その高松君は、札幌の高女(校名は不詳)を卒業した姉さんが、教鞭を使って居た輪西の鶴ヶ崎小学校の高等科に進学をしたのであった。
 
 当時、私の心境は高等科に進学したい一心であったのだが、併し家庭の実状が、私の希望を居れ得ない状態であることを私には良く判って居た。
 
 併し私は、一応進学をしたい自分の希望を父に訴えて見たのではあったが、「お前も良く判って居るように、お母さんが弱いので、お前が居ないと家が困る。それに下宿をしなければならないのだから、お金が沢山かかる。お父さんと義潔の二人が貰う現在の給料では、とても送金が続かないから、可哀想ではあるが、高等科への進学を諦めてくれ。」と言う結果になった。
 
 無理にとは言えないので、とても残念ではあったのだが、私は進学を諦めてその当時東京で発行して居た、高等小学講義録と言う通信教育によって勉強をすることにした。
 
 私が学校を卒業したからということによって、畑の借地を更に一反歩増すことになった。
 
 朝夕の炊事、次弟と末弟の世話、講義録による勉強、三反歩になった畑の耕作と忙しい毎日を送らなければならなくなったので、それまで母を喜ばして居た臨時集配人としてのポストを開ける仕事を三月限りで辞めてしまった。
 
 
 
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 従って、毎月母に喜ばれた三円の給料は、もう貰えなくなった。
 
 学校を卒業してからの私が一ヶ月間に必要とした費用は五十銭程度のものであったのだが、その内訳をして見ると、講義録が二十銭、少年雑誌の日本少年が十銭、そして雑記帳や鉛筆と言った文房具費が二十銭程度と言った経費であった。
 
 その当時の兄は、月収十二円の内から九円を母に渡して残りの三円を自分の小遣銭にして居た。
 
 兄はその小遣銭で、当時流行して居た講談文庫の単行本やハーモニカ、銀笛、明笛といった楽器類を、私が購読をして居た日本少年の広告欄から選んで、振替用紙を使っては注文をして居た。
 
 学校を卒業するまでの私は、月月に貰う給料の三円をその儘母に渡して、「日本少年」を一冊買って貰って居たのであったが、その臨時集配人を辞めて無収入となった私が、逆に講義録その他で出費が増えたことが、当時の私としてはとても淋しく感じたものであった。
 
 併し、幸いなことに五月からは、役場の小使さんが休んだ日には、一日五十銭の割で代務者として私を使ってくれたことと、集配人が休むと、郵便局でもその代務者として私を使ってくれて、その休んだ人の日給を日払で支給をしてくれたので月間三円は欠かさない収入があるようになったので、私はホッとしたものであった。
 
 

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