履 歴 稿 紫 影子
香川県編
兄が帰って来た
倒産をしたので家屋敷を始めとした不動産の整理を済ました私達の家族は、二つに別れてそれぞれ心中の地へ移ったのであった。
私の祖父小三太と言う人は、香川県の綾歌郡山内村字新名と言う所で、漢方医を開業して居た家の二男として生まれたのであったが、縁あって男児の育たなかった綾井家に入婿した人であったが、そしてその生家は二町屋敷を構えて姓を上原と称して居た。
長兄は父子相伝の漢方医を相続、そして弟は出家して私が未だ生まれて居ない頃から源平古戦場の屋島寺の住職をして居た人であった。
私の祖父は、少年の頃から漢学を学んで居たので大学に始まる四書には通じて居た人であったのだが、その身長が六尺有余、そして体重が28貫あったと言う、堂々たる体軀の持主であって、中条流の剣を良く使ったと言う高祖父との折合は、あまり良くなかったそうであった。
その高祖父は、父の履歴稿によると家が倒産する年の1月25日に他界して居て、その名を小太郎と称した人であった。
家が倒産したことによって、二つに別れて新住の地へ移ると言うことが決定したそれぞれの家族構成は、生家の上原家に寄寓をすることになった祖父の側は、千代枝と言う父の末妹と、私の兄の義潔と言った3人が、そして丸亀へ引越したのが父母と私の3人と言った構成であった。
兄が祖父の元を離れて丸亀の父母の膝下へ帰って来たのは、私が数えで7歳の時であって、明治41年3月上旬であったのだが、何故兄が帰って来たのか、と言うその理由は、祖父に連れられて共に寄寓をした上原家の在る所が、国鉄豫讃線の国分駅から約2粁程離れて居る所であって全くの田舎であったから兄が通った小学校も約4粁の道を歩かなければならなかった。
そしてその学校もまた小さかったので教育環境としてはあまり良い方では無かったそうであったが、そうしたことに嘗て小学校の教員として教鞭をとった経験のある父が、前途教育に不安を感じたので、祖父の反対を押切って連れ戻したのだそうであった。
丁度この年に尋常科4年制であった義務教育が6年制に改まって兄は最初の5年生に進級したのであった。
それまで、何故長男の兄が父母の膝下を離れて別居をして居たかと言うことについては、二つの説があった。
その第一の説は、祖父が引越した山内村の新居は、上原家の長屋門の建物を改造したものであって、階下が8畳二間に茶の間と台所、そして二階に6畳二間と言うその家を永住の住居として末娘の千代枝叔母に適当な人を入婿して自分の老後を扶養して貰う魂胆であったろうと言って居た。
そして第二の説は、若し第一の計画が何等かの事情によって不可能となった場合には、兄に扶養をして貰おうとする魂胆だからと言う説と、只盲目的に兄が可愛くて手許から離されないので連れて行ったのだ、と言う説の二つに別れて居たが、この第一の説、そして二つに別れて居る第二の説のいずれが正しいのかと言うことは兎も角として、丸亀に帰って来た兄は祖父を慕って、両親には強い反抗意識を持って居た。
そうして傍若無人の態度に出る日が屢あった。