aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 香川県編 幼稚園

2024-10-01 13:02:32 | 履歴稿
“IMGR054-04

履 歴 稿  紫 影子

香川県編
  幼稚園

 私が、幼稚園へ入園をした日時については、父の履歴稿に記録されて居ないので、正確なことはわかっていないのだが、明治40年の春ではなかったかと私は思って居る。

 母の末の妹に久枝と言う叔母が居たのだが、私達が丸亀へ移った時には、丸亀の高等女学校へ法勲寺村の生家から約8紆の道程を徒歩で通学をして居て、その学級が3年生であったかのように記憶して居るが、その叔母が通学をする道はと言えば、私たちの新居から東へ600米ほど言ったところを南から北へ流れて瀬戸内海へ落ちて居る土器川の堤防づたいで竹藪と松並木の淋しい所ばかりを歩くのであったが、私達が引っ越すと、そうした淋しい道を通学するということが関係して居たのだろうと、現在の私は想像をしているのだが、私達と同居して通学をするようになった。



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 私はその叔母を、同居をした日から「姉さん」と呼ぶ父や母を真似て、ずうっと「姉さん」と呼んで居た。

 幼稚園へ入園をした日には母が附添ってくれたのであったが、その翌日からは、その姉さんが登校の途中を廻り道をして幼稚園まで送ってくれた。

 併し1週間すると、独りで通えると言う自信がついたので、「姉さん、もう俺一人で行けるけん今日から送ってくれんでもええわ。」と私は言ったのだが、「ええからええから。」と言って、姉さんは幼稚園の近くまで毎日送ってくれた。



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 それは、或る風雨の日のことであったが、雨傘を風に取られまいとする私が、弱い突風に負けて転倒をした途端に、レースで編んだ袋に容れて右肩から左の腰へ紐で釣下げて居た円形の弁当函が袋から転がり出て水溜に落ちた。

 急いで起きあがった私が、慌てて弁当を拾おうとすると、今度は蓋がとれて泥水が中へ這入ったので弁当が滅茶苦茶になってしまったことがあったが、その時姉さんが自分の弁当と交換をしてくれたので、毎日楽しみにして居たお昼の弁当を友達と一緒に食べられたのが、とても嬉しくて未だに私の懐かしい思い出に残って居る。



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 幼稚園は、東幼稚園と西幼稚園とが隣合って並んで居たのだが、東西相互の園児達はとても仲好であった。

 幼稚園では、唱歌と遊戯、それに手工が毎日の授業であったが、私達園児が先生と呼んで居た保姆さんが二人と老年夫婦の小使さん、そして私達園児の数は二つの教室に別れて40人程が居たように私は記憶をして居る。

 幸い授業の総てが好きであったので、先生に可愛がられたことも懐しい想い出の一つとなって残って居る。





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香川県編  東練兵場と野戦病院

2024-10-01 12:53:04 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子

香川県編
 東練兵場と野戦病院

 丸亀の歩兵第12連隊には、東西に別れた二つの練兵場があって、私達の近くに在ったのを東練兵場と言って居た。
 私達が丸亀へ引越して来た年が、丁度日露戦争が終わった翌年のことであったので、この東練兵場には、未だ野戦病院が残って居て、数多くの傷病兵が療養をして居た。

 丸亀の新居へ移ってからの私は、幼年期の誰もがそうであろうと思うのだが、日毎日毎にその日が暮れて、やがて洋燈の灯る頃ともなれば「加茂の家へ帰ろう、加茂の家へ帰ろう。」と、泣いては父母を困らせたそうであったが、父母はそうした私を何とかして宥めようと、鳩首をして思案をした末に、オルゴールつきの目覚時計を買って、それを鳴らして私を寝つかせようと言うことに意見が一致したので、早速実施をして見たのだが、その効果は全然無かったそうであった。



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 丸亀へ移ってからの生活状態は、先祖伝来の財産を余儀無く整理した残りの現金を、銀行預金にしたその利息と、市役所へ奉職をした父の俸給が主たるものであったが、その外に、我が家へ嫁ぐ時の母が、その当時のしきたりで2反歩の水田を実家から分譲されて居たので、その2反歩の年貢米もあったから、ささやかながら比較的安易な生活であったそうである。

 私の郷愁にほとほと手を焼いた父が、役所が退けて帰宅すると郷愁にわめく私を背負って毎日のように練兵場を逍遥するようになったことが、私の記憶には残って居る。

 当時の父が意図したのは、郷愁にわめく私を宥めることを兼ねて傷病兵を慰問しようと言う一石二鳥の効果を狙ったものらしかったが、いずれの窓へ行っても白衣の傷病兵が集まって来て、私をとても可愛がってくれた。

 私が父の背に寝つく頃になると、四辺はもうすっかり黄昏れて、外灯の無い暗い家路へ、とぼとぼと疲れた足を運ぶのが、当時の父の毎日であったそうである。



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 そうした私達親子と傷病兵は、すっかり馴染になって、何処の窓へ行っても、「坊や、明日もまた来ておくれよ。」と言って、私達の行くのを待っていてくれる程の仲好になってしまった。

 その日が何日であったかと言うことは、私の記憶に無いのだが、もう野戦病院の必要が無くなったものか練兵場から取り除かれて、その趾には只一面の草原だけが残された。

 野戦病院が、練兵場から姿を消した後も、父と私の練兵場逍遥は暫の間続いたのだが、白衣の傷病兵と逢えなくなったのが幼い私にはとても淋しかった。

 私の郷愁は決して薄らいでは居なかったのだが、傷病兵と逢えなくなった練兵場へは、いつとはなしに行くことを嫌うようになって、目覚時計のオルゴールで寝つくようになった。

撮影機材
 Konica HEXAR



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