履 歴 稿 紫 影子
香川県編
幼稚園
私が、幼稚園へ入園をした日時については、父の履歴稿に記録されて居ないので、正確なことはわかっていないのだが、明治40年の春ではなかったかと私は思って居る。
母の末の妹に久枝と言う叔母が居たのだが、私達が丸亀へ移った時には、丸亀の高等女学校へ法勲寺村の生家から約8紆の道程を徒歩で通学をして居て、その学級が3年生であったかのように記憶して居るが、その叔母が通学をする道はと言えば、私たちの新居から東へ600米ほど言ったところを南から北へ流れて瀬戸内海へ落ちて居る土器川の堤防づたいで竹藪と松並木の淋しい所ばかりを歩くのであったが、私達が引っ越すと、そうした淋しい道を通学するということが関係して居たのだろうと、現在の私は想像をしているのだが、私達と同居して通学をするようになった。
私はその叔母を、同居をした日から「姉さん」と呼ぶ父や母を真似て、ずうっと「姉さん」と呼んで居た。
幼稚園へ入園をした日には母が附添ってくれたのであったが、その翌日からは、その姉さんが登校の途中を廻り道をして幼稚園まで送ってくれた。
併し1週間すると、独りで通えると言う自信がついたので、「姉さん、もう俺一人で行けるけん今日から送ってくれんでもええわ。」と私は言ったのだが、「ええからええから。」と言って、姉さんは幼稚園の近くまで毎日送ってくれた。
それは、或る風雨の日のことであったが、雨傘を風に取られまいとする私が、弱い突風に負けて転倒をした途端に、レースで編んだ袋に容れて右肩から左の腰へ紐で釣下げて居た円形の弁当函が袋から転がり出て水溜に落ちた。
急いで起きあがった私が、慌てて弁当を拾おうとすると、今度は蓋がとれて泥水が中へ這入ったので弁当が滅茶苦茶になってしまったことがあったが、その時姉さんが自分の弁当と交換をしてくれたので、毎日楽しみにして居たお昼の弁当を友達と一緒に食べられたのが、とても嬉しくて未だに私の懐かしい思い出に残って居る。
幼稚園は、東幼稚園と西幼稚園とが隣合って並んで居たのだが、東西相互の園児達はとても仲好であった。
幼稚園では、唱歌と遊戯、それに手工が毎日の授業であったが、私達園児が先生と呼んで居た保姆さんが二人と老年夫婦の小使さん、そして私達園児の数は二つの教室に別れて40人程が居たように私は記憶をして居る。
幸い授業の総てが好きであったので、先生に可愛がられたことも懐しい想い出の一つとなって残って居る。