読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

チャップリン最後の作品にして唯一のカラー作品、「伯爵夫人」(イギリス/1967年)

2007-12-25 04:53:59 | 映画;洋画
原題:A Countess from Hong Kong
監督、脚本、音楽:チャールズ・チャップリン
製作:ジェローム・エプスタイン
撮影:アーサー・イベットソン
出演:マーロン・ブランド、ソフィア・ローレン、シドニー・アール・チャップリン、ティッピ・ヘドレン

「駐サウジアラビア大使に任命されたオグデン・ミアーズ(マーロン・ブランド)は、世界旅行を終え、アメリカに帰国する船の上にいた。彼は寄港した香港でロシアからの伯爵夫人、ナターシャ(ソフィア・ローレン)に会う。彼女は売春行為を強要される香港での生活から逃れるため、オグデンの乗る船に忍び込み密航を図るが、オグデンに見つかってしまう」。

本作は興行的に失敗し、批評家からの評価も得られなかった。しかし、チャップリン自身が作曲した劇中の楽曲「This Is My Song」は、ペトゥラ・クラークの歌唱によりヒット曲となり、制作費の赤字が穴埋めされることとなった。http://www.youtube.com/watch?v=ZVp97USJtZY&feature=related

チャップリン78歳、ブランドは43歳、ローレン33歳のときの作品です。興行的に失敗したのは、ある意味で「艶」を失った監督、役者の影がスクーリンを曇らせてしまったことによるのでしょう。これが10年前に実現していればもっと違った輝きを放っていたかもしれません。チャップリンにとっては最初で最後のカラー作品でありましたが、残念ながらこの作品に「艶」はありませんでした。

チャップリンについては、昨年の12/25付け記事「喜劇王『チャップリン』と日本」で、ソフィア・ローレンについては同じく、9/10「イタリアのセックス・シンボル『ソフィア・ローレン』」で取り上げていますのでそちらに譲ります。

マーロン・ブランドはその俳優キャリアで、三つの顔を持っていると思います。デビューからの初期、ゴッド・ファーザー期、そして晩年。穿った見方をすれば。これほどの役者でありながら、三つの顔しか持たなかったとも言えます。

マーロン・ブランド(Marlon Brando,1924年4月3日- 2004年7月1日)は、「アメリカ合衆国ネブラスカ州生まれの俳優。ネブラスカ州で生まれる。ステラ・アドラーのもとで演技を学び、ブロードウェイの舞台に立つ。同期のジェームス・ディーンを始め、若い俳優たちに影響を与える。1950年、『男たち』(日本未公開)で映画デビュー」。

「『欲望という名の電車』で粗野でセクシーな亭主を演じて、新しいタイプの俳優として衆目を浴びる。このとき彼が下着を普段着に着用していたことがうけ、若者の間にTシャツ文化が広まることとなった。『乱暴者』(1954年)で反抗的な若者を演じ、新しいタイプのスターとして注目を浴びる。また『波止場』ではアカデミー賞を獲得した」。

「1967年にタヒチ諸島の環礁テティアロアを所有してからは、役者稼業を島の環境維持の資金稼ぎと割り切るようになり、1975年の『ミズーリ・ブレイク』からは少ない出番で莫大なギャラと収益の一部を得る事がブランドの出演条件となって行った」。

「1972年、『ゴッドファーザー』以降は個性が一変。『地獄の黙示録』、『D. N. A』、『ブレイブ』などの不気味な役柄など、性格俳優的な一面も見せ始めた。だが映画界の重鎮的な存在感で圧倒し、老いてもなお、カリスマ的な言動とベールに包まれた私生活で常に話題となる存在でありつづけた」。

「オーソン・ウェルズ同様、若い頃から強いストレスを受けると過食に走る傾向があったが、後半生に入るとそれに一層拍車が掛かり、120kgを超えた肥満体がブランドのトレードマークになってしまった。晩年でも2枚の巨大ステーキを平らげる事ができたという」。

「1990年代はジョニー・デップとの親交もあり仕事をともにするようになった。晩年はギャラ問題などで『扱いにくい俳優『」いう評価を受けて、いわゆる大手製作会社による大作への出演はほとんどなくなり、B級作品やインディーズ作品で脇役として出演するなど、名優という地位とは裏腹なギャップを感じさせる活動を続けた。2002年、ナンセンスホラーコメディ『最狂絶叫計画』の姉妹編で悪魔払い役にキャスティングされていた』。(ウィキペディア)


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