読書と映画をめぐるプロムナード

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満州にかけた共同幻想と「ラストエンペラー」(イタリア、中国、イギリス/1987年)

2007-08-20 10:18:21 | 映画;洋画
原題:THE LAST EMPEROR/L'ULTIMO IMPERTORE
監督、脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
音楽:坂本龍一、デイヴィッド・バーン、コン・スー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
出演:ジョン・ローン、ジョアン・チェン、ピーター・オトゥール、坂本龍一、デニス・ダン、ヴィクター・ウォン

満州とは何だったのか?今では中国東北部と呼ばれます。私の父は建国前の満州に生まれました。当時の写真を見るとかなり裕福な生活をしていたことがわかります。おそらく当時満州に渡った日本人もおよそ同じ生活だったと思われます。

満州建国のきっかとなった満州事変は1931年、父親が6歳の頃に起こります。起きた日が私の誕生日であることも、何か因縁めいたものを感じます。この満州とは結局幻想に過ぎなかったのでしょうか?賛否両論はありますが、まずは史実をウィキペディアから確認してみます。


「1931年に大日本帝国の関東軍は独走して満州事変をおこし満州全域を占領して、翌1932年に満洲国を建国した。満州国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。この時期の満州は大日本帝国の支配下となる。大日本帝国は満州鉄道や満州重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設した」。

「結果田舎だった満州はこの時期に急速に近代化が進んだ。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保する為既存の農地から地元農民を強制移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施し、このことが反日組織の拡大へと繋がっていった。1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満州に侵攻、満州国は崩壊した」。

この映画で坂本龍一さんが演じたのが甘粕正彦でした。当初映画監督の大島渚を予定していたが断られ、そのため、既に音楽担当に決まっていた坂本龍一が代役をつとめることになったといいます。本作の中では、愛新覚羅溥儀を満州国の皇帝とするために暗躍する人物として描かれます。まずは軍人としてに彼のキャリアを見てみましょう。


甘粕正彦(1891年1月26日-1945年8月20日)は、「日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した」。

「1926年10月に出獄し予備役となり、昭和2年(1927年)7月から陸軍の予算でフランスに留学する。フランスでは画家の藤田嗣治等と交流があったと言われる。1930年、フランスから帰国し、すぐに満州に渡り、奉天の関東軍特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で情報・謀略工作を行うようになる。大川周明を通じて右翼団体大雄峯会に入る。そのメンバーの一部を子分にして甘粕機関という民間の特務機関を設立。また満州の国策である阿片ビジネスでリーダーシップを取った」。

「1931年9月の柳条湖事件より始まる満州事変の際、ハルピン出兵の口実作りのため奉天に潜入し、中国人の仕業に見せかけて数箇所に爆弾を投げ込んだ。その後、清朝の第12代皇帝宣統帝の愛新覚羅溥儀(1924年に馮玉祥が起こしたクーデターにより紫禁城を追われ、1925年以降に天津に幽閉されていた)擁立のため、溥儀を天津から湯崗子まで洗濯物に化けさせて柳行李に詰め込んだり、苦力に変装させ硬席車(三等車)に押し込んで極秘裏に連行した。その他、満州事変に関する様々な謀略に荷担した」。

「その働きを認められ1932年の満州国建国後は、民政部警務司長(警察庁長官に相当)に大抜擢され、表舞台に登場する。在満右翼団体満州青年連盟を母体に満州唯一の合法的政治団体協和会が創設され、その中央本部総務部長に就任。1938年、満州国代表団(修好経済使節団)の副代表として公式訪欧し、ムッソリーニとも会談」。

そして、翌年の1939年、満州国国務院総務庁弘報処長武藤富男と総務庁次長岸信介の尽力で満洲映画協会(満映)の第二代理事長となります。満映とはどのような映画会社だったのでしょうか?

「満映は『日満親善』、『五族共和』、『王道楽土』といった満州国の理想を満州人に教育することが主な目的であるとされた。満映制作の映画は日本の文化を紹介する文化映画や啓蒙的な映画、プロパガンダ映画が多く、あまり大陸では人気がなかった」。

「満映には一種独特な『官僚的雰囲気』があり、それ以前の問題として映画の文化的土壌さえも無かった。楽天家で知られ、東映の社風を作った男とされる名プロデューサーのマキノ満男でさえ、往時を回顧すると『泣いて帰りたいときもあった』としている」。

「李香蘭の発掘などで満州人からの人気獲得を狙い、娯楽映画へ力を注ぐ。しかし映画の内容は日本で作成された映画の焼き直しなどが多く、見るべき点は少ない。ただ、日活多摩川撮影所時代が終焉に向かい、国内の空気が厳しくなった時代に映画人らが大陸でクリエイティブな意志を守り続けた点は、評価されよう。これが、戦後に一大映画ブームを生み出す一因となった」。

「満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に関東軍には煙たがられ、甘粕事件のイメージもあり、士官学校の恩師である東條英機という例外を除いては、むしろ冷遇されており、その影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いが源泉となっていたという(根岸寛一の証言)」。

「甘粕は官僚的な強権主義者としてのイメージとは裏腹に、非常に洗練された趣味を持ち流行にも敏感な文化人でもあり、ドイツ訪問時に当時の最新の映画技術を満州に持ち帰っている。それは後に戦後、東映の黄金期を築くことにもなった。また、朝比奈隆が指揮をしていたハルビンオーケストラの充実にも力を尽くした」。

「終戦直後の1945年8月20日早朝、監視役の大谷・長谷川・赤川孝一(作家・赤川次郎の父)の目を盗み、隠し持っていた青酸カリで服毒自殺(この現場には映画監督内田吐夢も居合わせた)。満映のスタッフが皆で甘粕を看取り、慰霊祭まで行っていることからも、尊敬され親しまれていたことがうかがわれる(一説によれば、新京で行われた葬儀には甘粕を慕う日満の友人三千人が参加し、葬列は1キロを越えたという。ただし、日本の敗北直後で不安の中に騒然とする新京で、そのようなことが本当にあったかどうかは疑わしい)」。(ウィキペディア)


山口淑子(1920年2月12日-)は、「満州(現・中国東北)の炭鉱の町・撫順で生まれ、奉天(現在の遼寧省の省都・瀋陽市)と北平(現在の北京市)で育った国際的女優・歌手。戦前には李香蘭(りこうらん)の芸名で、戦後は本名の『山口淑子』の名で活躍した。1958年に結婚の為芸能界を退くも、1969年にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者として復帰。後に1974年から1992年までの18年間は参議院議員も務めた。アラブ諸国ではジャミーラの名で知られる」。

ベルナルド・ベルトルッチ監督はどういう意図を持ってこの映画を撮ったのでしょうか?製作に中国が関わっていることが、この映画に寄せられる意図を感じずにはいられません。東京裁判では日本の脅迫による皇帝樹立であった証言していますが、事後の自叙伝『わが半生』では、次ぎのように書いています。


「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」。


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