読書と映画をめぐるプロムナード

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アカデミーから背を向けるノミネート最多監督ウッディ・アレンと「インテリア」(米/1978年)

2008-01-05 07:51:21 | 映画;洋画
監督、脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
出演:ウディ・アレン、ダイアン・キートン、ジェラルディン・ペイジ、モーリン・ステイプルトン、クリスティン・グリフィス、メアリー・ベス・ハート

「ロングアイランドの海岸ぞいに見るからにモダンな白い家をかまえた富裕な実業家アーサー(E・G・マーシャル)は、高名なインテリア・デザイナーである妻イブ(ジェラルディン・ペイジ)とは結婚30年をむかえ、3人の美しい娘たちは、それぞれ巣立っていた」。

「長女のレナータ(ダイアン・キートン)は、売れっ子の女流詩人だったが、売れない作家の夫、フレデリック(リチャード・ジョーダン)との間はうまくいっていない。次女のジョーイ(メアリー・ベス・ハード)も作家で、姉レナータにライバル意識をもっており、映画作家の夫、マイク(サム・ウォーターストン)と都心に住んでいた。三女フリン(クリスティン・グリフィス)は恵まれた容貌と肢体を生かしてTV女優として活躍していた」。

「ある日、イブ、レナータ、ジョーイらの前で、アーサーが、イブと別居したい、というショッキングな告白をする。自分なりの美意識と創造力で家庭を支配してきた妻の生き方には耐えられなくなった、というのだ。やがて、イブは1人ひっそりと家を出ていった。母に対し、細やかな心づかいを示す娘たちだったが、イブの気持ちは滅入るばかりで、遂に、彼女はガス自殺を企った。一命はとりとめたが、イブにとっては傷心の日々が続いた」。

「一方、アーサーは、レナータの家で開かれたパーティに、さっそくパール(モーリン・スティプルトン)という新しい女を連れて来た。間もなく、アーサーが、イブに正式離婚を申したて、パールと結婚した。父の願いを入れて結婚式に列席した3人の娘たちは、式後の空虚なパーティで複雑な心境を穏すことはできなかった」。

「その夜、イブが一同の寝静まったロングアイランドの家にそっとやってきて、みなの知らぬ間に、憑かれたように荒れた海へ入っていってしまった。ジョーイが、気がついて救出するが、もはやその時は遅かった。葬式の朝、三姉妹は哀しみをこらえながらも、思いをこめて海を見つめるのだった」。(goo映画)

監督、脚本、主演の三役をこなして成功することが出来た映画人は、チャールズ・チャップリンとオーソン・ウェルズとこのアレンの3人だけだと言われています。ここでは監督としてアレンを取り上げます。個人的には「セレブリティ」(1998)、ミュージシャンであるがゆえにか音楽を多用しないアレンがミュージシャンを扱った「ギター弾きの恋」(1999)が好きです。

ウディ・アレン(Woody Allen、1935年12月1日-)は、「アメリカを代表する映画監督。俳優、脚本家、小説家、クラリネット奏者など様々な顔を持つ。幼き日のウディ・アレン、アラン・スチュアート・コニグスバーグ(Allen Stewart Konigsberg)はニューヨークのブロンクス区で、ユダヤ系の家庭に生まれた」。

「父親のマーティン・コニグスバーグ(Martin Konigsberg、1900年12月25日 - 2001年1月13日)と母親のネティー・チェリー(Netty Cherrie、1908年 - 2002年1月)はアレンが生まれてから妹のレティ(Letty、1944年 -)が生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀されなくした」。

「ゆえにアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アランに対して激しい叱責(時には手も出る)を行った。妹のレティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンはそれと比べて『大事にされている、愛されている』という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレランはコミックや映画、ジャズに傾倒するようになっていった」。

「コニグスバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間もの間ヘブライ語学校に通うことになった。これは宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。パブリック・スクール卒業後、1949年にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは『Red』」。

「アレンはカード・マジックに傾倒した。16歳の時に、アランはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつけた。同級生の前でマジックを披露しているうちに、『面白いヤツ』という評判が立ち、アレンは徐々にコメディに傾倒(元から喜劇映画はお得意とするとこだった)し、その道を志望するようになっていった。(アレンと同級生のミッキー・ローズはジョージ・S・カウフマン好きということで意気投合し、後にアレンの初期の映画で共同で脚本を書いている。)」

「1952年、ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄やニューヨーク・デイリー・ミラー、ニューヨーク・ポストなどにギャグを送り始めた。この頃から、筆名として『ウディ・アレン』(極短期間『ヘイウッド・アレン』とも)を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで『ウディ・アレン』として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった」。

「生まれ育ったニューヨークの文化や暮らし、人々のメンタリティをテーマにすることが多い、しかもそこに住むユダヤ人のそれを主題とする。ユダヤ人であることの差別とそこから来るコンプレックスや、自己意識などを織り込んだコメディを得意とする。演じる際には自らをカリカチュアライズしたようなユダヤ系の神経質なインテリを演じることが多い」。

「また彼は、ハリウッドに背を向けた映画人としても知られている。『アニー・ホール』(1977年)で、アカデミー監督賞、最優秀作品賞を受賞した時も、授賞式には出なかった。彼が唯一アカデミー賞の授賞式に姿を現したのは、2002年の授賞式で特別プログラムとしてニューヨークを舞台にした作品集の紹介を依頼されたときだけ。それは9月11日のテロで犠牲になった人たちに捧げるオマージュとしての企画で、彼は出演したものの、それが終わると直ちにニューヨークに戻ってしまった。それにも関わらず彼が、アカデミー賞にノミネートされたのは21回、最多の回数である」。

「ゴッドファーザー」で、アル・パチーノ演じる「マイケル」の妻「ケイ」を演じて存在かを示してきたのがダイアン・キートンですが、この映画同様に、ウッディ・アレンとは公私にわたり長い付き合いですね。

ダイアン・キートン(Diane Keaton、本名:Diane Hall、1946年1月5日 - )は、「アメリカ合衆国の女優。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。ニューヨークのネイバーフッド・プレイハウスで演技を学び、ブロードウェイのミュージカル『ヘアー』に出演」。

「1970年にはウッディ・アレンの映画『ボギー!俺も男だ』にも出演し成功している。その後アレンとは公私にわたるパートナーとなり、彼の多くの映画に出演。1977年の『アニー・ホール』ではアカデミー主演女優賞を受賞した。結婚したことはないが、養子を二人とっている」。(以上、ウィキペディア)


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