読書と映画をめぐるプロムナード

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日本政界の危機と克服をここに見る、「ローマ人の物語21危機と克服(上)」(塩野七生/新潮文庫)

2007-09-30 10:04:48 | 作家;塩野七生
<目次>
第1章 皇帝ガルバ(在位、紀元68年6月18日‐69年1月15日)
(ネロの死が、ローマ人に突きつけた問題、人心掌握の策、協力者人事、ヴィテリウス、皇帝に名乗りをあげる、ガルバ殺害)

第2章 皇帝オトー(在位、紀元69年1月15日‐4月15日)
(人間オトー、「ライン軍団」対「ドナウ軍団」、武力衝突に向けて、大河ポー、「第一次ベドリアクム戦」、オトー自死)

第3章 皇帝ヴィテリウス(在位、紀元69年4月16日‐12月20日)
(敗者の処遇、シリア総督ムキアヌス、エジプト長官アレクサンドロス ほか)

本書では68年から69年にかけて生じたローマ帝国の内乱期が扱われれいます。紀元69年はわずか一年の間に4人の皇帝が入れ替わるように即位し、ローマではこの年を『四皇帝の年』と呼びました。この時代はタキトゥスの『同時代史』によって知られています。

この内乱はマルクス・アントニウスが自死して終わった共和政末期以来のもので、帝政でははじめてのことです。この内乱によりユリウス・クラウディウス朝は断絶し、新たにフラウィウス朝が起こります。本書では、まず上記の三人の皇帝が描かれます。

著者は、この「ローマ人の物語」という大作を多くの歴史家による資料から紡ぎだしていますが、その一人タキトゥスは、本書のこの時代にリアル・タイムで生きています。タキトゥスとはどんな人だったのか、ウィキペデアから辿っておきます。

コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus, 55年頃 - 120年頃)は「帝政期ローマの政治家、歴史家。個人名はプブリウス (Publius) ともガイウス (Gaius) ともいわれるがどちらかは不明。通常は個人名を除いて表記される。古代ローマ最大の歴史家とされ、史料としての評価は高い。またその著述の文学的評価も高くラテン文学の白銀期の作家の一人に数えられる」。

「属州出身者であり、かつ騎士身分の出であった。アグリコラの女婿となり、元老院議員となる。97年にはルキウス・ウェルギニウス・ルフスの死を受けて補充執政官に就任している。著作はローマ帝国の衰亡を憂い、共和制時代の気風の回復を訴えるものが多い」。

「これはタキトゥスが『頽廃』の影響の少ない属州出身者、騎士身分の出身であったこと、フラウィウス朝下でローマの風俗の引き締めが見られたこと、ドミティアヌス治下で『暴君』を経験したことなどが考えられる。またタキトゥスの著作がネルウァ、トライヤヌス治下で書かれており、自由な言論が許される環境であったことも考慮すべきである」。

「共和政時代からの伝統である元老院主導による政治を懐かしむ傾向が強く、元老院を重んじた皇帝達(特にトライアヌス)に対する評価は全体的に高く、元老院を軽んじたり元老院に対して対決姿勢を取った皇帝(ティベリウスやドミティアヌス)に対する評価は基本的に低い」。

「特にティベリウス帝に関してはある程度の業績を認めつつもかなり辛辣に書かれている。そのためモムゼンをはじめとする後世の歴史家達がティベリウスの再評価を進めるまではタキトゥスの言う『悪帝』の評価が一般的であった」。

ガルバ(Servius Sulpicius Galba, 紀元前3年12月24日-69年1月15日)は「在位は68年から死亡した69年まで。『4皇帝の年』の最初の皇帝である。富裕な家系の出であったが、カエサル家との親戚関係や婚戚関係にはなかった。早くから頭角を現し、アウグストゥスとティベリウスの双方から、将来の大成を予言された」。

「ガルバは順調に出世し、69年にユリウス・クラウディウス朝最後の皇帝ネロへのウィンデクスのクーデターが起こった時は、ヒスパーニア・タラコネンシス(現スペイン東部)の総督であった。混乱の中で皇帝宣言をしたガルバだったが、ウィンデクスの反乱は直後ウェルギニウス・ルフスによって鎮圧された」。

「それでもウェルギニウス・ルフスが自ら積極的な行動を起こさないのを見ると、ガルバは軍団と共に首都を目指し、10月にローマに入城した。ガルバがローマへ向かうとの報に対して元老院はネロを捨て、ガルバを新たな皇帝として認めていた。国賊とされたネロはガルバがローマに入る前に自ら命を絶っている」。

「帝位についたガルバはネロの放蕩によって破綻していた帝国の財政の再建を図った。皇帝は即位に際して軍隊の好意を獲得するため金貨を配る風習があったが、ガルバはこれを軽蔑して行わなかった。またガルバはすでに60を過ぎた老齢であり、活気を欠くところがあった。また彼は支持者に囲まれており、ために期待を裏切られた民衆や軍隊の支持を得ることができず、その治世を縮める原因となった」。

「69年1月1日、上ゲルマニア属州の2軍団が皇帝への忠誠宣誓を拒み、新しい皇帝の擁立を要求した。翌日下ゲルマニアでも反乱がおき、駐在していた軍隊は当時の下ゲルマニア総督ウィテリウスをガルバにかわり皇帝に擁立するよう要求した。この反乱の勃発はガルバに自らの支持基盤の脆さを自覚させた。ガルバは人格者として知られたピソを養子にし、自らの後継者として公表した」。

「この選択はそれ自体としては賢明で慎重なものであったが、民衆や軍隊の支持を得なかった。ガルバはその晩年精彩を欠いたが、その目立たなさが、ガルバをネロ治世下でも目立ずに生きながらえさせたといえる。タキトゥスはその『年代記』にて、『もしガルバが皇帝にならなければ、万人はガルバが皇帝に値すると述べたであろう』と評しているが、的を射ている」。

マルクス・サルウィウス・オト(Marcus Salvius Otho, 32年4月25日-69年4月15日)(家名は正確にはオトー)は「ローマ帝国の皇帝である(在位69年1月15日-4月15日)。4皇帝の一年の第2番目の皇帝。オト在位期間はわずか3ヶ月間のみである。オト家はエトルリア系の出身で、貴族階級に属したが、執政官を出したのはオトの父ルキウス・オトをはじめとする」。

「オトは皇帝ネロの第一の親友で、若い頃からの遊び仲間であった。ネロと男色関係があったともいわれている。ポッパエア・サビーナの夫であったが、58年にネロがポッパエアとの結婚を望んだため離婚した。同じ年、ネロはオトをルシタニア(現在のポルトガル)総督とし、ローマから遠ざけた。若い頃からは想像できないほど真面目に仕事に打ち込み、善政を敷いた。そのため名総督として属州民に人気があった」。

「先帝ガルバとは親戚関係にあり、その叛乱と即位を支持した。このためオトは、子供のないガルバが後継者に自分を選ぶものと期待していたが、69年1月、ガルバはピソを後継者に指名した。期待を裏切られたオトは、2人の暗殺を計画し、23人の親衛隊を買収した。ガルバがピソを後継者に指名した日の5日あと、2人は暗殺され、オトは帝位についた」。

「しかし、ガルバの治世末期にゲルマニアで叛乱した将軍ウィテリウスはこれを認めず、なお兵を挙げてローマに迫った。オトはドナウ川付近に駐留していた軍団を呼び戻すことを図るなどウィテリウスに対抗を図ったものの、ウィテリウスはクレモナ近くで、オトの軍を破った。まだ挽回の機会はあったものの、敗戦の報を受けたオトは自殺し、短い治世を終えた」。

ウィテリウス(Aulus Vitellius Germanicus, 15年9月7日(または24日)-69年12月20日)は「ローマ帝国の皇帝である(在位69年1月2日-12月20日)。在位期間は約1年。アウルス・ウィテリウスは3度の執政官職に就いたルキウス・ウィテリウスの長男として生まれる。カリグラ・クラウディウス・ネロの好意を得て、順調に出世する」。(本書では「ヴィテリウス」と表記)

「執政官や元老院管轄のアフリカ属州の総督などの役職に就いた。68年、ガルバが政権を取ると下ゲルマニア軍団司令官として派遣される。ガルバは自分に反感を抱いていたゲルマニア軍団の行動を抑制するために無能と考えられていたウィテリウスを遣わしたと言われている」。

「ゲルマニア軍団は属州民の反乱(ガイウス・ユリウス・ウィンデクスの乱)を鎮圧したが、ガルバはウィンデクスに呼応して皇帝になったので、両者の関係は悪化した。さらにガルバは皇帝就任時の慣例となっていた賜金の支給を行わなかったので、軍団の不満はさらに大きくなっていた。そんなとき、高貴な生まれで知られるウィテリウスが遣わされたのである」。

「69年1月1日には、上ゲルマニア軍団がガルバ帝への忠誠を拒否、翌日、下ゲルマニア軍団も同調、ウィテリウスは皇帝に擁立された。ガリアなどの軍団の支持も得て、反乱軍はローマへ向って進攻、ガルバが暗殺されたあと皇帝となったオトーの軍と、4月14日、クレモナの戦いで勝利を収める。オトーは自害し、元老院はウィテリウスの帝位を承認する。ウィテリウスはゲルマニクスの添名は付けたが、カエサルの称号は入れなかった」。

「69年秋、ウィテリウス軍は、ウェスパシアヌス側に付いたモエシア・パンノニア方面(ドナウ川南岸部属州)軍とベトリアクム・クレモナで戦ったが、敗戦を喫した。ウェスパシアヌス軍はローマに向けて進軍する。状況を打破しようとして帝位の返上も考えたが、部下たちから反対された。12月、ローマ市はウェスパシアヌス軍の手に落ち、ウィテリウスはパラティーノに逃げ込むが、捕らえられて無残な最期を遂げる」。

「タキトゥスはウィテリウスを『気前の良い人』と評価している。しかし皇帝にふさわしい能力や統率力は持っていなかった。ローマへの進軍中に兵たちは好きなように略奪を行い、不評を買った。また敵とはいえ同じローマ人であるオトー軍を侮辱するなど時折軽率な言動をした。スエトニウスもタキトゥスもウィテリウスが大食漢であったことを伝えている。宴会を頻繁に催し、ある時には一食分の宴会の費用が10万デナリウスかかったと言われている」。

本書を読んでいると、今の日本の政治状況との類似性を思わざるをえません。刺客を送ってまで「郵政民営化」で自民党内で対決姿勢を貫いた小泉首相の意思、そして世代交代を狙って実質、後継指名して成立させた安倍首相は、自らの人事のミスが体調にまでを侵し、自滅せざるをえない結果となりました。これを立て直すために党が担ぎ出したのが、大きく振られた振り子を振り戻す福田首相の安定性でした。

17歳で皇帝に即位したネロ以降、短命政権ながら、ガルバが皇帝になるのが71歳、オトーが37歳、ヴィテリウスが54歳とまるで振り子を振っているような世代交代劇です。政体について著者は次ぎのように述べています。

「政体が何であるかには関係なく、統治者と被統治者の二分離は存在するということである。存続せざるをえないのが現実である以上、被統治者は統治者に、次の三条件を求めたのだ。統治する上での、正当性と権威と力量である」。

「アウグストゥスが創設したローマ帝政では、『正当性』とは元老院と市民の承認であり、『権威』とはアウグストゥスの血を引くということであり、『力量』とは、ローマ帝国皇帝にとっての二大責務である安全と食の保証をはじめとする、帝国運営上の諸事を遂行していくに適した能力を意味した」。

また、安倍元首相と福田首相の人事を見ると、著者が次ぎのように語る内容に思わず頷いてしまいます。

「統治とは一人では行えない以上、協力者の人選が非常な重要時になってくる。それゆえに統治される側は、統治能力の力量を、協力者という、“リトマス試験紙”で推し測るのが普通だ」。

小泉政権は首相自らが言ったように自民党を壊す内戦を挑みました。しかし、それはパールハーバーで日本が奇襲攻撃したものの、生命線である戦闘機、倉庫、飛行場を壊滅させずに引き返した山本五十六の「優しさ」と同じ結果を生みました。著者は内戦のむずかしさについてこう述べています。

「今は敵味方に分かれていようと、同胞なのだから寛容に遇したいのは人の情けである。だが、同時に、敵側の利にならないように、つまり味方の兵士たちの軽蔑を買わないやり方で実行に移すことが重要だ。この互いに矛盾する三つともを同時に実施しないと、同胞間の戦争での成功は望めないのである」。
また、著者はリーダ論について、次のようの述べます。

「平時でも活躍できるタイプの人材でなければ、真の意味で戦時にも有益でありえない。なぜなら、リーダーの第一条件が、彼に従う人々に対しての統率力にあるからだ。コントロールする力量が必要不可欠である理由は、目標の達成は完璧でなければならないからである。それが戦闘での勝利ならば、圧勝しなければならない。敵と刺し違えるなどは、単純な戦(いくさ)好きの考えることである」。

<68年>
•4月–属州ヒスパーニア・タラコネンシスの総督ガルバ・属州ガリア・ルグドゥネンシスの総督ウィンデクス、ネロに反逆。
•5月–ライン軍団(ゲルマニア軍団)、ガリアでウィンデクスを破って殺害。
•6月–元老院がネロを国家の敵であると宣言。ネロ、自殺。同日、ガルバが皇帝に承認される。
•11月–ウィテリウス、属州下ゲルマニアの総督に指名される。
<69年>
•1月1日–ライン軍団、ガルバへの忠誠宣誓を拒否。
•1月2日–ライン軍団、ウィテリウスを皇帝に推挙。
•1月15日–ガルバ、親衛隊に殺害される。同日、オト、元老院により皇帝に承認される。
•4月14日–ウィテリウス軍、オト軍を破る。
•4月16日–オト、自殺。ウィテリウスは皇帝に承認される。
•7月1日–ユダヤ駐在のローマ軍隊の指揮官ウェスパシアヌス、帝位立候補を宣言。
•8月–ドナウ軍団、シリアにいたウェスパシアヌスに対する支持を表明。
•9月–ドナウ軍団、ウェスパシアンに代わってイタリアに侵入。
•10月–ドナウ軍団、ウィテリウス軍を破る。ウェスパシアヌス、エジプトを占領。
•12月20日–ウィテリウス、宮殿で兵士により殺される。
•12月21日–ウェスパシアヌス、皇帝に承認される。


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