読書と映画をめぐるプロムナード

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共産党幹部の光と影を描く、「闇の男 野坂参三の百年」(小林峻一、加藤昭著/文芸春秋)

2008-03-09 05:23:00 | 本;ノンフィクション一般
本書は、1993年の9月に初版が刊行されています。前年に100歳を迎えた野坂参三氏の「闇の男」としての活動に迫ったものです。最晩年にこうしたルポで過去を暴きだされたことはご本人にとってはさぞや無念なことであったろうと思います。

記憶違いかもしれませんが、1948年の「帝銀事件」で逮捕された画家・平沢貞通氏(1892-1987)を売ったのがこの野坂参三氏ではなかったかと。私は、戦後のこの二人の運命のあまりにもの違いに、人生とはなんと過酷なものかと憤りとも虚しさともつかぬ思いにかられたことを覚えています。しかし、それが平沢氏であったかどうか怪しいですが。

一昨日取り上げた田中清玄氏(1906-1993)とは全く対照的な人物です。一般的には過度なナショナリズムが右翼の理論的背景にあり、過度な国家打倒主義が左翼のそれだとは思うのですが、田中清玄氏の生涯を知ると、左翼だろうが右翼だろうが、彼にとっては重要ではなく、そこに国家の浮沈をかけた一人の男の信念にもとづく行動が感じ取れます。


野坂参三(1892年(明治25年)3月30日-1993年(平成5年)11月14日)は、「日本共産党の元名誉議長。衆議院議員・参議院議員。初名は小野参弎(おの さんぞう)。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄、岡野進など」。

<生誕から延安入りまで>
山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。

慶應義塾在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年(大正8年)友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。帰国後、日本共産党に参加。日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。この釈放から1931年(昭和6年)に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。

外国人向け政治学校東方勤労者共産大学(クートヴェ)で秘密訓練を受け、その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。また、1940年(昭和15年)、中国・延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年(昭和19年)2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行うなど、日本帝国主義打倒を目指した活動をおこなった。

<帰国と戦後の活躍>
第二次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)1月12日に帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。大会委員長山川均、司会荒畑寒村のほか日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。

この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱した。先立つ14日に「愛される共産党」というキャッチフレーズや、信仰対象としての皇室を容認した中央委員会との共同声明を発表した。府中刑務所から解放されていた徳田球一らと日本共産党の再建を果たす。

4月10日の戦後初の第22回衆議院議員総選挙で東京1区から当選。新憲法制定の審議では、自衛権保持の観点から政府の草案に反対し、「主権在民」を書き込ませた。ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを元に国会で大々的に追及される。

1950年(昭和25年)に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。さらにGHQからレッドパージを受け、地下活動、中国に亡命して武装闘争路線を採った。1955年(昭和30年)に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任。

1956年(昭和31年)に東京選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって参議院議員を務めた。1958年(昭和33年)に議長となり、宮本顕治が書記長となった。1982年(昭和57年)7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長。

<最晩年の除名>
1992年(平成4年)100歳のとき、『週刊文春』9-11月の連載が元となり、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった(名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた)。これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。

野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名を内務人民委員部NKVDに密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となったのである。除名の際には党の査問にも反論することなく従ったといい、この件について公に語ることなく亡くなった。この発覚以前からかつての同志袴田里見らの野坂をスパイと疑う声があるほか、ソ連と米国との二重スパイ説もあるが、真相は永久に不明のままとなった。参議院が弔詞を捧げることに対し、共産党は反対した。

晩年には、自叙伝『風雪のあゆみ』を完成させ、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたことがある。しかし除名により表舞台に二度と出ることはなく、まもなく死去した。(ウィキペディア)

(参考)加藤哲郎(一橋大学・政治学)「歴史における善意と粛清」
――国崎定洞の非業の死からみた『闇の男――野坂参三の百年』の読み方
http://homepage3.nifty.com/katote/MADO.html


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