読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

日本文学のために生まれた米国人の、「私の大事な場所」(ドナルド・キーン著)

2007-11-22 04:02:36 | 本;エッセイ・評論
(中央公論新社)
<目次>
Ⅰ.私の大事な年、光と影のスペイン、北京の春、ポーランドにリラが咲く頃、五十三年ぶりのウィーン、「清き水上尋ねてや・・・」、わが街、東京、“かけ橋”としての人生、ニューヨークの近松門左衛門

Ⅱ.私の自己証明、定説と自説の間で、文学と歴史の境界線を越えて、東北に対する私の偏見、漢字が消える日は来るか、学者の苦労

Ⅲ.私という濾過器、作品で世界と「会話」-安倍公房氏を悼む、御堂筋を歩いた思い出-司馬遼太郎氏を悼む、友人であり恩人―嶋中鵬二氏を悼む、良い友達を失ってしまった-永井道雄氏を悼む

Ⅳ.私の好きな空間―歌劇場、ケンブリッジのキャスリン・フェリアー、わがマリア・カラス-「トスカ」第二幕LD化に寄せて、メトロポリタンに「還暦のドミンゴ」を聴く

「川の向こう側に着くと大きな石碑が立っていた。私は、京都の全てを知りたいと思っていて、あらゆる石碑や立札を読む決心をしていたので、勿論この石碑を読んだ。びっくりした。出雲阿国が歌舞伎踊りを始めた場所は、この辺の河原だったことが分かったからだ」。

これはドナルド・キーン氏が、昭和1953年8月に留学生として訪れた京都で鴨川の四条大橋を渡った際の思い出を書いた著者自身による文章です。この感性と文章力に驚くばかりですが、著者が日本語を学び始めたのは1941年ですから、私よりも日本語の経験は長い訳で、「驚くには及ばないよ」と著者に窘められるかもしれません。著者の日本に対する思いを知れば知るほど、私などは恥ずかしくなるばかりです。

「外国人が日本の読者に日本文学史を発表しようとすることは相当の勇気を要する。しかし、外国人による日本文学史にも長所はあるのではないかと思う。外国人が日本文学を自由に読めるようになるまでは大変な時間がかかるので、日本人以上に日本文学に対して情熱がなければならない。日本文学を勉強する外国人は、何も義務感を負っているわけではないので、好きで堪らないのでなければ、すぐに日本文学を捨ててもっと楽な勉強に切り換える筈である。私は日本文学が好きで堪らない一人である」(「私の自己証明」)

これぞ「文化は不便の上に立つ」という著者の真骨頂です。彼が登場するまで日本文学の外国への紹介者は「源氏物語」を翻訳したアーサー・ウェイリーという東洋学者だけでした。

アーサー・ウェイリー(Arthur David Waley, 1889年8月19日 - 1966年6月27日)は、「イギリスの東洋学者。経済学者デイヴィッド・フレデリック・シュロスの息子としてケント州タンブリッジウェルズに生まれる。本名アーサー・デイヴィッド・シュロス(Arthur David Schloss)。生家はロスチャイルド家に連なるユダヤ人の名門」。

「ラグビー校を経て1907年にケンブリッジ大学キングズコレッジ入学。古典学を専攻し、1910年に優秀な成績で卒業するも、病気療養のため進学を断念。その後の1913年より大英博物館に勤務する。1914年、父方の祖母の旧姓であるウェイリーに改姓」。

「当時、日本語の辞書を含む資料等が入手困難な時代に日本語と中国語を独学で習得し数々の翻訳を行なった。特に1921年~1933年に6巻に分けて出版された『The Tale of Genji』(源氏物語)の翻訳者として知られる。同書はタイムズ紙文芸付録で詳細な批評が掲載されるなど多大な影響を及ぼし、日本文学研究およびその後の翻訳ブームの火付け役とされる。今でも"The Tale of Genji"は英語圏で読まれており、ウェイリーは日本語古典および中国語古典研究の権威とされている)。
その後、松尾芭蕉、近松門左衛門の研究で日本と外国の「かけ橋」の役割を演じるようになるドナルド・キーン氏ですが、著者の日本留学にとって大きく関わった人物が、角田柳作、永井道雄、嶋中鵬二の三方です。

まずは、著者が敬愛する恩師が角田柳作氏。

角田柳作(1877(明治10)年1月28日-1964(昭和39)年11月29日)は「群馬県勢多郡津久田村に生まれ。1896年、東京専門学校(現・早稲田大学)文学科卒業。1909年、本派本願寺ハワイ中学校長就任。ハワイでの教員生活ののち、さらに学問を志して1917年、40歳で米国の土地を踏む。1929年、The Japanese Culture Center設立。1931年、コロンビア大学・日本歴史講座講師就任。1948年、コロンビア大学Curatorの職を退く。1962年、コロンビア大学名誉博士号授与。1964年、ホノルルにて死去」。

著者の京都での留学生活を充実させたものにしたのが、同じ下宿先の離れにいたアメリカ帰りの京大・助教授で、後に文部大臣となる永井道雄さんでした。

永井道雄(1923年3月4日-2000年3月18日)は、「日本の教育社会学者。立憲民政党所属の政治家・永井柳太郎の次男として東京に生まれる。旧制武蔵高校、京都大学文学部卒。オハイオ州立大学でPh.D.を取得。京都大学教育学部助教授を経て、1957年東京工業大学に移る。1970年、東京工業大学を退職、朝日新聞社論説委員となる」。

「大学紛争の時代、国際基督教大学の事務長だった飯田宗一郎が、八王子に大学セミナーハウスを都内主要大学の学長、総長の協力のもとに始めた時、そこで行なわれた第1回大学共同ゼミナールを主催したり、教育の実際的な改革に精力的に取り組んだ」。

「1974年、三木内閣で民間人閣僚として文部大臣に就任。在任中、主任制の導入、国際連合大学の日本への誘致などに尽力。三木内閣改造内閣でも留任した。政界を離れて以降は、朝日新聞社へ復社して客員論説委員、国際連合大学学長特別顧問、国際文化会館館長などを勤めた。1996年からは世界平和アピール七人委員会の委員となった」。

著者が永井道雄氏から紹介されたのが嶋中鵬二氏で、彼によって著者は当時の多くの作家人脈を形成することになります。嶋中氏は「作家が死ぬと時代が変わる」という言葉を残しています。

嶋中鵬二(ほうじ 1923年2月7日-1997年4月3日)は「中央公論社社長。進歩的な総合雑誌『中央公論』を中心に戦後の出版界に大きな業績を残したが、晩年は経営危機を招いた。東京高等師範附属小学校(現・筑波大学附属小学校)(同級生に鶴見俊輔や永井道雄がいた)、同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、府立高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学文学部独文科卒業」。

「太平洋戦争中は、勤労動員で中島飛行機(現在の富士重工)の研究所に勤務。1947年-1948年、第14次新思潮に関わる。吉行淳之介によれば中井英夫が編集長格で、嶋中は黒幕的存在であったという。1949年1月、父雄作が死去。会社を継いだ兄嶋中晨也もまた病死したため、明治大学と東洋大学の講師を辞して、26歳で中央公論社社長に就任」。

「1961年、東京都新宿区の自邸に大日本愛国党の元構成員(17歳)が侵入。嶋中社長はからくも難をのがれるが家政婦が刺殺され、雅子夫人が重傷を負う(嶋中事件)。当時、発売元であった『思想の科学』誌が天皇制特集号(1962年1月号)を組むと、発売停止にし無断で裁断(12月)。これに対して、言論人の間に『中央公論』への執筆拒否運動が起こった(『思想の科学』事件)」。

「1962年、大宅壮一と共に、産業経済新聞社社長(当時)の水野成夫に助言を与え、産経新聞に『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)の連載を始めさせる。1994年、中央公論社会長に就任。長男の行雄が社長に就任。1996年、社長行雄を解任。これにより、社長は空席となる。1997年4月3日、約150億円の負債を残して死去。妻雅子が会長となる(翌年社長を兼任)。1999年、中央公論社は読売新聞傘下に入る(中央公論新社が新たに設立)」。


ドナルド・キーン(Donald Keene, 1922年6月6日-)は、「アメリカの日本文学研究者、文芸評論家、翻訳家。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績を残した。日本における勲等は勲二等。称号は東京都北区名誉区民、名誉法学博士(早稲田大学)。賞歴には全米文芸評論家賞受賞、その他、日本国勲二等旭日重光章、日本国文化功労者他多数」。

「ニューヨーク生まれ。1940年、厚さに比して安価だったというだけの理由で購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動し、日本文学研究の道に入る。1942年コロンビア大学卒業。米海軍日本語学校で学んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた」。

「1948年からケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。1953年京都大学大学院に留学。京都大学にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。1955年からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、同大学名誉教授となった。1982年から1992年まで朝日新聞社客員編集委員。1986年には『ドナルド・キーン日本文化センター』を設立した。1999年から『ドナルド・キーン財団』理事長」。

「日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語のものもおよそ25点ほど出版されている。近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として果たした役割も大きい。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった」。
「1976年には、日本語版、英語版それぞれの『日本文学史』の刊行が開始された。近世、近代・現代、古代・中世の三部に大きく分かれる。本格的な文学史が一人の著者によって書かれることは少なく、特筆される業績である。1991年には中国の杭州大学でも文学をテーマに講演を行った」。

「友人であった安部公房は、キーンが明治天皇について書くことを告げると、書けば右翼から脅迫に遭うだろうと忠告した。何年後かに実際書いてみるとどこからも脅迫されず、キーンは逆に意気消沈したという。主に交流のある作家は三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成、吉田健一、石川淳、安部公房、司馬遼太郎など」。(以上、ウィキペディア他)

著者が日本に滞在してからの戦後20年は、日本文学全盛期だったことも単なる偶然だったとは思えない巡り合わせだと思えます。


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