読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

伊丹十三のやるせない「自殺」

2006-12-20 07:29:56 | 映画監督
「1997年12月20日、写真週刊誌『フラッシュ』により不倫疑惑が取り沙汰されたことに対して『死をもって潔白を証明する』との遺書を残し、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンションから投身自殺を遂げた。しかしながら、他殺とされる見解も非常に多い」。

「それは不倫疑惑について週刊誌の記者からインタビューを受けた際に『妻に聞いてみればいいよ』と笑いながら、全く意に介さず『いつものことだから』のように軽口を叩いていた伊丹が突然それを『死を以って証明する』と自殺するのはあまりにも不自然すぎるからであった。構想として、某巨大宗教団体をモチーフにした映画制作があり、それを阻もうとする者により殺害されたという説がある」。(フリー百科事典)

伊丹十三の「自殺」の原因は上記の文章の他に遺作となった「マルタイの女」の興行的不振をあげるものがある。多くの関係者が「不倫疑惑で自殺をするような男ではない」といいつつ、その要因は不倫疑惑に収斂されている。しかし、なぜ最後の巨大宗教団体関与説について言及するものが少ないのだろうか。

私などはふと、その宗教団体はオウムのことかと連想してしまうが、教団は1995年5月16日に、松本智津夫(麻原彰晃)が山梨県上九一色村で逮捕されているから、もはやそんな暴挙に出る力は失せている。そうなると、伊丹十三がモチーフにした巨大宗教団体として疑われるのは日本と韓国に一つずつしかない。もし、そのようなことが事実、宗教団体によって行われ、マスコミ含め追求されないとすれば、まさに闇の勢力に封じ込められた日本に真に表現の自由は存在しないことになる。

編集工学者・松岡正剛がブログ「千夜千冊」で次のような文章を書いている。「しばらくたって大江健三郎が『取り替え子』という謎めいた小説を書いて、伊丹と大江の関係にひそむ何かを暗示したが、もとよりいまなお伊丹十三という才能については、ほとんど議論がされないままにある。ぼくはリチャード・ワーマンが『伊丹こそ日本映画の神髄に迫っていたのではないか』と言った言葉が響いている。『やるせない』とは何かということを追求できた人だったと、ぼくは思っている」。

同時に、いまもなお伊丹十三の死についても、ほとんど議論がされないままにあるのではないか。それは自殺が自明の理なのか、あるいは私の邪推が事実なのだろうか。いずれにしても、日本映画界においては重要な監督を失ったことは、残念でたまらいし、とにもかくにこやるせない。

*リチャード・ワーマン;1962年、26歳の時に刊行した「making information un- derstandable」という著書で注目された。また1980年代には、画期的な旅行ガイドACCESSシリーズや電話帳、地図帳などのエディトリアルデザインの分野で大きく注目を浴び、情報デザインの重要性を世に知らしめた。彼のテーマはいつも自分が理解するのに問題がある事に絞られている。それは、すでに知っていることよりも知りたい、分かりたいと思うこと、できることではなく、できないことを出発点にしているためである。「情報アーキテクチャー」は彼の考案した言葉。(e-websaite.org)

伊丹 十三(「1933年5月15日 - 1997年12月20日)は、日本の映画監督、俳優、エッセイストである。本名は池内 岳彦(いけうち たけひこ)。戸籍名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。作家の大江健三郎は義弟。映画監督の伊丹万作を父親として京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。第二次世界大戦末期、湯川秀樹によって当時構想された、科学者養成のための英才集団特別科学学級で教育を受けた」。

「『ミンボーの女』を公開した直後に自宅の近くで刃物を持った五人組に襲撃され、顔などに全治三ヶ月の重傷を負うが、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。その後も、自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件がおこる。襲撃事件により身辺警護を受けた経験を1997年、『マルタイの女』で映画化した」。

「『タンポポ』はアメリカでも配給され評判となった。しかし、1993年『大病人』以後の作品は批評家の評価も厳しいものとなり、また興業収入も停滞した。また、1995年の『静かな生活』は大江健三郎の原作を映画化したものである」。(ウィキペディア)

<伊丹十三 – Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%8D%81%E4%B8%89


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