読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

「白州次郎 占領を背負った男」(北康利著/講談社)

2006-01-10 12:43:46 | 本;ノンフィクション一般
この年になるまで、白州次郎の存在を知らなかった。吉田茂の本は何冊か読んだ筈だが、記憶に残っていない。日本の戦後の始まりを吉田首相と二人三脚でGHQと対峙しながら立ち上げた男、通商産業省を作った男、只見川電源開発を成功させた男、そして、白州正子の夫。不明を恥じる、の一言だ。

憲法改正についての論議が現実的な課題とし射程距離に入った今年、白州次郎が当時どういう気概でGHQに立ち向かったのかを知ることによって、改正問題を考える機会を得た。

昭和21年2月4日、民生局の中から選ばれた25名によって憲法制定会議がホイットニー局長から宣言された。象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止の「マッカーサー三原則」を大前提にした、この極秘プロジェクトのコードネーム“真珠の首飾り”。陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名。弁護士資格者3名のみ、憲法の専門家はなし。マッカーサー草案は2月10日に完成。(リンカーン誕生日2/12)

<国際法:基本条約ハーグ条約付属書規則第43条>
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」

「大体GHQにやってきた大部分の人々は、自分の国で行政の行位やった経験のある人はいたも知れぬが会ったことはなかった。無経験で若気の至りとでも言うような、幼稚な理論を丸呑みにして実行に移していった。憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能な様なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。ちょっと夢遊病者の様なもので正気かどうかも見当もつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはなかろう」

「憲法改正草案要綱」は、昭和21年3月6日、「日本政府による憲法改正案」として世間に公表。8月24日、衆議院で採択。10月6日、貴族院も可決。11月3日、日本国憲法公布。5月3日施工。

GHQの新憲法案に、最後の最後まで食らいつく吉田首相と白州の姿に頭が下がる。
「興奮絶頂に達し正午頃より総司令部もやっと鎮まり、助かること甚だし。斯くの如して、この敗戦最露出の憲法法案は生まる。『今に見ていろ』と云う気持抑え切れす。ひそかに涙す」「白州日記」(1946年3月7日付)と綴った白州。

その白州も20年後には、「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかいう形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構としては何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法が出来あがったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集まってデッチ上げたものだから無理もない。しかし、そのプリンンシプルは実に立派である。マッカーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などはその圧巻である。押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」(「プリンシプルのない日本」「諸君」1969年9月号)と、戦後の日本の状況を嘆き、こう語る。

吉田首相、白州、GHQ G2(参謀第二局)と幣原、楢橋渡、GHQ GS(民生局)の対立による綱引き合戦、ワシントン講和条約を巡るアメリカとの攻防は読んでいて臨場感を持って緊張した。特に、外務省が準備した調印式の講和条約受託演説が内容もさることながら英語で書かれていことに白州が列火のごとく怒る場面は、彼の気概を表している。

「講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等の立場になれるんだろう。その晴れの舞台の日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界にいるんだ!」といって、時間ギリギリまでを使い、自ら率先して書き直すのだ。

そして、晩年。1976年の「週刊朝日」のインタビューでこう語っている。
「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監になりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」。

何も政治家や財界のお偉方だけではない。肝に銘じたい。
1985年11月26日、白州次郎は生涯を終える。享年83歳。


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