歌わない時間

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「空中庭園」

2013年07月10日 | 気になることば
この前、稲佐山のほうまで行って食事をする機会があり、そこまで行く途中で、ふと「空中庭園」てことばを思い出したのですよ。稲佐山は、長崎を代表する見晴らしスポットで、てっぺんに展望台があるほか、山腹にも眺望を売りものにするホテルやレストランがいくつもある。そのなかの一つに行きました。傾斜地を縫うように車がすすんでいき、わたしはめったに行かないそのあたりの町々の、車窓の眺めをたのしみました。あのへんも、ふもとから中腹まで、民家や背の低いアパートが斜面を這い登るように連なっています。行き先のレストランの庭そのものも見晴らしのよい「空中庭園」だったし、レストランから見下ろす稲佐山山腹の家並みもなんだか箱庭のようで、「空中庭園」て風情がありました。

わたしが「空中庭園」てことばをはじめて知ったのは、たしか、むかし日本語版が出ていた『リーダーズ・ダイジェスト』の、「世界の七不思議」についての記事だった。バビロンの空中庭園、とか、アレクサンドリアの大灯台、とか…。その時、わたしはまだ小学生だったと思います。

子供だったわたしは、とにかく空中庭園てことばそのものに違和感を持ったのね。空中、っていうと、空に浮かんでる、ってことでしょう? 庭園が空に浮かんでる、なんて…。そんなアホな。矛盾してる。なんか違和感ありません?

要は、バビロンの空中庭園てのは、高殿の上のほうに土を盛って木や草を植えた庭、ってことのようでしたけど、そのころは世界の古代史にはまだあんまり興味なくて、とにかく空中庭園て日本語にあり得ない感じをおぼえた、ってことを強烈に記憶しています。

その後、大人になってたとえば角田光代さんの『空中庭園』を読んだときにも、子供の時感じた、このことばへの違和感は思い出さなかった。(ていうか、あの小説はなんであのタイトルだったんだっけ?)

長崎に帰ってきて、暇になったせいか、子供の時に感じたいろんなことを思い出す。たとえば、長崎の子供(今の子のことは知りませんよ。わたしの子供のころ)にとって、遊び場はたいてい斜面だった。傾いた地面を登ったり下ったりして遊んでいたなあ。

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