歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

聖書とわたし

2013年09月29日 | 本とか雑誌とか
わたしが聖書を意識するようになったのは高校時代に曾野綾子『私の中の聖書』を読んで以来です。『私の中の聖書』に取りあげられているのは新約聖書で、だからわたしの関心も長いこと新約聖書に偏っていた。それも書簡や黙示録には心ひかれなくて、福音書や、とくに使途行伝(使途言行録)が面白いと思いました。『私の中の聖書』で強調されていたのは、聖書は文学として面白い、ということでした。

たとえば、パウロの回心のくだりにダマスコのアナニアという人が出てきます。パウロ(サウロ)の目からうろこが落ちる現場に立ち会ったはずの人。アナニアはパウロが迫害者であることを聞き知っていたので、パウロのところに行きなさい、という主のことばにいったんは抵抗するんですが、けっきょく受け入れて、パウロを訪ねて行く。そしてイエスのことばを伝えて、パウロは回心する。聖書にはさらりと書いてあるけれど、アナニアの心の動きをいろいろ臆測しながら読むと面白い。日本の古典の、『徒然草』あたりの説話を読むのと同じようなスタンスで、聖書の説話も読めるんですよ。

大学に入って、たとえば、平家物語のさまざまな異本のありようを知って、これって四福音書みたいぢゃん、て思ったり。それで、聖書学って、平家物語の勉強になんか役に立ちそうだと思って佐竹明先生の授業をとったりして。そしたら当時もうすでに、武久堅さんて偉い先生が、すでに聖書学の方法を平家物語研究に援用してらしたりして。

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