歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

シェイクスピア/福田恆存訳『あらし』

2010年06月25日 | 本とか雑誌とか
シェイクスピア/福田恆存訳『あらし』を新潮文庫で読む。劇のせりふとして粒立ちのよい言葉が選んである。古典にふさわしい文体。「聾」とか「土民」とかいう言葉が出てくるところに時代を感じる。これはもし訳者が生きていたらかならずや訳し直しを迫られていたところだろう。そして福田さんは訳し直しを拒否して、その結果新潮文庫のシェイクスピアは誰かほかの人の訳に切り替わっていたかもしれません。しかし福田さんはもう死んでいるので、こういう要注意語もそのまま新潮文庫のシェイクスピアに生き残っている。昭和46年発行。わたしが今度買ったのは平成21年7月の63刷です。ロングセラー。

その「今日の観点から見ると差別的表現ととられかねない箇所」とは別の話なのですが、この『あらし』はどうだか分からないけど、福田さんの文庫版のシェイクスピアは、増刷のときに、訳者が訳文を手直しすることがあったようですよ。いまとなっては手もとに記録を残していないので明らかにどこと指し示せないのが残念ですが、新潮文庫の『ハムレット』を買い直したときに、古いのと違う表現になってるところをたまたま見つけたんだよね。もしかしたら大学三年の時かな。三年生の国語学演習で、シェイクスピアの訳本から副詞を取り出して、福田訳と小田島訳でどうちがうか、っていうのをやったのだ。

三幕二場、キャリバン。「怖がる事は無いよ──この島はいつも音で一杯だ、音楽や気持の良い歌の調べが聞えて来て、それが俺たちを浮き浮きさせてくれる、何ともありはしない、時には数え切れない程の楽器が一度に揺れ動くように鳴り出して、でも、それが耳の傍《はた》でかすかに響くだけだ、時には歌声が混じる、それを聴いていると、長いことぐっすり眠った後でも、またぞろ眠くなって来る──そうして、夢を見る、雲が二つに割れて、そこから宝物がどっさり落ちて来そうな気になって、そこで目が醒めてしまい、もう一度夢が見たくて泣いた事もあったっけ。」このキャリバンのせりふは有名なようですね。異類異形の怪物キャリバンに、こんなみづみづしいせりふを振り当てるシェイクスピアのやさしさ。

五幕一場、プロスペロー。「厳かな調べだ、これに優る慰めは他にあるまい、狂った想いを鎮め、病める脳の働きを癒してくれよう」。こういうせりふのときの劇音楽っていうとやっぱりビオールのコンソートかな、『ラクリメ』みたいな。シェイクスピア劇の音楽、いろんなCDが出てますが、また聴きたくなった。それにしても今回読み直して思ったのは、『十二夜』とか『お気に召すまま』同様、『あらし』もまた音楽にあふれた劇であったということ。

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