放送大学の『歴史と人間』という科目でルイス・フロイスが取りあげられていました。講師は杉森哲也さん。杉森さんが長崎に来て収録したビデオも流されました。フロイスが長崎で死んだことはなんとなく知っていましたが、その場所は、今の県庁のあるところに建てられていた教会だったそうですね。この「岬の教会」を描いたと思しい南蛮屏風が残っているというのも、はじめて知りました。
杉森さんは、長崎以前の南蛮船の入航地であった横瀬浦も訪ねていました。横瀬浦は西彼杵半島の北端で、海を隔てて佐世保の対岸にある集落です。入航地になって間もなく、焼き打ちに遭ったために放棄されて、やがて南の長崎が新しい港として開かれたわけです。もし焼き打ちに遭わなければ、そのまま横瀬浦は貿易港として発展し、でも土地が狭いので街は針尾島から早岐、佐世保方面に広がって、今の長崎県域の中心地は、長崎ではなくて今の佐世保近辺に広がっていたでしょう。今の長崎市あたりの土地の狭さを考えると、佐世保に人口が集まっているほうがよかったかもしれない。新幹線を引いてくるにも、長崎よりも佐世保のほうが、鳥栖からの線を引きやすそうに見えます。
フロイスの『日本史』の日本語完訳本は全十二巻でいま中公文庫に入っていますが、中公文庫はすぐ無くなるから、いつまで新本で入手可能かは分かりませんよ。これはかつて中央公論社からまづハードカバーで出て、その後ソフトカバーに装幀を改めて出されていたもの。文庫版は、訳に多少補正が加えられているとのこと。
中公版の『日本史』の訳者は松田毅一さんと川崎桃太さんのおふたりで、キリシタン学者の松田さんはもう亡くなりましたが、ポルトガル語の川崎さんはもう百歳近いけどなお存命とのこと。
杉森さんは、長崎以前の南蛮船の入航地であった横瀬浦も訪ねていました。横瀬浦は西彼杵半島の北端で、海を隔てて佐世保の対岸にある集落です。入航地になって間もなく、焼き打ちに遭ったために放棄されて、やがて南の長崎が新しい港として開かれたわけです。もし焼き打ちに遭わなければ、そのまま横瀬浦は貿易港として発展し、でも土地が狭いので街は針尾島から早岐、佐世保方面に広がって、今の長崎県域の中心地は、長崎ではなくて今の佐世保近辺に広がっていたでしょう。今の長崎市あたりの土地の狭さを考えると、佐世保に人口が集まっているほうがよかったかもしれない。新幹線を引いてくるにも、長崎よりも佐世保のほうが、鳥栖からの線を引きやすそうに見えます。
フロイスの『日本史』の日本語完訳本は全十二巻でいま中公文庫に入っていますが、中公文庫はすぐ無くなるから、いつまで新本で入手可能かは分かりませんよ。これはかつて中央公論社からまづハードカバーで出て、その後ソフトカバーに装幀を改めて出されていたもの。文庫版は、訳に多少補正が加えられているとのこと。
中公版の『日本史』の訳者は松田毅一さんと川崎桃太さんのおふたりで、キリシタン学者の松田さんはもう亡くなりましたが、ポルトガル語の川崎さんはもう百歳近いけどなお存命とのこと。
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