ディック・フランシス『煙幕』

ディック・フランシス／菊池光訳『煙幕』ハヤカワ文庫。

今回の主人公はエドワード・リンカンという人気俳優なのだが、この名はたぶん、アメリカ大統領でわれわれが普通「リンカーン」と書く人と同じ綴りなのだろうと思う。略称は「リンク」。ファミリー・ネームでもこんなふうに略すのね。これも愛称なんでしょうか。

リンカンの母親代りであるネリッサが不治の病に冒される。リンカンは、彼女の頼みで、彼女の持ち馬が急に勝てなくなった件の調査のため南アフリカへ飛ぶ。あとの舞台はすべて南ア。イギリスの読者にとっても、南アの馬事情や景物はやっぱりもの珍しいのかしらん。フランシス夫妻は南アにどのくらい取材旅行したのだろう。

ディック・フランシスの小説の主人公のようなタフな人物を演じることを職業とする映画俳優が、ここではディック・フランシスの小説の主人公になっている。リンカンは、映画で演じたキャラクターと素のリンカン自身とをごっちゃにしてしまう周囲の人びとに苛立ち、とまどう。でも、やはりリンカンも、タフでストイックであることはこれまでの主人公たちと同じなのだ。繰り返し窮地に立ちつつも、最終的には凱歌をあげる。また、今回の主人公は独身でもなく、結婚生活が破綻しているわけでもなく、いちおう幸せな家庭を持っている。これはフランシスとしては異例。

早い時点で読者にもリンカン自身にも犯人が割れてしまうので、謎解きの面白みは今一つ。それと敵方の策動が舞台裏で行われてしまい、物語の場面としてはほとんど描かれないのがちょっと不満。

アガサ・クリスティの文庫本をだいたい読み尽しつつあった時期に、クリスティの後釜としてディック・フランシスを読み始めた。正確に記録していないが、今のところ10冊くらい読んでいる。探偵小説を読むのは、夏か冬の休みの時期くらいなので、年に何冊も進まないのである。クリスティも、実は読み漏らしている長編がありはするのだが、あらかた読むのに20年はかかった。フランシスも未読がまだまだあるので、あと10年くらいは読んでいけそうである。

p.19
「長い一日の撮影が終わった後、現像係が、フィルム全部か真っ黒になっているのを発見した。」は、「フィルム全部が」の誤りならん。

p.117
「すばらしいショットになる……光を背にジプシーのような格好で立っているその姿……そのオレンジ……今度いっしょに仕事をする映画に組み入れなければ、そんなショットを無駄にするわけにはいかん……」。「組み入れなければ、」は、読点を句点に。「組み入れなければ。」とすべし。