「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

掛川バッティングセンターだぜ!

2008年07月09日 22時57分12秒 | 人々


 掛川バッティングセンターに行ってきました。48歳の体で通用するのか?ってのが気になりましたが、この間2年ぶりにソフトボールをやって2打数1安打で、アウトになった打席もショート脇を抜こうかという良い当たりだったことに自信を付けて初めてここに来ました。誰かがいると恥ずかしいので誰もいないことを確かめてこそっと入りました。受付でプリペイドカードを1000円で購入しましてバッティングゲージに入ろうとしたら、僕の横をすり抜けて、休息70キロのゲージに入り込んだ小学生がいましたよ。くそお、取られたっておもいまして、しょうがないから90キロのゲージに入ってカードを入れたんですね。そしたらすぐ斜め左脇から球が出てくるじゃありませんか。あれ?って思いまして、ここはトスバッティングゲージかと思ったんですが、よくよく見てみると、そいつはストラックアウトなんですね、正面に1から9までの数字がならんだボードがありました。でもまあ丁度いいやってな具合で、トスバッティングにしちゃいました。変なアナウンスでストラックアウトが終わったら、改めて90キロのボールにチャレンジしようとしカードを入れ直すと、今度はボールが背中を通りやがんのさ。なんだよここはってよく見たら僕は左打席用のゲージに入っていたんですね。騰がっていたのかなって思いますね。
 ひどすぎ?
で、こんどこそって思ったら小学生がゲージから出てきたんで、気分を落ち着けて70キロのゲージに入りました。
 当たったかって?
当たりましたよ、半分ぐらいは。
 ボールを迎えに行くと全然駄目なんですが、肩の力が抜けて、ボールを手元まで引きつけられればホームラン性の当たりがちゃんとでます、僕でも。凄く楽しかったし、10年ぶりのバッティングセンターだったけど、短時間で結構いい汗かきました。
 今日は仕事帰りに思いつきで行ったので、スラックスにワイシャツといういかにも仕事をさぼっているサラリーマンの出で立ちでしたが、そんなことが気にならないくらい、気持ちよかったです。

「府中」って

2008年07月08日 21時59分18秒 | 妄想
「静岡」という名称の起源
明治の初め、明治政府に対し、恭順の意をことさらに示す必要に迫られていた府中藩(旧江戸幕府)が、「府中」を「不忠」と解されることを恐れて、静岡浅間神社裏手の賤機山(しずはたやま)から名を取って「賤ヶ丘」(しずがおか)とし、その後「静岡」(しずおか)と改称したことに始まる。

って書いてありますが、「府中」ってのは地名というよりも「県庁!」とかいうイメージの強い場所ですのでホントはなんて言ってた所か気になります。「草深」じゃちょい寂しい気がするなあ。「賤機山」から考えると「賤機」ってのもあるのかなって思いますが、山って周りの地名に関連せずに付けられることが多いと思うので、可能性は無いかなって思います。でも「服織」(はとり)とかあるから、布の技術者かなんか住んでいた関係があるとしたら優雅でいいなあと勝手に妄想してます。

羞恥心と世界のなべあつと千原ジュニアと女子高生のスカート丈

2008年07月03日 00時24分34秒 | 妄想
 ミニスカートはもはや衰退気味なんだそうですね。これからは私学のお嬢様学校風のスカート丈が流行るんだそうだとか。ホントか否かは知らないけどね。世界ファッション業界を席巻した「可愛い」という基準は、「小さい」や「短い」や「足りてない」と同義ではなく、もうちょっと別の要素を加えなくてはいけないようだ。「クイズヘキサゴン」から始まった一連の「おばかブーム」は里田まいやスザンヌ等の、おばか女性アイドルを生み出した。彼女らが「愛嬌のある」もしくは「突っ込みどころのある」ボケをかましながらも、けなげにクイズに取り組む姿は新しい形のアイドルのあり方を提示した。その流れにのったのが「羞恥心」の3人であり、先の女性おばかアイドルと基本的なスタイルは変わっていない。しかし彼らは「おばか」という冠がついている以上、愛されると同時に「馬鹿にされる」という宿命をせおっており、同時に視聴者は、彼らと自分との境界線を明確にしようとする動きを鮮明化させた。彼らの「お馬鹿」は、いわゆる「お馬鹿」を売り物にしているお笑い芸人の作り込みとは一線を画し、素の「お馬鹿」であったため、視聴者の「お馬鹿と同列視されたくない」感は一層強まったと考えられる。そしてそれがスカート丈にも影響が出ているのではないか。世界のなべあつは、そんな空気の中で受け入れられた芸であり、3の倍数という一瞬だけ「お馬鹿」になれるという開放感が受けたのではないかと思われる。
 相次ぐ値上げ将来保障の不透明さからくる社会不安は「イケメン」でもなくいつどうなるか分からない「お金持ち」でもなく、人間の根元的な生命力の強さを持った人間にスポットを当てる。千原ジュニアはそうした時代の要請に応ずる形で登場したものと考えて良い。これからの時代は「したたかさ」の時代であり、ばれたら開き直るくらいの「博打打ち」の時代かも知れない。