「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

BLOG表現の困難さ1  

2005年04月03日 11時42分14秒 | BLOG論
 日記は基本的に他人に読ませるものではない。

 自分でさえ書き放して読み返すことは希である。

 書くことによって自分の気持ちに整理を付ける。
 もしくは書いたものを(書きつつ)眺めることで自分を客観視してカウンセリング効果(癒し)を得る。

 こういった効果を無意識に得ているから日記は書けるのだろうと考える。

 自らの心を鏡に映し出す。

 我々は鏡の前に立つとき自然と意識し良い顔を作るそうである。

 髪の毛を整えるだけではない。

 泣きやまないときは鏡の前に連れて行くと良い。

 みっともなくて泣いてなんかいられない。

 

話を戻す。

 日記はその意味で自照文学といえる。

ブログの名前に「ひとりごと」が多いと言ったときにも触れた。

 日記は他人に読まれることを期待していない。

 だから文体は「ひとりごと」の一人称でいいのである。

 胸にたまった感情なり思いを、何の加工もせずストレートに紙面に吐き出す。

 僕はポエムという形もこれに近いと考えている。

 加工と非加工の違いは歴然である。

 ポエムにはリズムがある。

 人はリズムに乗せると心の枷が緩むらしい。

 コスプレの趣味はないが演劇の経験者として役になりきることで、日頃口に出来ない言葉を発することが出来る。

 若者の心を捉える楽曲もリズムに乗せてこその詞であって素面で語れるものではない。

 日記やブログにポエムが多く用いられるのも日常からの脱却や、自分のテンションを上げて心の鎖をとく鍵となっているからだと考えられる。


  

 だけどブログは公開されている限り、人の目を意識した文章になる。

同窓会2

2005年04月03日 01時48分17秒 | 日記
 45人学級だったんだ。
 まずそのことに驚いた。

 次に驚いたのは
 そのうち32名が出席したこと。

 担任の先生が元気でおられたこと。

 当時今の僕らよりもずっと若かった32歳で僕らを受け持ったこと。

 結構覚えていてくれたこと。

 そして誰も禿げていなかったこと

 そして誰も腹がつきでていなかったこと。

 脳梗塞で倒れたことのあるもの1名。

 心臓病だったもの1名。
 
 離婚の末、過食症になったもの1名。

 バツイチは3名。

 未婚は2名。

 再婚が2名。

 家のローンで苦しむもの大勢。

 子供自慢をする親ばか多数。

 医者は3名。

 教師は5名。

 労働組合の幹部1名。

 銀行員3名。

 市長を狙うもの2名。

 社長3名。

 会社の重役多数。


 地球博でパビリオンを仕切っているから来られないというもの1名。

 アメリカの大学で美学を教えているので今日は皆によろしくというもの1名。


 行方不明5名。



 山形から来た奥様。

 大阪からきた奥様。

 京都いながら発起人になった人。

 次の幹事に名乗りをあげた奇特な人。


 はじめは誰だか分からなくて、おずおずと挨拶していた人や、顔見た瞬間に「全然変わってないや」といわれる人まで色々いたけれど。

 みんな中学生の時に逆戻り。

 そのときの立場のまま…

 お互いをあだ名で呼び

 お互い44歳になっているのに、当時好きだった人の隣に来ると妙に緊張してる奴がいて、

 子供を頼むと先生に言い、今度見てくれと医者にいう、なにかあったら言ってこいと名刺交換をするのはさずがに大人だけど、終電間際までほとんど全員が2次会に行って残って騒ぐというのは、およそ44歳の飲み方ではなく、「大丈夫ですか?ご家庭は」などと野暮な質問をする奴は一人もおらず、みんなが「次もやろうぜ」と別れたことは、


 何だか仕事とも地元とも違う、なんかとても不思議でとても大切にしたい空間になったような気がする。


うん!



気分良し!




今日の出席者名簿は後で送付されるようですが、個人情報としてはすごいものになるねと皆で言い合っていたわけです。


 
個人情報保護法施行です。  

同級会

2005年04月02日 16時09分36秒 | 日記
 さて、今日は20年ぶりの中学校の同級会です。
 僕の中学は地方の国立の付属中学。

 クラス名簿を見ると、医師に弁護士、会計事務所所長に、銀行役員、会社の社長ときたもんだ。

 僕は当時から下から数えた方が早い位置にいたけど随分差が付いたネ。

 ま、いいか!

 どんなお話が聞けるか楽しみです。

 名刺とか持っていった方がいいのかな?

 構うことナシ

 無我の構えで行ってきます。

弥生から卯月へ 別れと出会いの季節の狭間で 

2005年04月01日 22時51分53秒 | 日記
 先週まで送別会のオンパレードだった。そして今日から来週まで歓迎会の連続となる。

 先週までちょっと飲み過ぎた。羽目を外しすぎたきらいがある。

 お別れする人とは最後まで望まれるままに付き合う。

 それが先輩として、上司として、同僚としての最後のけじめだと思っていた。いつもなら後は君らでやんなよと早々に退散させていただいていた。

だけど、そんな風に飲んでみて、そんな風に握手して、肩叩いて、時には抱き合ったり、何度も同じ挨拶をしても、それが一体どんなけじめになるのか分からなくなっていた。

 午前3時、駅近くのホルモン焼きの店の片隅で僕は残った二人の後輩を前に「これでちゃんとさよならできたって言えるだろうか…」と絡んでいた(ゴメンね)

 家に帰れなくなってホテルもナシに迷惑かけっぱなしで、何やってんだろう?僕は…。

そこまで行って、やっと気が付いた。これは僕の問題なんだと言うこと。相手がどうとかじゃなく僕がどう考えるかの問題なんだ。

 さよならは自分と相手の関係を過去と考えること。そこから全てを思い出に昇華させてゆく。

 そう考えよう。

 なんか書き方が暗いなあ



 今日から4月

 来る人はもちろん、迎える人もドキドキする季節。

 「初めまして」と「よろしくお願いします」が日本中で交差した日。

 お互いの第1印象はどうでしたか?


 使えそう?

 尊敬できそう?


 手探りでしたか?

 ストレートでしたか?

 
 良い仕事が出来そうですか?

 どこに使うか決められそうですか?


 素直に言うこと聞けそうですか?

 ついてきてくれそうですか?  


 今日始まった人間関係はこれからどんな模様を描き出すのでしょう?


 新緑は新しい出会いの数だけ萌出でるはずです。





ライブドアがアダルトブログを有料化  ブログ会社の風景

2005年04月01日 18時35分33秒 | BLOG論
 今日からライブドアではアダルトプラスと言って商用アダルトブログの有料化を図るそうです。
 アダルトプラス   

 半年間は月額21000円だそうですがどう見たって高い。

 追い出しでしょうな。

 ライブドアは近鉄買収時と今回の騒ぎで随分知名度が上がったらしいね。顕著な結果としてトップページに登録する人が増えている。(YHOOには全然かなわないけど)
 
 で、今までアダルトに傾倒していたライブドアはイメージの変化を狙って来たんじゃないかな。

 gooのブログのページに入って新着記事のページに行くと、gooだけでなく、DOBLOGやはてなダイアリー、JUGEM、そしてライブドアの新着記事もごちゃ混ぜで掲載されている。

 これを一つ一つの会社ごとに見ていくとかなり風景が違うことが分かる。

 今はそうでもないけど、ライブドアのページはさしずめジョシコーセイのメール状態だ。色々な記号絵文字を駆使して多様な商業ブログがアダルトを中心に展開していた。歌舞伎町のネオン街を彷彿とさせてくれる。

 DOBLOGやJUGEMは図書カードの雰囲気だ、記号、絵文字は少なく文字のみが整然と並び、尚かつカテゴリーも皆しっかりと書かれている。

 はてなダイアリーは、不思議な雰囲気だ、登録しないと見ることも出来ないブログが多く、秘匿性に優れているせいか、妙な高級感を醸し出している。変な偏見を与えるようであるがお医者さんも多いらしい。

 そうするとgooは何だろう。スーパーマーケット的な庶民的な味わいがある。

 褒めすぎか?自分がブログ持ってるせいじゃないですよ。あくまで印象です。

 イメージカラーから言えばライブドアは白、gooは青? yhooは黄色、はてなはグレー、fc2はピンク、DBLOGはステンレス、(色じゃないね)くらいか?

 まあどうでも良いことです。

 話を戻します。アダルティックに展開していたライブドアのページを見ると最近風景が変化している。
 タイトルから絵文字だのアダルティな単語が姿を消し、商業用ブログも少なくなり一般ユーザーが目立つようになってきた。

 以前は一般人を探すのに苦労した覚えがある。

 最初の印象としてビデオレンタルショップに入ったらアダルトビデオが9割の店でビックリして出てきたという経験に似ている。

 まあ、関係ないって言えばそれまでなんですけど…。

 ライブドアで 気ままに個人的なアダルトブログをしていた人たちは戦々恐々で、FC2ブログへの大移動が始まっているとの噂もある。

 FC2(よく知らない9はトップページに「アダルト」と書いてあるので珍しい。

 他ではやらない。教育上の配慮かな?

 でも探している人には使いやすい仕組みだ。

 ライブドアさんは大丈夫でしょうか?アダルト切り捨ててやっていけるのかな?

 ビデオもDVDもインターネットもそうだけど、ハイテク産業を下支えしてきたのはアダルトな部分であることに間違いないのだから…。 

まあどっちでも良いことなんですけどね。

今日はブログ論って言えるのかな。 


怖れ

2005年04月01日 01時36分38秒 | BLOG論
 最近記事を揚げたり、コメントをするのに以前より増して恐怖感を伴うようになってきた。自分への批判が恐ろしいのではない。人を傷つけてしまったのではないかという後悔に似た恐怖である。

 僕はこのブログで「ブログ論」なるカテゴリーで書いてきた。
 
 動機は人間に対する好奇心だった。

 10万人以上の人が日記という文章を通じて自分の心の内面を表現しようとしている。

 そして見ようと思えば、僕らは本人の承諾なしに見ることができる。

 人類がかつて経験したことのない時代に突入しているのではないかと身の震える思いを抱いた。

 失礼だが人間心理研究を目的とすればサンプルを無限に獲得できる状態にある。

 僕はブログを通じて、僕が思う普通の人達に共通している思いを抽出して人間の持つ普遍的なものを描きたいと思った。(そんなに大げさなもんじゃあないか)

 ネタなんかもう無いなと思うことも、まだまだ書くこといっぱいあるぞと思うこともあった。

 ブログは様々である、社会の縮図とも言える。ブログを解き明かそうとすることは人間を解き明かすことになるのであろうと思えるようになってきたし、際限がないとも思える。

 しかも少しも苦痛ではない。

 面白くてたまらないと思うこともしばしばである。

 僕は人を批判するのは好きではない。

 だからどんなブログ論を書く場合も、これは批判ではないと断ってきた。(少しの例外は除いて)
 ただ、そんな言葉で許容されるものではないこともあるのではないかと考えるようになってきた。

 ブログは僕一人の価値観で書かれている。
 
 夏目漱石は「こころ」の中で「先生」に「教育相当の良心」という言葉を使ったが、価値観はそれだけで決まるわけではなく、僕の育った時代と環境と教育と読書と自分自身の心の傾向がその価値観を生み出している。

 現代の日本の静岡の社会にのみ通用する価値観かも知れない。いや、もっと突き詰めて言えば自分一人しか通用しない価値観と言えるかも知れない。

 「論」は理屈である。理屈に矛盾がなければ「論」として通用する。しかし、時に「論」は人々を不幸に落とし込むこともある。

 ブログ論で対象になった人たちは、このブログをどのような思い出眺めているのだろうか。

 チェ・ジウさんを除いたのでもうそれほど観衆も集められないかと思うけど、「ブログ論」には随分熱心な読者の方もいらっしゃるようなので、僕の記事の対象になった方の中には憤懣やるかたないといった人もいるかも知れない。

 言葉はブロガーがenterを押した瞬間から、本人の意志を離れて自由になり、読む人の心で改めて再構成される、しかも違う価値観で…。

 誤解を恐れてはいない。

 誤解を訂正できない悔しさを怖れる。

 自分の心も刻々と変化しているし、朝と夜とで、感情の高ぶりも違う、そして何よりも自分の伝えたい趣旨を正確に伝えられていないというもどかしさを常に抱きながら書いている。

 そして、少し時間をあけたり、読まれた方からコメントを頂いて初めて、自分の文章の配慮の足りなさに気付くことになる。

 文章を訂正するのはたやすい。

 しかし、一度与えた誤解をぬぐうのは、真っ白い服についたケチャップのシミのように拭うのに困難さを伴う。

 じゃあ、ブログなんか書くなよ、って言われそうだが、そうはいかない。

 こういう心理だってブログならではのもので、僕の人間探求=自分発見の趣旨からすれば十分に興味深い現象なのだ。

 これからも続けて行きます。人を傷つけることを恐れながら…。

 傷つけたら…。


 謝るしかない。

 ブログ論は不特定多数で、尚かつ個人で、日記を通じてネット世界に対峙している人を対象にしているから、きっと分かってもらえるはずだと考えよう。

 僕はその点で人間を信用して良いと思っている。