雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月29日(火) ブログは過去の成果ものせていきます

2017年08月29日 17時02分38秒 | 雨宮日誌
 雨宮日記 8月29日(火) ブログは過去の成果ものせていきます

 昨日の「雨宮智彦のブログ」は、「訪問者数 264人、閲覧数 1127回、順位 2445位(全ブログ 275万9158中)」でした。

 読んでいただきありがとうございます。

 メールは、ほとんど見ませんですので、反応が非常に遅れると思います。ごめんなさい。

 今後ともご愛読をよろしく。

 ちなみにわが最愛の妻(独りしかいないんだから「最愛」は変かも)、則子さんは「私はネット見ないんだから私のこと、勝手に書かないで」と言っております。

 あくまで「雨宮日記」は雨宮智彦の日記で、則子さんが登場するのは、実際に登場するので、しょうがない「出演」していただいております。

 当分は、出ずっぱりですね。

 < 追加 >

 新しいコーナー(カテゴリー)に「過去現在のメモノート」を創ります。



雨宮日記 8月28日(月) 退院から今日で1年目

2017年08月29日 16時45分19秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 8月28日(月) 退院から今日で1年目

 昨年8月28日に、リハビリ病院を退院した。5月始めに脳出血で住吉へ救急車で入院、2週間ほどでリハビリ病院へ移り、3ヶ月。

 退院したくて退院したくて、先生にも則子さんにも、頼み込んで退院させてもらった。

 おかげさまで、なんとか病気とつきあって最初の1年をなんとか生き抜いた。

 もちろん、一番感謝すべきはベスト・パートナーの雨宮則子姫さま、ありがとうございます。心から感謝もうしあげます。

 これからもよろしく。やることは、家にいてもたくさんあるし。

 近所のみよちゃんのように「お外へ出たい」のは、もちろんだが。それは則子さんに手伝ってもらわないとできない。

 来年は「外でビデオ撮影チームの一員に復帰すること」を目標にする。達成できるかどうかは、わからないが、チャレンジする価値はあると思う。


『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」

2017年08月29日 16時26分22秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ⑨ 「戦後文学は古典となるか 2」


  2 戦後文学

 日本の戦後文学は「帰る」ことから始まった、と座談会の主の一人、川村湊は述べている。(文献⑤)
 そう、海外に居た日本人は民間、軍隊を含め北海道、本州、四国、九州の四島に限定された敗戦国日本に帰らねばならなかった。これはポツダム宣言による占領軍の方針だった。軍隊が優先され、フィリピン・レイテ島の捕虜収容所にいた大岡昇平は、日本に一番近い朝鮮にいた私より早く昭和二十年十二月末には浦賀へ帰還上陸した。

 戦時中、筆を折っていた作家たちが帰って来て、殊に軍隊にあって死と対決した作家たちが、既成作家たちとは違う視点より書いたものが「戦後文学」といわれ、その作家たちを「戦後派」というようになった。彼等はいきなり戦後、文学活動を始めたわけではなく、戦前より文筆に親しみ軍隊生活をそれを基にした。「戦後派」というけれど、「戦中派」といっても間違いではない。体験した大戦での生と死の問題を、「自分」とは何であるかを突きつめて書いた。これらは戦前の既成作家たちとは、甚だ異なる所であった。

 本多秋五は『物語 戦後文学史』を「週刊読書人」に昭和三十三年十月より三十八年十一月まで、百四十六回、五年間に亘って連載した。私にとっては格好の「戦後文学」入門書となり、これにより多くのことを学んだ。

 いまその切り抜きを見ると、紙質も上等といえぬ紙面は日焼けで黄ばんでしまっているが、作家ごとに、その作家の著書にはさんでしまったので抜け落ちているものが多い。その最終回(昭和三十八年十一月三十日付)で、本多は結びの言葉として次のように述べている。

 「戦後文学が追究した究極のものは、人間の「自由」ではなかったかと思う。「自由」という言葉をしばしば口にしたのは椎名麟三ひとりであり、他の戦後文学者はかならずしもそうではなかったが、埴谷雄高も武田泰淳も、野間宏も梅崎春生も堀田善衛もそれぞれの角度から、それぞれの色合いの「自由」を追求したのだ、といえるのではないか。自我の実現、個人主義の実現といっても意味は遠くないが、彼等の多くが、やはり「自由」こそ究極のものと考えた方が妥当性は多いと思う。戦後文学者の己を知るという求心的にして遠心的な努力は、人間の「自由」の探求にむけられたいたと私は考える。」

 この戦後文学者たちに、中村真一郎を司会として「あさって会」という集まりがあり(文献⑥)、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、堀田善衛、椎名麟三、梅崎春生の七人のメンバーがあった。その後、大岡昇平が加わり、彼等を中心として「戦後文学」はあった。その作品の内容は作家によって、それぞれ大きく違っていたが、ひとつ共通するものがあった。それは本多のいう「自由」と「戦争」であった。

 私は本稿で、彼等のなかから軍隊体験のあった大岡昇平、武田泰淳、梅崎春生、野間宏、堀田善衛、それに島尾敏雄を加えて(以上、年齢順)、六名の作家の出生、学歴、軍歴、戦後文学歴の年譜を次頁から図示し、それを参考にかれらの軌跡を辿って見ようと思う。

< 「3 野間宏」へ続く >