雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

『落葉松』「文芸評論」 ③ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 3」 二、参河行在所

2017年08月22日 11時28分10秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ③ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 3」

二、参河行在所
 
 参河に至った持統太上は何処を行在所としたのであろうか。三河アララギの御津磯夫氏の「引馬野考」によると、それは宮地山であって、頂上に行在所跡の碑が建てられているという。(もっとも碑の建設は近年である。)現在も紅葉の名所でハイキングコースになっている。宮地血山は海抜三百六十三米というから、本坂峠(役四百米)よりは低い山である。東名高速道路の音羽・蒲郡インターを降り、名鉄の赤坂駅のそばにそびえる山である。山頂より三河湾をよく眺めることができる。名鉄と東海道が並行しており、音羽川も並行して流れて南へ下り三キロほどで、御津町御馬の三河湾に注いでいる。

 この御馬の地が三河の引馬野であり、河口が安礼の崎であるといわれているのが三河説である。上陸地はこの御馬の地であろう。宮地山に登るのにも近いからである。三河の国府も近くである。しかし、ここが安礼の崎であるとするには、地形的に少し無理ではないかと思う。御馬海岸も当時と(後述するが浜名湖(遠江淡海)もそうであったように)現在とは違っていたと思われる。

 三河御幸の時の、『万葉集』の十三首の歌は、五七ー六一、二七〇ー二七七である。五七は引馬野、五八は安礼の崎、五九、六〇は本文に関係ないので省略して、六十一は的方の歌である。そして二七〇ー二七七の八首は、五八と同じく高市連黒人の作である。そのうち、近江や山城の歌はこの時ではないかも知れない。還幸路より外れるからである。

 高市連黒人は『万葉集』に全部で十八首の作があり、全部旅の時の歌であるが、参河行幸の時が約半分を占める。黒人は宮廷歌人であったと見られる。そのうちの

   四極山(しはつやま)うち超え見れば笠縫(かさぬい)の島
    漕ぎかくる棚無し小舟     (巻一の二七二) 
 
 五八の安礼の崎について文明氏は三河湾の西岸の西浦半島の先端の御前崎(ごぜんさき)に擬しておるが、ちょうど伊勢より三河への航路より遠望出来る岬である。この四極山は大阪の摂津とも、又この御前崎に近い幡豆町か吉良町あたりではないかとも言う。笠縫の島は前島(兎島)であろう。文明氏も、摂津とすると笠縫の島は遠浅の海で海中になってしまうと言っている(『私注』)。同じように棚無し小舟が出て来るということは御前崎(安礼の崎)と四極山が近い所であることが暗示される。同じ作者の参河行幸の時の参河での作であろうかと推定される。

 引馬野が浜松であるため、安礼の崎を新井(現在の湖西市新居町)の海岸であるとする説がある。古代の浜名湖は現在とは大分おもむきが違っていて、太古天竜川が都田辺りより浜名湖に注いでいた名残りで、土砂の隆起により南半分は埋っていて、今の湖西辺りから磐田原台地へかけては台地の続きであった。天竜川は既に現在の位置を流れていたが、村櫛半島などは、まだ形成されていなかったのである。そして、湖のはけ口として、浜名川が一本遠州灘に注いでいたのである。新居の西南部に、そのあとと思われる水帯が現在残っているという。

 外洋は荒い遠州灘であるし、ましてや冬の季節である。小さな棚無し小舟が漂うのは無理であろうし、伊勢から参河へ行く途中の船の上からの作歌であると思われるので、四極山の歌と関連して、安礼の崎は、御津の地にしろ、御前崎にしろ、三河湾内であるというのが私の推論である。

 それにこの時代、既に新井という地名の書かれた木簡が、伊場遺跡から発見されている。
 「辛卯(かのとう)年十二月新井里人宗我部○○○」

 この年は持統五年(六九一年)であるから、参河御幸の十一年前に当たる。新井という地名が既に存在しているから、わざわざ安礼の崎と歌われることもないのではなかろうか。浜名川の河口には「崎」と呼ばれそうな岬は存在しなかったと思う。



新・本と映像の森 80(文学9) 丹羽郁夫『飛翔の季節(とき)』 

2017年08月22日 11時23分09秒 | 本と映像の森
 新・本と映像の森 80(文学9) 丹羽郁夫『飛翔の季節(とき)』 

 まだ日刊新聞連載中で、終結もしていないし、ましてや有名小説家ではないから(ごめんなさい!丹羽さん!)本になるかどうかもわからない。

 注目すべき小説だが、注目すべきみなさんが見逃すことのないよう、ここに明記しておく。

 日刊新聞は日本共産党中央委員会発行の『しんぶん赤旗』で、連載小説は8月22日(火)付きで228回目となっている。

 著者は丹羽郁夫(にわいくお)さん。タイトルは「飛翔の季節(とき)」。

 時代は1960年代後半から1970年代前半、主人公は土岐啄磨、ボクとほぼ同時代を高校生・大学生として同じように生き、ほぼ同時代を民靑同盟員・日本共産党員として同じように生きたといっていい。

 ボクは1971年春に民青に入り、1972年4月に日本共産党に入った。

 だから時代のいぶきを同じように呼吸していた点で啄磨には共感する。活動の濃密さも、住宅のひどさも、仲閒のすばらしさも。

 228回目の今日は1972年4月末である。

「228=第三章 再び起つ(12)」から引用する。

 「民青は、4月十一日から四日間開かれた「九中委」で、全国十二大会の決議草案を決定していた。また、去年の沖縄闘争の真っ最中に開かれた「七中委」で延期が決められた大会を、今年の六月七日から三日間開くことも発表された。・・・・
 大会決議案は「民新」の四月二十六日号にのった。分量は新聞の一ページと三分の二ほどでひどく少なかった。琢磨啄磨は、一読して何かおかしい、と思った。胸にずんと響くものがなく、気合いも入らない。ーどこか変だ、ひろく浅く総花的で、これが今後の二年間の指針になるとはとても思えない。
 啄磨はそう思いながら、机の上で考え込んだ。」

 小説のこの時点でボクたちは、激変の日、五月九日がすぐ間近に迫っていることを良く知っている。

 それを丹羽さんがどのような立場から、どのように描くのか、ボクたちは見逃せない。