文芸評論、②、「引馬野」の歴史的、地理的考察」「一、大宝二年(七〇二年)」
先ず、「引馬野」の歌が歌われた大宝二年(七〇二年)という年を考えてみよう。持統太上天皇の参河御幸によって、この歌は生まれたのであるが、持統太上は何故この年になって参河までの行幸を強行したのであろうか。孫の文武(軽皇子、十五才、六九七年生まれ)に帝位は譲っているものの、文武は幼少であって、実質的には実権を握っていたであろう。
この年(大宝二年)より十年前のまだ天皇であった持統六年(六九二年)二月十一日に伊勢に行幸する計画を発表して、臣下にその準備を命じた。大体行幸の一ヶ月位前から、使いをその路の諸国に派遣して、行宮を造営せしめるのが慣行になっていた。この時は、三月三日出発の予定であった。これに対して、中納言の大三輪朝臣高市麿(たけちまろ)が農事の妨げになるとして反対した。中納言は壬申の乱の時の功臣であり勇将であった。天皇に反対意見を述べるくらいであるから、重用されていたのであろう。行幸となると、農民たちが使役に徴用されて農作業が出来なくなるからである。
壬申の乱(六七二年)より二十年が経っていた。夫の天武天皇は内政の充実のために一度も外へ出ていなかった。父の天智天皇が没落した原因の一つに地方豪族の不満があったことを、持統天皇は覚えていたのである。それ故、反対を押し切って、予定より三日遅れたが、三月六日出発し、二十日に帰京した。大三輪朝臣は辞職した。
その間、伊賀、伊勢、志摩の諸国を回り、今年の調役(納税)を免じている。更に遠江、参河などより供奉の騎士の調役も免じている。参河の御幸も、同じく尾張、美濃、伊賀、参河の国々の壬申の乱に功のあった人々を賞で、税を免じるためであったのである。事前に不満を封じておいて、持統無き後の幼少の文武のために後顧の憂いをなくしておくためであった。
しかし持統天皇ほど、旅好きの天皇はなかった。殊に吉野へは三十一回にも及んでいる。吉野は大海人皇子(天武)が天智天皇のもとを去った時、一緒に隠棲した思い出の地であるから、尚更の感があるが、天皇の行幸となると、その盛大なること想像を超えるものがある。
一ヶ月前から行宮を造営せしめる事は前記の通りであるが、大宝元年(七〇一年)の紀伊白浜行には船を三十八隻も造らしめている。
随行となると車駕に雇従する官人ー御前次第長官、御後次第長官、夫々次官、判官、主典、御前騎兵将軍、御後騎兵将軍、それぞれ副将軍、軍監、軍曹等、堂々たるろ簿の盛観である。だからその行程も極めてゆっくりであって、大宝元年の紀伊白浜御幸は二十日もかかっている。即ち九月十八日に出発して、十月八日到着、十月十九日には帰京している。路次、諸国の田租を免じ、調役を免じ、国司、郡司の位階を進めることは行幸につきものの現象であった。それと大車駕の巡行は交通路の発達を助長せしめ整備されていった。
大宝二年の参河行幸も九月十九日に伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の五カ国に使いを派して行宮の造営を命じている。この年、『続日本紀』によると、「八月五日、駿河、下総の二カ国に大風吹く、百姓の家屋を壊し、作物に被害が出る。九月十七日、駿河、伊豆、下総、備中、阿波などの五カ国に飢饉が起る。使を派して救済せしめる。」とある。一般臣民は困窮を極めていたが、中納言は辞職しており、この時反対する者は出なかった。
また「十月一日、ここに幣帛(みてぐら)を奉りて其のいのりを賽す参河国に幸せむとしたまうためなり。十月十日甲辰、太上天皇、参河に幸したまふ、諸国をして今年の田租を出すこと無からしむ。」とあり、その後の行程を表にしてみると次の如くである。( )内は太陽暦(概算)を示す。
十月 十日(十一月 八日) 参河
十一月 十三日(十二月 十日) 尾張
十一月 十七日(十二月 十四日) 美濃
十一月二十二日(十二月 十九日) 伊勢
十一月二十四日(十二月二十一日) 伊賀
十一月二十五日(十二月二十二日) 還幸
この詳細は、「四、持統太上天皇」の項で述べる。
『万葉集』には、この参河御幸の時と思われる歌が全部で十三首載っている。記録にはその旅程は出ていないが、回った国の順序を見ると、参河へは船で伊勢湾を横断して上陸したと見るのが至当であろう。即ち次の歌がそれを明らかにしている。
巻一の六一、舎人娘子(とねりのをとめ)の従駕(おおみとも)して作れる歌
大夫(ますらお)が得物矢手挿(さつやたばさみ)み立ち向かひ
射る円方(まとがた)は見るに清潔(さやけ)し
舎人娘子は舎人皇子と親子とあるから、持統太上の孫となる。円方は的方で、現在の三重県松坂市の東部、櫛田川の河口辺りという。ここから乗船する一行が船待ちの間、射矢をして腕を競ったのであろう。尚、船は前年の紀伊御幸に造らしめているから、それを使ったものと思われる。そして、その途中で読まれた歌が、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の次の歌である。
巻一の五八、
何処にか船泊てすらむ安礼の崎
漕ぎ廻み行きし棚無し小舟
この歌も文明氏の『万葉名歌』に、「伊勢湾から海路を参河に行く時の作である」と見えるから、安礼の崎も、その間の海上のある岬をいうのであろう。安礼の崎については、次章で詳しく述べる。
私が持統太上の御幸巡路に固執するのは「引馬野」の歌を解くには、この一首のみを分析しても不可能であって、参河御幸の時の十三首の歌の中の何首かが重要な関係を持ってくるからである。それと、御幸期間の長期四十五日間も解せぬ所である。
( 続く )
先ず、「引馬野」の歌が歌われた大宝二年(七〇二年)という年を考えてみよう。持統太上天皇の参河御幸によって、この歌は生まれたのであるが、持統太上は何故この年になって参河までの行幸を強行したのであろうか。孫の文武(軽皇子、十五才、六九七年生まれ)に帝位は譲っているものの、文武は幼少であって、実質的には実権を握っていたであろう。
この年(大宝二年)より十年前のまだ天皇であった持統六年(六九二年)二月十一日に伊勢に行幸する計画を発表して、臣下にその準備を命じた。大体行幸の一ヶ月位前から、使いをその路の諸国に派遣して、行宮を造営せしめるのが慣行になっていた。この時は、三月三日出発の予定であった。これに対して、中納言の大三輪朝臣高市麿(たけちまろ)が農事の妨げになるとして反対した。中納言は壬申の乱の時の功臣であり勇将であった。天皇に反対意見を述べるくらいであるから、重用されていたのであろう。行幸となると、農民たちが使役に徴用されて農作業が出来なくなるからである。
壬申の乱(六七二年)より二十年が経っていた。夫の天武天皇は内政の充実のために一度も外へ出ていなかった。父の天智天皇が没落した原因の一つに地方豪族の不満があったことを、持統天皇は覚えていたのである。それ故、反対を押し切って、予定より三日遅れたが、三月六日出発し、二十日に帰京した。大三輪朝臣は辞職した。
その間、伊賀、伊勢、志摩の諸国を回り、今年の調役(納税)を免じている。更に遠江、参河などより供奉の騎士の調役も免じている。参河の御幸も、同じく尾張、美濃、伊賀、参河の国々の壬申の乱に功のあった人々を賞で、税を免じるためであったのである。事前に不満を封じておいて、持統無き後の幼少の文武のために後顧の憂いをなくしておくためであった。
しかし持統天皇ほど、旅好きの天皇はなかった。殊に吉野へは三十一回にも及んでいる。吉野は大海人皇子(天武)が天智天皇のもとを去った時、一緒に隠棲した思い出の地であるから、尚更の感があるが、天皇の行幸となると、その盛大なること想像を超えるものがある。
一ヶ月前から行宮を造営せしめる事は前記の通りであるが、大宝元年(七〇一年)の紀伊白浜行には船を三十八隻も造らしめている。
随行となると車駕に雇従する官人ー御前次第長官、御後次第長官、夫々次官、判官、主典、御前騎兵将軍、御後騎兵将軍、それぞれ副将軍、軍監、軍曹等、堂々たるろ簿の盛観である。だからその行程も極めてゆっくりであって、大宝元年の紀伊白浜御幸は二十日もかかっている。即ち九月十八日に出発して、十月八日到着、十月十九日には帰京している。路次、諸国の田租を免じ、調役を免じ、国司、郡司の位階を進めることは行幸につきものの現象であった。それと大車駕の巡行は交通路の発達を助長せしめ整備されていった。
大宝二年の参河行幸も九月十九日に伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の五カ国に使いを派して行宮の造営を命じている。この年、『続日本紀』によると、「八月五日、駿河、下総の二カ国に大風吹く、百姓の家屋を壊し、作物に被害が出る。九月十七日、駿河、伊豆、下総、備中、阿波などの五カ国に飢饉が起る。使を派して救済せしめる。」とある。一般臣民は困窮を極めていたが、中納言は辞職しており、この時反対する者は出なかった。
また「十月一日、ここに幣帛(みてぐら)を奉りて其のいのりを賽す参河国に幸せむとしたまうためなり。十月十日甲辰、太上天皇、参河に幸したまふ、諸国をして今年の田租を出すこと無からしむ。」とあり、その後の行程を表にしてみると次の如くである。( )内は太陽暦(概算)を示す。
十月 十日(十一月 八日) 参河
十一月 十三日(十二月 十日) 尾張
十一月 十七日(十二月 十四日) 美濃
十一月二十二日(十二月 十九日) 伊勢
十一月二十四日(十二月二十一日) 伊賀
十一月二十五日(十二月二十二日) 還幸
この詳細は、「四、持統太上天皇」の項で述べる。
『万葉集』には、この参河御幸の時と思われる歌が全部で十三首載っている。記録にはその旅程は出ていないが、回った国の順序を見ると、参河へは船で伊勢湾を横断して上陸したと見るのが至当であろう。即ち次の歌がそれを明らかにしている。
巻一の六一、舎人娘子(とねりのをとめ)の従駕(おおみとも)して作れる歌
大夫(ますらお)が得物矢手挿(さつやたばさみ)み立ち向かひ
射る円方(まとがた)は見るに清潔(さやけ)し
舎人娘子は舎人皇子と親子とあるから、持統太上の孫となる。円方は的方で、現在の三重県松坂市の東部、櫛田川の河口辺りという。ここから乗船する一行が船待ちの間、射矢をして腕を競ったのであろう。尚、船は前年の紀伊御幸に造らしめているから、それを使ったものと思われる。そして、その途中で読まれた歌が、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の次の歌である。
巻一の五八、
何処にか船泊てすらむ安礼の崎
漕ぎ廻み行きし棚無し小舟
この歌も文明氏の『万葉名歌』に、「伊勢湾から海路を参河に行く時の作である」と見えるから、安礼の崎も、その間の海上のある岬をいうのであろう。安礼の崎については、次章で詳しく述べる。
私が持統太上の御幸巡路に固執するのは「引馬野」の歌を解くには、この一首のみを分析しても不可能であって、参河御幸の時の十三首の歌の中の何首かが重要な関係を持ってくるからである。それと、御幸期間の長期四十五日間も解せぬ所である。
( 続く )