雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月23日(水) コオロギが鳴いている

2017年08月23日 22時02分23秒 | 雨宮日誌
 雨宮日記 8月23日(水) コオロギが鳴いている

 夜になると涼しくなって、秋の虫が鳴いている。お風呂場の外で、秋の虫の4重奏。カネタタキかな?小さな金属音が聞こえる。

 2階の寝る部屋に来ても、外でコオロギなど鳴いてる。

 昼閒はまだ暑くて、カーテンを閉めている。

『落葉松』「文芸評論」 ④ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 4] 三、引馬野と榛

2017年08月23日 21時50分31秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「第2部 文芸評論」 ④ 「「引馬野」の歴史的、地理的考察 4」

三、引馬野と榛

  妹も我も一つなれかも三河なる
         二見の道ゆ別れかねつる   (巻一ー二七六)

 この歌も高市連黒人の三河御幸の時のものである。黒人はもう一つ、巻一ー二七一で

桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟 
潮干にけらし鶴鳴き渡る

 という歌がある。桜田は今の名古屋市内になるようであるから、還幸の時のものであろう。
 この「二見」が、遠江の引馬野と三河の引馬野への分かれ道であった。もっとも領地とも当時、引馬野と呼ばれていた資料は無いが、(遠江の引馬野の初出は『金葉集』の大治二年(一一二七年)である)仮に引馬野としておく。
 二見は三河の国府のあった場所であり、国道一号線と三百六十二号線の合流点でもある。三百六十二号線を東進すれば、本坂峠を越えて浜名湖の北を通って、追分、市野を過ぎて、遠江国府のあった見付に至る。いわゆるのちの姫街道である。追分あたりから南方、国道二百五十七号線一帯が今、引馬野と呼ばれている。
 『遠江国風土記伝』(寛政十一年、一七九九年、三河御幸より一一〇〇年もあと)に、引馬野を次のように記している。
 「城の西北にあり、高平にして方五里。水無く人家無し。通道三あり、浜松、宮口、各々気賀関に通ず、古くは猪鼻に通ず。或人云曰う、右の時和地、祝田、都田村の秣場たり、故に三方原と曰うと。元和九年(注:一六二三年)官政あり、以来百八村の秣場となる。」
 又『曳馬拾遺』(寛政六年、一七八八年)には、こう書かれている。
 「高町の坂を、或は天林寺の前を進みて名残村より登る坂を引馬坂といひ、是も三方原に続けり、すでにこの辺り引馬野という。」
 私の見聞でも、戦前、軽便鉄道でゴトゴトのんびり走った曳馬駅は殆ど人家はまばらであった。
 三方原台地は酸性土壌のやせ地で、その上乾燥しているので、植物も満足に成長しない。台地の植物はアカマツ林とススキの原で代表される。五月にはツツジ、秋にはハギ(ツクシハギ、マルバハギ)がこぼれるように咲く。(『浜名湖』)

 「引馬野」の榛を無理に萩であると解釈しているが、榛は水辺に生息するから、乾燥した引馬野台地には育ち難いのである。茜屋の故平松実氏が『土の色』で榛について詳説しているが、萩は染色用としては効用をなさないと言っている。

 『万葉集』には榛の歌が十四首ある。主に大和地方であるが、引馬野と伊香保の二首、計三首が東国である。
 かわりに萩は『万葉集』では一番多くて百四十二首ある(芽、芽子、波義、波疑)。もし引馬野の歌が萩であるなら、何故萩原と記さなかったのであろうか。万葉仮名はでたらめな使い方ではなく、使用方法が確立されていたと思われるからである。萩は萩、榛は榛である。

 長忌寸奥麿(ながのいみきおくまろ)は『万葉集』に十四首の歌がある。奥麿も黒人と同じく宮廷歌人であり、奥麿、黒人は共に参河御幸に供奉した。十四首のうち、十六巻の八首は即興歌で、他の六首は全部、行幸の時の従駕歌である。

 即ち六九〇年の持統天皇の紀伊行幸の時の巻二ー一四三、一四四。七〇一年の紀伊行幸の時の巻三ー二六五、巻九ー六七三。そして七〇二年の「引馬野」の歌。最後に七〇六年の文武天皇の難波行幸の時の歌である。

 行幸の時には、全部従駕しているから、都にあって遠江の引馬野を偲んで作った歌であるとか、或は三河の行在所より遠江に出かけた時の歌であるという節もあるが、『遠江風土記伝』や『曳馬拾遺』の書かれた江戸時代中期でもっ牛馬の秣場だった所である。それより約一千年も前のこの三方原の地がどんな所であったかは想像出来るであろう。
 人家もない、無論宿泊すべき場所もない所で、新暦で十二月の初冬の寒い季節である。女官連中が時間(三河の行在所より三方原まで約四十キロある。約十里である。)をかけて出かけたであろうか。疑問とするところである。

 もう一つの引馬野ー即ち三河の引馬野は、二見の一号線より別れて東三河環状線を行くと御津海岸へ出る。この先に御幸浜がある。ここら辺りが三河の引馬野といわれる地帯である。
 この海岸通りを東進して豊川を渡る所が渡津橋である。これが古の東海道であったと思われる。大宝律令の古代駅家配置図に三河の国には鳥飼(そしとり)(矢作川畔)、山網(やまのな)、渡津(わたうづ)と駅馬が見えるからである。

 そして高師山を越えて猪鼻駅(新井)へ出て浜名川を渡り、栗原(伊場遺跡)、○摩(安間か、姫街道の分岐点)を経て見付の国府に出る。しかし、この道は官人の通る道で、一般はいわゆる本坂超えの姫街道を利用したようである。即ち『万葉集』の遠江の歌十五首のうち、あらたまとか、引佐細江とか、奥浜眼の歌が多いからである。
 御津の御馬海岸が三河の引馬野であるとすると、遠江の引馬野より大分歩がある。即ち音羽川の河口で水辺であるので榛(ハンノキ)の生育にも適していたであろうし、行在所より三キロの道のりであるから、日帰りも可能で行在所の宿泊の考慮を計る必要もない。

 壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)と菟野皇女と皇子たちが吉野を脱出した時、従うものは舎人(とねり)二十人、女官十二人あまりだったという。この参河御幸の時は、舎人や女官がどの位の人数だったか想像もつかないが、「衣にほはせ旅のしるしに」と歌われた時の舎人や女官たちの姿は壮観であったろうと思われる。

 次章に説明するが、私はこの時、病気に(風邪でもひいたか、寒い季節であったから)かかって臥っていたのではないかと考察する。看病する女官たちを慰めるため、一日、御馬海岸で遊んだのではないか。

 最後になったが、引馬野の地名であるが、それを固有名詞と考えるから疑問が生じてくるのである。引馬は古義で、「引」は「ヒキ(低ー即ち低い)」、「馬」は「マ(地区、所)」の転呼であって「低い土地」と意味になるのである。固有名詞でなく、普通名詞として用いられたのであるという(『日本古語辞典』)。
 されば、御馬海岸は、音羽川の河口で渥美湾(三河湾)に臨み低い海岸地帯であって、それにふさわしい歌である。

 『万葉集』の中には、まだ解明出来ない歌や、地名に至っては、当時と現在では変ってしまって、はっきりとしない不明地は多々ある。
 引馬野もその一つなのであるが、固有名詞ではなく、普通名詞であって低い土地の名であると解釈すれば、榛も萩でなく、ハンノキであるということに落着くのではなかろうか。
 さすれば、三河御幸の時のいくつかの歌から三河湾周辺の土地が、その歌の主題となってくる。引馬野もその例外ではないのである。