雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー50 膀胱の手術」

2017年08月16日 21時26分59秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「戦後編 第八部 Ⅱー50 膀胱の手術」


Ⅱ 50 膀胱の手術

 八月に入ると、また排尿障害が起き始めた。「生検」でガン細胞を採ってから、余計悪くなったような気がする。

 先生は、水分を充分に摂るようにと言うが、コップ二杯の水(二〇〇CC)を二時間おきに飲むことになった。ベルナールという排尿促進剤を夕方に飲む。それでも出ないので、病院へ行くと、不思議なもので出る。十日と十二日の二回、どうにも我慢ならず、夜間救急治療室で導尿してもらったら、気持ちよくなった。しかし、出た尿は五〇CCぐらいだ。膀胱は三、四〇〇CCぐらい溜まる筈なのに、五〇CCぐらいで尿意を感じて出たくなるのだが、出ないのはどういう訳だろう。先生には「勝手に導尿して感染症にかかるかも知れない」と叱られた。エコー検査をしても、膀胱には二〇ー四〇CCぐらいしか溜まっていないという。私のガンは大きくないので、尿道を圧迫していないから、尿意があっても出ないのは、自律神経の調整がうまく作用しないかららしい。

 自律神経には、血管を縮ませる交感神経と、反対に血管を開かせる副交感神経がある。交感神経が働くと尿道括約筋や前立腺が収縮して尿は出ない。ところが副交感神経が働くと弛縮して尿が排出される仕組みになっている。これは脳の指令にもとづくのである。私の場合は、この副交感神経がうまく働かないのである。交感神経が強く働いて尿が出なくなるのである。これについて後章の「51 ストレス」の項で詳述する。

 先生は私に「何か趣味はあるかね」と聞かれたので「文章を書いています」と応えたところ、怪訝な顔をされていたが、後日、この自分史(戦前編)を差し上げたところ、「成程」とびっくりされていた。それ以後、私を見る目が医師から患者を見るのではなく、医師と患者と対等になったような気がする。

 「われわれにいずれ訪れる病は「ガン」か「ボケ」のどちらかである」とある本に書かれていたが、私たち夫婦は、いずれどころかもう二人ともそれにそれぞれ冒されてしまった。

 八月十三日、私は入院した。結局、排尿障害を除くため、尿道から内視鏡を入れて、膀胱の出口を広くする手術を行うことになった。前立腺のガンはそのままである。手術に対する不安はあったが、排尿の方は安心した故か、うまく出るようになった。心理的なものだろうが、自律神経が良い方に作用し始めたのであろう。

 尿は排尿のたびに、採って自分の蓄尿瓶へ入れておく。一日に、平均二千CC前後溜まった。健康な成人男性の排尿回数は,一日に五、六回で、膀胱の容量は三〇〇ー四〇〇CCだから大体標準の容量である。入院して回復したことになるが、手術は二十三日に行われる予定であった。

 入院して驚いたのは、私の食事が高血圧食(塩分制限七g)となっていたことである。私が高血圧と診断されたとは知らなかった。七月三十日の第一回のホルモン注射をした時、計ったが、一三九ー七五であった。正常血圧の基準値は一三〇ー八五であるから、高値といえば高値といえる。しかし、高齢者は一六〇ぐらいまでは許容されるから、心配する程のことはあるまいと思った。
 手術までの十日間に、① 尿道の広さをレントゲンで調べた。内視鏡が通るかどうかである。膀胱内視鏡がどんなものであるか知らないがO・Kであった、② 下腹部の尿を溜めてのC・  検査、③ 内科の心臓音波検査、④ 肺活量検査、⑤ 蓄尿してのM・R・I検査、⑥ アレルギー検査。念には念を入れてである。

 この病院への入院は初めてではない。昭和六十二年(「第六部 43 閉店」参照)、突発性難聴で二週間入院して、その後十年ぐらい通院していた。家内も何年か通院している。いわば、病院から見ればお得意さんであるが、医師と患者の関係は逆転しているとしか言いようがない。これは医者となる教育に関係していると思う。
 手術日前夜と当日朝の二回、浣腸をして排便し、十時に右腕に皮下注射(痛み止め?)をした。十一時に手術室に入り、出たのは十二時だったから一時間であるが、三十分程は麻酔準備や、身体のレントゲン写真が写し出されて「君の背骨は曲がっているねえ」と先生に言われて、画面を見たところ、成る程真っすぐの一本棒ではなく、S字型に曲がっている。後日、先生に聞いたところ、内臓には影響ないと言われた。
 麻酔を打つ腰椎の場所を探し出し「〇・二グラム」という先生の声を聞いたが、そのうちに足先がジーンとして下半身の麻酔が効いてきた。手足を十字架にしばりつけられたような格好になり、見られたものではないと思うが、何せ感覚が何もないから、何をやっているのかさっぱり分からない。

 三十分程で終わってベッドに戻ったあと、寒気がしてきてガタガタ震え出した。手術室は冷房がよく効いていたから冷えたのであろう。掛け布団を一枚足して貰って寝た。
 膀胱洗滌が一本増えて点滴が二本になった。尿道にカテーテルが入り、洗滌液を溜めるビニール袋が点滴台の下についた。トイレなどに行く時は、ビニール袋をぶらさげた点滴台二本を押して歩かねばならなかった。尿はこの洗滌液にまじって排出される。

 手術日の翌朝まで食事はなく、昼は重湯(おもゆ)、夜と翌朝はおかゆ、昼から普通食となった。少し早いように感じたが、案の定、通じが止まってしまた。看護婦に下剤を催促したが、翌朝、先生に連絡するまで待てという。朝六時頃、やっと座薬を入れたが、一日便意があって気持悪かった。夜やっと下剤が処方されたが、躰に合わないか、一日にトイレに六,七回も行く始末であった。今までは、尿との斗いだったが、今度は便との斗いになってしまった。

 膀胱洗滌中、次男の嫁さんが三食時、来て助けてくれた。尿道にカテーテルが入っているので、うまく座れず立ったまま食事をせねばならなかった。それに温かい物を食べると、すぐ汗がふき出てくるので、団扇であおいで貰うという状態であった。この汗をかくというのも、自律神経失調の状態であった。

 手術して五日目の八月二十七日、尿道のカテーテルは抜かれて膀胱洗滌作業が終わった。三十日の回診時に、明三十一日退院の許可が出た。その日の午後、名古屋の長男夫婦が見舞に来た。やっと間に合った。二人共、この日に仕事の空きが出来たのである。「ガンはガックリしないように」とうまいことを言った。

 退院前夜は、安心したか明け方まで一度も起きずぐっすりと眠った。次男の嫁さんが来て、朝食後退院し、タクシーで二十日ぶりに家に帰った。