雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 46 「「父の自叙伝『落葉松』 第6部 Ⅱ-43 閉店」

2015年10月16日 04時18分43秒 | 雨宮日誌
雨宮家の歴史 46 「「父の自叙伝『落葉松』 第6部 Ⅱー43 閉店」

 「おや、今朝(けさ)の時計はいやに響くな」

 普段は、チン・チンと、澄んだ音で鳴るぜんまい巻きの柱時計である。それが、今朝はジジィン、ジジィンと重なるような音に聞えた。

 毎朝六時、この時計の音で起きるのであるが、この日は日中、電話のベルで受話器を取ると切れてしまうことが二、三回あった。それは右耳であったが、左耳では切れずに初めて話が通じた。右耳の時は、切れたのではなくて、聞こえなかったのである。これで、右耳がおかしい事に気がついた。それに、耳鳴りがひどくなってきて、頭もふらつき、気持が悪くなった。

 E総合病院耳鼻科を受診したのは昭和六十二年(1987年)七月九日であった。レントゲンを撮り、一週間後に再診の予定で内服薬を出された。

 入院して治療を始めたのは七月十七日であった。「突発性難聴」で、内耳に異常があるが、原因がはっきりしない病気で、治療が遅くなると治りにくいと言われていた。それなのに、一週間も先送りにしたのはどういう訳であろう。点滴が主流だったが、点滴ならば通院でも出来る。

 点滴液は、血行促進剤「A・T・P(アデノシン・トリフオスファイト)」にビタミン剤を混ぜたもので、毎日一回二百CC点滴した。主治医は医大の研修生であったが、十二日目ぐらいの点滴で四十度の発熱を起こし、七月末に聴力を回復しないまま退院した。

 「突発性難聴」は特定疾患(いわゆる難病)に指定されていて、治療費は全額公費だったので、入院の食事代も含めて一銭も払わないで済んだが、耳が元に戻らないでは、どうしようもなかった。右と左で聴力に差があるから、音がダブって聞こえ始末に負えない。それに頭のふらつきも完全には治らなかった。それでも、どうにか配達に廻われるようになったのは九月も中頃であった。

 ある日、ちょっとしたミスがあった。繊維工業試験場のS課の室を出る時、私を呼ぶ声を微かに聞いたように感じられたが、私はそのまま室を出て帰ってしまった。帰ってから、電話があった。課長のY氏だった。やはり、私を呼んだのだった。

 完全に耳に入らなかったのである。 私は深く考え込んだ。Y氏は私の後輩で、私の耳の悪い事情も知っているので、ああ、やっぱり呼んだかいで済ませられるが、何も知らないお客だと、こうはいかない。折角のお得意を失ってしまうとも限らない。何れにせよ、このことはショックとなり、商売をやめる第一の原因となった。

 林泉書房の開業は昭和十三年(1938年)であるから、五十年になる。松城へ移ってからでも三十年である。家屋も三十年経って建替えの時期になっていた。

 ここは昭和五十八年(1983年)四月一日付で、中央公区土地区画整理事業が終わり、番地も松城町二〇〇番地の十六となった。浜松城公園を一〇〇番として三〇〇番地まで町の名前は従来のまま残して、割り振った。松城町を始め、元城・連尺・伝馬・鍛冶町など昔からの町名をそのまま残したのは賢明であった。郵便物は町名はなくても、番地だけで届くのである。換地で土地の増えた人は差額を払い、減った人は支払いを受けた。当家は減少であったが、換地の値段が高かったので、若干支払った。

 閉店を決意して、取次の東販へ連絡したのは昭和六十三年(1988年)十月で、年末を以て送品の停止を頼んだ。ただ、学校図書館関係へ納入している雑誌類は、六十三年分が六十四年の四、五月頃までかかった。これらは直接仕入分や、同業者に頼んで仕入れた。

 閉店して年が替わった六十四年一月七日、昭和天皇が亡くなり、平成の世となった。林泉書房は昭和の終わりとともに、その幕を閉じた。

 平成元年は、店を閉じたまま過ぎたが、商売をしないのなら、ここでなくてもいい訳である。 平成二年(1990年)の年賀状の、小学校の同級生のS建設社長に、土地売却依頼の旨を書いておいた。仕事始めと共に、社員が来店して相談し、一般の広告に出す前に、同業者の会報に載せてくれた。

 早速、業者の中に買主があり、二月二日には売れたという知らせがあった。いくらで売ったのかと思ったところ、一坪二百三十万円の二十六坪で五九九三万八千円であった。これには私も驚いた。前にも書いたが、ここを買った時は六〇万円だったから、実に百倍の値段である。バブル景気の時代だったとはいえ、この値が景気の頂点であった。坪二三〇万円の値段をつけた理由は次のようなためであった。

 同じ町内の、中央図書館の駐車場になっている所は、同業者の支配人の土地で百坪あった。区画整理事業が完了した時、この土地は一千万円ぐらい払ったという噂があり、彼はその資金調達のために、ここを売却したのである。その値段が坪二三〇万円であり、百坪あったから二億円以上になった。その年の高額納税者に彼の名も並んだのは、そのためであった。この土地に名古屋の業者がマンションを建てる話が持ち上がり、近隣の人々の反対で、結局浜松市で買い取って、中央図書館の駐車場としたのである。この時の二三〇万円を参考例として、家の場合にも二三〇万円で売り出したのである。

 しかし、このあとバブル景気は去って、買った業者が売る出した時には、その値段でも売れず結局損失となった。既に売ってしまった私には関係ないが、買った業者は不動産部を廃止してしまった。本業は他にあったのである。

 二月十五日、S建築不動産にて、売買契約調印(契約金一一九三万円受領)。五月末までに明け渡すことになった。

 二月二十二日、中山町に二軒借りる。

 三月十日、新栄住宅と十軒町に建築条件付土地を契約。

 五月十三日、中山町へ引っ越した(十軒町に新居が出来るまでの仮住まい)。

 五月二十四日、浜松信用金庫本店にて、松城町の売買契約を決済し,残金を受領。

 五月三十日、新栄住宅と土地売買の契約決済をした。

 年末には家も出来、新住居に移るが、閉店してから、二年の年月を要した。


雨宮日記 10月15日(木)の1 「おうちコープ」を待つのは時間のムダ

2015年10月16日 04時06分25秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 10月15日(木)の1 「おうちコープ」を待つのは時間のムダ

 毎週木曜日の午後は、コープの宅配車「おうちコープ」が来るのですが、これを「受け取ってね」と則子さんが言うので、出かけられなくて困るんです。

 午後1時から待って、実際に来たのは午後2時半、1時間半の時間が無駄になりました。

 実際にいて荷物を受け取ることをしなければ、コープの労働者も、面倒な「箱から出して渡す作業」がいらないので、時間短縮になると思うのですが。

 「平和新聞」の宅配に行けませんでした。明日にします。