雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 8月31日(火)の2 暑い秋、涼しい秋

2010年09月01日 07時14分00秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月31日(火)の2 暑い秋、涼しい秋

 妻のN子さんは、8月1日から冷房のきいた事務所に勤務しています。
 むかしの保育の仕事や、以前の介護の仕事と比べれば、肉体労働が減って、精神労働になっています。
 だから、体がなまっているでしょうと、できるだけ、夜、やっと涼しくなった馬込川の散歩にも誘っています。

 昨夜は、N子さんと同じ部屋にいる長女のTさんも彼氏のところに行っていなかったので、ちょっと期待してみました。
 
 N子さん「体操とかしないと」
 ぼく「ぼくと一緒に体操しようよ」
 N子さん「暑いから、いや」

 はい、まだ暑い秋でした。
 早く、涼しい秋になりたいな。

 

人間・心・集団の学習8 会議は何によって決定しますか?

2010年09月01日 06時40分37秒 | 雨宮日誌
人間・心・集団の学習8 会議は何によって決定しますか?

 団体や組織の会議で、いったい何を基準に決定するのか、考えてみました。

 科学の基準で言うと、研究調査や実験による事実と論理によって決定するのであって、多数決採択の余地はないのでしょうと思います。

 芸術・文化的基準で言うと、できるだけ感覚が優秀な人を選んで、その人の感覚で芸術的な判断をしてもらうので、この場合も多数決判断の余地はないのではないでしょうか。
 たとえば、映画を監督が決めるのではなくて、関係者の多数決会議で完成させたら、それは、たぶん、支離滅裂な物になるでしょうね。

 では、社会運動などで、科学や芸術の部分を除いて、何が、多数決決定の対象になるのでしょうか。
 そのことを、考えていきたいと思います。

 もし科学の成果で決定しない団体があれば、それはどうなります?
 みんなで決めれば「地球の周りを太陽が回る」と決めてもいいんでしょうか。
 民主主義とは何でしょうか?
 なんでも決めて良いのか、考えたいです。

 マンガ『日本沈没』の最終巻、第15巻で、非常にユニークな、登場人物(俳優?)による打ち上げ会のような場面で、ひとりがいいます。

 「こんな話はさ、作家のエゴのような創造性で、個人的エネルギーで
 〝なんとしてもひどい沈め方貫いてやる〟ってごり押ししてなんぼよ
 なのにさあ、個人的エゴと対極にあるような
 おおぜいの意見集めて割って
 ぶなんなことしようとしたあげく 沈まな!! もがもがっ!」

 そのあと中田さんなどを演じた俳優さん(?)が言います。
 「もう役を演じなくていい、沈んでいない日本に戻ってきておしあわせか?
  君こそ、ほんとうに戻って来ているかい?」

 俺たちは待っているぞ・・

 そうだ、ぼくも物語に戻らないと。
 N子さんと、戻らないと…。
 戻って、日本が沈没して再生する物語を、いっしょに生きていこうね。
 あと何年かな、わからないけど。

 会議は何によって決定するのか、その正当性がわからないままでした。
 それがわかったら、どんな団体・組織も「俺たちは待っているぞ」なんて言わずに
 発展していくんでしょうね。

 

 

本と映像の森75 一色登希彦さん『日本沈没 4』小学館

2010年09月01日 05時44分09秒 | 本と映像の森
本と映像の森75 一色登希彦さんマンガ、小枩左京さん原作『日本沈没 4 ~古都消失~』小学館、2006年12月1日初版第1刷、定価505円+消費税

 一色登希彦さんのマンガ『日本沈没』(15巻で第1部完結)にボクが初めて注目したのは、コンビニで立ち読みした週刊マンガ雑誌『モーニング』で、たぶん後半の、小野寺さんがマコさんと死刑囚さんたちを救出するシーンからだと思います。

 それで、なんかゾクゾクするものがあったので、第1巻から買い始めました。正解でしたね。

 この第4巻は、相模湾大津波の第3巻に続く、京都大地震です。
 なぜこの巻が重要かというと、政府「D計画」メンバーが正式に集まり発足することと、このマンガの実際の主人公たち、若い4人男女のうち、男性の2人、深海艇パイロットの小野寺俊夫さんと、幼なじみでこの後、重要な役割を果たす郷六郎さんが登場して再開するからです。
 というより、2人の再会と「再生」がなければ、物語が成り立っていません。
 だから、映画版や元の小説版は、物語が成り立っていたのかどうか、わかりません。

 小野寺さんは、京都大地震が起こること、中学生の頃の親友・郷六郎さんが、ひきこもりになって今も京都に住んでいることを聞かされ、大地震直前の京都を訪ねて郷六郎さんに会います。

 郷六郎さんは、転校してきた小野寺さんに、サッカーで「おい!転校生!お前!押さえんな!ちゃんと本気全部出さんかい!」と叫びます。
 そのことから、親友になった2人は、六郎の部屋で語り合います。
 六郎「何かが頭を押さえつけるンや。走ろうとするやつの本気を削り取ってしまうんや」

 これが「日本沈没」全体で解決すべきテーマの提示だと思います。
 
 そしてすぐ神戸に転校した俊夫さんは、父親にこう感じます。

 父親はこんな感じです。
 受け入れろよ、俺を否定したりするなよ。俺の弱さを見抜くなよ。
 俺のやり方が正しかったと証明してもらいたいんだ。
 俺の弱さを指摘したりしてみろ。俺はだめになっちゃうぞ。

 これって、まさしく「ハラスメント」ですよね。 
 つまり受け入れの強制と、否定の禁止の強制、二重の強制で成り立っています。
 (詳しくは『ハラスメントは連鎖する』光文社新書、を参照してください。詳しく解説されています) 

 「この人達…体が大人に見えるだけなんだ…
  考えの合わない人間が目の前にいることに、心が耐えられないだけなんだ」
 「気の毒だから、もうやめよう。黙ろう」
 と理解したところで、阪神大震災に遭遇し、父親が死んでしまいます。

 そういうショックを経験して(社会的には優秀な機械パイロットだけど、頭の中は自分にひきこもっている「精神的ひきこもり」の)小野寺さんと、頭の中は世界に開かれてパソコン金融でもうけているけど、社会的には家にひきこもりの郷六郎さんが、再開することから、この「日本沈没」、いや「日本再生」の物語は始まるのだと思います。

 いまこう書いて、あ、そういうことなんだ、と自分で納得しました。うわ、すごい自画自賛。だれか否定してください。

 さっき、やっとメール設定をしましたので、誰でも雨宮にメールできるようにしました。

 補足ですが、京都に「第1交響曲」を聞きに行ったのは、この第4巻の京都地震で崩壊する設定の京都タワーに2人で登ってみようという自己企画でした。
 もちろん、N子さんには黙って。
 へたにしゃべったら、怖がりますからね。
 現に、京都タワーに登ったら、高所恐怖症だったのか、どうか、展望窓の近くには近寄らず、いちばん内側を歩いてるんですよね。
 ぼくも、なんだか、マンガのシーンを思い出して、怖くなって、すぐに下りました。


雨宮日記 8月31日(火) コオロギさんがお風呂場で鳴く秋

2010年09月01日 05時23分56秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 8月31日(火) コオロギさんがお風呂場で鳴く秋

 「夏休みも、8月も終わり、もうじき秋」そう言いたいところですが、秋の気配はあんまりなく、少し夜が涼しくなって、秋の虫、コオロギさんたちが鳴き出しただけです。
 コオロギさんたちの声の聞き取りは、まだあまり知らなくて、ツズレサセコオロギさんくらいです。

 昨夜、自宅のお風呂に(1人で)入ったら、小さなコオロギさん(メスでしょうか?)がぴょんぴょん跳んでいて、かわいそうなので、台所にいたN子さんを「N子さあん」と呼んで、小さなコオロギさんを家の外へ出してもらいました。

 なお秋の虫も、夏のセミも、みんな鳴いているのは(あるいは泣いているのは)オスたち・男たちですので。
 
 そういえば、昔、家に電話がかかってきて
 電話「お父さんはいる?」娘「お父さんは、お風呂だよ」
 電話「お母さんは?」  娘「お母さんも、お風呂だよ」
 もう昔の神話時代の伝説になりました。