四季の歌と暮らす

 年齢ごとに「一度っきり」の四季と、
旬(しゅん)のヨコハマを味わう「くりごとの集」です。

子規庵から子規のお墓へ(その3)

2012-10-19 19:04:54 | 生かされて今日

 少し寂しげな西日暮里駅を左折、切通しの道灌山通りへ。子規の頃はこの駅はなく担がれた子規の棺は踏切を越えて進んだそうです。西の灘高と東大入学数を競う、東の開成高校がこのお山の上にあるらしい。道が細く曲線となる古い下町を進むと与楽寺坂。ピラカンサスの実や郁子の生垣など秋深しの景色です。

与楽寺は頂いた資料集の江戸名所図会に載っており、図会は確かなものです。子規や高浜虚子達は元気な頃、六阿弥陀詣でをしてこの寺の茶店で軽くお酒を頂きました。多く乞食たちがいて一厘ずつ渡したようです。

『某寺の前に満身ことごとく赤い紙をべたべた張られてある石の仁王が立つている所を過ぎて間もなく大龍寺へ着いた』(子規子追悼号)とあるのは、東覚寺。仁王様に治してもらいたい部分に貼って病気から逃れる祈願だそうです。昔も今も病気平癒は切ない願いです。この二体の仁王像は江戸名所図会で見るとお寺の隣にある八幡社の社頭にあります。明治の廃仏毀釈の為にか東覚寺へ引越しをさせられたらしいです。いよいよ子規が土葬された田端大龍寺、意外に鉄筋のお寺さんでした。

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