大永元年(1521)、晴信(後の信玄)は甲斐源氏嫡流・武田家18世信虎の長男として誕生した。信虎は甲斐統一を成し遂げた勇猛な武将であったが、たび重なる戦いで疲弊した民と家臣の進言にもまったく耳を傾けず、領土拡大ばかり狙っていた。それから5年後、酒を飲んでは常軌を逸した行動を取ることが多くなった信虎に対して、当初は従っていた家臣たちも次第に心が離れるようになってしまう。板垣信方ら重臣たちも危機感を募らせる毎日を送っていた。ある夜、酔った信虎に縛りつけられた側室を助けようとした晴信が、信虎に切りつけられるという事件が起きた。あまりの異常ぶりに晴信は父の追放を決心、もり役の信方にその意を告げ、同盟を結んでいた今川義元に父・信虎を預かってほしいとの書状を出すに至る。しかし、同じ頃信虎も晴信を駿河に追放しようと、今川に使者を送っていた…。
【信玄の名言】
- 「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」
- この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。但し、後背には詰めの城である積翠寺城があり典型的な戦国武将の居館ともいえる。また、この言葉は後世の創作であるとも言われるが、能く信玄の理念を顕しているとも言われる。
- 「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」
- 勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めであるが、そもそも甲陽軍鑑の脚色とする説もある。
- 「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」(現在では上杉鷹山(ようざん)の言葉としての「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」のほうが一般的だが元々は信玄の言葉である)
【 風林火山】
・風林火山は、孫子に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」(さらに「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と続く)という語句を略したものである。信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦った。また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わり、武田神社に現物が収蔵されている。