Movieな空間

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天下人の夢

2008年03月07日 23時07分46秒 | Weblog
 ファミリー劇場で、NHK大河ドラマ「武田信玄」を放映している。かなり前の大河ドラマであるが、この作品は、非常に好きで、全放映を見ていた。「風林火山」の旗の元、赤い甲冑を身にまとう武田軍は、天下無敵の軍団であった。上洛を目前に天下取りの夢を果たせなかった戦国武将・武田信玄の生涯を描いた新田次郎原作の同名小説をドラマ化したもの。主人公・武田信玄役には、TVドラマ「ふぞろいの林檎たち」で主役を演じ、大スターへの可能性を予感させていた中井貴一を抜擢。大河ドラマでは父・佐田啓二(花の生涯)に続く親子2代の出演となった。平幹二朗、菅原文太、杉良太郎、宍戸錠、柴田恭兵ら重厚な布陣が脇をかためる。最高視聴率49.2%という数字を叩き出した大ヒット作(1988年・全50話)。平幹二朗、菅原文太、杉良太郎、宍戸錠らが名を連ねるベテラン役者勢のほか、「俺たちは天使だ!」「大追跡」の柴田恭平、「スケバン刑事Ⅱ 少女鉄仮面伝説」の南野陽子など、ファミリー劇場でお馴染みのフレッシュな顔ぶれが共演、大河ドラマ史上類を見ない豪華キャストとなった。結果、本作は大いにお茶の間に受け入れられ、最高視聴率49.2%という数字を叩き出す大ヒットにまで至った。主人公・信玄の母親である北の方を演ずる若尾文子の「今宵はここまでといたしとうござりまする」というエンディングナレーションが、流行語大賞に選ばれたことでも有名。
 大永元年(1521)、晴信(後の信玄)は甲斐源氏嫡流・武田家18世信虎の長男として誕生した。信虎は甲斐統一を成し遂げた勇猛な武将であったが、たび重なる戦いで疲弊した民と家臣の進言にもまったく耳を傾けず、領土拡大ばかり狙っていた。それから5年後、酒を飲んでは常軌を逸した行動を取ることが多くなった信虎に対して、当初は従っていた家臣たちも次第に心が離れるようになってしまう。板垣信方ら重臣たちも危機感を募らせる毎日を送っていた。ある夜、酔った信虎に縛りつけられた側室を助けようとした晴信が、信虎に切りつけられるという事件が起きた。あまりの異常ぶりに晴信は父の追放を決心、もり役の信方にその意を告げ、同盟を結んでいた今川義元に父・信虎を預かってほしいとの書状を出すに至る。しかし、同じ頃信虎も晴信を駿河に追放しようと、今川に使者を送っていた…。
 【信玄の名言】
  • 人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」
この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。但し、後背には詰めの城である積翠寺城があり典型的な戦国武将の居館ともいえる。また、この言葉は後世の創作であるとも言われるが、能く信玄の理念を顕しているとも言われる。
  • およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり
勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めであるが、そもそも甲陽軍鑑の脚色とする説もある。
  • 為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」(現在では上杉鷹山(ようざん)の言葉としての「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」のほうが一般的だが元々は信玄の言葉である)

【 風林火山】

・風林火山は、孫子に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」(さらに「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と続く)という語句を略したものである。信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦った。また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わり、武田神社に現物が収蔵されている。



奇襲戦法

2008年03月07日 00時10分50秒 | Weblog

 「奇襲戦法」という言葉は、常識を打ち破った、相手の裏をかいた戦法であり、もっと言えば、「卑怯な」戦法と言えるのかもしれない。このブログでも、太平洋戦争の契機となった「真珠湾攻撃」の意味を検証した。あの戦法は、本当に奇襲と言えるものだったのだろうかは、大きな疑問が残る。奇襲とは、全く相手の予期しない方向からの戦法を意味しているのだが、「真珠湾攻撃」は、相手に完全に読まれていた上、自国民の戦意高揚に利用されたものであると言える。このような戦法は、奇襲といえるものではなかろう。
 歴史において、劣勢だった者による奇襲攻撃で、大きな歴史的変革を起こしたものが多い。その中の最たるものが、織田信長による「桶狭間の戦い」であろう。この戦いは、尾張を治める織田信長の軍勢に、その何倍もの戦力を持つ今川義元が戦いを挑んだ戦(いくさ)の中の一場面である。上洛を目指していた今川軍は、その行く手を阻む織田軍を一蹴し、京都で将軍の地位を得ようと動いたものである。しかし、この今川義元の上洛説には、疑問が多い。弱体化した足利将軍の次は、吉良、そして、その後は、今川がその地位を得れるものが、通説順等であったのに、何故、ここで上洛を目指さねばならなかったのか?しかも、後ろからの急襲を防ぐため、北条家との姻戚関係まで構築しての行動なのだ。これは、むしろ、40年戦争として続いていた織田家との抗争に終止符を打つ目的であったと言うほうが、理にかなっているようだ。2万5000の今川軍に僅か3000の織田軍では、到底勝機はない。そんな中、何故、織田信長は、強大な今川義元を、桶狭間の戦いで倒せたのだろうか?これには、情報戦の功が大きいと言われている。この戦いで勝利した織田信長は、今川義元の首を持ち帰った毛利新助よりも、今川軍が田楽狭間で酒宴をはっていたという生きた情報をもたらせた梁田出羽守(やなだでわのかみ)に最高の褒章を与えたと言われる。勝利を決めた情報であるからして、当然の事であろうと思う。しかし、当時は、敵の大将の首を持ち帰った人物に、最高褒章が与えられていた事からすると、信長らしい行為であったのだろう。しかし、沼地の低地で本陣を張っていた今川に僅かな手勢で勝利できた本当の理由は、信長の作った5砦に今川軍が分散したことで、本陣が手薄になっていた上、貴重な情報がもたらせられたことであろう。この情報も、織田信長が、スパイとして今川軍に忍ばせていた者たちからの生きた情報が逐一入っていたことが、最大の勝因であったのだ。
 この戦いは、信長の家臣・太田牛一が著した「信長公記」や、後に編纂された「武家事記」によって記されている。この戦は、1898(明治31)年7月、日本国陸軍参謀本部が刊行した「桶狭間役」という日本古戦史に記載されている。