1本のわらしべ

骨肉腫と闘う子供とその家族とともに

最期のこと

2008-02-10 21:21:01 | Weblog
その後、また容態は落ち着きを取り戻しました。
定期的に痰を取りに看護婦さんが来てくれます。
看護婦さんがいてくれる間にトイレを済ませておこうと病室を離れました。用をすませて戻ろうとすると、また友人が呼びに来ました。

看護婦さんと当直の先生が駆けつけていました。
娘が大きくゆっくりと息をした後、詰め所に連動している心電図がおかしいと看護婦さんが駆け込まれ、家族は外に出されたそうです。看護婦さんが「あかねちゃん、あかねちゃん。」と呼びかけたその時、息子ははっきりと聞きました。娘の「はい!」という元気な返事を。

そういった現象は、死に向う過程で起こる生体反応だそうですが、私は娘の最期のサインを2回も見逃してしまいました。
この1年、それを後悔し続けました。

先日、友人がその事に触れました。
「あの子は、あんたにはさよならが言いたくなかったんだよ。」

2007年2月10日21時21分。
娘は14年の生涯を終えました。

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その日のこと

2008-02-10 12:14:38 | Weblog
2月10日。
朝5時30分、電話がなりました。
昨夜から病院で付き添っていた主人からです。
「夜中に危なかったんだけど今は落ち着いている。今のうちにみんなで病院に来たほうがいいだろう。」
二人の子供を連れて、病院へ向かいました。

先週、個室に移ってからはずっと私が付き添っていました。
いままでは休日の前は主人が交代してくれていたのですが、今回は娘が
「お父さんのイビキがうるさくて眠れない。お母さんと代わって。」
というので、私が付き添っていました。
昨日深い眠りについたので、「今後に備えて1晩家で休んだほうがいいだろう。」と主人が代わってくれました。
夜中に呼吸が荒くなり、当直の先生を呼んだらしいのですが暫らくすると落ち着いたので朝まで様子を見ていたらしいのです。

私たちが病院に着いた時は呼吸も落ち着いていました。
しかし徐々に荒くなり、「夕方までは、もたないだろう。」という予感がありました。
目は半開きで、角膜が急速に乾燥し白濁して行きます。ペラペラと剥がれそうになっています。
「こんな目になっちゃったら、持ち直して元気になった時に目が見えなくなってしまう。大変だ。」と思い、ガーゼに水を含ませて目の上に被せます。
乾いたら新しいガーゼと取り替えるのですが、あっと言う間に乾いてしまいます。

その日、三重県にいたときの友達に電話しました。
娘はその子に心配をかけたくなかったんでしょうね。年賀状でも病気のことは触れていませんでした。もう少し髪が伸びたら車椅子で会いに行こうと思っていた様です。
本当は意識のある間に知らせたかったのですが、そんなことをしたら勘の鋭い子です、きっと気がついてしまうでしょう。

その子は風邪で熱のある体をおして会いに来てくれました。
やはり意識のある間に内緒で呼んでおけばよかった。

その後、容態は持ち直し「先生は今日が峠だと言われたけれど、ひょっとしたら持ち直すのでは?」という安堵の気持ちが湧いてきました。
その病院には、危篤の患者に付き添う家族のために泊まれる部屋がありました。少し離れたところにあるので、部屋の確認のために主人と病室を離れました。本来なら1分でも娘から離れたくなかったのですが子供のいない所で話さなければならない事があったので出かけてしまったのです。

宿泊の部屋についた頃、友人が悲痛な表情で追いかけてきました。
携帯に連絡しても電波が届かなかったようです。

「娘が目を覚ました。」というのです。
突然、体が動いて目をカッと見開いた。その目は、それまでの死んだ魚の目のようでなくはっきりと見えている目だった。その顔は恐怖に怯えているようだった。
あの顔は絶対に忘れる事ができない。

上の娘はそう言いました。




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