AKB48をめぐる妄想

AKB48にハマった私「カギ」が、好き勝手なことを述べるブログです。

夢と努力の近くて深い隔絶・その1

2012-04-24 02:13:25 | Weblog
 夢とか努力とかについての個人的な見解を書いておこうと思う。長くなるので数回シリーズの予定。まあ既に夢破れて枯れ果てたジジイのタワゴトなので、適当に読み流していただければと。

 夢を持ち、それに向かって努力をするのは尊いことだ、と思う。だけど努力すれば必ず夢がかなうなんてことはまったくあり得ない。努力するのはあくまでも「夢がかなう確率を高めるため」でしかない。努力すらしなければ、そもそも夢がかなう可能性は非常に低くなるわけだから、夢をかなえるために努力する、という方向性は正しい。

 だけど確率というやつは残酷だ。ある人はごくわずかな努力だけで、あっさりと夢がかなってしまうことがある。別の人は努力しても努力しても、なかなか夢がかなわないことがある。それを分ける究極の要素は、つまるところ運だ。例えて言うなら、宝くじをたった一度、1枚買っただけで1等が当たることもあれば、長年何枚も買い続けても6等とか7等しか当たらないこともある、というようなものだ。

 つまり、どれだけ努力したとしても、それは「夢がかなう確率を高める」だけであって、努力すれば必ず夢がかなうというわけではないのだ。「努力すれば夢がかなう」なんて「本気で」言っていられるのは、成功して夢がかなった人だけだ。その人たち自身にとって「努力したから夢がかなった」「努力したから今の成功がある」という思いは真実かも知れないが、そういう個人的な経験を一般論に敷衍して「誰でも努力すれば夢がかなう」と言うのは無理がある。

 じゃあ努力するのは無駄なことなんだろうか?もちろそう思う人もいるだろう。かなうかどうか分からない夢なんてもののために努力するのは愚かだと。私個人はそういう考え方に賛同しないけれども、その人がその人自身の生き方としてそう考え、そういう選択をするならば、それはそれで私などがどうこう言うことでもないのだろう。ただそういう人は往々にして、夢を追おうとする他人の生き方をとやかく言っては足を引っ張りたがるので、それは止せ、と思うけれども。

 では、夢を持っている人にとって、努力することはどういう意味があるだろうか。どれだけ努力したところで、必ず夢がかなうなんてことはない。それでも一応、最近のBIG(サッカーくじ)のTV CMの台詞じゃないけれど「当たりたいなら買うしかない」のも分かっている。じゃあ、ほどほどに努力をして、あとは運が降って来るのを待てば良いのではないか。それはそれで賢い選択のように思えなくもない。それもまた、その人がその人自身の処世術としている分には、他人が口を出す筋合いではないのだろう。

 だが、そういう中途半端な気持ちで夢に向かい合っていると、夢がかなわなかった時の後悔が、非常に大きなものになるのだ。歳月が過ぎ、年齢を重ねた時に人が惜しむのは、報われないまま重ねた努力に対してではない。自分の可能性に対して真摯に向かい合わず、全力を尽くそうとしなかった自分の怠惰に対してなのである。手を伸ばせば、もしかしたら掴めたかも知れないチャンス。それを掴もうともしなかった、目の前に開けていた可能性に挑みすらしなかった、という思いは、後に大きな悔いを残すのだ。

 だから、夢があって、それをかなえたいと思うならば、やっぱり全力で努力するのが一番良いのだと思う。その時その時の自分にできる精一杯を注ぎ込んで来た結果であれば、仮にそれが報われなかったとしても、その結果を堂々と受け入れることができる。もちろん、それでも夢がかなわなかった、という現実を受け入れる時は、心が引き裂かれるようにつらい。だが、自分はここまでやり遂げたのだという思いは自信となって、その後の長い人生を支える土台になって行くはずだ。

 この話、続く。