goo blog サービス終了のお知らせ 

ちくわブログ

ちくわの夜明け

「生き抜く狼」という集会に参加します。

2011-09-12 00:29:47 | 映画制作
今週末行われます「生き抜く狼―病舎からの再審報告」というイベントに出させていただくことになりました。

わたしが出るのは「新しい世代の語る『反日』」。
この「新しい世代」の一人として出ます。

ここでいう反日とはいわゆる反日思想ではなく、東アジア反日武装戦線のことです。
東アジア反日武装戦線というのは・・・1970年代、爆弾テロによる企業連続爆破事件を起こし、「狼」を筆頭に、「大地の牙」「さそり」と複数のグループで形成されている組織です。

中でも「狼」が起こした三菱重工爆破事件は死者8名、負傷者300名以上という大惨事を引き起こしました。


今、かつての武装闘争をどう見るか、死刑をどう考える?さらに震災後の社会をどう生きるか・・・こんな内容でわたしより若い女性、「さそり」の宇賀神寿一さん、救援の方、この四人でお話しします。



以下、チラシより転載。

----------------------------------------------------------------

「生き抜く狼―病舎からの再審報告」

 一九七四年の三菱重工爆破闘争などで八七年に死刑が確定した、東アジア反日武装戦線狼部隊の大道寺将司さん、益永(旧姓・片岡)利明さんは、現在、殺意の不存在をめぐって第三次再審を請求しているところです。

 この第三次では、ビル空間における爆発力の拡大をテーマにしており、狼が意図しなかったところで爆発力が増大し大惨事を引き起こしたものであることを、科学的実験に基づき詳細に分析しています。現在、最高裁に特別抗告中です。

 ところが、大道寺さんは多発性骨髄腫に罹患し、益永さんは脳梗塞に倒れています。長期にわたる拘禁が、その原因であることは言うまでもないでしょう。

 そこで私たちは、獄中の二人の近況報告と獄中医療の問題、再審請求の今後の見通しなどについて報告する集会を予定しています。ぜひ、多くの方の ご参集をお願い申しあげます。

【生き抜く狼――病舎からの再審報告】

日時 :9月17日(土)14時~
場所 :日本キリスト教会館4階(東京・早稲田)
主催 :東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議(支援連)
会場費 :500円
内容 :川村理弁護士「第三次再審と今後」、大谷恭子弁護士「獄中医療の現状」、新しい世代の語る「反日」(特典映像上映あり)

問合せ先/電話番号03・3812・4645(風塵社)

----------------------------------------------------------------


以上。
写真の絵は「荒井まり子原画展」より『侵略の旗-日の丸を喰いちぎる狼たち』
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい風景論

2011-08-20 17:41:24 | 映画制作
足立正生監督を知らない方のために申し上げておきますと、その昔若松孝二監督のもとでピンク映画を撮り続け、その前衛的な内容から芸術系の映画監督として一躍、脚光を浴びた監督なんであります。

連続ピストル射殺事件の永山則夫をモチーフとした作品『略称・連続射殺魔』で風景論を展開。その内容はただひたすらに永山則夫が見たであろう風景をうつし、そこに監督のナレーションが加わる、という非常に観念的なものです。(わたしはこの映画、観る度に途中で寝るのですが、それでも大好きな作品です)

その後『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』を若松監督と共に撮り、自らも日本赤軍に参加。

そういう、映画監督でありながら革命運動を志す方です。


今、足立監督は『反原発ニューズリール』というのを立ち上げようとしており、わたしはそれに加わる反面、それを起こす監督の様子も追いかけています。

移動の折、隣に座る足立監督にずばり聞きました。

「風景論っていうのは、そもそもなんですか?」
「風景というものはその時代の権力を象徴する構造を持っている(略)」

という、少し難しい内容。
しかしこの一言で『略称・連続射殺魔』を思い起こしてみると、ああ、あの観念の世界にもドラマがあるな、と思い起こされます。

そして

「君が追いかけている、昔とった杵柄の足立正生ではなく、新しい風景論を作っていきたい」

と。


わたしにとってみれば、この活動に加わることの意味は反原発や脱原発って小市民でも体現できるのか? ってことです。
知識も興味も人並みしかないけれど、原発はどうにかしなければならない、その程度の人間。
これがどこまで許容され、どこまで何かできるのか、というのが自分の中のテーマです。


あくまで無理をせず、自分が追っているのは足立正生だ、という認識を持ちながら。
明日から九州へ行ってきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連合赤軍を巡る 【6】 妙義山へ再び

2011-07-02 05:28:36 | 映画制作
妙義山と連合赤軍の関係についてや、一度目の訪問記は 連合赤軍を巡る 【3】 迦葉ベース・妙義ベース を参照。


メル斗さんと共に、前回果たせなかった「妙義山ベース」発見のため、二人で再び妙義山へ。

国民宿舎前に車を停め、カメラ二台抱えて出発。
前回は時間の都合などで行けなかったが、今回はもっと深くまで入ろう、と。ある本についていたおおまかな地図と、web上の資料を手に、だいたいの位置をつかむ。

しかし見つからず、どんどん登ってしまう。軽い日帰り登山になってしまった。かなり急勾配な場所も登った。わたしは1回こけた。





しばらく進み「あきらかに行き過ぎでは」ということになり引き返す。帰りながらも再びじっくり見ていく。






しばらく戻ると「何かあやしい」と横道(道じゃないけど)に入っていったメル斗さんが「あった!!」。
行くとそこには間違いなく当時のままの「妙義山の洞窟ベース」があった。

これに間違いない、資料とも合致している、と二人で喜ぶ。見つけたのはわたしではないけど・・・
中は真っ暗で、入るのは怖い。勇気がいる。ヒンヤリとしていて、天井からポタポタと水がしたたった。

広さは十畳ほど?高さは中腰で、たまに背中がすれるほど。先住の何かがいるのでは、と怖かったが、小さな羽虫以外は何もおらず。

ただ、あまりに真っ暗すぎてカメラに映らない。ここに来て二人して「なんで懐中電灯を持ってこなかったのか・・・」と悔やむ。
仕方なく、自分のiPhoneとメル斗さんの携帯の電灯機能を使い、ビデオカメラはゲインとシャッタースピードでギリギリまで明るくしてなんとか撮影する。悔しい。

中から見上げた様子。

ずっといるとジメジメヒヤヒヤしてくる。これは本当に一時しのぎのアジトにしかならないな、と思った。
中、外観と一通り撮影。
最後にここで亡くなった山田孝さんへ、手を合わせる。

12時過ぎに入山したのに、出たのは16時前だった。やはり場所が確定していないとなかなかきつい。


次いで、山田孝さんの埋葬場所(亡くなった山田さんを、メンバーが埋めた場所)を探しに。
某書をたよりに山の中の道路をうろうろするが、見つからず。撤去されていなければそこに「群馬赤軍No.7」との標識棒が立っている。
途中、迷い込んだ山中の家で、おじいさんに聞く。すると「ああ、山田孝ちゃんな」と言っていた。“ちゃん”と呼ぶ、そのおじいちゃんにとっては、それだけ若い命が亡くなったという認識なのだろう。
結局、すぐ近くまで来ていると思われるので、そこで花と線香、タバコを供え手を合わせる。


この日、山田さんの最後の言葉「総括しろだって! ちくしょう!」という無念の声が、ずっと頭にこびりついていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『棺を覆いて─永田洋子を送る会』 発言記録(後)

2011-06-10 01:43:59 | 映画制作
前回の続き。



■救援連絡センター 事務局長 山中幸男

森恒夫さんが自決したとき火葬する前に止めろ、ということで待て待てと、棺の前で体を張って止めた。それから医者に遺体を確認させた。
その後通夜をやりたいってことで場所を探したが、今回(永田さん)の場合は救援をやっている方の関係で段取りよくやれて良かった。

若松監督の映画は(『実録・連合赤軍』)どちらかというと赤軍の観点から描かれたものなので、革命左派からのことはあまり知られていない。
これから明らかにされていったらいいなと思う。




■漫画家 山本直樹

しばらく前から永田さんや坂口さんや植垣さん、大泉さんの本を読んでいて、これはすごい物語だ、漫画にして読みたいと思っていた。
でも僕の専門はエロなので誰か描かないかな、と思っていたが誰も描かないようだし、他の人にやられるのもしゃくなので、描き始めた。(イブニングにて連載中の『レッド』)

描き始めて5年ほど経つが、まだ陰惨なところには行っていない。これからまだ5年はかかると思うが、あさま山荘まで描きたいと思っている。

僕は永田さんとは当然面識は無く、読者でしかない。読者としての感想を言えば「かわいらしい方」。でも時々、自己承認願望が強すぎてうるさい、という印象。
そのような普通の人が後半あのような状態になっていく、それは人間通しての不思議さに通じると思うが、それを描ければと思っている。

永田さんにはもう少し元気でいてもらって、描いたものを読んでもらい、お小言のひとつでももらいたかった。




■モッツ出版代表取締役 高須基仁

今朝、歯が抜けてしまった。年とったな、と。悔しい思い。宮崎学も、重信さんもみんな体調を悪くして。
でも、ボウフラがいっちょまえの蚊になって、世の中に一刺しだけして死んでいく。そんなタイミングが来たのかな、と。

運動はわれわれの青春だったし、男と女、愛もあったし、志だけではないもっとドロドロしたものがいっぱいあった。
どんな革命を考えたって、ひとりひとり、愛を語ったり、セックスがあったり。
このひとりひとりの死がひとりひとり、みんなの記憶に残っていけば良いと思う。




■弁護士 大谷恭子

ご存知のように、第一審の判決が「女性特有の嫉妬」というかたちで表現された。それは許されないことであり、死者をも冒涜するもの、と私自身は率直に思った。

しかし一方で「なんであんなことになってしまったの?」という強い思いがあった。あの時代、共に何かをやろうとした者として許しがたい気持ちもあり、ある意味検事以上に彼女に糾弾的であったのではないかと思っている。

接見室で彼女に質問すると、どうしても弁解がましく言葉を連ねてしまうことに対して、ずいぶんと彼女を厳しく問い詰めてしまうこともあった。
しかし接見が長くなってしまい、彼女が事実関係を語ろうとすると「嘔吐」してしまっていた。
私はその頃彼女が病気ということを知らず、もどすほどに苦しい思いをしている被告人に、これ以上事実を聞くのは弁護人としていけないのではないかと感じた。しかしあの時代を担ったものとして事実関係を聞き出さなければならないと思った。
そうするとどうしても接見が長くなってしまう。接見室のアクリル板越しに彼女の顔を見ると、そのアクリル板に私自身の顔が映る。それはとても恐ろしく感じることだった。

私と彼女の顔が二重映しとなる中で、それでも私は事実を聞かせろと彼女に迫る。その二重映しの顔がある種同じだったから、私自身を責めてるのかな、と思って、初期の段階は非常に複雑な思いを抱えていた。

弁護人としてここまで糾弾的な立場もないが、みんなあの時代を経験したからこそ、それをしょいながら弁護活動をした。

その後彼女が病気だということが分かり、私自身非常にショックを受け、同時に私たちは彼女の病気をも許していなかったんだ、と思った。彼女が吐き気を訴えるのは、あの事件の重さがそうさせているからだ、と思い、彼女の病というふうには思い至らなかった。
辛いから横になりたい、という法廷態度も許せず、病気であることを見抜けなかったのは、自分たち弁護士としての一生の落ち度である、と他の担当弁護士も言っていた。
そういう点では彼女に非常に恥じた(申し訳ない)思いを持った。

私自身のことから言えば、どうしても許しがたいという思いと、でも彼女だけの責任ではなかったという思いと、法廷の中で明らかにされなければならない真実。この中で何ができたかと思いながら、彼女と共に10年間過ごせたことは弁護士冥利に尽きることだと思う。




■文筆家 大泉康雄

(吉野雅邦さんからのメッセージ代読)
「まず最初に自らの手で死なしめてしまった亡き14名の同志に心からのお詫びと共に哀悼の意を表させていただきます。
事件についてふれさせていただきます。私の認識では悲劇の発端は、下部の統制ができなくなった永田洋子が他組織の森恒夫の指導に頼っていったことのように思います。

(中略)・・・暴力的総括要求、死刑は共産主義化、人材育成ではなく、内部統制のための暴力に他ならなかったと考えざるを得ません。(中略)山岳ベースで森恒夫から『共産主義化』という用語を聞かされた覚えもありません。

(中略)山岳ベースでの暴力を指導したのは森といわれていますが永田洋子は森に等しい役割を果たしたと思っています。そして印旛沼での処刑を決行した革命左派側にむしろ強い要因があるのではないでしょうか。

(中略)寺岡氏や雪野氏のように永田の方針に異を唱えることも無く、また前澤氏や加藤能敬氏のように離脱者に一定理解を示すことも無く、永田を支持し、支えてきたのが当時の私の姿です。

(中略)しかしあの時点では誰が指導者になっても組織の分裂と崩壊の状況下では、同じような経過をたどっていた可能性が強かったでしょう。だから永田洋子個人を責めても仕方の無いことだと思われます。

(中略)永田・森が東京出張中に森が永田との結婚を踏み切った理由は、森恒夫が奥さんと子供を守りたかったという推測も成り立ちます。

(中略)14名の死に携わったものとしてはいかに償おうとしても、生涯をかけて償いきれるものではありません。ですが来世に顔を合わせた時に彼らにも顔向けできるような残生を送るべく心しています」




■編集者 椎野礼仁

(瀬戸内寂聴さんからのメッセージ代読)
「(略)いつでも正月過ぎから2月半ばまで年年にその季節が来ると、私は洋子さんを強く思い出していました。その季節になると必ず洋子さんは獄中で体調を崩しました。
私はそれを洋子さんの意識の外で体があの地獄の月日のことを思い出していて全身が痛むのだと解釈していました。洋子さんはそれを認めませんでしたが、そうとしか考えられない現象でした。

洋子さんと文通が始まって、私は洋子さんの信じられないほど無邪気な面にびっくりしました。(中略)私はどうしても洋子さんを世間の人のように悪魔とか鬼とか呼べませんでした。

(中略)最後の数年はもう人の分別もつかず、何も分からなかったと弁護士さんから聞いて、まだ浄土に渡ることは許されないのかと、胸を締め付けられていました。もう意識も無く、自分では歩けない人をどうやって死刑台に乗せられましょう。

(中略)もう十分十分この世で地獄を味わい苦しみました。洋子さんは許されて、今はかつての同志に迎えられていることを信じます。(以下略)」




■元・赤軍派 金 廣志

西馬込(「送る会」が行われた場所)というのは私自身40年ぶりにきた。他の方のおっしゃられるとおり「明るい、ゆかいな赤軍派」もしくは革命左派という時代もあって、70年の暮れに、ここに一軒家のアジトがあった。
M作戦に最初に出撃したのはここからだった。その当時、メンバーの半数が集まって「大貧民」をやった。そうしたら(ゲームの中で)革命が起こり、「我々の未来は明るい!」と言って出撃していった。

しかしちょうど40年前の今頃には植垣君の部隊を残して全ての部隊が壊滅してしまった。そういう懐かしい場である。

永田さんが亡くなり、通夜の晩と焼き場と、両方同席した。亡骸と対面したが、正直言って安らかな様子には思えなかった。顔も痛んでおり、オムツもはめられ、がに股状態で、棺に納めるのが非常に難しかった。最後は力いっぱい入れなければならなかった。

焼いた後見ると、頭蓋骨にシャント手術の穴があり、周りが茶色く変色していた。これが手術の跡か、と強く感じた。骨の量も少なく、相当病気で痛められていたのだなと思った。
私は横から骨をかすめて、口の中に含んでしまったが、非常に柔らかかった。

ご両親に死は知らされず、親族は見えていなかった。伴侶の方は「知らせていない」と言っていた。

永田さんに関して。意識のあるうちは最後まで社会問題に関心を持っていた。それを社会にアピールしたいと言う思いは強く持っていたよう。
私自身は直接の面識は無かった。法廷で顔を見たくらい。
一度差し入れをしたところ、その後何回かお手紙が来た。ただ私の方は明治大学のメンバー、遠山・行方・山崎・進藤と強い繋がりがあったため、それを思い起こすとどうしても返事を書くことができなかった。やはり自分は永田洋子さんに対して複雑な思いを抱いていたことは確か。

その後永田さんの文章を読み、非常に正直な人だなと感じた。世間では永田洋子を戦後最大の悪人と言う人もいるが、私自身は永田洋子は本当の善人だったんだな、という気がする。であればこそ、総括などが全て善意の中で行われていた。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」というマルクスの言葉に謙虚に耳を傾けて、永田洋子さんのことをもう一度考えてみたいと思う。

今日は永田洋子さんを送る会ということだけど、共に亡くなった16名の同志の名前を読み上げておきたいと思います。

16名の魂が安らかでありますように。





以上。



----------------------------------------------------------------------------

十六の墓標 下―炎と死の青春
クリエーター情報なし
彩流社

レッド(2) (イブニングKCDX)
クリエーター情報なし
講談社
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『棺を覆いて─永田洋子を送る会』 発言記録(前)

2011-06-06 01:26:44 | 映画制作
今年の2月5日、元連合赤軍指導者・永田洋子さんが亡くなりました。
永田さんに対する個人的な思いはこちらのエントリ「永田洋子さんについて」で書いたとおりです。


それから一月あまり後、あの震災から間もない3月13日、「連合赤軍の全体像を残す会」主催による、永田さんを送る会が開かれました。

わたしは取材・撮影のため会に参加させていただき、その後ほぼ全ての発言を一本の映像としました。
そこには元同志、知人、弁護士、救援関係者・・・さまざまな方が語る「人間としての」永田洋子像がありました。
発言内容を書き出しているうち、これはすごいドラマであると同時に、貴重な資料であると痛感しました。そこで「全体像を残す会」のご厚意により、以下にその文を掲載させていただくことになりました。
長くなったため、前半と後半に分けて掲載します。

以下、発言内容の主要な部分をわたしの主観で抜き出し、一部意訳したものです。




■「連合赤軍事件の全体像を残す会」
元・革命左派 雪野建作

案内を色々な人に出した。当事者たちにとっては、永田さんに対する感情は複雑。
兄弟を亡くされた方などはまだ返事が無い。これは非常によく分かることで、私自身も永田を何と呼ぶか、同志と呼ぶには経緯からして相当抵抗があった。しかし実際亡くなった、という報せを聞いてごく自然に「永田さん」と言っていた。

(当時のこと)最初に会った頃、彼女は薬剤師をしていた。ごく普通の女性。少し話が粘着質なくらい。その二年後、彼女の立場は変わっていた。指導者が逮捕されていく中で、彼女の立場が押し上げられていた。おそらく獄外のメンバーに、責任を取ろうとする者がいなかった。




■弁護士 秋田一恵

私は皆さんほど永田さんと縁のある人間ではない。感情も複雑なものではない。おそらくこの中で唯一永田さんの側にただ立っているだけの人。私にとっては私のかわいいクライアントの一人。
弁護士の立場から言えば、最後まで生きる努力をしたけれども、国家によって殺されたと思っている。

永田さんは、マスメディアを非常に恐れていた。いろんな風に書かれたので、自分はいつまでもそう書かれると思っていた。

後年の永田さんの生きる努力について。それはそれは凄まじく辛いものだった。目が見えなくなったり、激しい頭痛に襲われたり自分が何をしていたか思い出せなかったり。
あまりに辛いので獄中で「お母さん助けて」とか「秋田さん助けて」と叫んでしまったり。
皆さんはそんなの当たり前だ、それくらい苦しめ、とおっしゃるかも知れないが、私は自殺する方がずっと楽だったろう、と思っている。
「おめおめと生き恥をさらして」と判決で言われたが、生きている方がずっと辛かったと思う。

永田さんは最後まで皆さんに許してもらおうとか、そんなことは思っていなかった。どう言っても糾弾されると思っていた。
人の命は重い。何百、何千という数でなく、ひとつひとつが重いものだ。革命(運動や永田さん達)にはそういう、数の発想があったと思う。大儀に殉ずるという思想は左右問わず、会社や普通の組織にもあると思う。しかしそれは間違いだ。そしてそれは、今もひどくなっている。




■元・赤軍派 植垣康博

連赤問題をどうするかより、病気をどうするか、が最高裁まで続いてしまったような状況。
そんな中で拘留の停止がなされなかったのが最大の問題。それを考えたとき、我々自身が永田さんに対してどうだったか、今一度考えてほしい。
12人(14人)を殺害してしまった、という結果を見て永田さんの責任を云々するよりも、彼女なりに連赤問題に取り組んできたことを評価すべき。
一方で森恒夫さん、塩見孝也さん、川島豪さんはどうだったか。

重要なのは連赤がどういう問題にぶつかって、どう対処していったか、という点。

永田さん個人にどうこうというより、あくまでも連赤問題をどうするか、という観点から当時の指導部を守っていくというのが、僕の(裁判時の)立場だった。

連赤問題というのは、現代の社会を考えていく上で意味を持っているのではないか、と思う。
連赤問題を考えていく上でも永田さんは頑張って生きていくしかなかった。
そういう意味でも皆さんに望むことは「ご苦労様でした」「よく頑張りました」という声をかけてあげてほしい。




■元・革命左派 前澤虎義

自分も雪野と同じく「永田」と呼ぶか「永田さん」と呼ぶか迷った。
やはり永田さんは結果的にああいう立場まで行かざるをえなかったという意味では犠牲者だと思ってる。

そもそも川島奪還闘争から始まり、武装闘争に流れ込んでいった。なし崩し的になり、方針も立てれていなかったため、森・永田指導部への負担が大きなものになった。
しかし一方でそれが必ずしも同志粛清に繋がるものではない。その点では森・永田の責任は大きい。
早岐・向山殺しの時も反対意見は出てきたのに、それを黙殺したのはやはり責任は指導部にとってもらわねばならない。
翻って、裁判で最後まで永田さんが責任をとったのか、今でも疑問を持っている。




■弁護士 大津卓滋

植垣くんの主任弁護士をやった。かたちとしては坂口くん、永田さんの弁護も担当した。

永田さんと拘置所で初めて面会した時、いきなりワーッと話されびっくりした。
党派の指導部というものにある種のイメージがあったが、スーパーの安売りで他の人をかき分けているおばちゃんみたいな感じだった。
あまりにも一人でしゃべるので、ちょっとした嫌味で「主観的な善意ほどやっかいなものはないと思っています」と言った。それに対する反応が意外だった。
「あなたはいつからそういうことを気付きましたか」と聞かれた。「私は物心ついた頃からそう思っています」と答えたら「私はこの事件が起こって初めて気がついた」と。その時にこの人も被害者なのかもしれない、と少し思った。

色んな時代のエネルギーなどに押し上げられ、指導部になってしまった、という感じ。そんな、ちょっと胸が痛くなる初対面だった。




■元・朝日新聞編集委員 藤森研

当時朝日新聞の記者だった。傍聴記者として彼女の発言を聞いていた。
「近代的自我が確立しないまま運動に入ってしまった」等発言していた。
記事になるものは少なかったが、世代が同じ者として、どうしても完全に他人事とは思えなかった。
そんな過程から大槻さんの本(「優しさをください」)を出版するのを片隅でお手伝いした。

その後朝日ジャーナルに行き、比較的自由なことができたので、この問題を扱うようになった。

面会の時間を取ってしまうわけなので、申し訳なく思い、何度か差し入れをした。
その中で印象深かったのは、公判の日に着ていく服が無い、とのことなので、帰って女房に相談した。そこで結婚した当時に買ってまだ袖を通していなかった白い上下があったので、「これだね」という話になり、差し入れることにした。
すると彼女から非常に丁重な手紙をいただいた。服について「着るのを迷った」と。
というのも、自分は生まれてこの方オシャレ等を考えたことがなかった。
恥ずかしいがそれを着たら、女性看守などがみんな「それ、似合う。若く見える、是非着なさい」と言ってくれた。そして控訴審判決にはそれを着て出た。

ひとつだけ、彼女にいいことができたと思った。




■一水会顧問 鈴木邦男

僕は右翼学生だったので、左翼の連中とは学内で毎日殴りあいをしていた。「こういう連中は日本から出て行け」と思っていた。
40年たち、敵ながらあっぱれという人たちがいっぱいいて、その人たちとこうして交流できるのは幸せなこと。植垣さんを通じてこうして連合赤軍問題も勉強している。

新右翼の教祖といわれた野村秋介さんは永田さんと会っている。このことが生前最後の本に書かれてあるが、そこには「永田さんはもはや敵ではない」と書かれていた。しかし「アマチュアであった」と。闘争が獄中の指導者奪還から始まっているが、それは中(獄中)にいる人間のエゴなんだ、と。同志粛清も含め、彼らはアマチュアだった、と書いてあった。
それは批判ではなく、慰め、評価。いろんな思いを感じた。

昔はずっと連合赤軍はひどい運動だった、と思っていたが、当事者に知り合う中で、あそこまで思いつめて日本で革命やろうとした人達は、かつていなかったんじゃないか、と思った。

連合赤軍以降、そのせいで全てが駄目になったからといって、何もしてこなかった左翼、われわれの責任はあるのではないか。
日本赤軍もそうだが、獄中にこれだけの有能な人間を閉じ込めておくのはもったいない。もっと彼らの体験を聞きだしてこれからの日本に生かしていくべきだ。




【以下、後半に続く】




----------------------------------------------------------------------------

十六の墓標 上―炎と死の青春
クリエーター情報なし
彩流社

田原総一朗の遺言 ~永田洋子と連合赤軍~ [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン

レッド(1) (イブニングKCDX)
クリエーター情報なし
講談社
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渋谷・在日エジプト人デモ

2011-02-07 07:00:23 | 映画制作
なんかスゲーなあ・・・と、ただただ圧倒された。


先週土曜日(2011.02.05)渋谷にて在日エジプト人によるデモが行われました。
実はわたくしこのデモを取材すると言うより、このデモに参加している方に用事があって出かけたのですが、ついでと言っては失礼ですが写真と映像に収めることにしました。

それで分かったのが、彼らの切実度。
熱と言うか、血と言うか。今まで何度か新左翼のデモを取材したけど、そういうものでは感じられなかった真に迫るこう・・・なんつーのか、グッとくる例のものです。
崩して言えばサマになってたと言うか、ああ、観念だけで動いてないな、というリアルさを伴った迫力。

とにかく声、シュプレヒコールがデカい。表情が怒ってる。
その気迫に押されるようにシャッターを切りまくってしまい、帰ってモニタで見たら、改めて自分のPCにだけ置いとくのはしのびない・・・と感じ、ここにエントリとして残すことにしました。

恥ずかしながら今回のこと、自分はよく分かってないんですが、この日本で起こったひとつの事実として、ただ写真の羅列で記録しておこうと思います。

































以上。
参加者は在日エジプト人が約100人、日本人が約20人。

情けないのは、こういう時なんで新左翼って協力しないのかな、ということです。
世界と連帯するんじゃないの?
同日の別の場所では某新左翼党派によるデモも行われたらしいですが。

にしたって20人は少なすぎる・・・
革命って何かって考えると・・・明日飯が食えなくなるかもしれない。でも行動を起こさずにはいられない。っていう切迫した事実と行動のみだと思うんです。少なくともわれわれ一般人には。
事実エジプトの方々は地方からも集まっていたようです。
でも対権力を標榜する何某かの団体が、世界で起こっているこの事実に対してこの程度の反応しか出来ないっていうのは、つまり日本で革命なんて起きっこない、と言うことではないでしょうか。
良かった。俺は明日も安心して飯が食える。

ちなみにその約20人の中に元赤軍派議長・塩見孝也さんがいらっしゃいました。
お話を聞くと・・・
mixiで「世界同時革命の突破口に」と書いてましたが。
「そうなるだろう、必然的に」
日本で革命は起きますかね。
「数年後には起こる。その頃にはもう死んでるだろう俺は。君らがシッカリ考えてやってくれ」

実際は笑いもまじえたざっくばらんなお話でしたが、こんな内容でした。
参加してるだけえらいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永田洋子さんについて

2011-02-06 16:59:19 | 映画制作
昨日(5日)夜、元連合赤軍幹部・永田洋子さんが死亡した。死因は脳萎縮、誤嚥性肺炎とのこと。
最近の永田さんについては以下のサイトが詳しく、いつ亡くなってもおかしくないような状態のようでした。


【永田洋子さんを取り巻く状況と彼女の近況】
http://d.hatena.ne.jp/hirokonagata/


ここ数年は意識混濁、昏睡状態と危篤を繰り返し、目も見えず、面会人の特定も困難だったようです。



永田さんは一連の連合赤軍事件における同志粛清事件において、事件後自殺した森氏とともに総括=死の粛清体制を敷いた。

永田さんの本は『十六の墓標』上、下しか読んでいない。読んでいると少しイライラする。なぜ?どうして?と疑問がとめどない。

「これはたいへんなことだと思った」「あってはならないことだと思った」
それを理由に次々総括にかけられた人が死んでいく。
なんでたいへんなんだ?なんであってはならないんだ?

本にはそれに続くように死者に対する謝罪と慙愧の念が吐露される、という繰り返し。


植垣さんが「普通の、頑張り屋の女の子だったよ」という一方で、山岳アジトでの彼女を幹部の坂東さんは「鬼ババア」と形容している。

当時の新聞にはこう書かれてある。
“「『今日はキレイだね』というと、赤くなって照れたり、女らしい面もみせる。言葉づかいは丁寧だし、ヒステリーじみたふるまいも全然ない。大量虐殺をやった女闘士と、どこでどう結びつくのか・・・」と、高崎署幹部も首をひねる。”


27歳で逮捕され65歳で亡くなる。
リンチ事件発覚後は思想闘争とは程遠い殺人鬼として裁判にかけられ、病と闘いながら死刑囚としての人生を過ごす。


考えるのは、死後の世界があったとしたら、ということ。
かつての同志たちは彼女をどう迎えるのだろう。
共に逮捕された翌年自殺した森さんに、永田さんは獄中で「卑怯よ」と言って泣き崩れたという。
森さんにどんな顔で会うんだろう?ビンタでもするかな?

そして、今死刑囚として生きている坂口弘さんは、この知らせをどう聞いただろう?


先日、植垣さんに会いにスナックバロンを訪れた時。
酔って少しいい感じになった植垣さんが言った、バロンを続けている理由。

「バロンというかたちで連合赤軍を語り続けることで、永田と坂口の死刑を阻止することが目的」



今後、連合赤軍はどう語られていくんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オリオンの3ツ星

2011-02-04 04:54:09 | 映画制作
京都大学・西部講堂の屋根には大きな3つの星がペイントされています。


以下、ウィキペディアより引用
----------------------------------------------------------------------------

“この京都の幻野祭に連動して、奇抜なペイントが西部講堂に出現した。炎天下に十数人の男たちが数日間かけて、西部講堂の大屋根をライトブルーに塗り上げたのである。

青い空に純白の雲が浮かび、さらに赤いオリオン座の三ツ星が大屋根に光を放った。そもそもは、美大生によるスーパー・リアリスムのデザインで、三ツ星を模様として選択したものに過ぎなかったが、日本共産党がこのペイントを見て「(テルアビブ空港乱射事件に参加した)日本赤軍の三人の兵士だと指摘」し、物議をかもすことになった(テルアビブ空港乱射事件に参加し、唯一生き残り逮捕された岡本公三が裁判において、「われわれ3人は、死んでオリオンの3つ星になろうと考えていた。(中略)革命戦争はこれからも続くし、いろんな星がふえると思う。しかし、死んだあと、同じ天上で輝くと思えば、これも幸福である」と陳述したことを指していると思われる)。

日本共産党の指摘に対し、西部講堂のメンバーらは逆に開き直って、「己の生きるシルシとして、3ツの赤い星を永遠の刻印として刻むことにした」。幻野祭の当日、テルアビブの銃撃戦で亡くなった日本赤軍の京大生(奥平剛士、安田安之)の追悼集会を西部構内で行い、西部講堂から農学部グラウンドまでをつなぐ、一大ページェント「幻野祭」を実現したのであった。

その後、西部講堂の大屋根は何度か塗り替えられたが、オリオンの三ツ星は、今も健在である。ただし、色は赤色から黄色に変化している。”

----------------------------------------------------------------------------

とあります。

共産党が指摘して云々は事実どうなのか分かりませんが、日本赤軍は京大の京都パルチザンメンバーが多かったようです。
なので、日本赤軍といえば赤軍派を思い浮かべますが、当時は京都パルチザンの血が濃かったのですね。

テルアビブ空港乱射事件こと“リッダ闘争”について触れておくと、日本赤軍が日本赤軍と名乗る前、パレスチナに渡った彼らがPFLPに協力して起こした決死の作戦です。
結果、警備隊との銃撃戦で空港内は血の海となり、26人死亡、73人重軽傷の大惨事となりました。
実行メンバーの奥平剛士氏、安田安之氏は自殺もしくは銃殺、岡本公三氏は自殺に失敗し、イスラエル当局に逮捕されます。



さて。
先日この“オリオンの3ツ星”を見るために京都大学西部構内へ向かいました。
京都駅からバスで京大正門前へ。そこから歩くこと数分。

すぐに目的の“オリオンの三ツ星”が見えました。

アップ。

建物は当時のままで老朽化しており、京都で感じる歴史とはまた違った趣の歴史を感じさせてくれます。
ロックの殿堂として全国的に有名な建物だったようですが、今でも音楽祭など行われているようです。

近くにはサークル棟らしき、ほとんど廃墟のボロボロな建物がありました。


そんなに大きくない建物でも、ここに在り続ける時間を感じさせる佇まいが堂々たる雰囲気で。
昔とまったく変わってしまったであろう周りの風景から、反旗し続ける威容のようなものが漲っていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連合赤軍を巡る 【5】 スナックバロンへ再び

2011-01-23 04:09:34 | 映画制作
この写真!!
分かる人なら分かる、非常に貴重なショットというかww
漫画の中の若き日の本人と、その40年後です。

昨年「文化庁メディア芸術祭賞 優秀賞」を受賞した、山本直樹先生による連合赤軍事件を描いた漫画『レッド』。
その登場人物の一人、主人公格で描かれている「岩木」が、植垣さんにあたります。
このサインは山本先生がバロンを訪れた折、自ら書いて置いていったそうです。



先日急に思い立ち、再び静岡はスナックバロンへ、元連合赤軍兵士・植垣康博さんを訪ねました。

植垣さんについては前回の訪問記「連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん」を参照下さい。


今回の主な目的は実際の撮影に関することを決めるため。
結果、来月中に撮影させていただけることになりました。

いろいろお話しするうち、夜中の5時頃まで飲んでいました。
常にお客さんがいる状態でしたが、常連さんたちともお話しすることができ、普段のバロンの様子を垣間見ることができました。



以下はそんな常連さんの一人、わたしとさほど年の離れていない、バロンの近くでバーを営んでいる女性から聞いたお話。

ある日、普通に飲んでいたお客の一人が突然「あんた人殺したじゃないか、どうなんだ」と植垣さんに絡んできた。
植垣さんはだまって調理場へ行き、包丁を持ってきてそのお客の前に置いた。
冗談じゃないと思った彼女はそっとその包丁を取り、自分のバッグにしまったとか。




多分なんですけど。
そりゃお子さんもいるし、死ぬのは嫌だろうけど、覚悟だけはできてるんじゃないですかね。
常々「連合赤軍に関する著書や発言について、どう感じるかは相手にゆだねる」と言っていますが、まさにこのことかなと。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連合赤軍を巡る 【4】 あさま山荘

2010-12-27 05:13:03 | 映画制作
迦葉山、妙義山を歩いた後、軽井沢に移動。あさま山荘のある別荘地へ。
途中、有名な“治安の礎”を見学。線香をあげ、手を合わせる。これは主に、亡くなった二人の機動隊員に対するもの。


供え物には割と新しいビール、酒等が置かれていた。
定期的に誰かが来ている様な気配だった。

今の時期はオフシーズンのため、別荘地はゴーストタウンのように閑散としていた。
また店舗物件には空き家も多く、バブルの名残を感じさせた。
山道をぐるぐる車でまわること数分。

目の前に浅間山が見える素晴らしい立地に、あの、見た事のある山荘が。
「ああ、これか」と一目で分かった。身震いするほど脳内と同じものが、目の前に現れた。

事件当時から下の部分が増築されているが、形や雰囲気は不思議に思うくらいそのまま残っている。
ただ圧倒的に屹立していて、他の別荘郡とは一線を画していた。
幾度もテレビ等で見た、坂口氏がガラスを割って顔を見せるシーン。機動隊突入時に彼らの主戦場となったベッドルーム“いちょうの間”もそこから見える。

あさま山荘に立て篭もったのは、坂口弘(革命左派)・坂東國男(赤軍派)・吉野雅邦(革命左派)・加藤倫教(革命左派)・加藤元久(革命左派)の5名。

道を回ってメンバーの侵入ルート、つまりモンケンで破壊された壁の部分が見える上部分から山荘を見ることに。
その道中、隅の方に小さなお地蔵さんが。ある方が匿名で、犠牲者三名(民間人1と機動隊員2)を慰めるために建てたものという。ここにも手を合わせる。

道には屋根部分が面していた。モンケンによる破壊作戦を行うため、おそらくここに重機が横付けしたのであろう、と思われる小さな駐車場もある。

主に攻防はこちらで行われていたという。こちら側にいくつもの銃眼が作られ、機動隊と交戦した。
報道資料でよく見るのが反対側のため、印象はあちらが強いが、まさにここが戦場となったのだ。



あさま山荘の銃撃戦では連合赤軍メンバーによる銃撃により、3名の死者が出ている。

・田中保彦さん (民間人)
・高見繁光 中隊長
・内田尚孝 警視

田中さんは新潟でスナックを経営していたが、この事件を知り、機動隊の阻止線をかいくぐってあさま山荘まで駆けつけた。
バリケード封鎖された玄関口で「文化人だからあなた方の気持ちは分かります」と言い、人質の牟田夫人との身代わりになることを求めたが、中からの坂口氏による忠告が届かず、警察側のスパイとみなされ銃殺されてしまう。
坂口氏の『あさま山荘1972【下】』には、短くではあるけど、田中さんという人物について描かれている。
一人の男が歩んだ少し寂しい人生が、ひとつの事件と交差したことで起きた悲劇だけれど、それを気にしたり同情したりする人はもう、殆どいないのかもしれない。


山を降りたころにはすっかり暗くなっていた。
せっかくだから、と、植垣さんたちが逮捕された軽井沢駅へ。駅舎は新しく建て替えられているが、当時のものも保存されているとのこと。
もう遅い時間で閉まっていたが、建物の全容を見ることはできた。

すぐ横に派出所があり、植垣さんはここに連れてこられたのか、ストーブを蹴ったという交番はここなのだな、と思い、納得したりした。

交番内には、今でもそこかしこで見る、赤軍の手配書。
この事件はまだ終わっていないんだ、といつも思う。



この旅から帰って二日くらい、頭が重く、なんだかボヤボヤとしたものが心にあった。
何なのか分からないが、憂鬱とも違う感情にとまどった。
おそらく、客観視していたものが突然目の前に現れたことによる驚きが尾を引いていたのかもしれない。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連合赤軍を巡る 【3】 迦葉ベース・妙義ベース

2010-12-26 05:30:03 | 映画制作
前日、日が暮れて断念した迦葉山からまわる事にしたため、朝の8時から行動開始。メル斗さんとホテル前で待ち合わせ。

高速を使い、迦葉山へ。
【迦葉山とは・・・(以下wiki)
迦葉山(かしょうざん)は、群馬県沼田市上発知町に位置する、標高1322mの山である。
古くから「天狗の霊峰」と称され、中腹には弥勒寺が鎮座する。迦葉山信仰として講が組織され、関東をはじめとする広範な信仰を集めた。】


細い道へ入る山道の近くに車を停め、ベース付近へ進む。
沢の近くを歩く。空気もうまく、普通に来たなら観光として楽しめる山道だろう。

やや歩くと、ベースの目印となった“タンク岩”と呼ばれる巨大な岩が。

そこから少し歩き、小さな橋を渡り、川の曲がっているあたりを撮影する。恐らく、このあたりにあったのではないか、と・・・

山から降り、連赤メンバーが連絡に使ったバス停を見学することに。ちょうど、「間もなく迦葉山」と記してある天狗の看板が見える場所にある。

バス停は古びたものだが、昭和50年くらいに建て替えれられたものとのこと。


迦葉ベースにて総括によって殺されたのは以下の3名。(死亡順)


・山本順一 (革命左派)
・大槻節子 (革命左派)
・金子みちよ (革命左派)

金子みちよさんのお腹には、後にあさま山荘で銃撃戦を展開する吉野氏との間にもうけた子供がいた。

この後、殺された山本氏(夫人、生まれたばかりの赤ん坊と共に一家で山岳ベースに参加していた)の夫人が脱走。続いて革命左派の前沢氏も脱走する。
さらに革命左派・中村さんが連絡のために乗ったタクシーで、自殺志願者と間違われ通報される。この時抱いていた山本氏の子供も保護される。



次いで妙義山へ。
【妙義山とは・・・(以下wiki)
妙義山(みょうぎさん)は、群馬県下仁田町・富岡市・安中市にまたがる標高1,104メートルの山である。
赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる。急勾配の斜面と尖った姿が特徴的で日本三大奇勝の一つである。また、国の名勝に指定され、日本百景に選定されている。】


来る途中にも、特徴的な切り立った山の姿が面白く、一度車を停めてもらい、その姿を眺めた。

山道付近の宿舎前に車を停め、熊除けの鈴をつけ、山に入る。

今までとは違い、そこそこに険しい道で、道というより獣道。三脚はメル斗さんが持ってくれたが、5Dmk2とDVX100を首からぶら下げた身にはいろいろとつらく、気温の低さにも関わらず途中で汗が噴き出してきた。


ある程度の深さまで入ったが、これより先は本格的に厳しい道をしていた。今日中に向かわなければいけない、軽井沢のあさま山荘までに日が暮れるのでは元も子もないので、それらしいもの、を見つけたが違うのではないか・・・と結論。付近を撮影し、下山した。

妙義山ベースは簡易的な洞穴のベースであり、外から見ればただの岩で、現存しているというので期待して行ったが、残念だった。


妙義ベースにて総括によって殺されたのは以下1名。


・山田孝 (赤軍派)

山岳ベースの総括による最後の死者。
山田氏は赤軍派の政治局員で、本来だったらリーダーである森氏より序列が上の人。総括にかけられた直接の原因は「任務中に銭湯に入ったから」というささいなもの。

最後の言葉は「総括しろだって! ちくしょう!」


つづく
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連合赤軍を巡る 【2】 榛名ベース

2010-12-24 05:32:15 | 映画制作
前回のエントリ 連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん にて静岡を訪れ、そのままある方にお会いするため大阪に向かいました。しかし40年前の縁を手繰り寄せるのは、わたしのような者にとって簡単には行かず、断念せざるを得ない状況となりました。
一旦東京に戻り、今度はすぐさま群馬へと向かいました。群馬、長野をまたいだ「連合赤軍」に関する場所を巡るため。
案内して下さったのはメル斗さん。

以下は当日つけた記録に加筆したものです。


高崎駅にてメル斗さんと待ち合わせ。会うのは実に4年ぶりくらいか。

以降車にて移動。
小川伸介監督の学生運動ドキュメント映画『圧殺の森』の舞台となった高崎経済大学前を通る。
その近くに、進藤氏・Mさんが夫婦と偽って借りたアジトがあるというので、だいたいの場所を見る。


熊よけの鈴を買い、昼飯を食い榛名山へ。

【榛名山とは・・・(以下wiki)
榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。】


ベース付近を尋ねる前に、総括によって殺されたメンバーの方々を慰霊するための小さな碑があるというので、そこで手を合わせて行くことにした。
近くの寺の住職が建立したというもので、地主さんの都合で二度の移動を余儀なくされた。実際に殺された方々が埋められた場所は、養鶏場となっている。
その、養鶏の慰霊碑の真横に、ボタ石のような小さな碑がある。それが慰霊碑だった。

なんの因果で養鶏の慰霊碑の真横にあるのか分からないが、養鶏のものよりずっと小さく、泥にまみれてそれはあった。





手を合わせ、撮影する。
その後、花をやり、線香をたく。そして恐らく彼らの唯一嗜好品だったであろう、煙草をつけてそなえる。
漫画『レッド』の一場面、久々の煙草にクラクラする場面を思い出した。

慰霊碑の小ささ、ぞんざいさに、この事件の世間からの評価が見てとれたような気がした。
「彼らは英雄として死んだわけではないからねえ」
メル斗さんが言った。


次いで、榛名湖を横目に榛名ベース付近を目指す。
人けのない、奥まった山の道に車を止め、静まり返った山道を少々歩く。

沢の付近にあったらしいが、今はもう何もない上、道がなく急勾配で危険な場所に予想地点があるという。
仕方なく、付近を撮影。



うっそうとした木々の奥に、沢の流れる音が静かに響いていた。
どう思おうにも、ただの山であるので、なんとも感じるものは無かった。「こういう気持ちで来なければ、山道として気持ちいいとか、空気うまいとか思うんだろうな」と考えた程度。
自分は想像力が貧困なんだろうか。

ここでも線香をあげ、花を供える。
榛名ベースにて総括、死刑よって殺されたのは以下の8名。(死亡順)


・尾崎充男 (革命左派)
・進藤隆三郎 (赤軍派)
・小島和子 (革命左派)
・加藤能敬 (革命左派)
・遠山美枝子 (赤軍派)
・行方正時 (赤軍派)
・寺岡恒一 (革命左派)
・山崎順 (赤軍派)


いわゆる「山岳ベース事件」は、その殆どがここで行われたことになる。
次の迦葉ベースで3名、最後の妙技ベースで1名。

死が普遍的なものになるにつれ、それに対する感覚は麻痺し、最後の2名、寺岡氏と山崎氏に関しては総括ですらない「死刑」によって殺されている。そしてそれを「たいへんな闘争をやりきったなあ」と何の罪の意識もなく、それどころか充実感を持って迎え入れている。


これを「人間のやることではない」「われわれとは違う」とうっちゃることは簡単で、若い人々からすればそう思われてもまったく仕方ないことだと思う。
実際、あの状況に追い込まれても集団心理が働いているとはいえ、さすがに「逃げる」という選択肢をとるだろう。
でも、彼らとわれわれでは圧倒的に環境、時代、社会が違っている。
さまざまなものが違っている。違いすぎてる。
何より、戦後という歴史の捉え方が違っている。

世代論で語るのもどうかと思うけど、それでもやっぱり、わたしとわたしの親世代では、ぜんぜん違う。
ましてや、今の10代にしてみれば、まったくの異次元、理解不能の出来事と言っても過言ではないだろう。


その「違うもの」から生まれ出た異形のものが何だったのか、それが知りたい。


次に迦葉山のベース付近に向かう予定だったが、日が落ちてきたので明日にまわすことに。


つづく
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん

2010-11-25 07:00:10 | 映画制作
前回、前々回と静岡について書いてきましたが、わたしが静岡に行った理由は「おでん」でも「ガンダム」でもなく、元連合赤軍兵士・植垣康博さんに会うためでした。


植垣さんについて少しばかり。
植垣さんはもともと静岡の出身ですが、地質学への興味から弘前大学へ。
ここで全共闘運動に身を投じ、頭角をあらわした頃、赤軍派と接触。メンバーである坂東國男氏率いる「坂東隊」の一員となり、資金調達のためのM(マネー、マフィア。要は強盗行為)作戦を数々こなしていく。(植垣さん著の『兵士たちの連合赤軍』においては、ここらへんまで非常にあっけらかんと、明るい青春物語のように描かれている)

やがて赤軍派が革命左派(京浜安保共闘)と共闘、連合赤軍を結成するに至り山岳ベースへ合流。
同志殺しに積極的に関わり、最後は他3名と買出しに行った折、軽井沢駅において逮捕される。
この時すでに、「粛清・逃亡・逮捕」によって連赤メンバーは9名にまで減っていた。
植垣さんたち4名の逮捕後、残りの5名があさま山荘に立て篭もり、銃撃戦を展開することになります。


植垣さんと初めてお会いしたのは今年の5月に行われた「リッダ闘争38周年記念パーティー」において。
司会進行をしていた足立監督が、参加者にそれぞれ一言を求めたわけですが、その時わたしも求められたのです。
普段は大勢の前だと、緊張して何喋ってんだか途中で分からなくなるような小心者ですが、この時、なぜか言いたいことがスラスラと言えました。
たしか、以下のようなことを喋ったのだと思います。


「70年安保を中心とした学生運動のドキュメントを撮りたいと思っている」
「ある人に『君はなんだ。興味本位か』と言われた。それをみなさんに言われたらおしまいだが、それでもやらなければならないと思う」
「思想的なことは抜きにして、皆さんがやったことは歴史的に意義があることだと思う」


この時、向かいの方に座っていた若松監督(『実録・連合赤軍』『キャタピラー』)が「そんなもん、興味本位でいいんだ!!」と叱責交じりに檄を飛ばしてくれました。

「興味本位でいい」

今日に至るまで、この一言がわたしをどれだけ奮い立たせたか知れません。


話が終わると、5人くらいの方が名刺を渡しに来て下さり、その中に、植垣さんもいました。

もちろん以前から名前やプロフィールは存じ上げており、こちらから名刺を渡して取材のお願いをしようとも思っていました。
これは願ったりかなったりだ、と取材の申し込みをさせていただくと、すんなり「いいよ」。

そしてアウトサイダーアート展でもお会いし、改めて、ちゃんとお願いしよう、ということで今回植垣さんの経営されている『スナック・バロン』にお邪魔した、というわけです。

当日はあいにくの雨降り。
7時開店とのことなので、少しコーヒーなど飲んで暇をつぶしてから、市役所近くにあるというバロンを目指しました。

駅からやや歩き、市役所を見つける。
この近くか、とキョロキョロしながら向かいの雑居ビル郡の看板を見回すと・・・

あった。

ふしぎな酒場 スナックバロン。


中に入るとけっこうな雨のせいか、客はおらず。このまま0時過ぎまで、ずっと二人でお話させていただけました。
ちなみにいつもこうかと言うとそんなことは無く、わたしが前もって電話したときは非常に忙しそうで、二度にわたり「ゴメン、今はちょっと忙しいからあとで!」となりました。

「僕のこと、おぼえてますか」
そう聞くと植垣さんは「ああ、なんとなくね」とのこと。とりあえず生中を頼み、思い出してもらうべくアウトサイダーアート展で撮った写真を渡し、リッダ闘争38周年記念パーティーのことなどをお話しする。


ここからは覚えていることまで。
というのも、しっかり飲んでしまったため、記憶が曖昧なのです。また、話が非常に興味深く面白い。話しているとお酒がうまくなる。
植垣さんはそういった人柄の方です。

以下、メモを頼りに。




連合赤軍事件は、挑戦して失敗した世界である。

森氏・永田さん・坂口氏らに対し、恨みは持っていない。
しかしその後の裁判ではもっと頑張れたのではないか。(※1)

殲滅戦とは
相手の戦闘能力を無くすこと。殺すことではない。それが何時の間にか殺すことになってしまった。

革命を、起こした後どうするか、なんてことは考えていなかった。
後は誰かがどうにかしてくれるだろう、と。とにかく革命を起こさねば、という気持ち。

植垣さんをオルグした梅内さん
大阪のどこかにいるらしいが、詳しくは不明。別に隠れてるわけじゃないんじゃないか、と。

進藤さん(坂東隊の一員。総括により死亡)のお連れ合いだったMさんについて。
元芸者さん。
連赤事件後はタクシーの運転手と結婚。しかしその方は労働組合のリーダーをやっていたため、会社の雇ったヤクザに殺される。
現在は大阪の某所に。

ダッカ事件で日航機に乗り合わせていた乗客がバロンに来たことも。
ハイジャック時、丁寧な物腰だった実行メンバー(日本赤軍)たちに「なぜこのような人たちがテロをやるのか」と疑問に持ち、その話を聞きたく、植垣さんを尋ねた。

『実録・連合赤軍』について
植垣さんとしては不服。若松監督の思いが強すぎる。『レッド』の方が余計な演出もなく、事実に忠実である。(※2)

今、語ることは辛いか。
ぜんぜんそんなことはない。

逮捕された時の映像。すごい怖い表情だったが。
あれは凍傷で足が痛かった。(※3)

不屈というか、極限状態でも常にポジティブだが・・・(総括要求されても、最初は笑ってごまかしていたほど)
基本的に目の前の問題に常に前向きに取り組む。挫折とは無縁。

本であまり描かれなかった部分。死臭について。
それはもう、ひどいもんだった。(※4)




以上です。

(※)についての補足。
(※1)連合赤軍の指導部・トップの3人。
リーダーであった赤軍派の森恒夫氏は、永田さんと共に逮捕された後、自らの犯した過ちに耐え切れず拘置所内にて73年1月1日自殺。
ナンバー2的立場で、森氏と共に同志粛清体制を敷いた革命左派・永田さんは、逮捕後数々の本を上梓。死刑が確定しているも、現在病床にて重度の意識障害と危篤を繰り返す。
かつて永田さんと事実婚状態にあったナンバー3の革命左派・坂口氏はあさま山荘で最後まで銃撃戦を闘い、逮捕後は手記や歌集を執筆。死刑確定。

(※2)若松監督が粛清で殺された遠山さんを物語前半の主人公としたのは、彼女が監督自身の作品『赤軍 - PFLP 世界戦争宣言』の上映運動を担う一員だったから。(本人談)
この上映運動のメンバーには、後にリッダ闘争で銃撃戦を行う岡本公三氏も含まれている。
あらゆる面において「監督の思いが強くなる」のは仕方のない事だと思う。映画は映画なのだから。一方で当事者として一言があるのもまた、仕方のない事ではないでしょうか。その意味で極めて地味だが作品としてものすごく尖っている『レッド』(山本直樹先生によるイブニング連載・連赤事件をモチーフにした漫画)を推すのは必然かもしれない。

(※3)この映像、2:59付近に若き日の植垣さん、逮捕直後の様子が。

こわい。

(※4)なぜこのようなことを聞いたかというと、植垣さんの『兵士たちの連合赤軍』においては、極めて整然とした文章で総括とそれによる死の様子が描かれている。
これは反省的な文章を避け、事実をありのままに読んでもらいたい、という思いからですが、実際に総括を受けた方々は縛られた上にいわゆる「垂れ流し」を強いられ、ボコボコにされて死んでゆく。
このような凄惨な状況で「臭い」があまり語られないのが個人的に不思議でしょうがなかったからです。おそらく麻痺していた、というのもあるとは思うのですが・・・
植垣さんたちが逮捕された原因のひとつに、駅の売店員が感じた悪臭というものがあるのですが、これはおそらく死臭もまざっていたのではないか、と思います。



わたしはこの後吐くまで飲み、フラフラで宿に戻りました。



余談ですが、何かのキッカケで「隣駅のガンダム観にいってました」という話になりました。

ガンダムと言えば思い出される何人かの方々のうち、キャラクターデザインで今も漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』を連載している安彦良和先生。
彼は弘前大学時代の植垣さんの先輩にあたり、学生運動(反戦委員会)のリーダーを務めていました。
後にそれが原因で除籍処分を受けるそうですが、植垣さんの著書『兵士たちの連合赤軍』によると
「元民青の幹部で、今日でこそアニメーション映画で活躍しているが、その当時は、多くの学生から信頼されていた活動家だったのである」
とのことです。



----------------------------------------------------------------------------

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]
クリエーター情報なし
CCRE

兵士たちの連合赤軍
クリエーター情報なし
彩流社

レッド(1) (イブニングKCDX)
山本 直樹
講談社
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アウトサイダーアート展に行ってきた

2010-09-16 04:42:00 | 映画制作
先日、根津のギャラリーTENにて開催された「獄中画の世界-25人のアウトサイダーアート展」に行ってきました。

アウトサイダーアートっていうのはいわゆる山下清画伯とかそういった障害者のアート一般のことを指すそうです。
どっかで読んだことがあるのですが、ある障害者が長年にわたって独自の世界の絵物語を、誰にも発表せずえんえんと創り上げていたそうです。つまりそういった本来の意味での芸術、創造行為に則したもの。

それと同じ意味で言えば獄中者が描いた絵もそれと同じ世界である、と。ここらへんゲージツを理解してないわたしには、難しくてよく分からないのですが、だいたい言わんとしていることは分かるような気がするようなそんな秋の気配。

簡単に言えば何にも誰にも影響を受けずに、幼児が画用紙いっぱいに想像力をはたらかせて描くイキイキと描いたかのような絵、そういったものに宿る作品のことかと思います。


以下がそんな作品たち。


反日武装戦線の荒井まり子さんによる絵。

元日本赤軍最高指導者・重信房子さんによる絵。

日本赤軍に合流、後にレバノンにて逮捕された足立監督による絵。

連合赤軍・永田洋子さんによる絵。

発表された当時から永田洋子さんの絵は「あんな女が少女漫画みたいな絵を」と言われていたようですが、同じ連合赤軍の植垣さんからの助言「漫画の模写でもかまわないんだ」という言葉に応えるかたちで描き始めた絵が、彼女の絵の始まりだったようです。
まさしく「絵」なのに、フキダシで台詞が書いてあったりします。

この日、ギャラリーではトークショーが行われ、連合赤軍の植垣康博さん、反日武装戦線“さそり”の宇賀神寿一さん、足立監督、さらに飛び入りで(ご本人はお客として来たつもりだったらしいですが)一水会顧問・鈴木邦男さんも参加。
獄中で描く絵をそれぞれの視点から語ってくれました。

植垣康博さん

描く権利をいかにして獄中からつかむか、という内容。「自著の挿絵」という口実からどんどん権利を広げていった。ボールペンを手に入れるまで一年半かかった、とのこと。
何かの時に描いた絵があまりにデキがよく、捨てるのはもったいない、と言われその絵は今でも甲府刑務所に飾ってあるとか。
文化的なことをできるかできないかで、獄中は大きく変わってくる。自分にとって絵は大きな存在だった、とのこと。ちなみに今はもう描けないらしい。

余談ですが・・・イブニングにて連載中の山本直樹先生による連合赤軍事件をモチーフにした漫画『レッド』について聞いたところ、あれは良く出来ている、とほめていました。ちなみに植垣さんがモデルのキャラクターは主人公格。もうひとりの主人公格である永田洋子さんについて。「あんなに可愛らしい人だったんですか?」「あそこまで可愛くはないけど、普通の、頑張り屋の女の子だったよ」と。


足立監督

レバノン・ルミエ刑務所でのこと。
基本的に第三世界の刑務所はどこも同じで、ご飯は朝にパンとスープしか出なく、差し入れなしでは生きていけない。そのため身寄りのない囚人は金持ちの下男になる。
そこで刑務所内の通貨であるタバコを手に入れ、売店に卸して代償としてサンドイッチをもらってしのぐ。
獄中ではホモ事件が一番罪が重かった。フルーツの香りですら性浴を刺激した。
監督自身は針、灸を覚えていたため、最終的には刑務所の中を自由に動き回れる特権的な身分となった。


鈴木邦男さん

聞き役に徹していました。
監督との会話。
監督「アメリカ行けるんだ?」
鈴木さん「行けますよ」
監督「そうか、平和な人なんだなあ」


この後懇親会が開かれ、酒などを飲みながらゲストと出席者の交流の場がもたれました。
中には元オウムの荒木さんの姿も。
わたしは“さそり”の宇賀神さんと約3年ぶりに再開。前回お会いした時の不勉強をお詫びし、改めて撮影ではなくともお話を聞かせてもらいたい旨伝え、了承していただく。


さて。
書き物にしても、絵にしてもそうですが、獄中では感覚が研ぎ澄まされるようで・・・
最近取材や下調べのために読む本がことごとく獄中で書かれたものだったのですが、どれも「よくこんな細かいこと書けるなあ」と思わせるものばかりでした。
元死刑囚の永山則夫さんも、自殺した一水会の見沢知廉さんも獄中受賞しておりますように、獄中という環境は「自分と向き合う」にはもってこいの場所なのかもしれません。

閉鎖された状況から精神の開放を力強く懇願する魂の叫びが、そういった作品を生み出す源泉となっているのでしょうか。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島菊次郎『遺言part3』

2010-08-10 03:23:56 | 映画制作
学生運動に関するドキュメントを撮ろう、と思い立った契機はいくつかありますが、そのひとつに一冊の写真集『ガス弾の谷間からの報告』との出会いがあげられます。

1969年に発行されたこの写真集は、神保町の古本屋で偶然手に入れました。
ぼろぼろのそれは、しかしものすごい迫力で、いわゆるマスメディアで目にする「報道写真」とはまったく違うベクトルの、確固とした主張がある強烈な写真たちでした。
それからわたしはこの写真集の著者であるカメラマン・福島菊次郎さんを山口県まで尋ね、取材するにいたるのですが(そのへんのことは「ある写真家のゆくえ」にて)、その橋渡しを担ってくれた講演会が今年、再び行われることとなりました。

最近「また福島先生と会ってみたい」と思っていたところでした。
89歳。これが最後の上京になるかもしれないとのこと。
徹底した反権力の目から紡がれた、報道の真の姿を見ることができます。

当日はわたしも運営をお手伝いし、取材もさせていただきます。
以下、主催の方より告知メールをいただいたので転載。


--------------------------------------------------------------------------

伝説の報道写真家・福島菊次郎『遺言part3』最終講演会&写真展のお知らせ

■講演会■

2010年8月14日(土)午後1時開場、2時開演

府中グリーンプラザ・けやきホール(京王線府中駅北口徒歩1分)

資料代1000円(前売り800円)

*聞き手 山本宗補(フォトジャーナリスト)


■写真展■

2010年8月14日(土)~16日(月)午前10時~午後7時(初日14日のみ11時開場)

府中グリーンプラザ5階展示ホール

入場無料

【主催】福島菊次郎講演会実行委員会:
連絡先090-5764-8713 ketmi-peace☆docomo.ne.jp (☆を@に)



<勝てなくても抵抗して 未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか 逃げて再び同じ過ちを繰り返すのか……>

いちばん弱い者たちを最も苦しめるのが戦争なのだ。
この国の憲法を変えてはならない。

伝説の報道写真家、89歳。

戦後史の証言者となった人生の航路をたどりつつ、
混迷の時代に今一度、戦争の爪痕を突きつける。



2年前に引き続き、山口県から東京・府中市に福島さんをお迎えし、最後の講演会を行ないます。写真展には代表作をすべて展示します。また、4年がかりの書き下ろし『写らなかった戦後3 福島菊次郎遺言集 殺すな、殺されるな』(現代人文社)を会場で先行販売する予定です。

なお、現在スタッフ募集中です。搬入・搬出などをお手伝いいただけるかたはご連絡を。



【福島菊次郎プロフィール】

1921年、山口県下松市生まれ。

1960年に上京、プロ写真家となる。

戦後、国に見捨てられた被爆者の苦しみを撮影し続け、『ピカドン』を出版(1961年)。上京後は三里塚闘争、ベトナム反戦市民運動、全共闘運動、自衛隊と兵器産業、公害問題、若者の風俗、福祉問題、環境問題など、多岐にわたる現場を取材。海外では中近東、アラブ、ソビエトなどを長期取材。

いかなる政党・セクトにも属さず。

『文藝春秋』などの総合雑誌グラビアに3300点を発表。写真集は10冊を超える。

その後、文字による『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』(2003年)『写らなかった戦後2 菊次郎の海』(2005年)を出版。

論評、エッセイなど多数。

また、「写真で見る日本の戦後展」など写真展を全国で開催、1989年から現在まで700カ所以上に写真パネルの貸し出しを行っている。

賞歴:カメラ誌ベストテン賞(1952~54年)、山口県芸術文化奨励賞(1958年)、日本写真批評家賞特別賞(1960年)などを受賞。

1982年、国とマスメディアに絶望し、自給自足の生活をめざして瀬戸内海の無人島に入植。

戦争責任を問い続け、文字どおり命を懸けたジャーナリスト「伝説の報道写真家」として知られる。2007年と2008年に東京で開催された「遺言講演会」では、会場にあふれる老若男女を前に、長時間にわたりジャーナリズムのあり方などをタブーなく論じた。

--------------------------------------------------------------------------

ご興味ある方は是非。



Twitter「つぶやく」ボタン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする