前回の続き。
■救援連絡センター 事務局長 山中幸男
森恒夫さんが自決したとき火葬する前に止めろ、ということで待て待てと、棺の前で体を張って止めた。それから医者に遺体を確認させた。
その後通夜をやりたいってことで場所を探したが、今回(永田さん)の場合は救援をやっている方の関係で段取りよくやれて良かった。
若松監督の映画は(『実録・連合赤軍』)どちらかというと赤軍の観点から描かれたものなので、革命左派からのことはあまり知られていない。
これから明らかにされていったらいいなと思う。
■漫画家 山本直樹
しばらく前から永田さんや坂口さんや植垣さん、大泉さんの本を読んでいて、これはすごい物語だ、漫画にして読みたいと思っていた。
でも僕の専門はエロなので誰か描かないかな、と思っていたが誰も描かないようだし、他の人にやられるのもしゃくなので、描き始めた。(イブニングにて連載中の『レッド』)
描き始めて5年ほど経つが、まだ陰惨なところには行っていない。これからまだ5年はかかると思うが、あさま山荘まで描きたいと思っている。
僕は永田さんとは当然面識は無く、読者でしかない。読者としての感想を言えば「かわいらしい方」。でも時々、自己承認願望が強すぎてうるさい、という印象。
そのような普通の人が後半あのような状態になっていく、それは人間通しての不思議さに通じると思うが、それを描ければと思っている。
永田さんにはもう少し元気でいてもらって、描いたものを読んでもらい、お小言のひとつでももらいたかった。
■モッツ出版代表取締役 高須基仁
今朝、歯が抜けてしまった。年とったな、と。悔しい思い。宮崎学も、重信さんもみんな体調を悪くして。
でも、ボウフラがいっちょまえの蚊になって、世の中に一刺しだけして死んでいく。そんなタイミングが来たのかな、と。
運動はわれわれの青春だったし、男と女、愛もあったし、志だけではないもっとドロドロしたものがいっぱいあった。
どんな革命を考えたって、ひとりひとり、愛を語ったり、セックスがあったり。
このひとりひとりの死がひとりひとり、みんなの記憶に残っていけば良いと思う。
■弁護士 大谷恭子
ご存知のように、第一審の判決が「女性特有の嫉妬」というかたちで表現された。それは許されないことであり、死者をも冒涜するもの、と私自身は率直に思った。
しかし一方で「なんであんなことになってしまったの?」という強い思いがあった。あの時代、共に何かをやろうとした者として許しがたい気持ちもあり、ある意味検事以上に彼女に糾弾的であったのではないかと思っている。
接見室で彼女に質問すると、どうしても弁解がましく言葉を連ねてしまうことに対して、ずいぶんと彼女を厳しく問い詰めてしまうこともあった。
しかし接見が長くなってしまい、彼女が事実関係を語ろうとすると「嘔吐」してしまっていた。
私はその頃彼女が病気ということを知らず、もどすほどに苦しい思いをしている被告人に、これ以上事実を聞くのは弁護人としていけないのではないかと感じた。しかしあの時代を担ったものとして事実関係を聞き出さなければならないと思った。
そうするとどうしても接見が長くなってしまう。接見室のアクリル板越しに彼女の顔を見ると、そのアクリル板に私自身の顔が映る。それはとても恐ろしく感じることだった。
私と彼女の顔が二重映しとなる中で、それでも私は事実を聞かせろと彼女に迫る。その二重映しの顔がある種同じだったから、私自身を責めてるのかな、と思って、初期の段階は非常に複雑な思いを抱えていた。
弁護人としてここまで糾弾的な立場もないが、みんなあの時代を経験したからこそ、それをしょいながら弁護活動をした。
その後彼女が病気だということが分かり、私自身非常にショックを受け、同時に私たちは彼女の病気をも許していなかったんだ、と思った。彼女が吐き気を訴えるのは、あの事件の重さがそうさせているからだ、と思い、彼女の病というふうには思い至らなかった。
辛いから横になりたい、という法廷態度も許せず、病気であることを見抜けなかったのは、自分たち弁護士としての一生の落ち度である、と他の担当弁護士も言っていた。
そういう点では彼女に非常に恥じた(申し訳ない)思いを持った。
私自身のことから言えば、どうしても許しがたいという思いと、でも彼女だけの責任ではなかったという思いと、法廷の中で明らかにされなければならない真実。この中で何ができたかと思いながら、彼女と共に10年間過ごせたことは弁護士冥利に尽きることだと思う。
■文筆家 大泉康雄
(吉野雅邦さんからのメッセージ代読)
「まず最初に自らの手で死なしめてしまった亡き14名の同志に心からのお詫びと共に哀悼の意を表させていただきます。
事件についてふれさせていただきます。私の認識では悲劇の発端は、下部の統制ができなくなった永田洋子が他組織の森恒夫の指導に頼っていったことのように思います。
(中略)・・・暴力的総括要求、死刑は共産主義化、人材育成ではなく、内部統制のための暴力に他ならなかったと考えざるを得ません。(中略)山岳ベースで森恒夫から『共産主義化』という用語を聞かされた覚えもありません。
(中略)山岳ベースでの暴力を指導したのは森といわれていますが永田洋子は森に等しい役割を果たしたと思っています。そして印旛沼での処刑を決行した革命左派側にむしろ強い要因があるのではないでしょうか。
(中略)寺岡氏や雪野氏のように永田の方針に異を唱えることも無く、また前澤氏や加藤能敬氏のように離脱者に一定理解を示すことも無く、永田を支持し、支えてきたのが当時の私の姿です。
(中略)しかしあの時点では誰が指導者になっても組織の分裂と崩壊の状況下では、同じような経過をたどっていた可能性が強かったでしょう。だから永田洋子個人を責めても仕方の無いことだと思われます。
(中略)永田・森が東京出張中に森が永田との結婚を踏み切った理由は、森恒夫が奥さんと子供を守りたかったという推測も成り立ちます。
(中略)14名の死に携わったものとしてはいかに償おうとしても、生涯をかけて償いきれるものではありません。ですが来世に顔を合わせた時に彼らにも顔向けできるような残生を送るべく心しています」
■編集者 椎野礼仁
(瀬戸内寂聴さんからのメッセージ代読)
「(略)いつでも正月過ぎから2月半ばまで年年にその季節が来ると、私は洋子さんを強く思い出していました。その季節になると必ず洋子さんは獄中で体調を崩しました。
私はそれを洋子さんの意識の外で体があの地獄の月日のことを思い出していて全身が痛むのだと解釈していました。洋子さんはそれを認めませんでしたが、そうとしか考えられない現象でした。
洋子さんと文通が始まって、私は洋子さんの信じられないほど無邪気な面にびっくりしました。(中略)私はどうしても洋子さんを世間の人のように悪魔とか鬼とか呼べませんでした。
(中略)最後の数年はもう人の分別もつかず、何も分からなかったと弁護士さんから聞いて、まだ浄土に渡ることは許されないのかと、胸を締め付けられていました。もう意識も無く、自分では歩けない人をどうやって死刑台に乗せられましょう。
(中略)もう十分十分この世で地獄を味わい苦しみました。洋子さんは許されて、今はかつての同志に迎えられていることを信じます。(以下略)」
■元・赤軍派 金 廣志
西馬込(「送る会」が行われた場所)というのは私自身40年ぶりにきた。他の方のおっしゃられるとおり「明るい、ゆかいな赤軍派」もしくは革命左派という時代もあって、70年の暮れに、ここに一軒家のアジトがあった。
M作戦に最初に出撃したのはここからだった。その当時、メンバーの半数が集まって「大貧民」をやった。そうしたら(ゲームの中で)革命が起こり、「我々の未来は明るい!」と言って出撃していった。
しかしちょうど40年前の今頃には植垣君の部隊を残して全ての部隊が壊滅してしまった。そういう懐かしい場である。
永田さんが亡くなり、通夜の晩と焼き場と、両方同席した。亡骸と対面したが、正直言って安らかな様子には思えなかった。顔も痛んでおり、オムツもはめられ、がに股状態で、棺に納めるのが非常に難しかった。最後は力いっぱい入れなければならなかった。
焼いた後見ると、頭蓋骨にシャント手術の穴があり、周りが茶色く変色していた。これが手術の跡か、と強く感じた。骨の量も少なく、相当病気で痛められていたのだなと思った。
私は横から骨をかすめて、口の中に含んでしまったが、非常に柔らかかった。
ご両親に死は知らされず、親族は見えていなかった。伴侶の方は「知らせていない」と言っていた。
永田さんに関して。意識のあるうちは最後まで社会問題に関心を持っていた。それを社会にアピールしたいと言う思いは強く持っていたよう。
私自身は直接の面識は無かった。法廷で顔を見たくらい。
一度差し入れをしたところ、その後何回かお手紙が来た。ただ私の方は明治大学のメンバー、遠山・行方・山崎・進藤と強い繋がりがあったため、それを思い起こすとどうしても返事を書くことができなかった。やはり自分は永田洋子さんに対して複雑な思いを抱いていたことは確か。
その後永田さんの文章を読み、非常に正直な人だなと感じた。世間では永田洋子を戦後最大の悪人と言う人もいるが、私自身は永田洋子は本当の善人だったんだな、という気がする。であればこそ、総括などが全て善意の中で行われていた。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」というマルクスの言葉に謙虚に耳を傾けて、永田洋子さんのことをもう一度考えてみたいと思う。
今日は永田洋子さんを送る会ということだけど、共に亡くなった16名の同志の名前を読み上げておきたいと思います。
16名の魂が安らかでありますように。
以上。
■救援連絡センター 事務局長 山中幸男
森恒夫さんが自決したとき火葬する前に止めろ、ということで待て待てと、棺の前で体を張って止めた。それから医者に遺体を確認させた。
その後通夜をやりたいってことで場所を探したが、今回(永田さん)の場合は救援をやっている方の関係で段取りよくやれて良かった。
若松監督の映画は(『実録・連合赤軍』)どちらかというと赤軍の観点から描かれたものなので、革命左派からのことはあまり知られていない。
これから明らかにされていったらいいなと思う。
■漫画家 山本直樹
しばらく前から永田さんや坂口さんや植垣さん、大泉さんの本を読んでいて、これはすごい物語だ、漫画にして読みたいと思っていた。
でも僕の専門はエロなので誰か描かないかな、と思っていたが誰も描かないようだし、他の人にやられるのもしゃくなので、描き始めた。(イブニングにて連載中の『レッド』)
描き始めて5年ほど経つが、まだ陰惨なところには行っていない。これからまだ5年はかかると思うが、あさま山荘まで描きたいと思っている。
僕は永田さんとは当然面識は無く、読者でしかない。読者としての感想を言えば「かわいらしい方」。でも時々、自己承認願望が強すぎてうるさい、という印象。
そのような普通の人が後半あのような状態になっていく、それは人間通しての不思議さに通じると思うが、それを描ければと思っている。
永田さんにはもう少し元気でいてもらって、描いたものを読んでもらい、お小言のひとつでももらいたかった。
■モッツ出版代表取締役 高須基仁
今朝、歯が抜けてしまった。年とったな、と。悔しい思い。宮崎学も、重信さんもみんな体調を悪くして。
でも、ボウフラがいっちょまえの蚊になって、世の中に一刺しだけして死んでいく。そんなタイミングが来たのかな、と。
運動はわれわれの青春だったし、男と女、愛もあったし、志だけではないもっとドロドロしたものがいっぱいあった。
どんな革命を考えたって、ひとりひとり、愛を語ったり、セックスがあったり。
このひとりひとりの死がひとりひとり、みんなの記憶に残っていけば良いと思う。
■弁護士 大谷恭子
ご存知のように、第一審の判決が「女性特有の嫉妬」というかたちで表現された。それは許されないことであり、死者をも冒涜するもの、と私自身は率直に思った。
しかし一方で「なんであんなことになってしまったの?」という強い思いがあった。あの時代、共に何かをやろうとした者として許しがたい気持ちもあり、ある意味検事以上に彼女に糾弾的であったのではないかと思っている。
接見室で彼女に質問すると、どうしても弁解がましく言葉を連ねてしまうことに対して、ずいぶんと彼女を厳しく問い詰めてしまうこともあった。
しかし接見が長くなってしまい、彼女が事実関係を語ろうとすると「嘔吐」してしまっていた。
私はその頃彼女が病気ということを知らず、もどすほどに苦しい思いをしている被告人に、これ以上事実を聞くのは弁護人としていけないのではないかと感じた。しかしあの時代を担ったものとして事実関係を聞き出さなければならないと思った。
そうするとどうしても接見が長くなってしまう。接見室のアクリル板越しに彼女の顔を見ると、そのアクリル板に私自身の顔が映る。それはとても恐ろしく感じることだった。
私と彼女の顔が二重映しとなる中で、それでも私は事実を聞かせろと彼女に迫る。その二重映しの顔がある種同じだったから、私自身を責めてるのかな、と思って、初期の段階は非常に複雑な思いを抱えていた。
弁護人としてここまで糾弾的な立場もないが、みんなあの時代を経験したからこそ、それをしょいながら弁護活動をした。
その後彼女が病気だということが分かり、私自身非常にショックを受け、同時に私たちは彼女の病気をも許していなかったんだ、と思った。彼女が吐き気を訴えるのは、あの事件の重さがそうさせているからだ、と思い、彼女の病というふうには思い至らなかった。
辛いから横になりたい、という法廷態度も許せず、病気であることを見抜けなかったのは、自分たち弁護士としての一生の落ち度である、と他の担当弁護士も言っていた。
そういう点では彼女に非常に恥じた(申し訳ない)思いを持った。
私自身のことから言えば、どうしても許しがたいという思いと、でも彼女だけの責任ではなかったという思いと、法廷の中で明らかにされなければならない真実。この中で何ができたかと思いながら、彼女と共に10年間過ごせたことは弁護士冥利に尽きることだと思う。
■文筆家 大泉康雄
(吉野雅邦さんからのメッセージ代読)
「まず最初に自らの手で死なしめてしまった亡き14名の同志に心からのお詫びと共に哀悼の意を表させていただきます。
事件についてふれさせていただきます。私の認識では悲劇の発端は、下部の統制ができなくなった永田洋子が他組織の森恒夫の指導に頼っていったことのように思います。
(中略)・・・暴力的総括要求、死刑は共産主義化、人材育成ではなく、内部統制のための暴力に他ならなかったと考えざるを得ません。(中略)山岳ベースで森恒夫から『共産主義化』という用語を聞かされた覚えもありません。
(中略)山岳ベースでの暴力を指導したのは森といわれていますが永田洋子は森に等しい役割を果たしたと思っています。そして印旛沼での処刑を決行した革命左派側にむしろ強い要因があるのではないでしょうか。
(中略)寺岡氏や雪野氏のように永田の方針に異を唱えることも無く、また前澤氏や加藤能敬氏のように離脱者に一定理解を示すことも無く、永田を支持し、支えてきたのが当時の私の姿です。
(中略)しかしあの時点では誰が指導者になっても組織の分裂と崩壊の状況下では、同じような経過をたどっていた可能性が強かったでしょう。だから永田洋子個人を責めても仕方の無いことだと思われます。
(中略)永田・森が東京出張中に森が永田との結婚を踏み切った理由は、森恒夫が奥さんと子供を守りたかったという推測も成り立ちます。
(中略)14名の死に携わったものとしてはいかに償おうとしても、生涯をかけて償いきれるものではありません。ですが来世に顔を合わせた時に彼らにも顔向けできるような残生を送るべく心しています」
■編集者 椎野礼仁
(瀬戸内寂聴さんからのメッセージ代読)
「(略)いつでも正月過ぎから2月半ばまで年年にその季節が来ると、私は洋子さんを強く思い出していました。その季節になると必ず洋子さんは獄中で体調を崩しました。
私はそれを洋子さんの意識の外で体があの地獄の月日のことを思い出していて全身が痛むのだと解釈していました。洋子さんはそれを認めませんでしたが、そうとしか考えられない現象でした。
洋子さんと文通が始まって、私は洋子さんの信じられないほど無邪気な面にびっくりしました。(中略)私はどうしても洋子さんを世間の人のように悪魔とか鬼とか呼べませんでした。
(中略)最後の数年はもう人の分別もつかず、何も分からなかったと弁護士さんから聞いて、まだ浄土に渡ることは許されないのかと、胸を締め付けられていました。もう意識も無く、自分では歩けない人をどうやって死刑台に乗せられましょう。
(中略)もう十分十分この世で地獄を味わい苦しみました。洋子さんは許されて、今はかつての同志に迎えられていることを信じます。(以下略)」
■元・赤軍派 金 廣志
西馬込(「送る会」が行われた場所)というのは私自身40年ぶりにきた。他の方のおっしゃられるとおり「明るい、ゆかいな赤軍派」もしくは革命左派という時代もあって、70年の暮れに、ここに一軒家のアジトがあった。
M作戦に最初に出撃したのはここからだった。その当時、メンバーの半数が集まって「大貧民」をやった。そうしたら(ゲームの中で)革命が起こり、「我々の未来は明るい!」と言って出撃していった。
しかしちょうど40年前の今頃には植垣君の部隊を残して全ての部隊が壊滅してしまった。そういう懐かしい場である。
永田さんが亡くなり、通夜の晩と焼き場と、両方同席した。亡骸と対面したが、正直言って安らかな様子には思えなかった。顔も痛んでおり、オムツもはめられ、がに股状態で、棺に納めるのが非常に難しかった。最後は力いっぱい入れなければならなかった。
焼いた後見ると、頭蓋骨にシャント手術の穴があり、周りが茶色く変色していた。これが手術の跡か、と強く感じた。骨の量も少なく、相当病気で痛められていたのだなと思った。
私は横から骨をかすめて、口の中に含んでしまったが、非常に柔らかかった。
ご両親に死は知らされず、親族は見えていなかった。伴侶の方は「知らせていない」と言っていた。
永田さんに関して。意識のあるうちは最後まで社会問題に関心を持っていた。それを社会にアピールしたいと言う思いは強く持っていたよう。
私自身は直接の面識は無かった。法廷で顔を見たくらい。
一度差し入れをしたところ、その後何回かお手紙が来た。ただ私の方は明治大学のメンバー、遠山・行方・山崎・進藤と強い繋がりがあったため、それを思い起こすとどうしても返事を書くことができなかった。やはり自分は永田洋子さんに対して複雑な思いを抱いていたことは確か。
その後永田さんの文章を読み、非常に正直な人だなと感じた。世間では永田洋子を戦後最大の悪人と言う人もいるが、私自身は永田洋子は本当の善人だったんだな、という気がする。であればこそ、総括などが全て善意の中で行われていた。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」というマルクスの言葉に謙虚に耳を傾けて、永田洋子さんのことをもう一度考えてみたいと思う。
今日は永田洋子さんを送る会ということだけど、共に亡くなった16名の同志の名前を読み上げておきたいと思います。
16名の魂が安らかでありますように。
以上。
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十六の墓標 下―炎と死の青春 | |
クリエーター情報なし | |
彩流社 |
レッド(2) (イブニングKCDX) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
永田さんが亡くなったことで
また一つ何か終わってしまったような…
永田さんって本当に悪い人だったのだろうか
当然お会いしたことないしわからないことですけど
「悪い人」っていうのは活動以外の人間性で善悪を決めた方がよいと思うのですが。
確かに人がこれだけ亡くなってるのであれなんですけど…
どうしてもこの事件の犠牲者の方々はこう言ってはなんですけど
やはり自滅じゃないかと思ってしまうんです。
同志粛清といっても結局はその後ろの国に管理されてしまっているということなんですね。
最近亡くなる方が増えだして、ああ、時代はこうやって変わっていき、忘れられていくのかな、と少し悲しくなりました。
思想やそれにまつわる行動で性格を規定する、ていうのはやりがちなことですね。
僕もされたこともあり、やってしまったこともあります。
ここらへんは本当に難しくて、特に当時の方々は国と個人を同一視できない、という考えが多かった割には、党派と個人を同一視する人が多かったのかも、と思います。
「普通の女性だった」の「普通」がなにをもって普通で、なにが作用してあんなことになったのか。
金さんの「永田さんのことを考えてみたいと思う」という言葉はあの事件を知ろうとする人間にとって改めてつきつけられる課題ですね。
(多少、見苦しい表現があった事をお詫びします)
彼女がやったことは絶対に許されることではないし、取り返しがつかないこと
と、はっきり発言してる人間がひとりもいない。
やれ、女の嫉妬認定は許せない、あのときは仕方がなかった、彼女は善意でやっていた一
擁護と言い訳のオンパレード、これでは反省がない。何が総括か。
ごめんなさい。ここでこんなことをコメントしても仕方ないんですが、
この記事を読んでさらに自分の考えが深まりました。
故人と「複雑な思いがあった」と述べるような利害関係にあった人が、結局はこのような場で故人を述べるのに丸い言葉になっていく。
これはまさに日本人的な「死ねばみな仏」の精神そのものだと思います。
そしてなにより、多くのサイト読者さんとおなじく「どいつもこいつも14人も殺した極悪人に対する評かが甘すぎる」という憤りを何より覚えましたが。