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ちくわブログ

ちくわの夜明け

元日本赤軍・重信房子さん 懲役20年確定へ

2010-07-17 20:54:30 | 映画制作
第一報はある方からのメールでした。
全身から汗がふきだして、頭が混乱するほどショックでした。
あわてて帰宅し情報をまとめてみると、懲役20年で確定、未決拘留が10年だから、仮釈放なしで2022年ごろ出所とのこと。

面会は8月上旬まで可だが、希望者が殺到して受け付けられない、と。
郵便、差し入れの受付は可。


わたしがなぜこれほどショックを受けているかというと、今まさに重信さんについて調べ、取材していたからです。
正確に刑が決まったのが15日。わたしはその前日の14日に面会でお会いしました。
先月も会っていたので、これで二回目ということになります。

本当に不思議なことで、二回目に会うのをいつのまにか楽しみにしている自分がいました。
待つ間には、差し入れに対するお礼として、お手紙もいただきました。

とにかく笑顔を絶やさない、優しい雰囲気で、常にこちら目線で話を合わせてくれる方でした。
彼女が「日本赤軍」という組織のカリスマで、そのカリスマ性がどこからくるのかも、少しながら分かったような気がしました。



さて。
日本赤軍とはどのような組織なのか、ここで簡単に説明させていただきます。
まず、赤軍派という元になる党派がありました。
赤軍派は失速する学生運動の倦怠から生まれ、先鋭化した、「武装闘争で革命を」という党で、首相官邸占拠などを計画していました。
しかし1969年11月5日、大菩薩峠事件とよばれる一斉検挙によって指導部が一気に逮捕されます。
この後に議長である塩見孝也さんも逮捕され、残るメンバーの一部は「よど号ハイジャック事件」によって北朝鮮に飛びます。

指導者を失い、弱体化した赤軍派は、後に「あさま山荘事件」を引き起こす森恒夫さん(後に獄中で自殺)を代理的にリーダーとして立てますが、これに離反するかたちで重信さんはパレスチナに飛びます。
ここに京都パルチザンの奥平剛士さんらが合流し、PFLPと共闘することで、日本赤軍の元となる日本人ボランティアがうまれます。

奥平さんらは、のちにPFLPの「アウトサイドワーク」(域外活動局)の義勇兵となり、安田安之さん、岡本公三さんと共に1972年5月30日「リッダ闘争」(テルアビブ空港乱射事件)を闘い、奥平さん、安田さんは現場にて自決、岡本さんは自決に失敗し、イスラエル当局に拘束されます。

この日を起点として、このリッダ闘争の意思を受け継ぐ日本赤軍の前身組織が形成され、その後の1974年末、重信さんらは日本赤軍を名乗るようになります。
これはPFLPと「共闘」しつつも、それとはまた別個の組織でした。

ちなみになぜこのような特殊な立場に立てたかというと、アラブ世界では奥平さん、安田さん、そして岡本さんも英雄なのです。



70年代を中心として幾多の武装闘争(日本政府から見ればいわゆるテロ)を闘いぬき、2000年日本に戻っていたところを逮捕された重信さん。

わたし自身は思想的に日本赤軍の活動に同調する者ではありませんが、彼らのやったことには、非常に歴史的な意義がある、と思っています。
ここがすごく重要で「世界の中の日本」を、なんのフィルターも通さずに見るには、こうした歴史的事件をもっと、あらゆる目線で解体する必要があると思うのです。

ちなみにリッダ闘争はウィキペディアによると「テルアビブ空港乱射事件」となっています。
内容も「無差別乱射」となってい、どう考えても「イスラエル寄り=米国寄り=日本政府寄り」の見方です。そして多くの文献や情報もそのようになっているのが見受けられます。


話を重信さんに戻します。
確定の1日前、14日に面会した時のことです。
わたしはこの日、メル斗さんからいただいた、重信さんに関する昔の新聞のコピーを持っていきました。
その見出しにはこうあります。

「アジサイの好きな娘がゲリラに飛びこむまで」

これを見て重信さんは、とても嬉しそうな表情をされ「この記者さん、わたしがアジサイ好きなことよく知ってるわねえ」と笑っていました。
そして「これ、こっちに入れ(差し入れ)てもらえますか?」と。

そうか、こういうの嬉しいんだ、と、ちょうどいろいろな資料を探している折の刑確定でした。

あと一回、あと一回だけでいいから会いたかったです。


これからは面会も郵便のやりとりも、いまよりもっと難しくなるみたいです。
わたしの方は、まさにこれから書いて出そうと思っていた「手紙によるインタビュー」を試みようと思った矢先でした。
ただ、郵便も差し入れも可能なので、帰ってくる期待はしないまでも、手紙だけは出そうと思っています。



アジサイの好きな娘がゲリラに。
日本に住む一人の可愛らしい女性が、なぜ世界を相手に闘うに至ったか。
その軌跡を少しでもつかむため、これからも出来る取材は続けていこうと思います。



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青春

2010-07-06 03:18:43 | 映画制作
いくら俯瞰しよう、俯瞰しよう、とがんばってみても、どうしても近づくにつれて、目線が近くなっていく。

歴史として総括する必要、とふんばってみても、どうしても感情移入して見たり読んだりしてしまう。


某日。
取材先のとある会合に参加されていたことから、元連合赤軍の植垣さんに取材の申し込みをさせてもらった。
それにあたって著書である『兵士たちの連合赤軍』を購入した。
その帯にこう書かれてあった。


「壮絶な青春」


青春。
ああ、この響き。わたしは中学時代、ジョージ・ルーカスの出世作である『アメリカングラフィティ』を観てからというもの、青春という言葉が持つ独特の響きに、過剰なくらい敏感になってしまいました。
それは今でもそうで。
「後悔のない、すばらしい青春を送るんだ!」とか息巻いてたのが「あーーーーー」とのたうちまわるのに変わったくらいです。

現実は「精液」と「自意識」と「きまずさ」がその殆どを占めていたんですね。

はは・・・・


青春。
話を元に戻します。

「壮絶な青春」とは鮮烈な一言でした。

そうだ。
生きる死ぬまで最終的に追い詰められた、追い詰めた、彼、彼女らも、それはまぎれもなく「青春」だったんだ。
距離を置くのも大切だけど、革命運動に身を投じた彼らの大半は「青春時代」をそこで過ごしたんだ。

希望、情熱、恋愛、後悔・・・・

青春という切り口、誰だって持っているもの、その前提と普遍性があったからこそ、あの時代があったんだ。


なんというか、そういう頭から水ぶっかけられた思いでした。



今でも、作家・倉橋由美子の言葉「彼女は、人知れず微笑んでなどいない」という言葉には同意です。
しかし一方で、そうそう冷たくもあしらえない、「微笑まぬ理由」も考えるようになりました。

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東京拘置所に行ってきた

2010-07-02 04:15:11 | 映画制作
元日本赤軍最高指導者・重信房子さんの面会に、小菅の東京拘置所に行ってきました。
重信さんのことはまた別に書くとして、今回は体験記的なものを書いておこうと思います。

また、こういった情報はなかなか集めにくい、リアルタイムな情報が入りにくい、という面もあるので、他の人はともかくとして、わたしが体験したことをありのままお伝えします。


まず東京拘置所(以下、東拘)への行き方。
電車の場合、小菅駅で降りるか、綾瀬駅で降りるかの2パターンあります。
東拘入り口まで小菅の場合約10分、綾瀬の場合約20分くらい。
普通は小菅ですが、綾瀬からだとこのように、遠くから拘置所を見ることができてお得。


ちなみにこの辺まで来ると活気のある綾瀬駅周辺から少し離れるため、人通りの少ない寂しい風情となりますが、わたしは好きな雰囲気です。

綾瀬川を渡り、間もなくすると外壁と拘置所が見えてきます。

外壁は取り壊し工事が進みつつあり、この歴史をきざんだ古い壁が今に無くなってしまうのか、と思うとちょっと残念な気持ちになります。


しかし遠い。
入り口に行くためには、このようなこれ、なんて言うんでしょう。池?みたいなのをぐーーっと回らなければいけません。なんの意地悪だこの作りは。

デカイ鯉やカメがおり、近所の人に親しまれているのか人になれていて、手をパンパン叩くと近寄ってきます。
そういうどうでもいいプチトピックス。


さて。
ここまで来ればもうちょっとです。「東京拘置所前交差点」

ガゼン雰囲気出てます。足元ガン見されてます。

有名な差し入れ屋さん。わたしはここでは買いませんでした。


そしてこれが門。

なかなかに恐ろしげな威容をたたえるこの外壁も、ここを残して殆ど取り壊されており、今は仮設の工事中みたいな壁がしつらえてありました。


さて、中へ。
冒頭の写真が東拘を正面から見たところです。
この日、面会には3人で行きました。一日一回、一回につき3人までの面会が可能みたいです。
さらに、これは最近改定されたのか分かりませんが時間がたったの10分しかとれませんでした。ちょっと前まで30分だったのに。
面会って、このように半日がかりなんですね。なのに10分はないよなー。


中に入り、とりあえずわたしは差し入れをしたかったので、拘置所内の差し入れ屋さんに行きました。
ここはすごく便利です。
差し入れるものを書類に書かなければいけないのを、店のおばちゃんが注文を聞きながら代行して書いてくれます。なにより、そこにあるものは全て、審査を受けなくても「絶対入る」ものだから、余計な考えをしなくて済みます。初心者には助かる。

その後受付で名前等を書き、番号が呼ばれるまで待ちます。
呼ばれたらボディチェックを受けに行き、服以外のものはほとんどロッカーへ。もちろん腕時計や筆記具なんかはいいですが、携帯などは絶対ダメです。


チェック後、ドアを開けてさらに中へ進みます。建物が新しいからキレイで、コンクリート打ちっぱなしの味気ない内装が、ややオシャレに感じられます。
そして指定の階、部屋番号へ行き面会、と相成ります。

3人で10分なので、ほとんど喋れませんでしたが・・・



以上です。
全体としてはやはり、ずーんと沈んだ空気があり、なれないと雰囲気に酔うなーと思いました。ただしかし、建物が現代的なのには驚きました。

また来月行く予定なので、その時は重信さんのことについて書こうと思います。

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安保闘争50周年の日

2010-06-17 03:47:50 | 映画制作
先日の6月15日は、60年安保闘争の国会突入から50年の日でした。
それはつまり、突入で亡くなった大学生・樺美智子さんの死から50年ということでもあります。


以前のエントリー「6月15日」でも触れましたとおり、50年前のこの日、国会議事堂前で大規模なデモが行われ、学生や労働者は共産主義うんぬんより「民主主義を守るため」国に闘いを挑みました。
しかし結果、新安保は調印され、その後岸首相は退陣しました。
冷静に見れば左翼政党がどうとかより、この時点では「新安保は帝国主義への返り咲き」を懸念した市民たちの反乱だったように思います。
一応補足しますと、岸首相はA級戦犯です。


わたしの考えは以前と変わらずでありまして、一人の人間の死を政治に利用するのは健全なことではないと思います。
これは完全に感情の利用運用で、そんなことを軸や理論として政治闘争に持ち込むのは甚だおかしなことです。
はっきり言えば、もの言わぬ「個人の死」というものを、生きる人々が搾取しているように感じるのです。

「じゃあ黙ってろよ」と言われるかもしれませんが、70年安保の火蓋が切って落とされるのはまさにこの事件からなので、そうもいきません。
もちろんこうして、献花などする分にはなんら問題なく、いいことだとさえ思いますが。


献花が始まりしばらくすると、近くを右翼の街宣車が通りかかりました。
あまりにうるさいので、老境にある一人の男性が杖をつきつき一人、彼らの元へ向かいました。慌てて後をついていくおまわりさんや公安の面々。
男性はさとすように「君らのことは否定しないよ。しかしわれわれの存在もあることを考えて欲しい。今日は50年前にある人が亡くなった大事な日なんだ。イデオロギーに関係ない、人間的なことだよ」

すると右翼は話をマジメに聞き、最後、献花を続ける人々に一言「うるさいって言ってきたのはテメーらだ!こうやってちゃんと話すれば聞くんだ!」と毒づきながらもUターンして道を戻っていきました。


この、一人で説得に向かった方の名前は蔵田計成さん。
元ブント(共産主義者同盟)の活動家です。
こういった撮影をする中で知り合った一人で、当日のインタビューでこんなことを言っておられました。

「樺さんの死は『一人の死』。死は一人だろうが多人数だろうが、とてつもなく重いもの。僕はそういった死をもてあそぶようなことはしたくない。樺さんのことを『聖少女』とよんだりするのも断固反対だ。政治的にまつりあげるべきことじゃない。
本当はこういった晴れがましいもの(献花)にも来ない方がいいのかも知れない。だからこそ、ここに来なくても、今日、国会の周りに何人かの人々が一人一人で弔いに来ている」



己が進んだ同じ道、大義にある死だからこそ、向かい合わなければならない「何か」があるんだろうと思います。
同時に、蔵田さんのように、大義というものに振り回されない「厳粛なものを当たり前に厳粛に扱う」姿勢こそ、われわれが学ぶべきものであるとも感じるのです。

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闘う 西成の労働者

2010-05-19 02:34:46 | 映画制作
          (写真:左と奥の人物が警察)

週末大阪に行ってました。
いつものごとく西成で宿をとり、そこらへんブラブラほっつき歩いてたんですわ。
そしたら通天閣の真下から拡声器を使ったデカイ声。

よく吉本のライブのチラシ配りとかしてるので、それ関係のパフォーマンスかなーと思ったら、いかにも怒声。
よく聞くと通天閣を批判している。


訴えとしては、通天閣は無料で登れる部分があるんですが、釜ヶ崎の労働者は差別されて登れなかったと。

以下、覚えている部分
「釜のおっちゃんたちがどれだけ新世界に金落としてんねん!新世界はおっちゃん達の遊ぶ場所やろ!通天閣は庶民の味方ちゃうんかい!管理人出てこんかい!!」

しばらくすると私服の刑事がやってきてヒートアップ。
「みなさんこの人ポリでっせー!おい!お前らが何やっとるか知ってんねんぞ!ここで言うたろか!お前らの言うこと聞くくらいやったら死んだるわ!!」


そして話は、07年に施行された、アオカン労働者の住民票抹消についても。
これによって西成の労働者は、ほとんどが選挙権や公民権を持っていません。
就職もできません。
まさに「格差社会」ってやつの縮図です。


大阪を清浄化するために行われたことでも、現実の釜ヶ崎、いわゆるあいりん地区は「行政の矛盾のツケを払う場所」みたいになってます。
実際ここには全国から職を失った人や、アウトロー達が集まっています。職安であいりんを紹介された、って話もあるくらいです。

ツケがあるとして、そのツケを払うのは行政でなく、末端の労働者という現実。


ここに「闘う理由」が生まれます。


背の低いおばちゃんが、仲間と一緒に装飾リヤカー引いて、拡声器でアジる。
これぞ闘い。

血が沸きあがる感覚を覚えました。



「闘う」ってのはすごく崇高なことで、その理由があるってことは非常に稀有なことです。
今、われわれが闘う理由を探したとして、格差や基地問題などいろいろあることはありますが、それらがことごとく血を沸かせるような沸点を持ち合わせているかというと、少なくともわたしにはありません。
ただただ、クソリアルなだけで、それを訴えることで得られるロマンは?その先にあるものは何か??
考えただけで無気力感に苛まれる。





話を少し変えます。
学生運動。
彼らにとっての闘う理由とは?

「革命」と「戦後」だと思います。

彼らにとって「革命」はマジで、「戦後」という言葉がリアルだった。
本当に夢のような社会主義国家ができると思っていた人たちがいるし、国が再び軍国主義になるかもしれない、という危機感があった。
もっと細かく言うと、学生は今よりもエリートだった。「俺たちがやらなければ」という責任感があったことでしょう。


確かに「みんながやってるからなんとなく」って人もいると思う。
でも、こんなことされてまでやるか普通?


          (「戦争がはじまる」福島菊次郎:機動隊員に暴行を受けた学生)

釜ヶ崎のおばちゃんを見て「闘う理由」について考えさせられました。
イデオロギーうんぬんじゃない。
自分より大きなものに全力でぶち当たれる勇気と行動力。それは闘う理由にこそある。

これが造反有理。

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「塩見孝也・生前葬」に見た、怒りの果て

2010-05-01 23:02:47 | 映画制作
このブログを最近から読まれている方に説明させていただきますと、僕は3年ほど前から個人的に、ある映画を制作しています。
といっても空白期間があるので実際にはそんなべったり作ったりしてるわけではないのですが・・・

内容はいわゆる学生運動、細かく言えば主に“70年安保”と呼ばれる学生主体の政治闘争に関わった方々のドキュメントです。
ゲバルトデモを中心とした当時の映像をひとつの柱とし、あの「思想の季節」と呼ばれた時代を血まみれで疾走した団塊の世代が、昔と今、どう生きたのか、そしてわれわれ息子世代がそこからなにを受け継ぎ、歴史に向かってなにを恢弘すべきか。
そういったことを訴える内容のものにしたいと思っています。


学生運動について、あまりにもわれわれ息子世代が無知すぎると思ったのが制作を思い立ったキッカケです。
世の中が極端に右傾化する体験をしたわたしにとって「権力と闘うってつまりどういうこと?」という問いは政治的なものでなく、生きることとも直結していました。
権力とは国だけではありません。
あるいは職場、あるいは個人的な人間関係においても、です。
さきほど歴史なんてたいそうなこと書きましたが、実際それは自分が生きる上でのささいなことと非常に強く繋がっていると思います。

社会において自分の価値をどこに置くか、どう考えるか、という問題とも言えるのか・・・
ああ、長くなってきたごめんなさい。


つきつめると『正しい反旗のひるがえし方』を知りたいのです。
彼らが正しい、というのではなく実践した彼らから学び、自分たちはどうするか、そして彼らのやったことに対し、きちんと歴史的な評価を下すにはどう考えていったらいいのか? という部分まで。


とはいったものの、それで自分は何をしたらいいのか分かりませんでした。
歴史の判断が下されていないものに対し、自分からアプローチするということはものすごく難しい。
あと、ぶっちゃけるとわたし自身ただのオタクなので、歴史的にどうとか、そういう視点を持てないのです。
それでもなんとかしたい、と頭の中だけでウロウロしていたある日、このイベントを知りました。


『塩見孝也・生前葬』


これだ、と思い再始動のキッカケとしました。
塩見孝也さんは、日本赤軍、連合赤軍、よど号グループで有名な赤軍派の元議長です。

赤軍派がいよいよ本格的な武装闘争に乗り出す前にパクられてしまったのと、そもそも主要な幹部が一気にパクられてしまったのとで、歴史に刻まれた赤軍派は彼の思い描いた革命運動とは違う方向に進んでいきます。

つまり「赤軍派→連合赤軍→残虐な集団→その残虐な集団を指揮した塩見孝也」というわけではありません。
ここらへん、すごく複雑なのですが、連合赤軍と塩見さんの思想とはえらく乖離している部分があります。そもそも「連合」です。京浜安保共闘という別の党派が合流しています。(これまた複雑、と言うか人間の心理に関わってくる部分なのですが、これが例の“同志殺し”に繋がった一因でもあります)


連赤事件、よど号ハイジャック、日本赤軍による海外におけるテロ。
こうしていろいろあった、いやありすぎて新左翼運動をぶっつぶしてしまった(特に連赤事件によって)わけですが、19年近い獄中生活を送ったあとでは、それも全て手遅れでした。
このあたりの心情について、ロフトの平野悠さんがすごく分かりやすくブログに書いておられました
つまり、出てきたときには味方はいなく、言い訳も許されない状態。
死んでいったものに詫び、生きている者に反論と同時に同情もしなければならない。
自分が実際に手を下したことならまだしも、そうでないことで。
個人としては極めて重い十字架を背負わされています。


しかしながら、そういった暴走にはしる「論理」の元を提唱したのは彼自身であるので、だからこそこうして何度も「総括」をしているのでしょうか。
のかな?



で、生前葬にお話を戻します。
このイベントは上記のような総括的な意味合い、そして自らが初めて知った労働というもの(左翼は労働者を指揮する立場なんですが、自身が働くのは初めてだそうです。そりゃそうだ)を知り、さらに沖縄の普天間基地問題を闘い抜くために生まれ変わる、ということだそうです。
個人的な恨みはないので、普通にご立派だなーと思います。

ビデオカメラ抱えて一人で行ったので写真はあまり撮れませんでしたが、様々な方が“弔辞”に訪れていました。
以下、写真ある方だけ。

映画『赤軍-PFLP 世界戦争宣言』 『連合赤軍 あさま山荘への道程』の若松孝二監督



社会学者の宮台真司さん



かつて赤軍派と対立した三上治さん




さて、この後パーティー的なものが行われたのですが、私はその隙にインタビューを試みました。

塩見さんご本人はもちろん、ずっと以前からお会いしたいと思っていた一水会顧問・鈴木邦男さん、たまに朝生にも出ていらっしゃる雨宮処凛さん、そして三上治さん。
三上さんに「かつて敵対した人間を、今はどう思われますか」と聞いたら「それはそれ。矛盾をかかえながら生きていくものじゃない」とのこと。
会場もわきあいあいとした雰囲気。葬というより、パーティーといった感じ。


そんな中、鈴木邦男さんはこのように答えてくれました。
「ガッカリした。もっと何かあるのかと思った。昔こんなことしたら、学生がヘルメットかぶって『ふざけんな!プチブル(小市民)的だ!』って壇上に上がったもんだけどね。(敵同士だから)昔われわれが話すなんて考えられなかったが、それは良くも悪くもある。悪いことの方が多いんじゃないかな。今は緊張感と言うものがまったく無い」

当時、右翼学生でバリバリの武闘派だった鈴木さんは、笑いながら塩見さんの生き方を「マンガですよ、マンガ。すべてマンガみたい」と言っていました。
そして、塩見さんはといえば、著書の中で赤軍をこう語っています。

「赤軍の核というのは、ロマンチシズムなんです」

それはよど号グループが「われわれは“明日のジョー”である」と犯行声明を出したことと合致します。


2年前、まったく合法的な非暴力のデモに参加する塩見さんをインタビューしたとき「いいんじゃないかね、こういうのも」と笑顔で答えてくださいました。

お互いを肯定する、というこの度量は、昔の新左翼とはまったくえらい違いです。特に赤軍派が非暴力なんてことはありえないでしょうから・・・
しかしこれも全て「ロマン」という人間が動く大原則に内包されているのだと思います。

確かにはたからみているとヌルさはあるけど、かつて命をかけ合った人間たちだからこそ、許される部分なのかもしれません。



わたしは少なくとも、今のデモにはロマンのかけらも感じません。
彼らが敗北したとして(「革命」が起きてないので、現実的に見て敗北したと思っています)、その敗北で最も問題なのは、デモを文化として民衆に定着させられなかった点だと思っています。

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一眼レフ動画

2009-11-02 01:41:47 | 映画制作
たまには映像屋さんらしいことを書こう。


映像屋・・・
にしてはずいぶん知識ないんですけど一応それでいまんところ食べてるので、映像屋ってことにしておきましょう。

本当にわたしは映像に関する知識がなくて、映像業界の底辺のすんごく狭いところをちろちろ歩いて生きてます。
多分ガチガチの映像屋さんからすると、僕みたいなのは「そんなんでいったいどうやって食べてるんだ・・・」と思われるかもしれません。
それはわたしも不思議です。

技術無いからってディレクターってわけでもないし、どれでもないからってマルチなクリエイターでもないし。

いや本当に不思議。
この年でやばいくらい何も無い。ちょっと道から外れたらおちてしぬ
っていうくらいのもんです。吹けば飛びます。



さて本題です。
中古ですが、やっと5D MarkⅡ購入しました

これが何かと言いますと、去年出た「動画も撮れる一眼レフカメラ」なんであります。
最初、この話をネットで見たとき「けっ そんなオマケ機能みたいんでちゃんと撮れるんか」とはなくそほじほじ馬鹿にしていましたが、こちらのPVを観て一発でやられました。


Sample EOS 5D Mark II Video: Reverie


うぇ
なんだこれこんな映像観たことない!!すげええええええええ!!!ほしいいい!!!

ってなりました。
でも高かったんですね。だから買えずにいましたが、今回縁あって中古で購入となりました。


じゃあ撮影しようか、となったんですが、メディアがコンパクトフラッシュ・・・
さすがプロ仕様だぜ。
コンパクトフラッシュなんて5年くらい使ってないよ。
持ってるので最高256Mとかだよ。なので16Gポチったよ。ついでに予備バッテリーも。

と、全てそろった週末、日曜。
とりあえず新宿を撮影してきました。
なんで新宿かというと、好きだし、ある程度なじんでてどこに何があるか分かってるから。
新しい機材を試すときは少しでも軽い気持ちでやりたいものです。
なので勝手知ったる新宿へゴー。


くもり。
思い出横丁周辺やらをプラプラ撮る。

スゲー!!!うはーなんこのボケ味。
このギラギラなエッジ。うおー・・・
でもなんか綺麗に撮れない。つうか難しい。このフォーカスあわせるキリキリ感は・・・
ああ、これいわゆる「カメラマン」じゃないと扱うの難しいなー・・・

このような新しい機材を手に入れたら必ず感じる新鮮味と違和感を楽しみつつ撮影。
その後、飯食ってコーヒー飲んで一休み。
で、次は新宿御苑に行ってきました。ここは入るの初めてでした。
家族連れがワーイワーイお子と遊んでたり、カップルが漫画みたいな感じでいちゃいちゃしてたり。
恐ろしいほど平和な風景でした。
こういうのって、地球規模で考えたら「平和な風景トップクラス」なんだろうな。
つうわけでワーイワーイやいちゃいちゃを撮影。

夜から雨が降るというので、夕方帰宅。

さっきまで編集機いじってました。


いやもう分からないことだらけで・・・
とにかく動画のファイルがものすごく重たいんですね。カメラからそのままの動画素材をEDIUSに持ってくると、再生するだけでエラーが起こる。エラーというか、処理がおっつかなくて再生を止められる。(私の環境では)

まずこれをまともに編集できるようにトランスコードしなきゃいけない。
そのフォーマットってなに?EDIUSでできんのか?
えーと、へーそういう規格があったんだ。
こうしてこうして・・・できたー
あと書き出しはどうやるんだろう・・・フムフム←今ココ



このように動画のフォーマットについてほとんど分かっていないわたしは、
こういったことにものすごく時間をかけてしまいます。
多分ある程度知っているアマチュアさんより知らないと思う。変な言い方だけど。

でも久しぶりに自分から新しいことをやると、脳が活性化されてきもちいい実に。
このまま撮りためて、ドラマでもなんでもない小品を作ってみようかと思います。



写真は思い出横丁前で。
撮影してたら外国人のお兄さんがずっとこっちをニヤニヤ見てた。
いや、ニコニコかも知れん。

とりあえず、普通にスチールカメラとしてもすごくいいです、もちろん。
ただ重たい。
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映画制作について

2009-08-24 04:02:19 | 映画制作
わたしがこの先、製作途中だった学生運動に関する映画を完成させるのか、待っている人はいなくても発言だけはしときたいので久々にそれについて書きます。


現状はお膳立てが整った状態です。
ほとんどのインタビューしたい人には会うことができ、また名刺もいただきました。
しかしそれ以降、ここ一年はほとんど動いていません。


お仕事に集中したかったのが一番の理由です。
理由になってないかもしれませんが、それは「金」と「不安」の両面からきています。
とにかく映画を作ろうというのにお金が無かった。
でも今回の映画は無くても撮れると思っていた。

実際、撮れると思う。

しかしそういう冒険をする勇気が出なかった。
不安。

「仕事しなきゃ」という不安です。
わたしみたいな、ほとんど職質されたら答えようが無い職業の人間は、自分の「職業」に対する拠りどころが無いので、常に仕事をしていないと「このままじゃ餓死するんでは」という謎の強迫観念にとらわれます。

そういうことをやっているうちに、お仕事に対するプライオリティがぐんぐん上がってきて、いつの間にか映像にさく時間が「仕事」で埋め尽くされてしまいます。



これらは全ていいわけです。
再開は年内にはするでしょう。
ただ、どうしてもひっかかっていることがあって進みません。
「君は僕の事をどれだけ知ってるの?」


これ、次に言われると、もう自分でもどう思うか分からない。
当事者にとっては、取材する側の及びもつかない領域だけに。
一応、命張ってたんだもんな・・・・

中にはホントにどうしようもない年寄りもいるけど、「戦ってきた人」たちは違う。
われわれとは人種も、人生観も違う。優しく諭してくれるということもあるのか分からない。
ある元・武闘派と言われる大物と会ったときは、怖くて震えた。
あの人を僕が取材するとして、キチンと目を見て話せるだろうか。なんか問い詰められたらどうしよう。すごく怖い。


でもだからこそやる価値があるんだと思う。


ここで再開するにしてもしないにしても、わたしの立ち位置をはっきり残しておこうと思う。

学生運動に関する思想を一元化して「こうだ」と言うことは出来ない。
新左翼だけでなく、民青もいたし、アナーキストもいた。
その新左翼でさえ分裂を繰り返し、殺しあうまでになった。

はっきり言って、歴史として俯瞰して見るなら、愚かしくて評価なんてできない。
しかしそんなふうにうっちゃっていいものだろうか?
自分たちの親と同じ世代の人々が、国家権力と闘った。思想がどうとはいえ、「闘った」という事実。
闘った人間を、行動した人間を、なにもしてないわれわれが「無意味だ、愚かだ」と言うのはおかしい。
だって、彼らは歴史上の人物ではない。今、まさに生きている人々だ。自分と同じラインで評価しなければならない。
「じゃあお前はどうなんだ」


これに対する答を、出したい。
わたしは、われわれはどうであったか、という答を出したい。

三島由紀夫はかつて、東大全共闘を相手に
「そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい」
と言った。

それは一般人で、何もしていないわたしも、同じ気持ちです。
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6月15日

2008-06-15 09:05:03 | 映画制作
1960年6月15日、国会南通用門では安保批准阻止闘争のため、全学連主流派による7千人規模のデモが行われていました。
ここで、日本の学生運動史上初の死者が出ます。

東大生の樺美智子さん・22歳。

死因は今に至っても不明。
当時の機動隊員、ことにその時対峙した第四機動隊は、後年「鬼の四機」と恐れられるほどイケイケで、警棒をガンガンやってたので、それによる昏倒、その他諸々によって「権力に殺された」とされる見方が大半を占めるようです。

しかし一方で、作家の倉橋由美子のように「彼女は人知れず、微笑んでなどいない(樺さんの遺稿集『人しれず微笑まん』よりの引用)」と、集団的行為の中の個人責任、また、反権力が「死を利用する」ことに対して苦言を呈している場合もあります。

当時の報道写真集『ゆるせない日からの記録』には、血まみれになって路上に用意された毛布に倒れこんでいる学生、そしてその中には、恐らくもう息を引き取っている樺さんも写されています。


先日、国会南通用門前において、樺さんの遺影への献花が行われました。
その中に樺さんを、昏倒した現場から引きずり出したうちの一人であるという方がいました。
インタビューしたところによると、今まで本などでは伝わってこなかった生々しい言葉が聞け、ちょっと驚きました。その証言は、感傷的な新左翼的発想ではなく、現場を見た人間の「声」でした。
これに関しては内容が内容なので、ウラを取って本編に入れることにします。


その後、日比谷小音楽堂にてフェスタ。
そこでこの映画を作る、と決めたときからマークしていた人物の内の、二人に一気に会うことが出来ました。
挨拶をし、インタビューをお願いしたい旨伝える。ありがたいことに、お二人とも受けて下さいました。


やがてフェスタが終わると今度はデモへ。
デモの規模はかなり大きく、おまわりさんの数もものすごい。
最近は公安さん達も一目で分かるようになり、そういう人達にカメラを向けると、すぐに隠れてしまいます。
公安には主に2タイプいて、スーツを着て耳に小型インカム(?マトリックスのエージェントが着けてるアレです)つけてる人、まったくの私服の人。
いずれも、メモになにやら書き書きしていたり、用もないのにじっとデモ隊を見てたりするので、雰囲気で分かってしまいます。

逆に公安に間違われるといったハプニングも。

隊列には入っていなかったけど、左側と思われるお方が「うるせえこの税金ドロボーどもめ!!」などと、とにかくものすごい剣幕でおまわりさん達に喧嘩売ってます。
それをカメラに収めていると「おい!何撮ってんだよ!!」と怒られました。
「一般人です。撮影させてください」と返すと「なんだ公安じゃねえのか」と。
それでもずっと撮影していると「もういいよ!撮るんじゃねえ!!」と、こちらにもふっかけてきました。冗談じゃない。路上で撮られるとまずいようなことをやってるのか。がなり立てて、わあわあやっといて、一般人に向かって「撮るな」は、ない。

かなり口汚くののしっていたのですが、しかしながらこういう人は、デモの中に一人ぐらいいてもいいと思います。中途半端に挑発してる人はみっともないけど。

途中で右翼の方々も街宣車で対抗。
いちばんあせっていたのは、おまわりさん達。

デモが終わり、参加していたアメリカ人留学生の方にインタビューしてみました。彼は大学で、学生運動を研究しているとのこと。
「70年前後の日本は、世界的にもラディカルな存在だったです」
それで今、なぜこのデモに参加したんですか?
「まあ、ひとつの、国際連帯です」
へぇー!なんだか、外国人の方からこうした言葉を聞くとホントっぽいです。


デモのシュプレヒコールで印象的だったのが、「若者を生きさせろ」とのこと。
フリーター労組系(ていうのかな?)も連帯しているからかもしれないが、なんつうか、ロマンもへったくれもない、リアルな言葉だなぁ。しかも年寄り連中にこんなこと言われるなんて。今の若者って、そんなに社会に責任求めちゃってるのか?余計なお世話だと思うんだけど・・・
こんなこと叫んで、鼓舞するものがあるのかしらん。しかもこのデモって、9条改憲阻止が目的なのに。

樺さんがこのデモを見てどう思うかは分からないけど、まだ22歳のままなら微笑むというより、引くんじゃないでしょうか。
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怒り

2008-05-12 02:44:29 | 映画制作
もともと学生運動について調べようと思ったきっかけは、それに対する怒りによるところが大きかった。
わたしを含め、同世代の人間が一気に右に傾いたという過去は、きっと彼らが作り上げてきた「環境」というものがわれわれへの「反動」という意味で大きく関与していると思った。
人間の個性は、ただ自分の中だけで作られるものではない。自身をはぐくむ環境から、多くのものを吸収して人格に影響する。

彼らについて、若い頃、いい意味であれだけのことをやっておきながら、今はのうのうと企業のイスに鎮座しているような連中が許せなかった。
結果的に自分達の子供世代がこういった状況に陥っていることに対して、なんら自責の念を抱かないのは、許せなかった。

そう思い始めてから、いろいろな体験をし、またさまざまな人に会った。
総括しきれてないと言うなら、死ぬ前に、俺がさせてやるんだ、と、会う人間会う人間を敵視した。
そういう姿勢で接するから、ある人からは「俺はあんたを心底軽蔑する!」と言われた。

あれからしばらくたって、今はそんな怒りも消えた。
それは、正体が分かったからだ。
実際会い、自分の中で人格化がなされると、霧のように不定形な怒りより、目に見える個人としての見方が強まってしまう。
そういったことは、往々にしてどんな人間に対しても、あると思う。


話はそれるが、ネタにしていたグラビアアイドルにひと目でも実際会ってしまうと、それから二度とおかずになり得なくなる。
人格化された女性に対し、相手の了承も得ないままいたすことを、身体が拒絶する。
ぶっちゃけて言えば、ただ単に、気おくれする。つまり勇気がないんです。

道理としては同じ。
しかし個人として見ても、いや、だからこそ許せない人間もいる。
そういう人に、最近会った。

ある会合にて。
その人は懇意にしてもらっているMさんの元同志だが、酔うと過去の遺恨について、口汚くののしるようになった。
そういった政治的な話題ならまだしも、ついには「こいつは俺よりモテねえんだ」なぞとくだらないことをぬかすようになる。

Mさんも最初はつられて「なに言ってやがんだ」と反論はしていたが、やがて「・・・いや、まぁいい」と何度も落ち着かせていた。下品な話に乗らないために。
しかし相手はエスカレートさせる一方で、話は年金にまで及んだ。
「Mさん、いくらもらってんのよ?え?○○万?いいねぇ~俺なんかたった○○万ぽっちだよ。いいご身分だ」
ここまで来ると酔いでは済まされない。社会性のあまりに乏しい言い回しに寒気すらおぼえる。これが本当に、かつての闘士か??

年寄りは、酔うと自慢話をよくする。
彼も例外ではない。それが、決定的だった。
「俺のやってるとこ(不動産業)に昔、麻原が来てよう。物件を世話してやったんだ」「そん時に革命やら闘争やらについてちょっと話したのよ。そしたらまさかあんなことになるなんてなぁ。あいつ、俺の話、本気にしやがって」

なんてつまらん人間だろう、と思った。
自分がオウムのイデオローグだとでも言いたいのか。だったらあんたは、裁かれて死ぬべきじゃないのか。
何より、そんなことを笑って話す神経が信じられなかった。どういう状況であれ、この話題は厳粛にならざるをえないものなのに。学生運動とは違う。過去のことではない。

ただ、目の前からいなくなって欲しかった。でも自分が立ち去るのは嫌だった。
「あなた、下品ですね」
そう言うと彼はやっとで下品な会話をやめ、「おあいそしてくる」と席を立ったまま戻らなかった。トイレにもいない。どうやら帰ったらしい。


わたしが一番嫌いなのは、口に思想がどうの、政治がどうのと言う奴が、人間的に不道徳だったり、不義理だったりすること。小学校の道徳の時間に習うような基本的な人間の道徳心を持っていない人間が、それより大きいことを言うのはあきらかな間違いだから。そんな悪辣ことやっていい人間は、そういう覚悟を決めた政治家だけだと思う。
市民であるのなら、絶対にやってはいけない。

わたしが本来持っていた興味の本質は、こういった人々に向けられるべきなのかもしれない。
しかし実際、身銭をきってつまらん人間の話を聞こうとは思わない。

結局、笑って話せるのは年寄りだからだ。年寄りだから、今のこと、未来のことなどどうだっていいのだ。自分はあと、死ぬだけだから。
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広島・山口旅行記<3> 反権力の眼

2008-01-27 00:54:26 | 映画制作
<1>
<2> 続き。


前日の夜。
リュックの中の『ガス弾の谷間からの報告』を読んでみる。手に入れた当時の衝撃をたどるように読み「本当に聴きたいこととは何か」を自分に問うてみた。

翌日。8時起床。
柳井市へ向かう山陽本線の車中は、途中から乗っている車両にわたし一人になってしまうほど空いていた。
ただ、10月末だというのに快晴を照らす太陽が、窓越しにじりじりと暑かった。
しばらくすると車窓から海が見える。綺麗だな、と思うのも束の間、その向こうに、そしてやがては眼前に、コンビナートがそびえる。

約1時間で柳井市に到着。
柳井市は「白壁の街」として有名らしいが全国的ではないと思う。取材後日、地元の人に「ここらへんで、柳井市の特徴がつかめるような場所ってどこですか?」と聞くと、ある通りを教えてくれたが、その後「でも、人工的ですよ」と付け足すほどだ。
確かに、必死さが伝わってくる箱庭のように管理された通りだった。厚化粧のように施された白壁がお寒い。こういう「田舎くさいかっこうつけ」は、どこにだってある。なので「ここに来て」まで見たいとは誰も思わないんじゃないだろうか。
ただ、少し外れると昔ながらの白壁も現存しており、そこからは確かに歴史とか、情緒といったものが感じられた。

そういった化粧を施していない、タクシーから見る街並みは、ごく普通の田舎町という印象だった。

やがて福島先生のご自宅に到着。
部屋には同居人の愛犬ロクがワンとも鳴かず、こちらを興味しんしんに見ている。隅には数年前に自作した棺桶が。
もう年だということで「僕はそもそも君のことが思い出せないんだけどなぁ。ちょっとまた、自己紹介してくれるかい」と言われたので、6月、東京での講演会でのことをお話しする。そして現在何で食ってるかということや、この映画の製作意図という根本的なこともお話しする。


やがて、わたしが勝手に緊張する中、インタビューは始まった。
そこでお聞きしたことは、やがて完成するわたしの映画の中でお伝えしたいと思う。
ご自身の生い立ちから始まり、人生観や本題である学生運動についてなど。
持参した写真集で、特に気になった写真など、その舞台裏などもお聞きしたりした。

福島先生は、筋金入りの反権力者だ。
今まで二度、国側から命の危険を脅かされている。一度は放火による自宅全焼、一度は実際の鉄拳行使での重傷。
これらについて「いったい、誰がやったんですかね」と聞くとこう帰ってきた。
「国家なんてものは、邪魔な人間は簡単に殺すよ。僕は、殺されなかった。その程度だったってことだよ」

こういう言葉はなかなか信じられない人もいるかもしれない。しかし、先生自身、戦時中は他と同じく、ばりばりの軍国主義者で、国に逆らうことなど考えたこともなかったそう。そして、敵を殺すことこそ、正義と信じて疑わなかった。「陛下に命をお返しする」という言葉が、当たり前のように血肉化していたのだ。

ここからして、今のわれわれには実感が伴わない。何しろ自由とは、勝ち取るべきものではなく、「当たり前であるという、一種異常な環境の中」に生を受け、それを享受してきたからだ。

だからこそ、先生の言葉には迫力があった。むろん、防衛庁をだまして自衛隊内部に潜入、それらの写真を一般紙に売りつけるといった、普通では考えられないことを実際にやってのけた、という事実も手伝っている。そりゃ何らかの報復は受けるだろう。


最後に、今の人たちに期待するものは何ですか、と聞いてみた。
「こんな時代を作り上げたわれわれも悪い。しかし、そんなことは自分達で考えるべきだろう。突き放すようだが、86年生きてきたこの僕の、君は何がわかったのか?たった3時間ほどのインタビューで僕のことなど理解できやしないだろう」


先生は一時期、青酸カリ入りのペンダントを持ち歩いていた。
いつでも死ねるように。
そういう覚悟、孤独の中で生きてきた人間の、わたしは何を分かったフリをしようとしていたんだろう。
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広島・山口旅行記<2> 広島とヒロシマ

2007-11-30 04:32:36 | 映画制作
すぐ止まるだろうと思っていた涙も、なかなか止まらない。嗚咽が呼吸を乱し、それと恥ずかしさとで、近くのベンチに腰掛け、うつむいて呼吸を整えた。

なにがなんだか、分からなかった。どうしたんだろう?
冷静に今起こったことと、思ったことを頭の中で整理してみる。
たぶんこれは・・・・見たものの「温度差」に、心がびっくりしてしまったんだろう、と思った。

広島という、日本の平和な地方都市。どこにでもある風景。当たり前の平和。
ついさっきまで、ただなんとなく「広島についたから、原爆ドームでも見てこよう」と思っていた自分と、それそのものの、現物が証言する何かとの温度差。

写真やTVで何度も見たことがあるはずの「原爆ドーム」という記憶。
目の当たりにしてすぐ、思ったのは、「どんなにつらかったろうなぁ」ということだった。
頑強そうな建物がこんなふうになってしまっている。そこから突きつけられるものは、想像をはるかに超えていた。そしてそうなったのは、同じ日本人なんだということ。


一息ついて落ち着いたところで、ゆっくり、原爆ドームをぐるりとまわりながら見学した。
近くにはデパートやビルという、普通の街並みが透けて見える。
何を思えばいいのか、ちょっと分からなくなってきた。


平和記念公園へ向かう。綺麗に整備された、緑の豊かな公園。
昼を過ぎてから、修学旅行や社会見学の子供たちがどっと訪れる。そういう声や雰囲気は、学びの場というよりも、どことなく今の平和を実感させる装置のようだ。
カンボジアでキリングフィールドを訪れたときもそうだった。美しく萌える草木の中、蝶が舞い、近くに住んでいる子供たちが、遊び場としてはしゃいでいた。
人間というものは、過去、凄惨な記憶を持つ土地に演出を施し、そこからなにかを抽出しようとする生き物なんだと思う。

そして、平和記念資料館へ。
最初から最後まで、くまなく見て回る。歴史としての原爆、被爆としての原爆。
途中、もう嫌になって何も見たくない、と思うほど疲れた。こういったものをまともに一人で見続けるということは、本当につらい。
やがて、原爆の子の像のモデルである、佐々木貞子さんのコーナーに入る。千羽鶴で世界的に有名なサダコ。
そういえば、カンボジアで偶然、自費で学校を開校した日本人の方と知り合い、ちょうど明日が開校日だというので、その授業を見学したことがあった。その授業内容というのが、サダコの絵本を読み、みんなで鶴を織る、というものだった。
カンボジアという外国での体験と、今が直結していることに、少し不思議な感覚をおぼえる。
みんな、元気だろうか。そしてあの学校はまだあるのだろうか。



広島とヒロシマ。
この都市は、明確に二つの顔を持っている。それはとても複雑だし、大切なことだと思う。


つづく
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広島・山口旅行記<1> 見たことのない記憶 

2007-11-13 23:36:19 | 映画制作
ちょうど前日が、西新宿での打ち合わせだった。打ち合わせ後、コンビニで軽食を買い、深夜バスの停留所である都庁近くの駐車場へ向かった。
4日分の荷物が入ったリュック、カメラバッグに三脚バッグ。すべて持ち歩くと身体がとんでもなく重たい。ぎし、ぎし、と歩くたびに鈍い音がする。


10月末。わたしは広島へ向かった。山口県在住の元写真家の方に、取材をするため。
バス内では眠くなるまで車窓を眺め、サンドイッチをつまみにチューハイを飲む。3、4時間に一度サービスエリアに停まるので、トイレ休憩とちょっとした食い物で腹ごしらえをする。

こうして寝たり起きたりしつつ、広島に到着したのは朝の8時だった。
着いて早々、スコールのような土砂降りの雨に見舞われる。「これは動かないほうがいいな・・・」そう思い、広島駅で雨が降り止むのを待つ。

雨は30分ほどで止んだ。とりあえず空腹のため、店を探しに駅前を歩いてみる。

ところで以前、バスの乗り継ぎで広島にちらっと停まったことがある。その時思ったことだが、広島駅前(新幹線口)って、なぜかものすごく廃墟が多い。まるでゴーストタウンのような雰囲気だ。
そこで今回は滞在するということで、ちょっとこれについて調べてみることにした。
駅前をぶらりと歩き見る・・・・
やっぱり多い。団地や一軒家、商店まで。

不気味なほど多い。なんで???

さておき、腹が減った。
わたしは手ごろな、いかにも地元の人たちが行きそうな喫茶店を選び、そこでモーニングセットを頼んだ。うん、おいしい。こういう普通のでいいんだ。


さて、腹ごしらえも済んだし、とりあえずどうするか。取材は明日の朝から。それまでどう過ごそうか。
まずは、今日泊まる宿を探した。
おそらく付近で一番安いであろう駅前の小さな宿を見つけ、そこで泊まることとした。そしてそこのおやじさまにズバリ聞いてみた。
「あの、なんでこの辺りって、こんなに廃墟が多いんですか?」
「あー、ここいらへん、全部取り壊して、外資系のホテルが建つんだよ。再開発な」

なんだ・・・たったそれだけの理由か。つまんない。というか、本当につまらない。こうして古い建物がツブされて、かわりに真新しい、何の魅力もないものがそびえ立つことになるなんて。
広島は栄えている南口も含め、とても魅力がある。後述するけど、古めかしい市場や喫茶店、雑多で古くて、味のある街並みがそこかしこに見られる。こういった地元の人々から親しまれているようなものまでが、無くならなければいいのだけど・・・・

気を取り直し、まだ昼前。チェックインはまだなので、荷物を預けるだけ預け、身軽になたところで「原爆ドーム」を見に行くことにした。
駅前から路面電車で向かう。電車から見る街並みは「知らない場所に来た」ことを実感させてくれる空気に満ちている。


15分ほどで原爆ドーム前駅に到着。
駅からすぐそこが原爆ドームだった。見た瞬間、自分でもどうしてか分からないけど、すごくびっくりしてしまって、へんな涙が出てきた。


つづく
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国際反戦デーと鰻 2

2007-11-04 21:07:25 | 映画制作
おまわりさんの数はすごかったし、指揮車も出ていたが、機動隊までは動員されていなかった。
やがてデモの列は新宿南口を目指して明治通りから甲州街道へ。

鬼のような形相でデモの隊列を睨みつける若い警察官、セクト旗を次から次にメモにとる公安。そしてデモの様子を物珍しげにみつめる街頭の人々・・・ぽかんとした表情の子供や写メを撮る信号待ちの若者。
わたしはそれらをデモの頭から最後尾をいったりきたりしつつ、懸命に撮影した。

以外にもデモそのものより、面白かったのは街の反応だった。かつての革命の闘士たちを冷ややかに見つめる街の目。あれだけ熱かった新宿も、今ではまったく違う表情になっている。これを、彼らはどう感じているんだろう。


やがてデモは自然的に散開し、わたしとMさんはアルタ前、東口行きのグループに同行した。
ビラを配り、アジる。しかし人は誰も集まってこない。熱く語るアジテーターのすぐ目の前に、道の真ん中だというのにホームレスのおっさんがコックリコックリと舟をこいでいる。なんともいたたまれない風情だった。
それでもビラ配りの人々は誰彼かまわずビラを配り、その内容を説明している。

面白い光景を見た。
恐らく60年安保から闘い抜いてきたであろう老兵が、いかにもな、けばけばしいギャル二人組みにビラを片手に懸命に説いている。そして以外にもそのギャル達も表情は真剣そのものだった。老兵の熱気が彼女たちに伝わったのだろうか。
なんか、妙にうれしかった。


そこそこで切り上げ、先に切り上げていたMさんと思い出横丁の「カブト」で落ち合う。
創業から50年以上、うなぎ串焼き専門のこの店は、Mさんの昔からの行きつけだという。初めてのわたしは、すすめられるままに「一通り」やカブト・いわゆる頭、それに蒲焼や白焼など次々にばくばく食い、それらを瓶ビールで流し込む。ぶっちゃけ、どこを食っているかなんてほとんど分からない。だが、どれも安くてうまい。

ボロボロでたまらなく情緒のある店内は、まるでタイムスリップしたように昔と同じ時が流れている。常連のおじさん達の会話は、ネットが世界を変容させつつある今でも、昔と変わらない。
そうした店内でMさんと今日のことを話していると、68年の10・21に参加した人々も、もしかしたら検挙の手から逃れるため、ここに逃げ込むように飲みに来たのかもしれないな、と思った。
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行ってきます。

2007-10-25 08:52:07 | 映画制作
今日、新宿でお仕事の後、そのまま夜行バスで広島へ。あさってに山口入りします。

更新はsubotikuで。
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