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ちくわブログ

ちくわの夜明け

福島駅前にて

2012-06-12 04:48:25 | 映画制作
リッダ闘争40周年に合わせてライラ・ハリドさんが来日されたのは以下の通りですが、その取材もやっと終わり、普通の生活に戻りつつあります。

戻りつつあるというのは、取材の折いろいろ経験させていただいて頭がいっぱいいっぱいに。脳味噌がなかなかおちつかなかったからです。
その中でも福島行きはやはり特別印象に残ったというか、残らざるをえんかったわけです。


今回は本筋とは少し離れ、わたくし一人福島にバスで前乗りした時のことを書きます。
書きますが、別に何か起こったわけでもなく。
旅系のエントリ読んでいただくと分かるとおり、ただ単に地方の駅前がすきなもので。
今回もそのノリです。

前乗りして、翌日昼まで時間があったので駅前を散策してみました。

新宿からのバスに朝乗って、夕方前くらいには到着しました。
途中サービスエリアなんかで休憩してると、去年、震災後一人でレンタカー借りて相馬市まで行ったことを思い出したりました。

あれからもう1年以上経ってるんだな。


福島市内に入り、バスから街を眺めていると当たり前だけど当たり前の生活が営まれてる。
道路にはところどころアミダのような線が見受けられ「これって補修した跡かな」と思いました。後日確認すると、やはりそのようでした。


駅に着くと、早速なにやら歌声が聞こえる。

素人喉自慢?的なものに続き、地元出身らしい歌手の方が『いい日旅立ち』を歌っていました。
なんか、ここで聞くと胸にせまるものがある。


やはり、復興に関するイベントのようでした。
歌手のお姉さんは「がんばりましょう!」と、しきりに言っていました。


この「がんばる」という言葉、今ではなんかうそ臭くてあまり使われなくなりましたが、しかしやはり、がんばるしかないんだろう、と思いました。
だって現地の方々が使っているので。

理屈こねたってしゃあない、ここで生きるんだから、ということでしょうか。力強いとは思います。


「奥の細道」芭蕉像。


昔の人が、この未曾有の大惨事を見たらどう思うだろ。
いやー、理解できないだろうなー。だってこんなにゆっくりと「どうなんだろ?」て感じで進行してるんだもんな。
そもそも現代人からして理解できてない。もちろんわたしもです。

これだけのどかだと「どうなんだろうな」て正直思いますよね。




あれからこの街は、人が減ったりとかあったんでしょうか?
ほっつき歩いてる限りでは老若男女普通にいるなー。

駅の隅には、こじんまりとローカル線乗り場へ続く道が。
こういうの大好きだ。


若い人、いっぱいいます。
ミニスカのお姉さんも目の前で派手にずっこけていました。

変わらない日本の風景。なごむ。

こちらは新幹線口の方。綺麗だけど特に何も無い。


腹が減ってきたので飯屋を探します。
駅からちょっと歩くと、飲み屋街だの繁華街だのあるのが駅前。やはりありました。
なにやらナウげなスポットが!!

しかし、日が暮れてくると歩く人も少なく。通りはガラーンとしておりました。日曜日なのにな。
こういうもんなんだろうか。


腹も減りつつ、喉も渇いていたので、生ビールで餃子付きラーメン・チャーハンセットをたのみました。至福。


外に出るといよいよ暗くなっていました。とりあえず、空が綺麗だ。




福島でFUKUSHIMA。
外から見てる部外者の自分からは、どうしても住んでる方々の生活が気になってしまう。
でも、そこで住んでる人たちを簡単に考えることなんて出来ないわけで。

サービスエリアにも、商店街にも、飯屋にも「がんばろう」の文字。
「生活すること」も「がんばろう」も「福島とFUKUSHIMA」も外と中ではぜんぜん意味が違ってくるのかもな、と思いました。


コメント (4)
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リッダ闘争から40年

2012-05-23 00:38:25 | 映画制作
リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)から今年の5月30日で40周年を迎えます。
リッダ闘争とその闘いに命を賭した若者、それにまつわった人々については、以下のエントリを閲覧下さい。


レバノン取材記・2 リッダの戦士達


「涙ではなく祭を」の遺言通り、東京・京都にて以下の通りイベントが行われます。

そして今回これに合わせ、当時日本赤軍と共闘したPFLPの女性活動家・ハイジャックの女王と呼ばれたライラ・ハリドさんが来日します。



詳細は以下の通りです。


以下転載
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【東京】
[The Forum for Mid East 2012 中東フォーラム2012]

アラブ民衆蜂起とパレスチナ解放
日時:5月26 日(土)
  ★フォーラム 午後3:00 ~ 7:00
  ★レセプション午後7:15 ~ 9:00
場所:明治大学和泉校舎メディア棟306 ホール
費用:1,000 円 (レセプション参加は別料金)
※事前申し込みは不要です。直接ご来場下さい。

<プログラム内容>
●パレスチナからの現地報告:ライラ・ハーリド
 問題提起:板垣雄三、藤田進、臼杵陽

ご挨拶
昨年2月に始まったアラブの民衆蜂起は、エジプト・カイロのタハリール広場に代表されるように、長年の独裁政権への抗議行動から社会改革運動へと進展し、それは今日まで続いているし、欧州各地での若者の暴動、米国のあらゆる階層によるオキュパイ=「99%運動」へと連なっていった。
勿論、アラブ各地域の「民主化要求」の中身は共通点もあれば、それぞれの特徴を持っている。
また、国際的には、まるでイラクやアフガニスタンで行われたように欧米の直接的な軍事攻撃が「人権擁護」の名で加わり、地域の覇権主義者が自国への民主化闘争の広がりを抑える為に他国へ策動介入する仕方などが並行して行われている。
 それらの民衆蜂起の根幹には、「中東で唯一の民主国家」と詐称するイスラエルによるパレスチナへの占領と繰り返す虐殺行為への抗議がある。
 イスラエルの暴虐を許し、それを擁護してきた国際勢力の中東支配と支配に加担してきたアラブ諸国政権への変革要求は、パレスチナ解放・建国を求めるアラブの民衆の意思の表現としても捉える事が出来る。
従って、アラブの民衆蜂起は、中東問題にとどまらず、現在の世界各地の情勢と直結して連動した問題としての特徴を持っている。
 今回、かってパレスチナ解放闘争の闘士として活動し、現在はパレスチナ女性同盟議長を務めているライラ・ハーリド女史を日本に招いて、パレスチナを巡る中東情勢の報告を受け、同時に、長年にわたって中東問題を
研究調査してきた諸氏の問題提起をお願いし、今後のパレスチナ連帯運動にとって実りあるフォーラムを開催したいと考えています。皆さんのご参加を!



【京都】
[2012パレスチナ連帯京都WeekEnd]

6月2日&3日 京大西部講堂
6月2日(土曜日)<<ライラ・ハリド来日記念スペシャル第 1 日>>
●5.30リッダ闘争40周年メモリアル・トーク&ライブ
 大友良英 (『幽閉者』サウンドクリエーター )
 PANTA( 頭脳警察 ) on 響
 ライラ・ハリド ( パレスチナ民族評議会議員 )
  *開場 :  PM4:00~
  *開演 : PM6:00
  *終演 : PM9:00
 主催 : ライラ・ハリドさん交流全国委員会 ( 福島・東京・京都 )
 チケット : 前売・当日とも 1,000 円
 お問い合わせ : 京都大学西部講堂 Tel.075-751-9373

6月3日(日曜日)第2日
●アラブ民衆・情熱の歴史フォーラム2012

 特別公演 ライラ・ハリド 1944 年、ハイファ生まれ。
   1947年に故郷を追われてベイルートに移住。以後はPFLPの活動家としてパレスチナ建国に従事する。
   三度目の来日となる。

 討論参加ゲスト
   板垣雄三 1931年、東京生まれ。東大東洋文化研究所名誉教授ほか。
   イスラム・アラブ世界についての著書多数。日本中東学会会長など歴任する第一人者。

   鵜飼 哲 1955年東京生まれ。一橋大学教授、仏文・仏思想史。
   ジャック・デリダに師事した後、独自の精神世界を切り開こうと中東問題などにも積極的な発言をリリース。

   足立正生 1939年、福岡県生まれ。映画監督。日大芸術学部にて映画芸術を実践。
   学生時代より話題作を連発し、独自の「風景論」を展開。若松孝二との共作ほか作品多数。
   70 年代にアラブへと旅立ち、新たな地平を模索。

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転載以上


わたくしは全日程参加し、記録係も勤めさせていただきます。
皆様ご近所お誘い合わせの上どうぞご参加下さいまし。


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進藤隆三郎さんのこと

2012-05-17 03:59:57 | 映画制作
進藤隆三郎さんは赤軍派兵士で、連合赤軍のいわゆる山岳ベースリンチ事件で2人目に亡くなった(殺された)方です。
以前も書きました通り、わたしは2月に行われた【連合赤軍殉難者追悼の会】にて、この進藤さんについて発言しました。

当時のお連れ合いだったAさんの証言を元にしたものです。


その後、ひょんなことから救援連絡センターの機関紙「救援」へ、この取材を通して感じたことなど書いてみないかと言われ、喜んで、と書かせていただきました。

すでに発行されている号に掲載されたようなので、以下同じ内容のものを転載します。
もし“連合赤軍全体像を残す会「証言」9号”をお持ちの方は、わたしの発言部分と合わせて読んでいただければと思います。


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『連合赤軍事件がわかつもの、繋ぐもの』



2月25日「連合赤軍殉難者追悼の会」が開かれました。

私はこの会に主催の「連合赤軍の全体像を残す会」の側から参加し、また、発言をさせて頂きました。
私は今、33歳です。団塊世代の息子世代に当てはまります。そんな自分がなぜこの会で発言するに至ったかと言いますと、現在「赤軍」に関するドキュメント映画を撮影しており、その取材の傍ら「残す会」の活動にも携わらせていただいているためです。


発言した内容は、赤軍派の坂東隊に所属し、1972年1月1日に榛名ベースにて亡くなった進藤隆三郎さんに関すること。当時、坂東隊の中で共に活動した、進藤さんのお連れ合いだったAさんから電話でお話を聞き、その内容を公開させていただきました。

それはマスコミや関連書籍から読み解く「進藤隆三郎像」とは違ったものでした。
元ヒッピーで女ったらし、赤軍派メンバーとしての意識の低さ等、一連の媒体で語られるキャラクター像や総括にかけられた要因は数あれ、Aさんの口から語られる進藤さんは、非常に硬派な考えを持った方でした。


秋田明大さんに触発され、東大闘争に参加。逮捕されて獄中で血を吐き、下獄後再び「新左翼でありたい」という想いから坂東隊に合流。その後、M作戦を繰り返し、革命左派と接近した赤軍は、山へ入ろうとしていました。
Aさんは「路線が違うのに、それはおかしい」と、進藤さんを止めます。「赤軍派を抜けて。抜けないなら目の前の警察署に駆け込む」
そう言ったAさんに対し、進藤さんはこう返したそうです。
「30分待て」
なぜ30分かと聞き返すと

「30分あれば資料をまとめて皆を逃がすことができる。俺が森のオヤジと赤軍派を守らなければならない」

と。


こうしてAさんは赤軍を離れ、進藤さんは山に入ります。後は、皆さんご存知の通りです。
森さんは彼の死を「敗北死」としました。

Aさんは赤軍派に入る折、森さんと坂東さんの前で決意表明を行いました。

「全ての人々が飢えることなく 全ての子供達が学べる社会にするため 邁進します」

Aさんはその宣言通り、進藤さんが、皆が生きていたら何をしたかったか、考えた末、寄せ場に行き着きました。
そして今もそこに住んでいらっしゃいます。


元・赤軍派の金 廣志さんは「それぞれの、亡くなった同志達は家族を形成できなかった。そのことがまことに、残念だと思っています」と、涙ながらに発言されていました。


以下のことは時間の都合上も考え、会では発言しませんでした。
当時、Aさんは進藤さんの子供を身ごもっていたそうです。それゆえ、山に入るという選択肢を選んだ進藤さんに愕然とした、と語っていました。

もし、進藤さんが山に入らなかったら。もし、家族を形成できていたら。
二人はどんな人生を歩んでいたことだろう。

個人の未来を捨て、大義に向かった彼ら。
彼らを突き動かしたものは何だったんだろう。それを少しでも知ろうという試みが、息子世代の私が作っている映画のテーマでもあります。


---------------------------------------------------------------------------------

以上。
写真は進藤さんたちが亡くなった榛名山のベース近く
コメント (5)
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【浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍】 開催のお知らせ

2012-04-28 13:41:48 | 映画制作
あの事件から40年。
3月に「連合赤軍の全体像を残す会」主催にて【連合赤軍殉難者追悼の会】が行われました。

そして来月の5月13日、今度はより外部へ向けたイベントが開催されます。

会議を重ねるうち、さまざまなゲストをお招きすることは決定したのですが、何より本人、当事者の方々から
改めて聞きたい、ということで「当事者が語る」となりました。


わたしは例によってこの会を取材させていただくのですが、今回もまた前回同様、お手伝いさせていただくことになりました。
「第一部 映像でふりかえる」がそれです。


以下、連合赤軍の全体像を残す会HPより転載。

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浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍

プログラムの概要がほぼまとまりました。
まだ、交渉中のパネリストが数人あり、今後さらに充実した出演者を予定しています。また、各部のパネリストも、今後入れ替えされることがあります。

第一部 映像でふりかえる
 当時の資料映像を構成、20分。
 馬込伸吾 制作、金廣志 監修

第二部 当事者世代が語る
 塩見孝也、鈴木邦男、三上治、森達也
 司会:金 廣志
 当事者四名は、以下各部を通じて出演します。

第三部 連合赤軍が残したもの
 雨宮処凛、ウダタカキ、大津卓滋、田原牧、山本直樹

第四部 世界に広がった若者の叛乱─企画中
 以下の方が参加の意向を表明し、その他の方も交渉中で、企画中です。
 パトリシア・スタインホフ、ピオ・デミリア

●日時:2012年5月13日(日曜) 午後1時30分~午後6時
●場所:目黒区民センターホール JR目黒駅から徒歩10分
どなたでも参加できます。
●資料代:999円
 受付で連合赤軍関連文献の資料集をお渡しします。


参加の呼びかけ

 いまから40年前、日本を震撼させた事件がありました。
 公安権力は「それ見たことか」とばかりに、一旦掘り出した遺体を埋め戻し、記者の前でまた掘り返すという死者を冒涜する演出を繰り返しました。週刊誌には、書き手の品性が露わになる読むに堪えない記事が氾濫しました。
 しかし、心ある人たちは、無私の活動の果てに悲惨な最期を遂げた若者たちを深く悼み、悲しみました。
 それから40年たち、遺族の方々は今なお消えることのない悲しみの四十一回忌を迎えました。

 40年前の事件は人々の心に深い傷を残し、多くの人々は長い間そのことに触れることを避けてきました。
 しかし、この十年ほど、ひとびとはこの事件に再び光を当て、それが何を意味したのかを考えるようになってきました。多くの書物が出版され、この事件が新聞・雑誌の記事やテレビ番組で扱われることも多くなりました。映画の「実録・連合赤軍」は海外でいくつもの賞をとりました。また漫画の「レッド」は、文化庁の賞をとり、私たちを驚かせました。また、当時は生まれてもいなかった若い人々が、この事件に興味を持ち、本を読んだり、映画を見ています。
 歴史学の分野でも、はじめてこの時代とあの事件を正面から取り上げた学術的な大著『1968』が上梓されています。

 連合赤軍事件は、その5年ほど前から高揚した若者たちの運動を背景としていました。この大衆運動は、ベトナム戦争とそれが引き起こしたアメリカやヨーロッパで急進的な学生運動の大波に呼応しており、また、ソ連圏で起きたプラハの春などの清新な運動とも連動していました。67年から72年に至る大衆運動は、同世代の何割もの人たちが参加した広がりをもったこと、足掛け5年にもわたる年月の間持続したこと、さらに、全国各地でさまざまな課題を取り上げたことなどで、現代の日本の民衆運動の歴史の中でも特筆すべき性格のものでした。
 しかし、連合赤軍事件の後、この事件とその背景をなした大波のような大衆運動は、急速に退潮していきました。また、この時期からかなり長い期間にわたって陰惨な内ゲバが続き、それによる死者は100人に上るといわれています。
 以後数十年、連合赤軍事件は本格的な研究の対象とされることもなく、歴史の中に埋もれていったかのようでした。連合赤軍事件は、決して忘れ去ることはできないがあえて触れようとは思いたくない、のどに刺さった骨のように、人々の意識の底に沈潜していました。
 いわば、この事件とその背景をなした数年間は、数十年の間「正史」の外に置かれてきたのです。

 昨年、日本の社会は、激しい地震と大津波、引き続いて発生した原発事故の洗礼を受けました。人々は、長い間疑問も持たなかった日本の社会と文明の成り立ちと、これまでの世の中の仕組みに対して、考え直すことを強いられています。

 このような時代に、私たちは連合赤軍事件40周年を迎えました。
 この時にあたり、あの事件とあの時代に再び光を当て、それが何を意味していたのか、語り合い、考えてみようではありませんか。

2012年3月1日
                                          連合赤軍事件の全体像を残す会





参加していただけることになったパネリスト

8.大津卓滋
 弁護士、植垣康博さんの弁護を担当。横浜国立大学出身。

7.ウダタカキさん
 「実録 連合赤軍」に吉野雅邦役で出演。

6.田原牧さん
 東京新聞記者。

5.雨宮処凛さん
 フリーターなど、若く、つつましい生活を強いられている人たちの意見と感性を代表する著作や発言で知られる。
 「反貧困ネットワーク」副代表。

4.三上治さん
 ブント叛旗派の指導者。現在は、経済産業省前のテント村で奮闘している。

3.鈴木邦男さん
 新右翼の論客。
 連合赤軍無問題をめぐっても、積極的に発言している。

2.山本直樹さん
 漫画家。連合赤軍をテーマにした「レッド」を講談社の隔週刊誌『イブニング』で連載中。単行本は六巻まで刊行済み。

1.森達也さん
 ドキュメンタリー映画監督、作家
 現在、東日本大震災と原発事故のドキュメンタリー共同監督作品「311」を公開中。


参加の確定した当事者

青砥 幹夫さん
植垣 康博さん
前澤 虎義さん
雪野 建作さん

-------------------------------------------------------------------------------

転載以上。



と、
いうわけで。

今はろくすっぽお仕事もせずに、貧乏に磨きをかけつつ、こちらの映像を制作しております。
ご興味ある方、是非ご参加下さい。

ますます貧乏になり、塩イーターと化したわたくしと会場でお会いしましょう!!
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植垣康博 40年目の真実

2012-04-13 02:03:55 | 映画制作
先日静岡のスナックバロンへ行ってきましたよ。
スナックバロンに行くために東京から静岡へ行くというバロンのヘビーユーザーです。



静岡の街を俯瞰する



スナックバロンは、元連合赤軍兵士・植垣康博さんが経営するいかしたスナックなんであります。
詳しくは以前書いたエントリをご参照下さい。


連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん

連合赤軍を巡る 【5】 スナックバロンへ再び


今回の目的は『トークライブ 40年目の連合赤軍』を取材するためです。

当事者である植垣さんが改めて総括し、今後の社会・国際情勢をふまえたご自分なりの想いを語る、というものでした。
アウトロー系雑誌の取材も入っておりました。


で、その後はお店に残って普通に飲んでいたのですが、今回は植垣さんに見せたいものがありました。
これ。

当時の週刊読売で、軽井沢駅にて逮捕された直後の植垣さんの写真を表紙とした号です。

すんげえ目つきです。
極限状態を体験すると、人間ってこんな顔つきになるんですね。
後の捜査ですら途中断念せざるをえなかったという、「雪の妙義山越え」を成し遂げた後です。

これがまたえらくかっこよく写っているので、どうしても現物を手に入れてお見せしたかった。

まわりの常連さんにもお見せして、おー若い頃かっこいいじゃないのーと騒いでいたんですが。


バロンでなんでこんな人が働いてるんだ・・・とかねてより思っておりました、美人従業員のYさんが表紙をジーっと見つつ、ルーペを取り出し・・・


「ねぇ、これチャック開いてない」


え、なに言ってんだそんなわk

あいてる。



「どこまでいってもキマらないですね・・・」
というわりとどうでもいい真実でした。




おわり。



の前に。
そんなスナックバロンにて、なんと『渡辺文樹監督・上映会』が行われるようです。
13日は静岡市民文化会館、14日・15日がスナックバロンでの上映となります。
スナックバロンでは上映後、監督と植垣さんによるトークショーが行われるとか。

すっげーーーー行きたい。
つうかこの組み合わせはすごすぎる。
今回、先約があり参加できませんが、お時間ある方は是非。

以下転載

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4月13日 [会場]静岡市民文化会館(電話:054-251-3751)
◆10時 「罵詈雑言」
◆12時 「三島由紀夫」
◆14時 「赤報隊」
◆16時10分 「天皇伝説」
◆18時 「金正日」


4月14日 [会場]スナックバロン
(静岡市呉服町2-5-22 ソシアルカドデビル4F 電話:054-221-5236)
◆14時 「天皇伝説」
◆16時 「金正日」
◆19時30分 トークショー


4月15日 [会場]スナックバロン。
◆14時 「腹腹時計」
◆16時 「金正日」
◆19時30分 トークショー

上映会は元連合赤軍の植垣康博さんによる招待企画。
14日と15日の19時半からは、「連合赤軍」をテーマに渡辺監督と植垣さんとのトークショーも。
トークショーの料金は5000円(飲食代含む)。
会場への問い合わせはスナックバロン(054-221-5236)へ。

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渡部監督、静岡でも早速タイホされたご様子です。
「天皇伝説」渡邉文樹監督、逮捕の瞬間の写真を公開!

ははは・・・・スゲエな。

景気よくバスから見えた富士山のっけとく。


あ、植垣さん、ツイッターも始めたようです。ナウい!!

https://twitter.com/#!/YasuhroUegaki
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京都にて

2012-03-29 02:40:23 | 映画制作
前回のエントリで大阪行った、と書きましたが、その翌日本来の目的である京都へ向かいました。


京都には取材撮影で行きました。
まずは駅前をざっと撮影。で、目の前の京都タワーに登ったらすいぶんイカした俯瞰映像が撮れるんでは、と思い登ってみる。

その映像と同じ写真が、一番上、タイトルに使ってる写真なのですが、ご覧の通り曇っててあまり綺麗には撮れませんでした。
展望室の係員のおじさんに許可とって「どこらへんが京都っぽいですかねぇ」と聞いて撮った方角がこれです。
山の中腹あたりに清水寺があります。肉眼ではかろうじて見えたんだけど。


その後『受刑者も市民』という集会に参加。

これを撮影しました。
安田好弘弁護士、辻恵衆議院議員、そして作家の高山文彦先生が講演。
この集会でのわたしの目的は、高山文彦先生による講演でした。講談社『g2』vol.9に掲載された『丸岡修からの遺言状』に合わせ、『丸岡修を語る』というもの。
これはまた別に書きます。壮絶な内容でした。


わけあって滞在は一日伸び、翌日の空いた時間を使って京大西部講堂「オリオンの3ツ星」を撮影。2度目。

前回は手持ちで簡易的な撮影だったため、今回は5Dmark2の動画でじっくりと撮りました。
関係者の後ろ盾もあったので堂々と。


ついでだから、と吉田寮にも寄って行く。
京大前に並ぶ看板。「撮るり。」

前回は入居者の手引きで中まで入ったけど、今回は入り口まで。

ん?入り口に看板が。
え・・・入寮って面接で決まるのか・・・

しかし本当に、いい雰囲気だなー。
この日は出入り自由のコンサートみたいなことやってました。







以上。
まー、京都を堪能したわけじゃないけど、遊びに来たわけではないんで。
とは言えなんかメシくらいそれらしいもの食えばよかったな。

でも、京都らしいものってどうも思い浮かばないんですよね。大阪なら簡単なのに。
また次にでも。
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連合赤軍殉難者追悼の会 ご報告

2012-02-29 01:07:37 | 映画制作
「なんでお前はとっととブログを書かへんのや」と、関西の某関係者の方に怒られたので書きます。


といっても、まだ素材プレビューしたくらいなので無事終わりましたよ程度のご報告を。

当日は約70名の方々にご参加いただきました。
中には若い参加者も見受けられ、「ああやっぱりこういう会は意義があるんだよ」と思わせてくれた次第。

マスコミさんはNHKやTBS、共同通信その他・・・
いろいろ来ておられました。

わたくしはもう、自分が発言しなきゃいけないし、映画用・兼「残す会」記録用のカメラをまわさなきゃいけないしで、いっぱいいっぱいでございました。
実際、よく覚えていない。


前回の記事の通り、わたしは進藤隆三郎さんのお連れ合いだった方との電話によるやりとりからお聞きした内容を公表させていただきました。
その内容は、今まで語られていなかった、進藤さんの赤軍への真摯な想いがつまったものでした。
ある元・赤軍派の方は、この公表内容に、目にいっぱい涙をためていた、とのことでした。



「連合赤軍事件」問題については、これまで長きに渡って内部でも外部でも意見が別れていました。
主に指導者である森恒夫さん、永田洋子さんの責任問題について。

12名を「殺す」に至ったのは誰の責任か。
個人か?場か?新左翼の歴史そのものか?


この40年という節目を迎え、これだけ当時の人々が集まるのは恐らく最後だろう、ということで、あくまでそういった「意見の相違」は超えて発言されることが望まれていました。
「追悼」という会の趣旨、大前提です。

結果的には皆さん、本当に紳士で立派な総括をはらんだ発言がなされました。
会の雰囲気もとても良かったと思います。


会の終わり、元・赤軍派議長の塩見孝也さんにインタビューしました。
塩見さんは長く、「永田洋子の個人的な責任」について、元関係者の方々と意見が別れていました。
しかし、最後にはこう言っていました。

「40年という節目を迎え、もっと大きな歴史という視点から彼女を捉え返さなければいけない。これまでのように『過ちを犯した人』というだけで見ていくわけにはいかない。彼女の全体の生涯を見渡せば、明らかに人民の側に立った民衆の戦士だった。まず、殺された側に思いを馳せ、そして殺した側にも想いを馳せなければいけない。その想いをもっときちんと自覚し、永田さんに象徴させていく。ただ一方でそれを、12名の死と同一視するべきではない」


この「同一視しない」というのは「残す会」としても同じだと思います。森・永田両氏を「殉難者」とはしていませんでした。
あくまで、追悼はすべきだ、との立場です。



3次会だか4次会だか・・・・
ゴールデン街をハシゴしておりました。
その席で元・赤軍派のある方が「なんのかんの言っても、やっぱり塩見は俺らの大将なんだよ」と。

酔っていたこともあるかもしれませんが、ああ、何年もやりあっててもこんな言葉が出てくるんだ、と思いました。
「同志」っていうのはこういう関係なのかもしれないなー、と。
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連合赤軍殉難者追悼の会 のお知らせ

2012-02-24 03:15:40 | 映画制作
ギリギリの告知になってしまった・・・


今週末土曜日(2012年2月25日)『連合赤軍殉難者追悼の会』が開催されます。
以下、「連合赤軍の全体像を残す会」HPより転載します。

HP内の記事はこちら



以下転載
----------------------------------------

2月25日、連合赤軍事件で短い生涯を終えた若者たちを悼み、彼らの抱いた理想と夢を偲ぶ集会を開催します。

参加の呼びかけ

 連合赤軍事件から長い歳月が過ぎ去り、遺族の方々は四一回忌を迎えています。
 同志、友人、事件に関心を持つ心ある人々も、犠牲となった人たちを偲び、改めて事件の重さに想いを致していることと思います。
 9年前に私たちは「連合赤軍殉難者追悼の会」を開催しました。今年は事件から40周年にあたり、再び追悼の会を行います。
 こんなに長い年月が経っても、事件は人々の記憶から去らないだけでなく、むしろますます深い関心を集めています。映画「実録・連合赤軍」(若松孝二監督)が多くの観客を集め、漫画「レッド」(山本直樹)は文化庁の賞を受賞しました。
 このことは事件がすでに「歴史」の領分に属していることを実感させました。
 長い歳月がたち、遺族と関係者に物故者も多くなった時点で開催する今回の追悼会は、おそらく多くの人たちが参加できる最後の機会となるでしょう。
 関係者の皆様の御参加をお願いいたします。


                                 連合赤軍事件の全体像を残す会
                                             植垣 康博
                                             金  廣志
                                             前澤 虎義
                                             雪野 建作


2012年1月15日



日時:2012年2月25日(土曜日) 
    午後5時45分開場、6時開会
場所:東京しごとセンター 5階セミナー室
   飯田橋駅から JR中央・総武線「東口」より徒歩7分
          都営地下鉄大江戸線・東京メトロ有楽町線・南北線「A2出口」
          より徒歩7分、東京メトロ東西線「A5出口」より徒歩3分
地図
  ※資料・花代として1,000円を受付でお支払い下さい。


●取材を希望されるメディアの方へ
事前に下の「お問合せ」より、氏名、所属、Eメールアドレス、電話番号をお知らせください。
所定の制限に従っていただきますが、取材は可能です。

●平服でいいの?
という問合せがありました。
故人を悼むという会の趣旨に反しないものであれば、平服でかまいません。(2月16日追記)

●一般の人でもいいの?
との問合せもありました。
40年前に酷寒の山中などで亡くなった青年たちを悼む心があれば、関係は問いません。どなたでもお越しください。
(2月16日追記)


----------------------------------------
転載終わり



事件後40年の今年、彼らがどのように動くのか、カメラと自分の目で追っていました。
そしてひょんなことから、わたし自身も協力させていただくことになり、取材活動を通して、ある方の証言が得られました。


当日は連合赤軍にゆかりのある方々が登壇し、亡くなった彼ら、彼女らの思い出を語ります。
そんな中、わたしは恐らく「縁」という意味ではまったく無い唯一の人間としてお話させていただきます。

内容は「山岳ベース事件(リンチ事件)」で2人目に亡くなった進藤隆三郎さんについて。
ある方の証言を元に、彼がどう生きて、どのような思いで闘争に携っていったのか。
そして隣にいた「ある方」自身は、それをどう見たのか。


公表することを躊躇っておられましたが、最後は
「どうか、進藤の名誉を回復してやって下さい」
とのことでした。


ご興味ある方は、是非ご参加下さい。
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レバノン取材記・3 納骨

2012-01-28 19:15:41 | 映画制作
シャティーラ地区の墓地。


この墓地全体ではないが、辺り一帯を「殉教者英雄墓地」というらしく、リッダ戦士のお墓の周りには、PFLPの名だたる指導者や戦士達も、共に眠っている。


しばらくすると、ぼちぼちとPFLPのオールドコマンドが集まってきた。
その中に、あの岡本公三さんがいた。緊張しながら「お会いしたかったです」と握手を求める。

岡本さんは人と話す時はずっと笑顔だった。独特の笑顔。何も話さない時は、どこか遠くを見ているような表情をしていた。
しかし、真っ先にお墓の前に行き、座り込み、両手を合わせ、目をぎゅっと閉じて、何事かを念じていた姿は忘れられない。


オールドコマンドは15人以上は集まっていたように思う。それに我々を加え、約20名での納骨となった。


促され、丸岡さんの妹さんが挨拶をする。
「こんなにたくさんの人に集まってもらい・・・」と感謝しながら「兄は生きていれば、明日、61歳の誕生日を迎えるはずでした」と。

Aさんのギターで妹さん、Bさん、Cさんで「時代」を歌う。
揃って泣いていたこともあって、うまくはなかったが、妹さんの声が少し、中島みゆきに似ていたからか?心に響いた。
そして、その歌詞が涙を誘った。


「めぐるめぐるよ 時代はめぐる 別れと出会いをくり返し 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩き出すよ」


その後、岡本さんを連れていたPFLPの幹部らしき人が挨拶。
そして納骨作業。
妹さんが持ってきた丸岡さん愛用のネクタイも納棺される。



終わる頃には日が暮れかけていた。残されたローソクの火が、ぬるい風にふかれてゆらゆらと揺れていた。


岡本さん、PFLPの幹部との食事会ということで、現地のOさん含めいくつかの車に別れて乗る。
丸岡さんの妹さんとは別の車中で、Oさんが言った。

「でも彼女かわいそう。彼女なんにも知らない」


恐らくレバノンでは「いいお店」なのであろう、レストランに到着。
隣にはPFLPの幹部。強面だが、「こうだよ、こうやって食うんだ」「これも食え」と、色々世話を焼いてくれた。
「ははは。愉快なオッサンだなあ」と思っていたこの時は、PFLPの幹部だとかそんなこと全然知らなかった・・・

前の席には岡本さん。うれしかった。

レバノン料理は塩辛いものが多かった。あと野菜をポリポリ生でかじったり。
日本でもなじみ深いケバブも出た。これを薄いアラブパンで野菜と共に挟んで食うと格別。


岡本さんもケバブは大好きらしく、普段どういったものを食べているのか分からないが、とにかくうまそうに食べていた。
見ていると、皿に乗せたものは、細かいものまで残らずたいらげていた。
ゆっくり、ゆっくり、几帳面な動作で皿が綺麗になるまで。

食事の合間にはタバコを絶えず吸っていた。
これもまた、根元までうまそうに。

岡本さんは熊本の生まれだ。
自分も名古屋の生まれではあっても、両親の血は熊本。そのことを話すと「わたしもです!」と声を上げてきた。

わたしは岡本さんに、彼自身の若い頃の写真を見せてみた。
リッダ闘争後の裁判所での写真。

「岡本さん、ほら、これ」

しかし、苦笑いをするのみだった。
ああ、なんか馬鹿なことをやってしまった、と思った。
岡本さんがどう思っているのかは分からない。けど、とにかく妙な罪悪感がわいてきて、胸が少し痛くなった。


夜のベイルート市街を走り、ホテルへ戻る。
爆撃で空洞のようになったビルが、街灯の届かない暗闇をさらに黒く染めていた。



レバノンへと渡った当時。
岡本さんも丸岡さんと同じく、決死作戦については何も聞いていなかったらしい。
しかし奥平さんに請われた彼は「僕が要るんでしょう?」と二つ返事で引き受けた。そして、「泣かせてもらっていいですか」と言った後、一時間ほど泣いたという。




続く

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レバノン取材記・2 リッダの戦士達
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レバノン取材記・2 リッダの戦士達

2011-12-26 17:53:20 | 映画制作
不思議な気持ちだった。

日本という日常から、飛行機を乗り継ぎ10時間以上の旅。
それで、フト気付いたらベイルートという非日常な風景を垣間見せる街を走っている。
頭がおっつかなくなって、それでも何とか撮るものを撮らねばと、気だけが張っていた。


これからいよいよ奥平さんをはじめとした、リッダ戦士達のお墓に向かう。
それは、PFLPのオールドコマンド達と会うということにもなる。
撮影という、ある意味気が引けることを彼らの前でやってしまっていいものか。この時点でもまだ取材者だとか、監督とかにあるまじき小市民的な「引け目」を感じていた。


墓地はシャティーラ地区にあった。
墓地に入ると、奥の方に彼らのお墓があった。


ああ、ついに来たんだな、というなんとも言えない気持ちに。
とにかくここに来たかった。「赤軍」を考える時、常に強力な磁場を感じていた場所。

そしてふと、なんでこの人たち日本人なのに、まつられるようにしてこの、日本から遠く離れた墓所にお墓があるのだろう、と思った。
頭では分かっていることも、こうして現物を目の前にすると、こんな単純で馬鹿みたいな疑問がわき上がってくる。


ひとつ驚いたことがある。それはお墓が新しくなっていたこと。
わたしが知っているお墓の写真は、それぞれの遺影写真に何者かが鈍器かなにかをぶつけ、割られているものだった。

(映画『重信房子、メイと足立正生のアナバシス そしてイメージのない27年間』より)

何度か集会に参加した折、お墓を新しくするためのカンパを、とAさんが募っていたのは知っていた。
まさかこんなに早く作り替えられているとは思いもよらず、驚いたというか拍子抜けした。

しかし、それはとても立派なもので、以前のややこじんまりした印象のものから、真新しく、奥平さん、安田さんの下に檜森さん、そして丸岡さんと続くものになっていた。
丸岡さんが入っているのだから、本当に最近作り替えられたことになる。

以下、このお墓に眠るリッダ戦士達について。



■奥平剛士 (アラブ名:バーシム)享年27歳


日本赤軍のリーダー、重信房子さんが最初に同志として誘ったのは、京都パルチザンの奥平さんだった。
重信さんと奥平さんは事実上結婚(マスコミの言葉だと偽装結婚)し、共にベイルートに渡る。
偽装結婚と言われてしまうのも無理はなく、逮捕歴のある活動家である重信さんが公安の目をかいくぐって海外に出るとなれば、姓を変えるのが手っ取り早かったから。そこで無名の活動家である京都パルチザン・奥平剛士が選ばれた。
しかしそれだけではない。
重信さんは奥平さんを純粋に尊敬していたとのこと。

リッダ闘争の後発行された遺稿集『天よ、我に仕事を与えよ』には、彼の京都時代の日記等が収められている。
まだいわゆる「『テロリスト』として世界を驚かす日本人」「遠く日本から訪れ、アラブの大儀に殉じた英雄」としてではなく、ごく普通の、山口県下関から出てきた大学生の日常。
その日常は主に“セツルメント活動"を中心にしており、当時の学生らしく、被差別や在日朝鮮人の問題に真っ向から取り組み、これまた学生らしい思想的葛藤の中で自己を研鑽していく。

これを読むと心が痛くなる。本当に真面目で心優しい青年だから。そんな彼がなぜ?とかじゃない。彼だからこそ、あそこまで行ったのだろう、と思う。
心が痛くなるのは、そこに自分を見るから。誰しも昔持っていたような、純粋で実直な心の部分。
生きていくために、楽するために、誤魔化したり、ふるいにかけたり、淘汰して、しぼんで無くなってしまうあれやこれやの感情。
「それが人間ってもんさ」と開き直った今では、むしろ「そうであること」がバカバカしくさえ思うような感情。

彼は、この心を持って遠くここ(アラブ)まで来たんだ、と思った。


わたしは奥平さんに「自己否定」という言葉を見る。
当時のはやり言葉でもある「自己否定」。これは、60~70年代当時、まだエリート層だった「大学生」が、エリートとしての階層、そういう特権性のある自己を否定して、戦争の過ちや、ベトナム戦争に間接的に加担していることを否定するため、自らを学生運動に・・・・ああ、書いててややこしくなってきた。
つまり弱者やマイノリティと共に戦うために、エリートとしての立場を捨てて彼らと団結する、共に血を流す、ということ。
よく使われた言葉ではあれ、それを本当に実践した人ってなかなかいないんじゃないだろうか。
なぜなら学生運動は彼らの就職と共に終焉を迎えるから。

それを真っ直ぐに突き詰めたのが奥平さんだと思う。彼は、そういった境遇の人間を「同情」する自分すら、許せなかったという。
京大生という超エリートの立場を否定し、土方にあけくれ、その親方からも認められ・・・
そういった自己否定の最後に、「対・世界」があった。

だからこそ、奥平さんは選ばれたんじゃないだろうか。


ベイルートへ渡った二人はその後、奥平さんはPFLP内「アウトサイドワーク」(域外活動局)の義勇兵となり、兵士としての訓練を受ける。
重信さんはアル・ハダフ情宣局(PFLPの情報センター)へ。

奥平さんは「リッダ闘争」のため日本の赤軍派に人材を送るよう要請するが返事がない(森指導体制時代、連合赤軍事件前のこと)。そこで京都パルチザンの仲間である安田さん、山田さん、檜森さんを呼ぶ。
その檜森さんによると「赤軍派の路線やスローガンを口にしたことは一度もなかった」という。


その後、運命はさまざまに交錯し、連合赤軍事件から3ヵ月後の1972年5月30日、リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)にて死亡。
後に生き残った岡本さんが見せられ、発狂寸前まで泣き叫んだという彼の死体には、全身に十数発の銃弾が浴びせられていたという。



■安田安之 (アラブ名:サラーハ)享年25歳


奥平さんの京都大学時代の仲間。京都パルチザンメンバー。
奥平さんからの要請を受けた彼は、両親に「勉強のためヨーロッパ旅行へ」と金を無心。そのままアラブへと渡る。

檜森さん、山田さんと共に向かう旅路のエルサレムでのこと。
女を買おうとして部屋に入って何百ドルか金を渡したら、そのままトンズラされた、とか。
死を覚悟している人間にも、こんなことってあるんだな、と少し可笑しくなった。


その後、ピジョン・ロックでの山田さんの事故死により、檜森さんが帰国することとなる。いよいよお別れというその時、初めて安田さんは泣いたという。
それは、帰国の途に着く檜森さんへの想いと同時に、日本にいる仲間への想いでもあった。

安田さんは現地で誰にでも好かれたという。常に腹を括った態度で、誰に対しても優しく、明るかった。そういう面が他のメンバーと違い、現地での共同生活のムードメーカー的役割を果たしていたんじゃないか、と思う。


日本へ帰る檜森さんに、安田さんは仲間への伝言を託した。

「こっちで待っとる」

リッダ闘争で死んだ安田さんの死体には、首から上がなかったという。
彼らは「無名の戦士」として死ぬ約束をしていた。
目撃者によれば、「壁に向かって手榴弾を投げつけ、その上に身を投げて自殺」とある。つまり、身元を特定されないために顔に手榴弾を引き寄せた末の自殺だった。



■檜森孝雄 (アラブ名:ユーセフ)享年54歳


「リッダ闘争は赤軍派の最後を介錯し、京都パルチザンの終焉を告げる闘いでもあった」


檜森さんの遺稿『水平線の向こうに』にあるこの言葉は、リッダ闘争の内部的な解釈を、一言で鮮烈に表す文章だと思う。

日本赤軍、リッダ闘争、奥平剛士などのキーワードでピンと来る人はいても、檜森孝雄でピンと来る人は少ない。
檜森さんも、無名のうちに死んだ一人なんじゃないだろうか。

彼は奥平さんに呼ばれ、当初から作戦に関わっていた。
しかしある事件が、その後の彼らや、それに携わった人々の運命を急転させる。

同じく奥平さんに呼応した京大生・山田修(アラブ名:オリード)さんの水泳訓練中の事故死。

彼らはピジョン・ロックと呼ばれるラウシェの海岸付近にある大きな岩場で水泳兼訓練をすることを常としていた。
ある日、いつものように飛び込みを開始すると、現地の若者たちが「沈んだ!」と騒ぎ立てた。檜森さんは繰り返し潜り、沈んだ誰かを捜すと、山田さんが見えた。
漂っていた山田さんを見つけたのも束の間、急に体に重りが入ったかのように沈んでいったという。

「見開いた両目は天を見上げていた」とは、檜森さんの回想による。

檜森さんは共に訪れていた安田さんを呼ぼうと、アラブ名の「サラーハ!サラーハ!」と叫び続ける。
しかしサラーハとはアラビア語で「正義」の意味。
このことが原因で、現地警察から「正義のために山田を殺したのか」と疑われ、懲役70年になるぞ、と告げられる。

この窮地は、日本大使館員の折衝により切り抜けられた。
そして、山田さんの遺体を日本に送る手続きもしてくれたらしい。


山田さんの死は新聞でも報じられ、ベイルートにいる日本人青年たちのことが広く知れ渡った。このため、リッダ闘争は予定より早く実行する必要が生じることとなった。

檜森さんの悲しみにくれる姿は、よほどのものだったらしく、奥平さんは理由を告げることなく帰国を命じる。檜森さんは拒否するが、結局、戻ることを前提として山田さんの遺体と共に帰国する。
しかし、実際に彼がベイルートに戻る、というか再訪するのは、28年後の2000年。50歳の時。
このお墓を訪れた時は、大声で泣いていたらしい。


こうして日本に舞い戻った檜森さんは、作戦に必要な「もう一人」を補充するため、二人の活動家に声をかける。
それが岡本公三さんと、丸岡修さん。
しかし人を介してのものであったこと、お互い警戒が必要な身分であったことから、作戦の内容は話されなかった。丸岡さんの手記によれば「彼の意図と私の渡航目的はずれたままでした」とある。


その後の檜森さんの人生は、彼の手記や彼の友人、知人による回想録が纏められた本『水平線の向こうに ルポルタージュ 檜森孝雄』に詳しい。
読んでいると痛々しくなる。
わたしの個人的な印象としては、丸岡さん逮捕後から救援活動に専念するため、関西を離れ東京へ移住するあたり、どこか不器用だけど“義”の人だったんだろうなぁ、と。


常に自らの内にあるリッダの呪縛へ向けて運動を展開し、もがき、苦しみ、失敗しながらも、答えを希求する。

その答えは出たのか、出なかったのか。
2002年3月30日・日比谷公園かもめの広場にて、自らガソリンをかぶり、焼身自殺する。


遺稿にはこう記されている。
「26人が死に、72人が負傷した闘いの報に接した時、僕は歓喜してはいなかった。彼らは死に、僕は生きている、その瞬間が今なお続いているような気がする。」



■丸岡修 (アラブ名:ニザール)享年60歳


今回の旅の目的である丸岡修さんの納骨。
その死因は末期の拡張型心筋症。

医者に「このまま医療刑務所にいたら非常に危険」と診断されたにも関わらず、6回に及ぶ執行停止申立書も却下され、八王子医療刑務所にて死亡。

部外者であり、左翼でもないわたしから見ても、日本という国が「政治犯」をどう扱うのか、極めて明確な意思の伝わる死だった。

かつてリビアから6時間以上に及ぶ電気拷問を受けた丸岡さんをして、日本の刑務所は「拷問より辛い」と言わしめた。

今手元に、丸岡さんが死の数日前に綴った、診察メモのコピーがある。
その最後の行、隅の方には「Help me!」と書かれてある。


丸岡さんは日本赤軍メンバーとして、73年「ドバイ日航機ハイジャック事件」、77年「ダッカ日航機ハイジャック事件」に関与したとして、国際指名手配を受け、87年に成田空港付近で逮捕される。

「ダッカ日航機ハイジャック事件」においては、獄中の赤軍派、反日武装戦線のメンバーを含めた計6名の“奪還”に成功している。
こうした実績もさることながら、彼はバールベックの訓練キャンプ責任者でもあり、日本赤軍の軍事部門責任者だった。

そんな丸岡さんだが、当初あくまでも軍事訓練を受けて、すぐ帰国するはずだった。


リッダの三人(奥平・安田・岡本)と共に共同生活・訓練を始めて数日後。奥平さんからリッダの計画が打ち明けられる。
しかし前述の通り、檜森さんから話が伝わっていなかった。丸岡さんはこれに対し「話が違う。死ぬ覚悟はあるが、残してきた活動や家族との別れもしていない。一度帰国し、一年後なら参加する」と答える。

丸岡さんは訓練を受けてすぐに、その軍事的な頭角をあらわした。射撃の腕がずば抜けていたから。
奥平さんは作戦にこの腕を欲したが、この丸岡さんの返答を聞き「気にするな」と諦め、謝る。そして、次に声がかかったのが岡本さんだった。


「何も聞いていない」とは非合法を行う上で避けて通れない道だけど、その後重信さんを紹介された彼は「えっ、赤軍派の人とも組んでいたんですか」と、驚くことになる。今となっては笑い話にもならないけど。


こうして丸岡さんは帰国の途につく。それはリッダ闘争の翌日。
奥平さんとの約束である「作戦が成功したら、日本の社会にパルチザン部隊を」という役目を背負って。

しかしベイルートからスイスに到着したその時、日本では「リッダ闘争・第4の男」としてクローズアップされていた。
どうするべきか、再びベイルートに戻った丸岡さんだが、9月にあの「ミュンヘンオリンピック事件」が発生。これを受けて日本の公安当局は、彼を「国際指名手配」する。


以後、帰国の道を閉ざされた丸岡さんは、逮捕される37歳までを「日本赤軍 軍事責任者・丸岡修」として過ごし、数々の闘争に関わることになる。




続く

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レバノン取材記・1 ベイルートへ

2011-11-28 04:12:40 | 映画制作
行ってきますと、ただいま、というエントリを書いてから、もう一ヶ月たつのですが・・・・

やっと仕事も落ち着き、考えも落ち着いてきたので、そろそろと映像や写真データの整理をしながら取材記をまとめていた今日このごろです。


行く前はあらゆる方々ガタからあらゆる心配をされ、心配されまくってもはや「え、俺はそんな危険区域に行くんか」と逆に自己暗示かけてしまうくらいでした。
母に至っては「好きにし・・・帰るまで連絡せんといて」と言われる始末。
おいおい、ベイルートって、レバノンって、そんなに危ないとこなの?

答えだけ先に言ってしまえば、レバノンの首都、ベイルートの「観光地」は安全です。
いぜん緊張はしていますが、フツーに栄えておりました。


さて。
今一度、今回の旅の目的を整理しますと・・・
元赤軍派メンバー(Aさん、Bさん、Cさんとします)と、丸岡修さんの妹さんに同行し

・今年獄中で亡くなった丸岡修さんの納骨、散骨を撮影
・レバノン内の日本赤軍ゆかりの地に行き、撮影
・岡本公三さんにお会いする
・現地の方から見た日本赤軍という内容でインタビュー
・シャティーラ難民キャンプに行く

というものです。
これは以前にも書きましたが、ほとんどはかなえられました。

以下、取材記録をコピペし、再編集したものを書いていきます。


-------------------------------------

某日。
関空にて他メンバーの方々と落ち合うはずが、関空の国際線が初めてだったため、迷いに迷って会えず。
結局そのまま機内へ。

出発ほどなくして機内食。
チキン、腹が減っていたためうまい。赤ワインももらう。映画など観ていたが、眠くなって寝てしまう。


午前3時に起こされ機内食。スクランブルエッグとパン。重たい。


ドバイに到着。トランジットのため降りる。やっと皆さんと合流。自己紹介。

ドバイ国際空港は経由地のためか、いかにも旅人といった客が多かった。とにかく面積がやたらに広く、通路の両側には簡易なリクライニングチェアがあり、そこで休んだり寝たりできるようになっている。電源のステーション的なものもあって、面白かった。


バーガーキングにて休憩。ポテトとコーラ。コーラがやたらでかくて飲みきれず。

ベイルート行きの機内へ。
ここでまたしても機内食。薄いパンが出る。
日本赤軍に関する本や資料にたびたび出てくる「薄いパン」とはこれのことか。

「アラブパン」というらしく、ナンを薄くクレープ状にした感じか。やや塩気があってこれだけでもうまい。

昼にベイルート着。気温は暖かい春のよう。

現地のOさんが迎えにきてくれる。

ホテルに到着し、中のレストランにて今後の予定を立てる。すると、いきなり墓地に行くことになった。
夕方から丸岡さんの納骨ということで、こちらではそうういう手はずだったらしい。
ここで、Oさんに取材内容の希望を伝える。
あらかた「大丈夫、問題ない」と言ってくれた。しかしやはり条件として「コーゾーさんを映してはいけない」と。
残念だったが、もはや覚悟していた。


コーゾーさんとは岡本公三さん。
リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)で唯一生き残り(手榴弾で自決するはずが、不発のため生き残ってしまった)、イスラエルに捕えられ長年の拷問を受ける。
1985年に捕虜交換で釈放。拷問の影響で精神的な後遺症を患っている。
97年に他日本赤軍メンバーと共に逮捕された折、他メンバーは日本に強制送還されるが、岡本さんはレバノン政府に政治亡命を認められる。
これは、日本側が未だ岡本さんに対し「テルアビブ空港乱射事件」への刑事責任を問おうとしているため。
実際、帰国すれば即逮捕。生きて獄外に出られることはないだろうと言われている。

数年前まではマスコミに露出していたが、近年保安上の理由、その他諸々から露出を控えるようお達しが出ているとか。
存在そのものが極めて政治的な方なので、運命も行動も、政治や国のパワーバランスで決められてしまう。

わたし自身、この映画の最終目的として「ベイルートに行って、岡本公三さんと会う」と設定していたので、『露出不可』の事実を知った時は目の前が真っ暗になった。
それから約半年の今、覚悟の上でベイルートに来ている。



その後、部屋でやや休憩。

荷物整理から間もなく、すぐAさんに呼び出された。
何事かと部屋へ向かうと、墓地で演奏する曲の練習だった。
「兄が好きだった曲で送りたい」と、妹さん、Aさんが企画したものらしい。
Aさんのギターを伴奏に、ビートルズと中島みゆきの『時代』を練習する。
「どっちにしよう」という話になり、聞かれたので「『時代』の方が心に響きますかね」と答えた。それが通ったのか知らないが、実際に歌われたのは「時代」だった。


夕方から墓地へ向かう。
移動時あらためて、車からベイルートの街並みを見る。空爆や銃弾の跡がそのままになったビルが散見された。



レバノンでは75年から90年にかけて内戦、そして首都ベイルートでは、2006年にイスラエルから空爆を受けている。

昔の傷跡がそのままになっているのは、意味があるのだろうか。
何かの本に書かれてあった話では、「建築途中のビルがそこかしこに見られるが、予算が尽きてそのままになっている物件が多い」と。確かに、わたしが泊まった部屋のまん前は、建築途中で放置されたビルだった。
予算が無いからそのままなのか、他に意味があるのかは分からない。

とはいえ、かつて「中東のパリ」と呼ばれた街なだけあり、綺麗なところはとても綺麗だった。ある通りは、まんまパリのシャンゼリゼ通りのようだった。

パリ行ったことないけど。


そんな、傷跡や古めかしさと観光地が一緒くたになった、不思議な空気の街並みだった。






続く
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ただいま報告書

2011-10-31 03:12:24 | 映画制作
もうとっくに、レバノンから帰ってきていたのですが・・・


帰ってきてやることが溜まりに溜まっていて、更新がままならず、でした。
11月を目前に、いよいよこんな人間でも「忙しい」ってことあるんだな、と久しく陥らない状況に心も身体もウロウロさせておりました。



で、ただいまです。


コメントくださった方、ありがとうございます。
ものすごく健康で帰ってきました。
向こうでは快眠快便で、日本よりひょっとしたら健康的な生活してたんじゃないか、て程です。

もう、レバノンって適当な暑さでビールがうまい。アルマザってビールなんですが、これが飲みやすくてまた最高にうまい。そんでワインもうまい。
知ってましたか?レバノンって有名なワインの産地なんですよ。俺は知らなかった。

うまいもん飲んで食って、グッスリ寝て、俺は果たして何をしに向こうに行っていたのでしょう。



目的はおおまかに、以下の内容でした。

・今年獄中で亡くなった丸岡修さんの納骨、散骨を撮影
・レバノン内の日本赤軍ゆかりの地に行き、撮影
・岡本公三さんにお会いする
・現地の方から見た日本赤軍という内容でインタビュー
・シャティーラ難民キャンプに行く


以上。
おおざっぱではありますが、以上はだいたい叶えられました。
これはわたしがどう動いたか云々ではなく、同行させていただいた方々、関係者の力添えがあったから、です。

感謝しきれません。



今回の旅を終えて、しばらく頭が混乱していました。
見たものの情報量の多さに圧倒され、夢は幾度も見ています。今朝も見たし、うたた寝してても見るという・・・

とにかくそんな中でボーっと浮かんできた考えを捕まえると、正義ってなんだろうという安っぽい言葉から、日本では聞かなくなった「階級闘争」という言葉が、世界では今現在行われている、ということ。
わたしは終わったものを追っかけている気になっていましたが、これは「今」なんだ、と。あの時代に起こった事と断絶されているわれわれと違い、彼らは、まさに「今も」でした。

リッダ闘争(テルアビブ空港乱射事件)で死んだ奥平さんと安田さん。
彼らの死は、日本よりパレスチナと時が繋がっている。


5日間の旅は、そういう、「時間」と「距離」をまざまざと見るような旅でした。



考えが落ち着き、お仕事の締め切りをクリアしたら改めて記事にします。
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ベイルートへ

2011-10-18 15:31:15 | 映画制作
レバノンのベイルートに行ってきます。


行くと決まってからこっち、急遽いろんなことを調べました。
おぼろげに知識としてあったアラブ世界とパレスチナのこと、そしてその大義に殉じた日本の若者たちのこと。

つい数年前まで田舎で普通に暮らしていた地方出身の学生が、時代の流れに覚醒し、世界の戦いの真中に自らの身を投じる。



これってどういうことなんだろう?
「どういうことだろう」という疑問の連鎖は、彼らと時代を同じくしていないわたしにはずっと続き、つきつけられるものだと思います。

その疑問を深いものにするため、ちょっと行ってまいります。


あ、緊張して腹がゆるくなってきた・・・・
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渡辺文樹監督・上映会に行ってきた

2011-09-28 02:08:38 | 映画制作
「渡辺文樹」という監督をご存知でしょうか。
名前を知らなくても、写真の「ある日突然ベタベタと街中に貼られているポスター」を知っている方は多いんじゃないでしょうか?

これをやっている監督が渡辺文樹さんです。
ご自分の監督作をご自分で全国各地に上映して回る、独特のスタイルをとられています。
制作から上映まで一貫して自主。


実はわたしも、確か小学生くらいのことだと思うのですが、何回か町内に貼られているのを見て「なんだろうこのおぞましい絵は・・・」と思ったものです。
ちょうど『バリゾーゴン』という、原発村で起こった事件をモチーフにしたドキュメント?映画を上映してまわっていた頃で・・・検索すると出てきますが、ポスターの絵が非常に個性的なんですね。おまけに「失神者、続出!」といった手書きの煽り文句まで書かれており。
子供が見たらそりゃビビります。

この映画の上映会において全国各地で「金返せ」コールが起き、ちょっとした騒ぎになったところは一昔前の「決定的瞬間!」系のテレビ番組でよく取り上げられていました。


そんな渡辺監督作品に初めて出会ったのが5年程前。
上映会ではなく、池袋の中古ビデオ屋においてでした。

その頃、市場が完全にDVDへと移行を遂げつつあり、VHSがバカみたいに安い値で売ってたんですね。
わたしは当時、こういうお店でマニアックな作品を掘り起こすのが好きで、ショー・コスギのニンジャ映画とか押井守監督のケルベロス・サーガなんかハックツして一人で喜んでました。
そんな中に『島国根性』という渡辺監督作品があり、ものは試しということで購入して観てみました。

するとそれが頭ガーンとやられるくらい面白かったんです。
素人役者を使った独特のリアリズム、方言がネイティブすぎてよく聞き取れない台詞、やたらと走る登場人物、個性的で魅力的なキャスト、フィクションとノンフィクションの境目にいるような構成とカメラワーク・・・・
なんかとにかくスゲーんです。
あーこれこの監督にしか撮れないわ、と思わせる、ちょっとクセになるような感覚を覚えます。
(ちなみに『島国根性』は一般上映作品で、カンヌ国際映画祭出品作。日本映画監督協会新人賞(奨励賞)受賞。wikiより)



そんな作品との出会いがあり、その後上映会も何度かあったのですが、毎回何らかの用事が入ってしまい、ついに行けずじまいでした。

今回、ツイッターで事前に情報を入手し、やっとのことで行ってきました上映会。
場所は世田谷区烏山区民会館。
朝10時30分から三作品を上映とのことなので、早起きしてはりきってでかける。

が、しかし。

わお。



しかたないので、近くのカフェやらなんやらウロチョロして時間を潰す。
そして受付開始の14時半、再び会場へ。

左側に警察の車両が見えます。
以前、天皇を扱った映画をめぐって右翼と衝突したからでしょうか。ずーーーっとアイドリングして待機してました。

さて受付に向かうと、周りから聞く話通り、奥さんがモギリ兼売店をやっていました。
そこで売られているのは過去の渡辺作品のDVDやパンフレット。
わたしは観たかった『腹腹時計』のDVDと、『島国根性』、今回上映される『金正日』のパンフレットを購入しました。
そしてご本人執筆による各作品の舞台裏的な内容の『渡辺文樹 実録』。
DVDは5千円、パンフレットは700円ほどだったと思います。

買うものを買って会場に入ると、映写機の前に監督が!

うわぁドキドキする。
ちなみに入った時監督がじきじきに「はいいらっしゃい」と。
意外とマメな方です。

いい塩梅の席に着き上映を待つ間、監督とお話したいなーと思いました。しかしずっと誰かとお話しててなんとなく行きづらい。
すると・・・会場に鈴木邦男さんが。

おお!と思うも監督とお話し始め、挨拶のタイミングを逸しました。
その後トイレではちあい、「あ、先生、どうもです」とお声がけ。すると「おお、君か。監督に紹介するよ」と!!!

うはあ、どうすんだこれ俺はどんな顔して挨拶すればいいのか、とドキドキしながら監督のもとへ向かう。
紹介され「映像関係で食ってまして、今、赤軍派のドキュメント映画を制作中です」と自己紹介。すると「おお、そりゃあ是非やるべきだ。是非完成させてくれ」と言っていただきました。

うれしいついでだ、とばかりに、買った『腹腹時計』のDVDを持って行き「監督!サインをひとつ・・・」とお願いする。
サインを書きつつ「完成したら是非連絡してよ」と嬉しい言葉。「あ、はい。どこにご連絡しましょう?」と言うと、サインの下にそのまま電話番号を。

おお・・・直筆のDVD名刺だ。



そして、待ちに待った映画の上映。
内容は・・・渡辺文樹率いる在日朝鮮人の特殊部隊が、拉致被害者救出に向かう!!
というものすごいスケールの内容。

拉致被害者の方々も実名で出てきます。これを自主で撮ったんだから、心底すごい。
そして何より、この内容をマジでやってる、監督自身がすごい。
自分を貫くってこういうことだ、と思う。上映前に監督が「技術的には稚拙だが、今の日本映画にはない気概みたいなもんが感じられると思います」と言っていた。


渡辺監督の作品は「自分の主張」を信じぬく力がものすごい。
普通だったら批判を恐れて曖昧にしてしまうようなことも、自分がいったん信じたことはとことん表現する。それで人が傷つこうが、監督にはそれが正義なのでとことん貫く。

真似できない。しかし、表現に対する覚悟って、こういうことだろう、とも思う。
誰にも媚へつらない孤高の映画監督。誰も金を出さないから自分でやる。自分で表現する。右翼に妨害されても、やる。

作り手の立場が分かる人間なら、多かれ少なかれ畏敬の念を抱くんじゃないでしょうか。



後日、監督から『渡辺文樹 実録』と共に激励のお手紙をいただきました。

「先日はワザワザ御足労いただいてありがとうございます。(中略)変革のために精神を捧げた人々の行為や思惑を軽視する事は許されません。(中略)期待してますよ」


関わっても何の得もない無名のわたしに、わざわざ手紙くれるなんて。
ありがたいやらうれしいやら。

真似はできないけど、その情念、信念は、学ばせていただこうと思います。



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【映画パンフ】ザザンボ 渡辺文樹
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玄海原発に行ってきた

2011-09-19 03:56:16 | 映画制作
遅ればせながら、足立監督の行動を追って佐賀の玄海原発まで行ったことをご報告。


「反原発ニューズリールで俺ができることってなんだ!」と前回いきりたってみたものの、こういった行動には主体性が大事なわけで、べつだん使命感もなにもない自分は最初から何をしたらいいか分からず、いざ現場を訪れると、ただただ戸惑っていました。



1日目。

市役所に市会議員を訪れ人の紹介をお願いしたり、自然食系のお店をやっている方に聞き込みなどをしたり。
泊まる場所は某直産クラブ。
ここの社長さんは、以前パレスチナを訪れ、足立監督から訓練を受けたことがあり、それ以来の仲とか・・・なんだかすげえ過去だ。


わたしはここまで、ほんとんどカメラを回しませんでした。
ていうか、回せませんでした。

というのも、自分はここでカメラを出して能天気に撮影していいものだろうか、取材協力をしている現場でカメラを取り出して自分が追っているところの足立監督を撮るなんて、そんな身勝手なこと許されるもんだろうか、本隊に迷惑がかかるではないか、と、小市民っぷりが爆発してほとんど何もできずにいました。

カメラを持つと、持った人間には特別な力が付与されます。
そこには主体性もあって、その力と対峙する時、ある意味自分の図々しさが試されます。
いわゆる「いい絵」を撮るために、自分をどこまで追い詰められるか・・・

普通のカメラマンや監督なら、こんな時「自分の撮りたいもの」を求めてがんがんカメラを回すのでしょうが、自分には今回、それが無理でした。

だって反原発ってゲンシュクなものじゃないですか・・・

↑という言い訳があって、なかなかカメラに手が伸びませんでした。つのる自己嫌悪。



2日目。
どうしたらいいもんか、と思いつついよいよ玄海原発に近付く。
2件ほどの取材申請と聞き込み。
なんとかかんとか、カメラを回し始める。
原発の近くの漁村にある民宿で宿を取る。

明日が本格的な取材日。調整と休息を兼ねて今日はこれでおしまい。
ご飯までの時間、風景などを撮りに一人で出かける。

撮りながらなおも、はて自分はどうしたもんか、と悩み続けておりました。
ニューズリールの役にも立ってなければ、自分が欲しい絵すら撮れないなんて。
ああ、俺はやっぱり「映像作家」みたいな言い方するとダメダメな部類の人間だなあ、と自己嫌悪出血サービス。
夕焼けの見えない曇り空を見ながら、ああ、さえない風景だな、と思い、何から何までさえない映像しかモノにできてない現状にふつふつと焦りが。

旅館の飯はたいへんうまく、その後、明日の撮影についての会議となりました。
話し合いが終わり、じゃあそういうことで、となった時、率直に言ってみました。

「あの、俺ってどういう関わり方すればいいんでしょうかね」
すると足立監督「お前は俺を撮りに来てるんだろ?それでいいやないか」
カメラマンさん「もっと自由に撮っちゃっていいのに」
わたくしは「はぁしかし皆さんに迷惑がかかってはイカンと・・・」

プロデューサーさん「あのなあ、今まで君みたいな奴はいっぱいいたよ。足立監督を撮りたいって。でもみんな何がしたいんだか全然分からないんだよ。もっとこうしたい、とかああしたい、とかさ。迷惑だとか、一般論なんてどうだっていいんだよ!!」


ふむ。

そうか・・・やっぱり自分は逃げていたんだな、自分が傷つきたくなかっただけなんだな。
と、思い知らされました。自分が何のためにここにいるのか、2日かかってやっと分かりました。
みなさん笑ってやって下さいこのちんけなピエロを。



3日目。
2日間の取材、下調べを終え、やっと本格的な撮影に入ります。
わたしももうふっきれてカメラを回しまくります。

自作の風力発電、水力発電を造り、行っている方を訪ねる。

山を分け入り、川の中の水力発電施設を見学。


この時、足立監督の足腰の強さに驚く。
「そりゃあお前、向こうじゃずっとこんなんだったからな」

次に元・原発作業員の方にお話を聞く。

玄海原発のよく見える丘でインタビュー。
雨が強くなってきたのでその方がオススメするサザエのツボ焼き屋で撮影続行。


シュールな絵だなぁ・・・

農家で反原発活動をやっている方は「最近までずっと白い目で見られていた。しかし、今回のことで周りの目も違ってきた」

原発っていうのは、そこにある社会そのものも変える。田舎に原発がどんと建てば、そこから発生する経済で村のかなりの部分が潤う。それに反対するっていうことは・・・

反・脱原発って、ただ単に環境だけじゃない。人の生き方、生活そのものを考えることだ。現地と都市部の「反原発」は言葉にしてみても、意味合いがまるで変わってくると思う。
足立監督の狙いは、こうした地元によりそう視点の映像。
監督の言葉をそのまま借りれば・・・


「地獄の釜蓋上で生かされている人々の実像」



こうして、3日間の同行取材を終えました。
自分の非力さに歯軋りな3日間でしたが、撮影と取材を追うことを通して、3月11日からずっとくすぶっていた何かが。答えではなく、何かの影が、やっと見えたような気がします。

原発を前に自分と震災を見つめる。個と公共から見つめる。
もっと繰り返し、このひとり禅問答みたいなことをしたい、と思いました。



後日。
とある会合で足立監督と再会する。ふざけてボディブローを放つ監督に、ひっかかっていたことを話す。
「監督を追ってはいますけど、ニューズリールの役にも立ちたいです。撮影とか、協力できることあったらまた呼んでくださいよ」
監督「当たり前じゃないかバカヤロウ!!」

うれしかったです。
やっぱ俺は小さいなあしかし・・・・
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