
前回のエントリ 連合赤軍を巡る 【1】 スナックバロン・植垣さん にて静岡を訪れ、そのままある方にお会いするため大阪に向かいました。しかし40年前の縁を手繰り寄せるのは、わたしのような者にとって簡単には行かず、断念せざるを得ない状況となりました。
一旦東京に戻り、今度はすぐさま群馬へと向かいました。群馬、長野をまたいだ「連合赤軍」に関する場所を巡るため。
案内して下さったのはメル斗さん。
以下は当日つけた記録に加筆したものです。
高崎駅にてメル斗さんと待ち合わせ。会うのは実に4年ぶりくらいか。
以降車にて移動。
小川伸介監督の学生運動ドキュメント映画『圧殺の森』の舞台となった高崎経済大学前を通る。
その近くに、進藤氏・Mさんが夫婦と偽って借りたアジトがあるというので、だいたいの場所を見る。
熊よけの鈴を買い、昼飯を食い榛名山へ。

【榛名山とは・・・(以下wiki)
榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。】
ベース付近を尋ねる前に、総括によって殺されたメンバーの方々を慰霊するための小さな碑があるというので、そこで手を合わせて行くことにした。
近くの寺の住職が建立したというもので、地主さんの都合で二度の移動を余儀なくされた。実際に殺された方々が埋められた場所は、養鶏場となっている。
その、養鶏の慰霊碑の真横に、ボタ石のような小さな碑がある。それが慰霊碑だった。

なんの因果で養鶏の慰霊碑の真横にあるのか分からないが、養鶏のものよりずっと小さく、泥にまみれてそれはあった。
表

裏

手を合わせ、撮影する。
その後、花をやり、線香をたく。そして恐らく彼らの唯一嗜好品だったであろう、煙草をつけてそなえる。
漫画『レッド』の一場面、久々の煙草にクラクラする場面を思い出した。
慰霊碑の小ささ、ぞんざいさに、この事件の世間からの評価が見てとれたような気がした。
「彼らは英雄として死んだわけではないからねえ」
メル斗さんが言った。

次いで、榛名湖を横目に榛名ベース付近を目指す。
人けのない、奥まった山の道に車を止め、静まり返った山道を少々歩く。

沢の付近にあったらしいが、今はもう何もない上、道がなく急勾配で危険な場所に予想地点があるという。
仕方なく、付近を撮影。



うっそうとした木々の奥に、沢の流れる音が静かに響いていた。
どう思おうにも、ただの山であるので、なんとも感じるものは無かった。「こういう気持ちで来なければ、山道として気持ちいいとか、空気うまいとか思うんだろうな」と考えた程度。
自分は想像力が貧困なんだろうか。
ここでも線香をあげ、花を供える。
榛名ベースにて総括、死刑よって殺されたのは以下の8名。(死亡順)
・尾崎充男 (革命左派)
・進藤隆三郎 (赤軍派)
・小島和子 (革命左派)
・加藤能敬 (革命左派)
・遠山美枝子 (赤軍派)
・行方正時 (赤軍派)
・寺岡恒一 (革命左派)
・山崎順 (赤軍派)
いわゆる「山岳ベース事件」は、その殆どがここで行われたことになる。
次の迦葉ベースで3名、最後の妙技ベースで1名。
死が普遍的なものになるにつれ、それに対する感覚は麻痺し、最後の2名、寺岡氏と山崎氏に関しては総括ですらない「死刑」によって殺されている。そしてそれを「たいへんな闘争をやりきったなあ」と何の罪の意識もなく、それどころか充実感を持って迎え入れている。
これを「人間のやることではない」「われわれとは違う」とうっちゃることは簡単で、若い人々からすればそう思われてもまったく仕方ないことだと思う。
実際、あの状況に追い込まれても集団心理が働いているとはいえ、さすがに「逃げる」という選択肢をとるだろう。
でも、彼らとわれわれでは圧倒的に環境、時代、社会が違っている。
さまざまなものが違っている。違いすぎてる。
何より、戦後という歴史の捉え方が違っている。
世代論で語るのもどうかと思うけど、それでもやっぱり、わたしとわたしの親世代では、ぜんぜん違う。
ましてや、今の10代にしてみれば、まったくの異次元、理解不能の出来事と言っても過言ではないだろう。
その「違うもの」から生まれ出た異形のものが何だったのか、それが知りたい。
次に迦葉山のベース付近に向かう予定だったが、日が落ちてきたので明日にまわすことに。
つづく
一旦東京に戻り、今度はすぐさま群馬へと向かいました。群馬、長野をまたいだ「連合赤軍」に関する場所を巡るため。
案内して下さったのはメル斗さん。
以下は当日つけた記録に加筆したものです。
高崎駅にてメル斗さんと待ち合わせ。会うのは実に4年ぶりくらいか。
以降車にて移動。
小川伸介監督の学生運動ドキュメント映画『圧殺の森』の舞台となった高崎経済大学前を通る。
その近くに、進藤氏・Mさんが夫婦と偽って借りたアジトがあるというので、だいたいの場所を見る。
熊よけの鈴を買い、昼飯を食い榛名山へ。

【榛名山とは・・・(以下wiki)
榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。】
ベース付近を尋ねる前に、総括によって殺されたメンバーの方々を慰霊するための小さな碑があるというので、そこで手を合わせて行くことにした。
近くの寺の住職が建立したというもので、地主さんの都合で二度の移動を余儀なくされた。実際に殺された方々が埋められた場所は、養鶏場となっている。
その、養鶏の慰霊碑の真横に、ボタ石のような小さな碑がある。それが慰霊碑だった。

なんの因果で養鶏の慰霊碑の真横にあるのか分からないが、養鶏のものよりずっと小さく、泥にまみれてそれはあった。
表

裏

手を合わせ、撮影する。
その後、花をやり、線香をたく。そして恐らく彼らの唯一嗜好品だったであろう、煙草をつけてそなえる。
漫画『レッド』の一場面、久々の煙草にクラクラする場面を思い出した。
慰霊碑の小ささ、ぞんざいさに、この事件の世間からの評価が見てとれたような気がした。
「彼らは英雄として死んだわけではないからねえ」
メル斗さんが言った。

次いで、榛名湖を横目に榛名ベース付近を目指す。
人けのない、奥まった山の道に車を止め、静まり返った山道を少々歩く。

沢の付近にあったらしいが、今はもう何もない上、道がなく急勾配で危険な場所に予想地点があるという。
仕方なく、付近を撮影。



うっそうとした木々の奥に、沢の流れる音が静かに響いていた。
どう思おうにも、ただの山であるので、なんとも感じるものは無かった。「こういう気持ちで来なければ、山道として気持ちいいとか、空気うまいとか思うんだろうな」と考えた程度。
自分は想像力が貧困なんだろうか。
ここでも線香をあげ、花を供える。
榛名ベースにて総括、死刑よって殺されたのは以下の8名。(死亡順)
・尾崎充男 (革命左派)
・進藤隆三郎 (赤軍派)
・小島和子 (革命左派)
・加藤能敬 (革命左派)
・遠山美枝子 (赤軍派)
・行方正時 (赤軍派)
・寺岡恒一 (革命左派)
・山崎順 (赤軍派)
いわゆる「山岳ベース事件」は、その殆どがここで行われたことになる。
次の迦葉ベースで3名、最後の妙技ベースで1名。
死が普遍的なものになるにつれ、それに対する感覚は麻痺し、最後の2名、寺岡氏と山崎氏に関しては総括ですらない「死刑」によって殺されている。そしてそれを「たいへんな闘争をやりきったなあ」と何の罪の意識もなく、それどころか充実感を持って迎え入れている。
これを「人間のやることではない」「われわれとは違う」とうっちゃることは簡単で、若い人々からすればそう思われてもまったく仕方ないことだと思う。
実際、あの状況に追い込まれても集団心理が働いているとはいえ、さすがに「逃げる」という選択肢をとるだろう。
でも、彼らとわれわれでは圧倒的に環境、時代、社会が違っている。
さまざまなものが違っている。違いすぎてる。
何より、戦後という歴史の捉え方が違っている。
世代論で語るのもどうかと思うけど、それでもやっぱり、わたしとわたしの親世代では、ぜんぜん違う。
ましてや、今の10代にしてみれば、まったくの異次元、理解不能の出来事と言っても過言ではないだろう。
その「違うもの」から生まれ出た異形のものが何だったのか、それが知りたい。
次に迦葉山のベース付近に向かう予定だったが、日が落ちてきたので明日にまわすことに。
つづく
riffilm(アットマーク)hotmail.com
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