アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

ビオトープ

2005-06-07 22:09:42 | 暮らし
「ビオトープ」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

最初は耳慣れない言葉だと思っていたけれど、もしかしたら今まで知らなかったのは私だけだったのかもしれない。最近この言葉に接して「何の意味だろう?」とネットで調べたら、もう学校教育やその方面ではとっくに知れ渡っている言葉らしい。最近流行の「環境アイテム」的必須ボキャブラリーのひとつのようだ。

「ビオトープ」とは、「生き物の住む空間」の意。ギリシャ語を語源として、「生命」を意味する「bio」と「場所」を意味する「topos」を組み合わせた言葉。

この場合の「生き物」とは、もちろん「人間を除く」のだろう。いや、更に言えばペットや家畜などの半分人工的に改良された生き物も含めないのだと思う。一般的に「自然」の中や「野生」の状態に生息する生き物のことを差して使われているようだ。
そして実際の「ビオトープ活動」について読み進めていくと、学校内や地域の公園、工場敷地内などに生き物の住む場所を広げていく活動。地域住民に開放したり環境教育の場とする。更には自宅の庭やベランダなどを利用して、小さなビオトープを作る人もいるとのこと。

そうか、そしたらビオトープとは、都会などで失われた「元々そこに住んでいた生き物たち」を事情の許す限り本来の生態系に近づけながら「飼う」ことなんだろう。人の経済活動の背後で駆逐されて来た生き物は数知れない。例えば蛍ひとつとってみても、その生存のためにはそれを下支えする無辺の生態系の存在を必要とする。それらを完全に復元して蛍自体を「自然の」状態で生存させることは多くの場合ほとんど不可能に近いと思う。それでもある程度人為的な働きかけをしながら似たような状況を作ることは可能であり、ビオトープとはそのような活動。つまり「人工的に構築された擬似生態系」の構築。これは失われたものの多い都会ではそれなりに価値があることなのだろう。

でも、うちのような田舎では・・・と考えてみたら愕然とした。厳密な意味での天然の生態系を維持している場所はこんな田舎と言えども思いの他無いことに気が付いた。
田も畑も、除草剤と化学肥料にどっぷりと浸されて本来の生態系とは大きく異なる生物層を背負っている。草だけをとってみても、除草剤に抵抗性の強い数種類の草だけが旺盛に繁茂する傍ら、他の大多数の草たちは瀕死の状態だ。
「無化学物質」農業を標榜する我が家の圃場も、一般の農地に比べて生物層は格段に厚いとは言え厳密に言えば「自然の状態」とは程遠いのかもしれない。なにしろ周囲はぐるりと慣行栽培農家に囲まれている。全体が化学物質で覆われる中に僅か一反、二反の田や畑が何ほどの成果をもたらすというのか。

そうか、田舎、都会を問わずに、今はもう「自然の」状態が無くなってしまっているのか。・・・まあしかし、このような問題は厳密に考え過ぎれば袋小路に入ってしまうけれど、実際はもっともっとおおらかに考えた方がいい。

ビオトープ活動、それは例えて言うならば、高層マンションの一室で金魚鉢の中にメダカを飼うのに似てるかもしれない。かつて有り余るほどに存在した環境条件の箱庭的復元。郷愁を誘う暮らしのレトロ志向にも後押しされている。しかしそれでもする価値は充分にある。何しろ今育っている子供たちは、本来の自然そのものさえ知らないのだから。もし現代でそれに触れようとするならば、人の手の入らない山奥に行かないといけないのかもしれない。
そうか、ピオトープと言う単語は現代という時代の産み落とした価値観を背反的によく表わしている。まるで太平天国の江戸時代において「武士道」を殊更賛美した文学が隆盛を極めたのと似てるかもしれない。

          *        *        *

一昨日の日曜日、私の住む地区でも「ビオトープ活動」が行われた。峠に近い荒地を復田して、市内の子供たちを招き古代米などの田植え体験をするものだった。たまたま私にも声が掛かったので参加させていただいたけれど、催しはすこぶる盛況。子供たちはパンツまで泥だらけになりながら一本一本手で稲を植える。「遊び的関わり」ではあるけれど、このような体験は彼らにとってとても価値があることだと思う。もはや多くの子供たちには泥に触れること自体が、既に希少なことになっているのだろうから。

ビオトープ。このような言葉自体が不要になる時代は、私の生きている間に果たしてまた来るだろうか




【写真は過ぐる日曜日に行われた隣りの田植え体験】






最新の画像もっと見る

コメントを投稿