このところ、田んぼでよくトンボが羽化しているところに出会う。
こんな小さな殻からよく・・・と思われるほど抜け出たトンボの体は大きい。羽は白く小さいのだけれど、多分これから大きく広がっていくのだろう。自身の抜け殻に掴まりながらトンボはじっと変身の完成を待つ。この瞬間は動けないだろうしとても弱い姿なのだろうけれど、まるで世界中が自分の味方であることを知っているみたいに、じっと状況に身を委ねる。
私もこんな時はトンボを刺激しないようにそっとそこだけ避けて草をとる。確かにこの荘厳さを前にしては、いかな凶悪な人間であろうとそれを避けて通る気になるに違いない。
こうしてこの年にして、初めてヤゴがトンボになる瞬間を目撃した。いのちが変身する。こんな時、何だかとても大切な現場に立ち会ったみたいで気持ちがいい。カメラを持っていないのが残念に思える。
私の田にはたくさんの虫たちが住んでいる。今のところイナゴはまだ可愛らしげだし蜘蛛はあちこちで巣を張り巡らせている。あれだけたくさん群れを成していたおたまじゃくしも、今はすっかり一人前のカエルになって水の中を泳いだりしている。
それから一般に「害虫」と呼ばれる虫たちも忘れてはならない。一番出会うのがフタオビコヤガの幼虫(通称イネアオムシ)、葉っぱが食われているな、という時に探せば大概この虫がペッタリと葉脈に貼り付いている。
毎年毎年、新しい虫を発見する。最近見つけたのはイネネクイハムシの繭。どうも虫にやられたような痕があるのにいくら探してもなかなか見つからなかった。ところが先日ひょんなことから株元に赤い小さな蛹のようなものを発見。潰してみると中から幼虫が出て来た。時にはそれから孵ったような成虫もいたりする。
ケラもよく見る。最近まで中干しをしていたので尚更なのかもしれない。これからまた水を張るのでその時彼らはどこに行くのだろう。
それからウンカ、イネミズゾウムシ、そしてまだ姿は確認していないけれど、独特の食べ痕からわかるイネゾウムシ。まさに我が家の田んぼは害虫の展示場のようだ。農業改良普及員が病虫害のサンプルを見つけるのに格好の場所ではなかろうか。本当に、時間をかけて探せばたくさんの虫たちを目にすることができる。
でも、彼らは決して大発生しない。ちゃんと予め割り振られた枠の中に納まるようにして、一方が他方を淘汰することなく釣り合いを保って生きている。害虫と言えども過去3年間、我が家の稲の収穫を脅かすほどに害を及ぼしたことは無い。
一昨年、近在の田が軒並みいもち病に冒された時も、我が家ではほんの僅かの被害で済んだ。あの時みんなが首を捻っていた。なぜ我らの田が大被害を蒙っているのに、無農薬の田がこれほど軽微で済んでいるのか。確かに他所と同じ病気は出てるのだけれど、決して重篤になるほど広がらない。正直私もあの年はハラハラし通しだった。これでもしうちの田で病気が顕著になれば、無農薬栽培のお前の圃場が発生源だと言ってみんなから攻撃されるかもしれなかったから。
今改めて思うのだけれど、こうして注意深く見てると我が家の田んぼには害虫、益虫常にいろんな虫たちが数多く生活している。その気になって探せば病気だって数多く見つけることができる。つまり微生物やカビ、ウイルスのレベルでも多種類の生き物が生息しているということだ。
もしかしたら、だから被害が出ないのではないだろうか。
雑多なもので構成された生態系は強い。広い裾野で支えられた均衡は少々の外的刺激では揺るぎがたい。なぜならそれが自然の生態系の姿により近いのだから。
それがもし、特定の虫や微生物だけを根絶しようとすればどうだろう。薬を撒く、大量の天敵を人為的に導入する。するとその結果生態系の根本の一角は破壊され、それを皮切りに全体が不自然に歪んでしまうのではないだろうか。そして今までそれを支えて来たモノたちの幾つかが、いきなり「病害虫」へと豹変してしまう。しかし彼らだって元々は、全体の均衡の一翼を担う大切な存在だったはずだ。つまり農作物への害は、多くの場合環境への過度な人為的働きかけ、強烈な均衡破壊へのパンチが導いた結果なのではないだろうか。
世に害虫はおらず、人間の営みが害虫を作る。
無知な人間のする、浅はかな知恵が招いた当然の帰結。しかし近代農業の長い歴史はただひたすらそれを繰り返して来ただけのように思える。
今や普通の田んぼではヤゴもイナゴもほとんど見ることができない。何より除草剤のお陰で稲以外の草さえも生えない。
このような薄っぺらな、しかも化学物質の連続投与無くしては片時も維持できないような環境の中で、果たして稲自身も健康でいれるものだろうか。私たち人間の目から見ればそれはさも青々とし大きく育っているように見える。しかしそれは、免疫力を失いながらぷくぷくと水ぶくれになった状態なのかもしれない。
それと似たような現象に、アトピーを始めとする現代あまりに蔓延している各種アレルギー、健康体では問題にならない体内に内包された病原体が発症するエイズ、鬱症状に代表されるエネルギー欠乏症候群などがあるかもしれない。どれも体内外での何らかのバランスを狂わせた結果引き起こされた、肉体や精神の変調ではないだろうか。裾野の狭い世界では均衡はとりにくい。無菌室では野菜は決して健康体に育たないものである。
田に足を入れて今日もたくさんの虫たちと出会う。腰を伸ばして見渡すと、「雑草」と呼ばれる草たちで覆われた我が家の田んぼが見渡せる。今年は草取りが間に合わなくて、近所から同情されるほどの見るも悲惨な状態になってしまった。
でもそんなことを考えてみると、こうして草に埋もれた状態もそんなに悪くはないような感じがする。
これでもいざという時、例えば極端な天候不順や外部からの大量の虫の飛来があった時などには、かえってこの方が強いかもしれない。確かに平時において若干収量は落ちるだろうけれど。
今自分が良かれと思ってやっている諸々の日々の行為。それに費やす大きな労力と精神力。それがこの世界の中でどのような結果を招いていくのか、突き詰めてみれば、自分を含めてみんなほとんど何も知らないに等しい。
本当は何も知らないで生きているんだということに、そろそろ気づいた方がいいのかな、と思った。
こんな小さな殻からよく・・・と思われるほど抜け出たトンボの体は大きい。羽は白く小さいのだけれど、多分これから大きく広がっていくのだろう。自身の抜け殻に掴まりながらトンボはじっと変身の完成を待つ。この瞬間は動けないだろうしとても弱い姿なのだろうけれど、まるで世界中が自分の味方であることを知っているみたいに、じっと状況に身を委ねる。
私もこんな時はトンボを刺激しないようにそっとそこだけ避けて草をとる。確かにこの荘厳さを前にしては、いかな凶悪な人間であろうとそれを避けて通る気になるに違いない。
こうしてこの年にして、初めてヤゴがトンボになる瞬間を目撃した。いのちが変身する。こんな時、何だかとても大切な現場に立ち会ったみたいで気持ちがいい。カメラを持っていないのが残念に思える。
私の田にはたくさんの虫たちが住んでいる。今のところイナゴはまだ可愛らしげだし蜘蛛はあちこちで巣を張り巡らせている。あれだけたくさん群れを成していたおたまじゃくしも、今はすっかり一人前のカエルになって水の中を泳いだりしている。
それから一般に「害虫」と呼ばれる虫たちも忘れてはならない。一番出会うのがフタオビコヤガの幼虫(通称イネアオムシ)、葉っぱが食われているな、という時に探せば大概この虫がペッタリと葉脈に貼り付いている。
毎年毎年、新しい虫を発見する。最近見つけたのはイネネクイハムシの繭。どうも虫にやられたような痕があるのにいくら探してもなかなか見つからなかった。ところが先日ひょんなことから株元に赤い小さな蛹のようなものを発見。潰してみると中から幼虫が出て来た。時にはそれから孵ったような成虫もいたりする。
ケラもよく見る。最近まで中干しをしていたので尚更なのかもしれない。これからまた水を張るのでその時彼らはどこに行くのだろう。
それからウンカ、イネミズゾウムシ、そしてまだ姿は確認していないけれど、独特の食べ痕からわかるイネゾウムシ。まさに我が家の田んぼは害虫の展示場のようだ。農業改良普及員が病虫害のサンプルを見つけるのに格好の場所ではなかろうか。本当に、時間をかけて探せばたくさんの虫たちを目にすることができる。
でも、彼らは決して大発生しない。ちゃんと予め割り振られた枠の中に納まるようにして、一方が他方を淘汰することなく釣り合いを保って生きている。害虫と言えども過去3年間、我が家の稲の収穫を脅かすほどに害を及ぼしたことは無い。
一昨年、近在の田が軒並みいもち病に冒された時も、我が家ではほんの僅かの被害で済んだ。あの時みんなが首を捻っていた。なぜ我らの田が大被害を蒙っているのに、無農薬の田がこれほど軽微で済んでいるのか。確かに他所と同じ病気は出てるのだけれど、決して重篤になるほど広がらない。正直私もあの年はハラハラし通しだった。これでもしうちの田で病気が顕著になれば、無農薬栽培のお前の圃場が発生源だと言ってみんなから攻撃されるかもしれなかったから。
今改めて思うのだけれど、こうして注意深く見てると我が家の田んぼには害虫、益虫常にいろんな虫たちが数多く生活している。その気になって探せば病気だって数多く見つけることができる。つまり微生物やカビ、ウイルスのレベルでも多種類の生き物が生息しているということだ。
もしかしたら、だから被害が出ないのではないだろうか。
雑多なもので構成された生態系は強い。広い裾野で支えられた均衡は少々の外的刺激では揺るぎがたい。なぜならそれが自然の生態系の姿により近いのだから。
それがもし、特定の虫や微生物だけを根絶しようとすればどうだろう。薬を撒く、大量の天敵を人為的に導入する。するとその結果生態系の根本の一角は破壊され、それを皮切りに全体が不自然に歪んでしまうのではないだろうか。そして今までそれを支えて来たモノたちの幾つかが、いきなり「病害虫」へと豹変してしまう。しかし彼らだって元々は、全体の均衡の一翼を担う大切な存在だったはずだ。つまり農作物への害は、多くの場合環境への過度な人為的働きかけ、強烈な均衡破壊へのパンチが導いた結果なのではないだろうか。
世に害虫はおらず、人間の営みが害虫を作る。
無知な人間のする、浅はかな知恵が招いた当然の帰結。しかし近代農業の長い歴史はただひたすらそれを繰り返して来ただけのように思える。
今や普通の田んぼではヤゴもイナゴもほとんど見ることができない。何より除草剤のお陰で稲以外の草さえも生えない。
このような薄っぺらな、しかも化学物質の連続投与無くしては片時も維持できないような環境の中で、果たして稲自身も健康でいれるものだろうか。私たち人間の目から見ればそれはさも青々とし大きく育っているように見える。しかしそれは、免疫力を失いながらぷくぷくと水ぶくれになった状態なのかもしれない。
それと似たような現象に、アトピーを始めとする現代あまりに蔓延している各種アレルギー、健康体では問題にならない体内に内包された病原体が発症するエイズ、鬱症状に代表されるエネルギー欠乏症候群などがあるかもしれない。どれも体内外での何らかのバランスを狂わせた結果引き起こされた、肉体や精神の変調ではないだろうか。裾野の狭い世界では均衡はとりにくい。無菌室では野菜は決して健康体に育たないものである。
田に足を入れて今日もたくさんの虫たちと出会う。腰を伸ばして見渡すと、「雑草」と呼ばれる草たちで覆われた我が家の田んぼが見渡せる。今年は草取りが間に合わなくて、近所から同情されるほどの見るも悲惨な状態になってしまった。
でもそんなことを考えてみると、こうして草に埋もれた状態もそんなに悪くはないような感じがする。
これでもいざという時、例えば極端な天候不順や外部からの大量の虫の飛来があった時などには、かえってこの方が強いかもしれない。確かに平時において若干収量は落ちるだろうけれど。
今自分が良かれと思ってやっている諸々の日々の行為。それに費やす大きな労力と精神力。それがこの世界の中でどのような結果を招いていくのか、突き詰めてみれば、自分を含めてみんなほとんど何も知らないに等しい。
本当は何も知らないで生きているんだということに、そろそろ気づいた方がいいのかな、と思った。
今は身の周りの虫も動物も随分変わってきて、なんだかふる里が無くなっていくようで残念な気がします。
gooに引っ越してきたんですね。お互い細くても楽しくBLOGを続けられればいいですね。
返事遅れてしまいました。このところいろいろあって、パソコンを開くのが不規則なんですよ。