時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

議会と世論

2006年08月30日 | 政治問題
国民の中には、自らが議会選挙に立候補し、議員として活動している人たちも存在するが、一般的には、選挙によって国会や地方議会の議員を選出することによって、間接的に国や地方政治に参画している。
しかし、国民の意識として、選挙が終わってしまえば、議会でどのようなことが議論され、どのようなことが実行されているのか知らない場合が圧倒的に多い。また、自分が投票した議員が議会でどのような言動を行っているかについてもほとんど知ろうともしない。要するに議員まかせ、議会まかせになっている場合がほとんどであろう。
日本の政治は、いま自民・公明の連立与党によって担われており、衆参両院において与党が圧倒的な多数を握っているため、野党の声が議案に反映する余地はほとんどない。
しかし、与党に投票した国民も含めて、多くの国民は、今の政治に何らかの要望や不満を持っている。
景気対策、消費税増税、軍事費の増額、海外派兵、米軍への基地提供や思いやり予算、高齢者対策、福祉、医療や介護、障害者対策、子育てや教育、犯罪の抑止、災害対策、技術振興、・・・、この他に、街灯や信号機の設置、公園の整備、子供の遊び場、保育園や幼稚園の増設など皆さんの身近な要望は数限りなくあることだろう。
こういう多くの国民の要望の一つひとつが国会や地方議会で真摯に議論されているかというと必ずしもそうは思われない。
たとえば、北朝鮮による拉致問題などは、拉致被害者の家族が長年に渡って調査を要求してきたにも関わらず、歴代の政府がずっと背を向けてきた事件である。しかし、ここ数年の世論の高揚の中で、与野党支持者を含む圧倒的な国民が早期の解決を願っているにも関わらす、未だにほとんど進展は見られない。北朝鮮とはコミュニケーションチャンネルさえ確立できないままである。
薬害エイズ問題についても、政府はその解決に消極的な態度を取り続け、そうこうするうちに、肝炎ウィルス感染などの新たな薬害さえ生んで来たのである。
しかし、いずれの例でもわかるとおり、圧倒的に大きな国民世論の高まりが、議会を動かす力になるのである。
我々国民は、選挙後も、当選した議員の言動を監視し、自らの要望をまとめて、政府や自治体、各政党や議員に届ける努力を怠ってはならないのである。
一昔前までは、世論の高揚というと、労働組合や学生団体などが集会を開き、デモ行進をし、署名を集め、団体交渉を行うといった手法が通常用いられてきたが、最近はこういう示威スタイルは流行らないのかもしれない。あるいは、労働組合運動などの衰退によって、こういう行動ができなくなってきたのかもしれない。しかしながら、この種の示威行動は現在も有効であり、多くの国民の共感が得られるように創意を凝らして行う必要があるだろう。
同時に、パソコンの普及などによって、政府や各省庁、自治体、政党、個々の議員、新聞社などに比較的簡単に、直接意見を届けることも可能になった。ホームページやブログ上で、自らの意見を述べ、意見を交流することもできるようになっている。こういう新たなツールも活用しながら、日常的に議会などを監視し、我々の要望を実現させていくことも非常に重要である。
国や地方自治体の政策を決定するのは、議会だけではない。有権者である国民一人ひとりの世論が政治を動かすことをしっかりと認識し、声を上げていくことなく、政治はけっして身近なものにはならないのである。

歴史から何を学ぶか

2006年08月29日 | 社会問題
編集長は歴史が好きである。世界史に関する書籍も読むが、特に、日本史が好きである。
歴史小説を読んだり、歴史の研究書や歴史書そのものに目を通したり、史跡や遺跡、考古学的な出土物などを見物するのも好きである。
特に興味のある時代というのはないが、弥生時代から古墳時代にかけての古代史、平安末期~鎌倉初期、戦国時代、幕末~明治時代を描いた蔵書が自然に溜まっているところをみると、このあたりの歴史がお気に入りなのかもしれない。
古代史は、わからないことが多いこともあって、謎解きのような気持ちで読めるところが面白い。いろいろな著者のものを読んだが、記紀や風土記などの神話の世界、邪馬台国論争などに関して、最もリアリティを感じたのは、古田武彦氏の著作である。氏の論理展開に比較すると、他の論者、歴史学者の論拠はどうも説得力に欠けている。古田史学については、異端の史学とのレッテルが貼られることも多いようだが、今後も学問上の論争を大いに進めて、古代史の真実に迫って欲しいと願っている。
また、平安末期~鎌倉初期、戦国時代、幕末~明治時代というのは、いずれも時代が大きく変化した時代だ。こういう変化の時代にあって、新しい時代の流れを敏感に読み取り、社会を前向きに動かした人たち、逆に、古い社会体制にしがみつこうとした人たちなど、その人間模様に考えさせられることは多い。
もし、読者諸氏が幕末から明治維新という激動の時代に生を受けていたら、どのように行動したことだろうか。
一般的に、人は急激な変化を望まない。未知の世界が自分をどこに連れて行くのかがわからないという不安のため、とりあえず現状を維持しようと努める。このような中にあって、新しい社会のあり方を研究、模索し、その展望を示し、多くの人々を導いていく事業は、通常多くの困難を伴うのである。
21世紀という時代もまた、社会が大きく動く時代であろう。
18世紀にイギリスで始まった産業革命以来、人類は化石燃料を大量に消費しながら、資本主義社会という新しい文明社会を築いてきた。しかしながら、それもそろそろ限界ではなかろうか。特に、先進諸国が化石燃料を消費し、有害物質を撒き散らしながら、経済成長を競い合ってきた結果、地球の温暖化、森林資源の破壊、砂漠化の進行、多種多様な生物種の絶滅などの地球規模での環境破壊、それに伴う水不足や食料不足、南北問題などが急速に進行している。これらの問題は、地球規模で進行しているため、一国の努力ではもはや解決できない段階に達している。しかし、こういう問題が極限にまで達しない限り、各国が一致して解決に取り組むことはないだろう。なぜなら、資本主義社会は、自国の経済成長、経済発展を唯一の目的とする社会体制だからである。
だからこそ、こういう問題が極限に達する前に、これに歯止めをかけグローバルな協力体制の確立や新しい社会体制の実現が求められているのである。
21世紀は、人類が変化を恐れずに、新しい社会体制に足を踏み出す時代になることだろう。
変化の時代、激動の時代に生を受けているあなた、これからあなたはどう行動しますか?

「非自民」って、以前にも聞いたことがあるような…

2006年08月28日 | 政党
先日、民主党の小沢氏が、近く行われる民主党代表選に向けての政策を発表したとの記事が新聞に掲載されていた。そこで、「非自民」勢力の結集を訴えたという。
この「非自民」という言葉の持つ意味については、慎重に検討しなければならない。なぜ、野党第1党の民主党の党首が「反自民」と明確に主張できないのだろうか?
「非自民」と「反自民」、この言葉の持つ意味はまったく異なる。
「非自民」という言葉は、1990年代前半に、細川護熙が結成した日本新党がもてはやされた頃に流行した言葉である。
自民党政治はもうごめんだという多くの国民の支持を得て、1993年に、細川を首班とする「非自民」政権が発足した。確かに自民党政権ではなかったが、実際の政治の内容は自民党政権時代とまったく変わらず、国民の不評を買い、この政権はわずか1年足らずで崩壊した。そして、この短い政権時代に細川が行ったことは、2大政党制の幕開けになった小選挙区制の導入だけである。この制度は、自民党が長年にわたって画策し続けながらもなし得なかったものであり、議席占有率に国民の民意(得票率)が正確に反映されない、大政党に極端に有利な無法な制度であることは論ずる必要さえない。
ちなみに、昨日、日本テレビで放映された24時間テレビに出演し、地球環境について偉そうに論じていた小池百合子環境相などは、この細川と一緒になって、「非自民」政権を作ろうと言って政治の舞台に登場した人物であり、それが今や自民党の広告塔の役割を担っているのである。
もう10年以上前、ひと昔前のことだから、国民はこのことを忘れているだろうと思って小沢氏が「非自民」を持ち出したとしたら、これほどまでに国民を愚弄にした態度はない。
以前から本紙において論じてきたように、民主党は、自民党に代わる財界擁護政党として財界の思惑に従って結成された政党であり、仮に民主党が政権をとっても、政権政党の名前が変わるだけで、今の自民党政治の悪政をけっして根本から変えることにはならないのである。そのことは、細川政権の経験からも立証済みである。
小沢氏の今回の発表の中には、民主党が政権をとっても、名前が変わるだけです、自民党政治の延長線上のことしかやりませんから、どうぞ安心して応援して下さいというメッセージが込められているのである。だからこそ、彼は「非自民」と声高に叫ぶことはできても、「反自民」とはけっして主張できないのである。
「非自民」と「反自民」、この似て非なる言葉に、国民は決して惑わされてはならない。

消費税増税でもっとも喜ぶのは?

2006年08月27日 | 経済問題
消費税の税率アップが当たり前のように新聞などで報道されている。
国は様々な事業を行っているが、それによって収益を得ているわけではないので、その費用はほとんどすべてが国民、事業者の税金によって賄われる。国民の一人として、税金を納めることにはまったく異存はない。
しかし、消費税と言う税金はいただけない。そもそも、納税の義務がない子供までが税金を負担しなければならないというのは納得できない。
しかも、一律に消費という行為に掛けられる税金であるために、衣食住といった人間が生きていくうえで必要な最低限のものにまで税金がかかるというのは不当である。年収のほとんどを消費してしまう庶民も、何億円もの収入のある資産家も、生活に必要な最低限度の費用はそれほど違わない。
資産家は、多少贅沢な食材や料理を食べることが多いかもしれないが、何百倍、何千倍の収入があるからといって、けっしてゴハンを何百杯、何千杯も食べるわけではない。
消費税が導入されるまでは、高価な商品には物品税が掛けられていた。
贅沢な品物には、きちんと税金がかけられ、庶民にとってはほとんど関係のない税金だった。この物品税の廃止に諸手を挙げて賛成したのは一部の資産家だけではないだろうか。ここに、消費税がそもそも導入された意図を感じるのは私だけではあるまい。
消費税は、庶民にとって厳しい最悪の大衆課税である。そして、もっとも簡単に庶民から税金を巻き上げられる税金である。
しかし、世論調査などを見ると、消費税率のアップに反対する声は国民の約半数に留まっている。同時に、消費税率のアップに賛成もしくはやむを得ないといった声が半数を占めている。
これは、日本の財政が厳しいという政府、財界の宣伝が国民の中に一定浸透していることの現れであるが、国民の多くが決して賛成しているわけではなく、むしろ消極的賛成という層が多いことの現れである。
我々国民は、貴重な庶民の税金が無駄な公共事業に使われ、しかもその金額は談合などにより不当に高いこともよく知っている。そしてその一部が、政治家に賄賂として還流していることは周知の事実である。
格差社会と言われるように、一部の資産家に富が偏在していることもよく理解している。
消費税の導入後には、法人税の税率が引き下げられたこともよく知られていることである。
こういう不平等を徹底的に是正し、収入に応じて適正に課税し、適切な支出が行われてこそ国民の多くが納得できる税制が確立できるのではなかろうか。
お金がないから消費税率をアップするという安易な方法ならば、なにも優秀な官僚や国会議員でなくても、誰にでもできることではないか。
無駄を徹底的に削減し、その結果どうしても財政が足りません、というのなら話はわかるが、二言目には消費税率のアップという安易な増税は断じて容認できないのである。政治を預かる者には、そういう決意が求められており、国民には、そういう政治家を選挙で選択する権利と義務が与えられているのである。

親子で趣味の共有を

2006年08月26日 | ミニSL
今日はちょっと、毛色の変わった話題を提供しよう。
四国の片田舎に住む編集長の親父は、ミニSLづくりが趣味である。
編集長が物心ついた頃より、機関車の製作を始め、今までに10台近い蒸気機関車を製作している。
写真は、製作したうちの1台でC58という機関車であり、運転しているのは編集長の親父である。
さて、このミニSL、製作は勿論大変なのであるが(そばで見ていて、そう思った)、運搬も大変である。また、タンクに水を入れて、石炭を焚いて運転するため、準備にも時間がかかり、後始末も大変である。何度か運転すると塗装も剥げるので、塗り直さなければならないので非常に厄介である。好きでなければできないことと感心することしきりである。
その後、石炭ではなく、バッテリーで動く電動ライブのきかんしゃトーマスとなかまたちを製作するようになり、レールなど一式と共に、東京の編集長の家に持って来た。その後、実家に置ききれなくなった機関車を次々と編集長の家に持って来るので、今では、編集長宅の3LDKのマンションの1室がトーマスたちとレールに占領されるハメになった。
石炭を焚くような面倒なことはやりたくない編集長であるが、バッテリーを入れるだけのトーマスなら準備も簡単なため、時々、近所の公園などで走らせている。なかなかの人気である。
トーマスの画像は、またの機会に紹介したいと思っているが、こうして、曲がりなりにも親と趣味を共有することは、大切なことである。たまの電話でも、SLの運転のことで盛り上がり、親子の会話に役立っている。
我ながら、なかなかの孝行息子ではないかと多少自負している。今度は、息子が夢中になっているジャグリングやカードゲームにも少し挑戦してみることとしよう。
昨今は、子供への虐待、高校生による殺人や自宅への放火など家庭の崩壊による残念な事件が起きるような世知辛い世の中になっているが、この機会に世の親父諸氏も子供の趣味、親の趣味をお互いに尊重し、理解を深めてみてはいかがだろうか。

量的変化と質的変化

2006年08月25日 | その他
このタイトルを見ても、読者諸氏には内容がまったく想像できないに違いない。これは、新聞の見出しとして決定的に問題である。しかし、逆に、何が書いてあるのかと興味を持って読んでいただけるという効果を生み出すかもしれない。
さて、本題に入ろう。水を例にとって量的変化と質的変化について説明しよう。
ここに室温の水がある。どんどん温度を下げていき、0℃以下になると、氷になってしまう。逆に、どんどん温度を上げていき、100℃を超えると水蒸気となる。よく知られている現象である。
この例を基に、量的変化と質的変化について考察すると、一般的に次の2つのことがわかる。
一つは、温度という量的変化はある段階に達すると、質的変化を引き起こすということ、二つは、量的変化は緩やかであり、質的変化は急激である、ということである。
このような例は自然界には掃いて捨てるほどある、メタン、エタン、プロパンなどの飽和炭化水素(CH4、C2H6、C3H8、・・・)は、炭素数が少なければ気体であるが、多くなるとある時点で突然に液体となり、更にある時点では突然に固体となる。炭素および水素数という量的変化が、やがては質的変化を生み出すのである。
地震のメカニズムも、緩徐な量的変化の積み重ねの末に、急激な質的変化が生じるために発生する。人間でも同様である。毎日の生活で、老化を意識することはないが、長い歳月にわたり徐々に量的変化(個々の細胞や器官の死滅)により徐々に老化が訪れ、ついには死という急激な質的変化の日を迎えるのである。
こういう事象は自然界ばかりでなく、実は私たちの社会の中にも通常見出されるものである。
歴史を振り返ってみても、社会の変化というのは遅々としたものである。しかしながら、21世紀に生きる我々が日本史の年表を広げて、古代から現代までの歴史を俯瞰すると、たとえば、戦国時代、幕末~明治維新、太平洋戦争前後などに、社会に大きな質的変化が起きていることを確認することができる。緩やかな社会の動き(量的変化)と急激な社会の動き(質的変化)を年表の中に見出すことができるのである。
以前に、日本の国家破綻の可能性についての記事を書いたことがある。
今、国と地方の借金総額は、1,000兆円を超えているらしい。今は緩やかに借金が増えている量的変化の時期であるが、国といえども、無限に借金ができるわけではない。ある臨界点を超えると、急激な質的変化を辿るのである。
その時期は簡単には予測できないが、緩やかに進んでいる量的変化に歯止めをかけない限り、必ずや質的変化の日が訪れるのである。
政治の世界でも、戦後70年という長い自民党政権が続いてきたが、自民党の長期の低落傾向は否めない。自民党政治のさまざまな矛盾も噴き出し、徐々に臨界点に達しようとしている。大きな歴史の転換点を迎える日もそう遠くないと思われる。
我々の日常生活の中でも、量的変化と質的変化がお互いに関連しあいながら、世界というものを形作っている。
朝晩が漸く涼しさを増してきた今日この頃である。秋の夜長に、たまにはこういう哲学的な思考に耽ってみるのもよいのではないだろうか。

小沢氏ら、奥田氏と会談:やっぱり癒着してるんだ

2006年08月24日 | 政党
民主党の小沢代表と菅代表代行、鳩山由紀夫幹事長は23日夜、日本経団連の奥田碩・前会長(トヨタ自動車相談役)と東京都内で会談したという。(場所は、高級ホテルか、料亭なんでしょうね。)
小沢氏らは来年の参院選や統一地方選をにらみ、財界に一定の影響力を持つ奥田氏との交流を深め、民主党の政策に理解をもってもらう狙いがあるものとみられるとも報道されている。
野党第1党の幹部連中が揃いも揃って、財界もうでというのは情けない限りだ。
奥田氏は、小泉首相が議長を務める経済財政諮問会議のメンバーであり、昨年の総選挙では自民党支持を鮮明にし、小泉旋風を経済界から全面的にバックアップし、その立役者の一人になった。
もし、民主党が本当に小泉自民党と対決するというのなら、こういう人物に取り入るのではなく、むしろ全面的に対決すべきではないか。
この間の紙面でもたびたび明らかにしてきたように、そもそも、民主党は企業からの献金欲しさに経団連の「政策を語る会」にノコノコと出かけていき、財界人に媚を売るようなことばかり行っており、今回の行動も何ら驚くに足りない。
自民党は、小泉人気でやや持ち直したとはいうものの、長期的にはその支持基盤が崩れつつある。財界は、この自民党に代わる財界擁護政党として民主党を育成しようとしている。自民党、民主党のどちらが政権を取っても財界の政治への影響力が失われることがないように、財界は2大政党の育成に取り組んでいるのである。
今回の民主党からの3人の出席者の顔ぶれをよく見て欲しい。3人ともガチガチの元自民党幹部ばかりではないか。自民党ではうだつが上がらないので、新天地を求めて民主党を作っただけである。そして、自民党時代と同じように、財界もうでを行っているだけの人物である。
こういう行為を通じて、国民もそろそろ民主党の本質に気づくべきではなかろうか。そして、2大政党制への幻想を一刻も早く捨てて欲しいと願っている。

安倍晋三に日本の未来を託せるのか

2006年08月23日 | 政治問題
小泉自民党総裁の後継者についての報道が騒がしい。
対抗馬もなく、安倍氏で決まりだろうという報道である。しかし、新聞報道が競馬予想のような、しかもただ勝ち馬に乗るような記事だけでよいのだろうか?
自民党の総裁選は、一政党の総裁選びにとどまらず、事実上日本の総理大臣を決定する選挙である。ならば、安倍晋三がどのような方向に日本を導こうとしているのかを徹底的に検証してもらいたい。生い立ちや今までの政治家としての発言や行動なども克明に追いかけて欲しい。
彼は、経済政策と言えば消費税などの庶民増税以外は何も持っていないだろう。根っからの憲法「改正」論者であり、首相になったら憲法「改正」を政策課題にすると明言しており、小泉首相以上に右翼的ではないのか。これでアジア外交は順調に進むのだろうか。A級戦犯でありながら、戦後総理大臣にまで登りつめた祖父岸信介の思想をそのまま受け継いでいる人物ではないのか。あの狂信集団、統一教会との黒い関係も以前よりよく知られている。国民にとってどういうくらしが訪れるのか。こういう事項をしっかりと報道してもらいたいものだ。
私もけっして彼のことをよくわかっているわけではないが、その右翼的な言動に危惧を感じるのは私だけではあるまい。これでは、小泉内閣の悪い部分のみに拍車をかける結果にならないだろうか。
ところで、彼は成蹊大学(どこにあるのかさえ知らないし、別に知りたくもないが・・・。)の出身であるという。
成蹊とは、中国の故事「桃李(トウリ)ものを言わざれども、下(シタ)自(オノズカ)ら蹊(ミチ)を成す」にあやかって名づけたらしい。桃や李(スモモ)は何も言わないけれども、その甘い香りに誘われて人が集まってきてそこに自然に道ができる。人格ある者は自ら宣伝をしなくても、その人徳を慕って自然に人が集まって来る、というような意味である。
彼は、こういう崇高な理念の下で学んだ割には、この根本を理解しないまま卒業したとしか考えられない。
彼ががむしゃらに作ろうとしている蹊(ミチ)は、香り豊かな桃李への蹊ではなく、国民の願いや国際社会に背を向けて、歴史に逆行する党利への蹊ではないだろうか。
そして、彼の周りに、どのような人物が集まるのだろうか?安倍人気を当て込んだ当選目当ての自民党議員、大臣ポスト欲しさに擦り寄る公明党、利権あさりの大企業、出世を望む官僚たち、胡散臭い狂信集団、・・・などであろうことは容易に想像できるのである。

本当の対立軸を見失っていないか

2006年08月21日 | 社会問題
日本の社会というのは、最近どうもおかしい。
テレビや新聞を見ると、わけのわからない対立軸を持ち出して、お互いの対立を煽るという傾向があり、多くの国民がそれに乗せられているように思われる。
たとえば、40年間にわたって保険料を支払って受け取る国民年金の支給額が、生活保護費よりも少ないという議論がある。保険料を1円も払わないで、年金額よりも多い生活保護費を受給できるのはとんでもないので、生活保護費は年金支給額まで下げるべきだという意見である。
国民年金は満額受領しても年額80万円に満たない。この金額でどうやって生活しろというのだろう。生活保護費が高いのではなく、年金額が余りにも少なすぎることが問題なのだ。生活保護費の引き下げではなく、年金の増額こそ真摯に議論すべきである。年金支給額を減らしたと思ったら、今度はその年金額よりも生活保護費のほうが高いといって宣伝する。そこに意図的なものを感ずるのは私だけではあるまい。
高齢者と若年者の対立を作り出す手法もしばしば用いられる。
高齢者がお金を溜め込んで消費に回さないのは問題だ。高齢者は病気ばかりするので、高齢者からも保険料を徴収し、もっと自己負担を増やすべきだというように。
しかしながら、年金だけで生活できないために、引退時点で老後の生活に必要な不足額を貯蓄しておくことは当然ではないか。2,000万、3,000万円程度で年金の不足額を穴埋めしながら、長い老後を暮らしていけるのであろうか。また、退職者が支給されたばかりの退職金を持っているのも当たり前である。そのことをもって高齢者は金を持っているという議論は少々乱暴ではないか。
さらに、仮に高齢者の負担が増えた場合、親に経済的な援助をしなければならなくなって、一番困るのは子供の世代ではないか。親の負担増はそのまま子供に跳ね返ってくることがどうして理解できないのだろうか。
公務員と一般勤労者の対立もよく持ち出される。
確かに、都心の一等地の官舎に低家賃で住み、高級官僚ともなれば一生涯天下り先に不自由せず、退職の度に法外な退職金を受け取っていることなどはよく知られている事実であり、是正が急務であることは当然である。岐阜県庁での裏金作りなど、公務員が襟を正すべき事件のもないわけではない。しかし、不正事件などは、一般労働者の中にも頻発しており、何も公務員のモラルのみが欠如しているわけではない。
私は、一労働者であるが、一般公務員がそれほど優遇されているとはけっして思わない。公務員給与の低下が、一般企業の労働者の一層の給与の低下をもたらし、それがさらに公務員給与に反映されるという悪循環の構図がなぜ理解できないのだろうか。
こういういくつもの対立軸を持ち出して、国民同士を対立させて最も得をするのは一体誰だろう。
年金支給額の減額は、福祉予算を削減して公共事業につぎ込ませたいという狙いがあり、高齢者のお金を投資や消費に回したいというのも企業の要望であろう。
規制緩和で民間委託を推進し、儲けの土壌を広げながら、そこに非正規雇用者を安い給与で雇用してきたのは大企業である。
政府やマスコミが宣伝するさまざまな対立軸については、こういう財界からの要求が潜んでいることをしっかりと認識し、今後はこういう対立軸がマスコミで宣伝された時には、眉に唾して聞く必要がある。

日本の食糧は大丈夫か?

2006年08月20日 | 環境・食料問題
時々記事を発行する予定だったが、先週後半は久しぶりに休暇を取ったため、毎日の更新が続いている。
さて、今日は日本の食料問題について考えてみたい。
日本の食糧には2つの問題がある。一つは、食の安全についてである。つい最近も、アメリカ産牛肉の輸入再開問題が話題になったが、小泉首相に言わせれば、「食べたい人は食べればいいし、食べたくない人は食べなければいい」らしい。
BSEというのは、感染して発病するまで相当の期間が必要と考えられるので、アスベスト災害と同じように、発病者が多発してからではもはや手遅れなのである。まったく無責任な態度というほかはない。
この他にも、日本はさまざまな食糧を外国に依存しているが、ポストハーベスト(収穫後の農薬散布)や日本で許可されていない農薬の使用や家畜への薬剤投与の問題、遺伝子組み換え食品など、食の安全性の確保には疑問が多い。ファストフード、コンビニ弁当などの子供の成長への影響も不安である。
輸入食品を監視する税関職員数が足りないため、ほとんどの食品が無検査のまま我々の食卓に上っている。安かろう悪かろうでいいはずがない。早急な対策を望みたい。
もう一つの大きな問題は、量すなわち食料自給率の問題である。現在の食料自給率は、最新のデータではカロリーベースで約40%とのことである。
日本は、金の力に物を言わせて、アメリカ、オーストラリア、アジア諸国などから安い食料をどんどん輸入してきた。しかし、食料は各国にとっても重要なものであるため、世界各地での天候不良などにより不作が続くと、価格の高騰は勿論のこと、そもそも輸入すらできない事態になることも十分に予想できる。
日本は、米やイモ類の自給率はほぼ100%であるが、生産に必要な農機具の燃料、肥料、家畜の飼料などの輸入が停止することも予想されるため、米だけでなく、あらゆる食料の自給率が低下するであろう。
農林水産省は、食糧の輸入が停止した時の献立を想定して発表しているが、それによると、1日の主食はイモで、ゴハンは2膳、焼き魚1切れ、牛乳は6日に1杯、卵は1週間に1個、肉は9日に1回しか食べられないとのことである。しかもこれは、全国民を平均しての数値であり、食糧生産者や金持ちは、普段と変わらない食生活が送れるだろうが、都市生活を送る庶民にはもっと悲惨な食生活が待ち受けている。終戦直後の食糧難に近い事態になることも考えられる。
世界の国々では、自国の食料は自国で賄うことを基本に自国の農業を保護し、先進国でも自給率の向上に力を注いできた。一方、日本では農業は金にならないとの理由で補助金をカットし、そのお金を工業生産につぎ込み、輸出で稼いだお金で安い食料の輸入のためにつぎ込んできた。しかし、いつまでこのようなことが続けられるだろうか?
国民のために安全な食料を必要なだけ確保するために、税金を投入することをためらう風潮を反省すべき時ではなかろうか。

日本経団連の政策を語る会

2006年08月19日 | 財界
財界の総本山、日本経団連が2005年から自民、民主両党と「政策を語る会」を開催している。
経団連は、2003年より企業献金を希望する政党への献金の斡旋を再開したことに伴い、各政党の2003年の総選挙政策への評価を実施したが、2005年からは、政策を語る会として毎年開催しているものである。「企業献金が欲しいのなら、経団連の要望に沿った政策を作って持っていらっしゃい」ということである。
今のところ、企業献金欲しさにこの呼びかけに応えて、ノコノコと経団連に出かけて行ったのは自民党と民主党の2党だけであるが、両党ともその対応は極めて卑屈なものである。また、与党の一角の公明党も企業献金を受け入れており、公明新聞には連日のように企業広告という形で献金が行われている。
さて、この政策を語る会であるが、2005年の初回会合には、自民党は党幹部など26名、民主党は当時の岡田代表など25名が出席し、2006年にも民主党は小沢代表を含む幹部が出席している。
両党とも、経団連が事前に発表した優先政策についての見解をまとめて提出している。このレポートは、経団連のホームページにも紹介されているが、一覧表にまとめられ、その形式も両党ともまったく同じである。
用紙の大きさ、提出形式まできっちりと決められ、内容について、後日A、B、C、D、Eの5段階評価の「通信簿」を受け取るところなどは、大学のreportなどよりずっとレベルは低い。
2大政党制で政治が変わると民主党だけでなく自民党からも、そして多くのマスコミなどからも宣伝されるが、自前の財政基盤を持たず、収入の多くを財界からの献金に依存し、その見返りに財界の言いなりの政策を掲げ、実行する2大類似政党が誕生して、いったい政治の何が変わるというのだろう。しかも、献金だけでは足りずに、政党助成金という名で年間300億円以上の税金の分け取りまで行っているのである。
バブル崩壊後の不況の最中に進められてきたことは、財界の要求に沿った減税、規制緩和だった。リストラ、規制緩和、民間委託、法人税減税、消費税率のアップの宣伝、金融の自由化など、すべて財界の要求に従って行われてきたものばかりではないか。これらのすべてに民主党も賛成して、いやむしろ、自民党以上にその成果を競い合ってきたではないか。規制緩和の数字を競い合い、民営化、民間委託を進めてきたのは、与党と野党第一党の民主党の猿芝居である。
その結果、この10年間に、銀行、大企業は、膨大な不良債権の後始末を終え、逆に莫大な儲けを積み上げてきた。
財界にとっては、自分たちの言うことを素直に聞く政党であれば、自民党でも民主党でもどちらでも差し支えはない。財界が書いたシナリオに従って、自民党や民主党がそれを演じ、マスコミがここぞとばかりに振りまいている2大政党の幻影に惑わされている限り、国民にとって安らかな暮らしが訪れることはない。
こういう財界の思惑と対決する野党らしい野党が国会で少数になってしまったことは、国民のとっての最大の不幸と言わざるを得ない。

格差社会

2006年08月18日 | 格差社会
勝ち組、負け組、希望格差、縦並び社会、下層社会、下流社会、ヒルズ族、セレブ、…等々。最近、格差を言い表す言葉が次々と生まれている。
現時点で、それなりの資産を有し、家族や親戚も健康で、定職に就き、月々の収入があり、日々の生活にまったく困っていない人は、「きちんと働けば格差なんて関係ない」、「自分だけは負け組になることはない」と思っているのではなかろうか。
確かに健康で、定職を持って働いている限り、日々の生活に困ると言うことは通常はありえないことである。
社会の中には、ギャンブルや浪費によって自らの生活を破綻に追い込んでいる例があることを編集長はよく知っている。ここでは、こういう特殊な例について論じるつもりはない。
現在、編集長は、とあるマンションの管理組合の理事長をしているが、管理費の滞納の多さに驚いている。いずれの滞納者も普通に生活している人ばかりだ。
現在の社会は、家族の病気、入院、世帯主の失職などで、数ヶ月、数年のうちには管理費の支払いにさえ困るようになるのだ。
病気、会社の倒産、リストラ、就職浪人など本人の意志とは関係のない理由で、生活に行き詰る家庭が増えているのは確かであろう。
以前は、派遣や請負が可能な業種は限られていたが、規制緩和の影響でその業種はどんどん広がり、労働経済白書によると、正規雇用は1996年に3800万人だったが、2005年には3333万人に減少。一方で、非正規雇用は1996年の1043万人から2005年には1591万人に増加。非正社員は5人に1人から、3人に1人の割合になった。そして、非正規雇用の多くは若年者である。
最近は話題にもならないが、耐震偽装問題、JR西日本の列車事故、最近起きた埼玉でのプール事故など、「民間にできることは民間に」とばかり、安かろう悪かろうの民営化、民間委託を進めた結果がこの社会現象である。
特に、定職に就けない、同じ業務をこなしていても正規職員の半額にも満たない給料で働かざるを得ない社会のあり方というのはいかがなものであろう。
「きちんと働けば格差なんて関係ない」、「自分だけは負け組になることはない」と思っている人の家族や親戚、知人の中にも学校の卒業後に定職に就けなかった子弟は多いのではなかろうか。あるいは、障害を持って生まれたり、人生の半ばにして事故や病気によって健康を損ない肉体的あるいは精神的な障害を受け、定職に就けない人、定職を放棄せざるを得なかった人は意外に多いのではなかろうか。このような人生にありがちなさまざまな困難によって、数ヶ月、数年のうちに多くの国民が生活に困窮する社会というのはいかがなものであろう。それともそのような境遇に実際に身を置いてみなければ、その際のくらしが実感ができないほど、人間の創造力は貧困なのであろうか。
憲法に明記された健康で文化的な最低限度の生活を保障することこそ政治の責任であろう。
しかしながら、この10年間に進められてきたことは、「規制緩和」の名の下に、大企業の業績向上のための非正規雇用の拡大、リストラ減税、安易な民間委託など、結局は財界の言いなりになってどんどんと規制緩和を進めただけではないか。その結果、神武景気を上回る景気回復とはいうものの、景気がいいのは大企業のみであり、個人の生活はそれとは程遠いのが実感ではなかろうか。
格差社会という言葉の裏には、大企業が不良債権という莫大な借金を解消し、更にもうけを積み上げて来た一方で、庶民の暮らしが切り捨てられ、勝ち組=大企業と負け組=庶民といった構図があると思われる。
政府が進めてきた規制緩和の舞台裏については、別稿にて考えてみたい。

コインコレクターのつぶやき(1)

2006年08月17日 | コイン収集など
編集長の趣味の一つは、コインの収集である。穴銭の分類、近代銭の収集なども細々と続けているが、主な収集対象は、外国の大型銀貨である。
本当は、19世紀の銀貨を集めたいと思っていたのだが、さすがに100年~200年も経っていると状態の良いものが少なく、高価であり、収集対象が限られてしまう。傷や錆び(トーンなどと呼んで珍重するコレクターもいるが・・・。)が多い銀貨を持っていても楽しくない。仕方なく、20世紀の大型銀貨をターゲットとしている。現在、世界には約200ヵ国あると言われているが、この100年間に誕生し、消滅した国を加えればもっと多いだろう。この国々で発行された大型銀貨を、できる限り未使用の状態で、少なくとも1国につき1枚以上集めるのが当面の目標である。コインには、それぞれのお国柄を表わす紋章や特徴のあるデザインが描かれており、それも時代によって様々である。また、歴史上の人物などが描かれていて、その国の歴史に触れることができる。
さて、今日は、コインコレクションにまつわる雑多な話題について、ランダムに書いておこう。
1)東京都の差し押さえ小判の競売
以前より、東京都が都税滞納者からの差し押さえ物品をネットオークションで処分している。最初のオークションに天保小判の並品が出品され、確か70万円以上の金額で落札された。この小判、貨幣商などでは、20万円くらいで販売されているものである。1枚くらい小判が欲しいと思った人が購入したのだろうが、買い物の前にはよく調査をすることがババを掴まないコツである。
2)財務省放出の金貨、高値落札に驚いた
財務省が、明治~昭和に発行された金貨を放出している。1回目の売却では、確か2円金貨が最高1700万円で落札されたと記憶している。ところが、保存用のケースは普通のプラスチックケースであり、長期間の保存では隙間からの空気の侵入により酸化し変色なども防げないだろう。また、日本のコインマーケットは大変狭いため、再び売却する際には買い叩かれるだろうな、などと他人事ながら大変気の毒になった。
3)コインの価値は希少性で決まる?
「コインの値打ちを決めるのは、第一に希少性です。いかに現存数が少ないかで価値が決まります。」というのは、有名貨幣商のhomepageでの言葉である。しかし、この言葉は正確さに欠けている。価格は、需要と供給の関係で決定されるので、たとえ発行枚数が少なく、いかに珍しくても欲しがる人が少なければ価格は上昇しない。逆に数万枚も発行されていても、それをはるかに上回る需要があれば価格は上昇するのである。コインも他の商品と同様に、欲しいと思う人が多いか少ないかによって価格が決まるのである。
4)コインの保存は大変
コインの保存は、コレクターにとって最大の悩みである。特に、銀貨などは空気や湿気によって短期間で変色してしまう。市販のコインホルダーでは、大型の銀貨の場合、ホルダーのすき間から酸化が進み、エッジやそれに近い部分が真っ黒に変色することが多い。真ん中のセロファンが破れて、この割れ目の部分がくっきりと酸化して目も当てられない状態になる。市販の塩化ビニル製のコイン保存袋もコインにダメージを与えることはよく知られている。一番良いのは、PCGSなどでパッケージしてしまうことだが、それも面倒くさい。私は、薄いポリプロピレンフィルムを用いて、できる限り空気を抜いて密封したうえで、これをコインホルダーに綴じ込んでいる。大型銀貨や厚みのある銀貨の場合、コインホルダーに綴じ込めないことが多いので、薄いポリプロピレンフィルムで挟んでこれを厚手のポリプロピレン製の袋に入れて密封保管している。ここ数年間の実験では特に支障はないようである。

資産形成というけれど・・・

2006年08月16日 | 経済問題
規制緩和の影響で、銀行や郵便局でも元本保証のない投資信託などへの投資が気軽にできるようになり、一般庶民にとっても、資産形成、投資という言葉が身近なものとなってきた。編集長は、経済についてはズブの素人だが、今回は、このことについて考えてみた。
さて資産形成というが、資産とはそもそも何であろう。
一般には、現金や不動産や貴金属、宝石、・・・等々を思い浮かべるが、単純に言えば換金できるありとあらゆるもの(商品)を指す言葉であろう。
アダム・スミスが言ったように「富の源泉は労働」である。人間労働によって、自然界の様々なものに新たな価値が付け加えられ、商品として生まれ変わり、これが社会に流通し、そこで得られた収益が様々な人たちに分配されるのである。
人々は、分配された収益の一部あるいは全部を自らの労働力の維持や家族の生活のために消費し、残った部分は蓄えられる。しかし、一方で、自らの労働力を維持することさえできないような低収入で暮らしている人たちも世界には多い。
そして最終的には、その分配の帳尻は、経済が成長している時には全体としてはプラスになり、成長が止まるとゼロあるいはマイナスになるであろう。
現金を山のように積み上げておいても、そこに人間の労働が加わらなければ、何も生み出されない。全人類が丸1年間(1ヶ月でも十分だが。)パソコンの前に座って投資にのみ没頭すればどうなるかを考えてみれば良い。衣食住さえままならない暮らしになることだろう。富、資産は、労働によってのみ生み出されるため、投資による収益というのは、所詮は労働によって生み出される収益の上前をはねる行為であり、不労所得である。投資そのものは実際には何も生み出さない。
すなわち、株、貴金属、資源、農作物等々の現物あるいは先物取引といったあらゆる投資は、競馬、競輪、パチンコなどのギャンブルあるいは宝くじと基本的にはまったく同じである。社会全体として、得をする人がいれば、必ず同じ位の損失を抱える人が生まれるのである。
投資の際には、成長が期待できそうな企業を選択し、逆に危ない会社は投資対象から除いて、リスクを最小限に設定するため、なんとなく必ず儲かる、自分だけは儲かるような感じがするだけである。
ライブドアの株価がどんどん上がっている時に、誰が損をすることを考えただろうか?多くの人たちが、将来有望な企業と判断し、株を買い上げて行ったのである。さっさと売り逃げて儲けた人もいるだろうが、一方で損をした人もいる。きちんと帳尻は合っているのである。
結論を言おう。
資産形成の基本は生産労働であり、そこで生み出された商品を流通、販売することによってのみ生み出すことができる。投資というのは、所詮は、労働によって得られた収益の上前を他の投資家たちと「奪い合う」ことである。そして、この「奪い合い」に勝ち残った者が「勝ち組」と呼ばれるのである。もちろん、「勝ち組」の陰には、必ずそれに相当する多くの「負け組」が新たに生まれ、資産の格差が広がっていくことを正しく認識して、あくまでも投資は自己責任で取り組まねばならない。
同時に、ライブドア事件のように、歪められた情報により庶民が多大な被害を受けることは避けなければならない。まもなく団塊の世代の退職金が投資市場に流れ込むと言われているが、法律の整備や証券業界などの投資会社によるルール作りが急務であることは言うまでもない。

公約を完全に実行した小泉首相

2006年08月12日 | 政治問題
5年数ヶ月に及ぶ小泉内閣がまもなく終わろうとしている。
小泉首相は、公約のとおり、国民にとって「痛みを伴う改革」を完全に、徹底的に成し遂げた「偉大な」首相であった。
5年余という短期間に、格差社会と呼ばれる不平等社会を建設し、大量の失業者、非正規雇用者を生み、高齢者には次々と負担増を押し付け、毎年3万人以上の自殺者を作り出し、アメリカには大盤振る舞い、郵便局という国民の財産を解体し、国の借金は史上最高を記録し、国民には「痛み」を、大企業やアメリカにはやさしい国づくりに成功した。
まだ道半ばの「改革」もある。たとえば、定率減税の完全廃止によって、来年からは、庶民にとっては更に税金が増えることになる。年金や健康保険制度の見直しによって、保険料負担は増え、給付はどんどん切り下げられる予定である。郵便の集配局も減り、サービスは切り下げられるであろう。しかし、このようにしっかりと来年以降も国民に対する「痛み」のレールを敷いたのはさすがと言わねばなるまい。
また、靖国参拝も「心の問題」などと言い張り、アジア諸国民の「心の問題」を顧みることもなく、参拝に邁進し、見事に公約を貫き通し、今年は終戦記念日に参拝するという噂も聞こえてくる。
こういう首相を生み出したのは、(与党を支持し、小泉首相に熱狂した)国民の責任である。多くの国民が、自らの家族や友人、知人に襲いかかっている「痛み」を正面から見据え、それらの痛みの元凶が自らが熱狂した小泉首相と自民・公明の与党の実績によるものであり、自らの選択の誤りであったことに1日も早く気づく日が来ることを心から願っている。