時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

江戸時代へのタイムスリップ

2009年11月05日 | その他
「JIN-仁」というテレビドラマが放映されている。
原作はコミックだそうだが、なかなか面白い。
江戸時代へのタイムスリップという手法は、使い古された手法であり、下手をすると、著作権侵害で訴えられても文句が言えないような、ありふれた設定であるが、物語の展開は軽妙である。
しかし、現代人がもし江戸時代に迷い込んだら、果たして普通に生きていけるだろうか?
さまざまな科学技術や社会思想の知識を有していても、当時の技術水準の下では、ほとんど役立つものはないだろう。そもそも、理論はわかっていても、実際に、何一つ製造することはできないだろう。現代社会では、それほど社会的な分業が進んでいる。
石川英輔氏の小説に、江戸時代に「転時」するという一連の作品があるが、医薬品一つ作ろうと思っても、ほとんど不可能に近い。氏の小説では、脚気の治療のために、米ぬかからビタミンB1(含有液)を抽出するが、なるほどこの程度のことしかできないのではなかろうか。
「JIN」では、時代設定が幕末であるため、点滴に用いるゴム管なども手に入るようだが、テレビにあったような伸縮に優れた白いゴム管は、当時は手に入らなかったのではなかろうか。衛生的に見ても、ゴム管を点滴に使うと、雑菌を血管内に送り込むような代物だったのではなかろうか。
いずれにせよ、現代の我々が江戸時代に迷い込んでも、ほとんど役に立たないし、生きてゆくことさえ、できないと思われる。
自然科学の知識は役立てられないかもしれないが、社会科学の知識なら大丈夫と思うかもしれないが、これもまったくダメであろう。
社会思想的に見れば、封建の江戸時代とは異なり、現代人はかなり先進的で、民主的な考えを持っているかもしれないが、江戸時代では、「異端視」されるだけであろう。
そもそも、人間の平等などを訴えて、誰が理解してくれるだろう?江戸には将軍様がおり、各地方には領主様がおり、士農工商の身分制度があることが常識の社会だったから、そこで平等を主張しても、変人扱いされ、危険思想の持ち主として、牢屋に送りこまれるのがオチである。
しかし、そのように考えてくると、歴史における人間の認識というのは、なかなか面白い。
現代では当たり前になっている民主主義や平等などの考えは、江戸時代では到底受け入れられないだろう。一部の人間を除けば、ほとんどの人間は理解できないに違いない。
このことは、何を意味するだろうか?
現代に生きる我々は、今の資本主義社会こそ、歴史上でもっともすばらしく、未来永劫に続く社会体制(正確には、経済体制であるが)であると思って生きており、資本家が富の多くを抱え込み、格差があるのも当然であり、努力が足りないから貧乏でもしかたがないなどという考えが当たり前に受け入れられている。このような体制をおかしいと感じ、その社会の変革をめざす人間は、現代ではまだ少数派である。
「JIN」を通じて、そんなことを考えてみた。

コレクション

2009年10月09日 | その他
昔は、庶民にとってのコレクションの定番と言えば、切手とかコイン、鉄道などが主流だった。また、庶民には縁遠い一流の美術品、絵画などの○○コレクションなどと使われることが多かった。
いま、Googleで「コレクション」を検索すると、コレクションに関連する検索頻度の高いさまざまな他のキーワードが出てくる。
鉄道コレクションとか、国産名車コレクション、松方コレクションあたりは普通だが、萌え壁紙コレクションくらいになると、もはや編集長の世界とは遠い感じがする。さらに、CCコレクション、C#コレクション、VBAコレクションとなると、まるで別世界の話である。さっぱりわからない。
最近は、ゲームで「トモダチコレクション」まである。もうわけがわからない。
切手やコインの収集がブームになったのは、東京オリンピックの頃で、経済成長に沸いた頃である。衣食住に困らなくなり、生活にもゆとりができる中で、こういうコレクションがブームになったわけである。
ところが、最近のコレクションはどうもそうではない。
景気の後退局面で、非正規雇用者が1,000万人を超え、失業率も高率でとどまっている。
こういう、ある意味では暗い社会状況の中で、若い世代を中心に、衣食住の基本的生活を取り崩してでも、自分が好きなものを収集して、お気に入りのグッズに囲まれて暮らしたいといった気持ちが、たとえば、萌え系グッズの収集などに走らせているのではなかろうか。
コレクションという言葉の持つ語感は、時代によって変遷しているが、自らの生活に精神的なゆとりをもたらし、楽しく過ごすために、自分のコレクションやこだわりを持つことは有意義なことである。
ちなみに、編集長は、子供の頃に欲しいと思っていたが、とうとう手が届かなかった金貨や銀貨を収集しているが、望みの物を入手できた時のワクワクするような気持ちは、コレクターに共通の感覚であろう。
読者諸兄も、大げさなものでなくともよい。自分だけのコレクションを楽しんでみてはいかがだろうか。

日本=火山国を再認識

2009年02月03日 | その他
浅間山の噴火が話題になっているが、桜島も噴火したとの記事があった。
こういう記事を見ると、日本は火山国だったことを改めて認識させられた。富士山近郊の地殻の変動の程度から、噴火の可能性を指摘する専門家もあり、引き続き注意が必要であろう。
今回の噴火は幸い農閑期であったことから、降灰による農作物などへの影響はないとのことだが、降灰地域では、火山灰による健康への被害などにも注意しなければならないだろう。
火山灰は、噴火によって上級で急激に冷やされるため、ガラス質になっており、これを吸入することにより、呼吸器などへの影響が懸念される。マスクの着用などを心がけたい。
また、降灰によるライフラインへの影響の無視できないだろう。
火山灰は水に溶けないので、下水に流れ込むと詰まる恐れがある。鹿児島などでは、これを集めて回収するシステムが整備されている。
電気の供給にも支障が出る可能性も指摘されている。停電への対策も必要であろう。
大雨による水害や地震だけでなく、火山の噴火も視野に入れて、各家庭で避難グッズを再点検し、必要な資材を備蓄しておくことが必要であろう。

99.9%のこと

2008年07月17日 | その他
社会生活を送っていると、人間はさまざまなことに出くわす。
嬉しいことや楽しいことはもちろんのこと、辛いことや嫌な思いをすることもある。
特に、人間の記憶の中には、辛いことや嫌なことばかりがずっと残っている場合が多く、楽しい記憶は打ち消されてしまうことが多い。
世はまさにストレス社会と言われる所以かもしれない。
しかし、冷静に考えて見ると、一人ひとりにとって、世の中の99.9%のことは、まったく取るに足らない、くだらないことが多い。
本当に人間にとって重要なことは、家族や親しい友人の動静や自らの夢の実現などであり、それ以外のことは、実にくだらないことばかりである。
会社で目くじらを立てて議論していることも、憎たらしい上司の愚痴や罵声も、まったく無意味なものであり、社会にとっても不要なものである。
こんなことに関わっているよりも、自らの夢をどのように描いて、それをどのように実現するのか、そのために今何ができるのか、そういう生産的なことに思考を傾けることの方がよほど重要だ。
世の中の99.9%はくだらないことだと思って回りを見ると、会社はもちろん、上司や憎らしい同僚も相手にするだけ、あるいはそのことを考えるだけ、時間の無駄だと思えるようになる。
ストレス社会と上手に付き合って、ストレスを溜め込まない思考方法を身につけることが大切だろう。
同時に、自分にとって本当に大切なもの、どうしても実現したい夢などをきちんと描いて、そのために寸刻を惜しんで努力することに全力を挙げることが、世の中の99.9%のくだらないことに振り回されないための秘訣である。
読者諸兄も、年齢に関係なく、世の中のくだらないことに惑わされないで、上手にストレスを発散して欲しいと思っている。

ネットオークションを楽しむ

2008年02月11日 | その他
編集長は、いくつかのネットオークションに登録し、売買を楽しんでいる。
100円のお菓子に付いていたおまけのシール1枚が6000円以上で売れたときは正直驚いたものである。また、ずっと以前から探していた物を廉価で手に入れた時のうれしさは格別である。一方、ついついくだらない物を落札したり、高値で落札してしまい、後悔した物もある。
最近は、あちこちでフリーマーケットも盛んだが、購買層が限られるので、特殊な商品は売れ残ることが多いのではないだろうか。
これに対して、ネットオークションでは、全国に(時には世界中に)顧客が存在するので、買いたい、あるいは売りたいという人がたった一人存在すれば、それでりっぱに売買が成立する。
出品されている商品を眺めていると、一体誰がこんなものを買うのだろうかと思うような商品にも何人もの落札者があって驚いてしまうことがある。
これからもネットオークションはどんどん広がることだろう。
さて、ネットオークションをやっていて、気になることをいくつか書いておこう。
1)粗悪品の出品
いわゆる贋物を出品する輩が存在することは残念なことである。
ニセブランド品などについては、規制も進んでいるようであるが、すべてを排除することは難しい。また、写真だけでは贋物と判断できないことも多い。その他、粗悪品を説明もなしに出品することもモラルに反する。とにかく、通常の価格に比べて、異常に安い品物には手を出さないことだ。
2)振込み手数料、送料などの諸経費
出品者の経験の差によるものと思われるが、商品の価格とともに注意しなければならないのが振り込み手数料や送料である。
出品者、落札者の双方がイーバンクやジャパンネット銀行に口座を持っていれば、振込み手数料が無料あるいは安くて済む。ネットオークションを楽しむのなら、お互いにせめてネットバンクの口座を1つや2つ持つべきであろう。
また、安く落札できたと喜んでいたら、送料の方がはるかに高くてガッカリすることがある。出品者は、送付方法や送料などの情報も記載すべきであろう。
同じような商品を落札しても、送料に何倍もの違いがあることもある。最近はメール便などもあるので、出品者、落札者とも安全、廉価な送付方法を検討すべきであろう。
ただ、電車を乗り継いで買い物に出かけて、帰りに喫茶店にでも立ち寄って・・・と考えると、送料などは大した金額ではないのかもしれない。この辺は考えようだ。
3)トラブルの回避
ネットオークションに参加する人間の99%は、気持ちよく取引きしたいと考えているのだろうが、中にはおかしな連中も参加している。評価欄でバトルを繰り広げている例もあるが、こういうのに当ったら運が悪かったとあきらめることだ。ただ、相手のどういう言い分に対しても冷静に対応し、評価欄などにもエキサイトした文章は絶対に書かないことである。「売り言葉に買い言葉」は、自らの品位を下げるだけである。
ネットオークション人口は今も増え続けているという。
お互いにマナーを守って楽しみたいものである。

ちょっと笑えた話など

2008年02月06日 | その他
★ 以前は、電車が駅に近づくと、「電車とホームの間があいている所がありますのでご注意下さい」という車内放送や駅での放送が流れていた。電車とホームの間はあいているのが当たり前で、もしくっ付いていたらさぞかし大惨事になるだろうと常々思っていたが、最近は「電車とホームの間が<広く>あいている所」とアナウンスされるようになり、ちょっと安心した。何気ない言葉だが、日本語というのは難しいものだ。
★ 最近は略語が流行っていて、たとえば、KYは「空気読めない」など、とっさにはわからないようなものも多い。ところで、最近、テレビコマーシャルで「ミラバケッソ」というのがある。「未来に化ける新素材」の略だという設定だが、もしそうなら「ミラバケソ」でなければならないだろう。「ッ」はどこから出てきたのだろうか?また、この会社は、Kurarayという会社だが、カタカナで標記すると「クラレ」だそうだが、どう読んでも「クラレイ」ではなかろうか。 「イ」はどこに消えてしまったのだろうか?
★ ニュースを見ていたら、犯罪のために逮捕された20代の男性の職業が、「自称無職」と紹介されていた。「自称団体役員」とか「自称会社員」などというのは多いが、このケースでは、本当は職業を持っているのだが、何らかの理由で「無職」を自称したということだろうか。珍しい事例で笑ってしまった。
★ ネットで不動産屋のホームページを見ていたら、ある物件の説明に「○○駅から徒歩2km」というのがあった。徒歩だろうが、車だろうが、距離は変わらないと思うのでミスだろうと思ったのだが、よく考えると、車が通行可能な道を利用すると遠回りになるので5kmになるが、徒歩だと車が通れないような狭い道があり2kmで到達できるという物件もあるかもしれないので、単純なミスとも言い切れない、などと考えてしまった。おそらく、このケースは単純なミスだと思われるが・・・。
★ 生命保険の外交員が契約家庭を訪問するテレビコマーシャルがある。庭先から訪れて、縁側に座って「お元気そうでなによりです」と挨拶するのだが、この台詞はどうも違和感がある。契約者が元気で保険金を支払わなくて済み、最もうれしいのは保険会社である。
もちろん、保険というのは万一の時の備えだから、保険を掛けながら、結局は事故にも遭わず、病気にもならずに生活できることが契約者にとって望ましいことだが、生命保険の外交員からお元気で良かったですと言われると、素直に喜ぶ気になれないのは編集長だけであろうか。

何気ない日常生活だが、注意して観察していると思わぬ笑える話が転がっているものである。世知辛い世の中だが、そんなことに注意しながら暮らしていくのも楽しいかもしれない。

発刊1周年

2007年08月05日 | その他
このブログを開設して、早や1年が過ぎた。
時々、記事を更新する予定だったが、いろいろと書きたい記事があって、ほぼ毎日の更新が続いている。原稿を準備したものの、掲載時期を逸して、ボツにしたものも少なくない。
さて、開設当初は、毎日の訪問者数は20-30人だったが、数ヶ月のうちに徐々に40人、50人と増えてきて、最近では、しばしば100人を越える方々に訪問いただき、記事の閲覧数は毎日200件近くになっているが、1日でも記事の更新を怠ると訪問者数、閲覧数ともに約半分になってしまう。ということは、毎日見てくれている読者がいるということなのだろう。
さて、訪問してくれている読者の皆さんは、いったいどのような記事に関心を持ってくれているのだろうか?
ご丁寧にコメントを残してくださる方もいるが、内容は賛否両論こもごもである。私の意見は記事の中で述べているので、ご返事は出さないことにしている。しかし、機会があれば別の記事の中でも、改めて私の意見を述べるようにしているので、それでご容赦をいただきたいと思っている。
さて、読者の皆さんが、この日本という国で暮らしていくうえで、2、3点申し上げておきたいことがある。
私たちは、先進資本主義国と言われるこの日本で暮らしており、ほとんどの勤労者が、何らかの形で大企業の恩恵を受けている。大企業に勤務して直接給料をもらっている人もいるだろう。大企業との取引によって暮らしが成り立っている人や大企業の開発品によって、暮らしに潤いを感じている人もいるだろう。このように、大企業の果たす社会的な役割は非常に大きなものがあり、誰もその役割を否定する人はいない。それゆえに、私たちの考え方の奥底に、企業活動を評価し、弁護し、擁護する考え方が知らず知らずの間に根を張ることになる。
こうなると、企業による様々な犯罪行為(種々の捏造、事故隠し、情報隠し、脱税、粉飾決算等々)や労働者に対する抑圧(首切り、偽装請負、残業代の不払い等々)なども、ついつい必要悪、やむを得ないといった受け止めになってしまいがちである。
大企業だろうが、巨大企業だろうが、所詮は人間の作ったものである。その企業による不法や不正はやはり許してはならないだろう。特にその社会的な影響は甚大だということを述べておきたい。
もう1点は、巨大で無駄な官僚機構、お役所機構である。政府も行政改革などと言いながらも、ここにはまったく手付かずで、実際にやってきたことは「改革」とは無縁の、国民サービスの切捨てである。
残念なのは、こういう巨大機構の大もとに対してではなく、末端の公務員に対する偏見や批判が多いことだ。
態度の悪い公務員や住民に対するサービス精神に欠けた公務員も多い。しかし、根本は、国や地方自治体が定めた様々な法律、制度や規則などによるものであり、この大もとを変えない限り、けっして末端の状況は変わらないのだ。末端の公務員には、天下り先もなく、一般庶民と同様の老後が待っているのである。
最後になるが、大企業の横暴や官僚機構を優遇してきたのは、政権与党による政策の賜物である。こういう現状を何とかしたいと願う読者諸兄は、とにかく今の社会のあり方、政治のあり方を根本から変えるしか方法はないのである。
このことを発刊1周年の記事として、強調しておきたい。

襲撃

2007年06月13日 | その他
年金問題とか、新銀行東京のことだとか、いろいろと書きたい記事があるのだが、まだしばらくはゴタゴタが続きそうなので、これらについては後回しにしよう。
さて、めったにない経験をしたので、ぜひ書いておこう。
先週の土曜日に所用で港区の白金台を訪れた時のことである。
歩いていてちょっと気になったので、後ろを振り向くと、10メートルくらい後から40歳代のくらいの大柄な白人が歩いてくる。
この街は高級住宅地だし、結構外人にも出くわすので、別に不思議ではない。
そう思って2、3メートル歩いたところで、いきなり何かに頭を触られたと思ったら、何とそれがカラスの襲撃(いたずら)であった。
街路樹の上に1羽のカラスが悠然ととまっているではないか。苦笑いをしながら、そのまま、歩き出したら、ものの5メートルも歩かないうちに、後ろで「わぉ!」という悲鳴が聞こえたので振り向くと、くだんの外国人もどうやらカラスに襲われたらしく、憎々しげに樹上のカラスを睨みつけている。襲われる瞬間を見たかったな、とちょっと不謹慎なことを考えてしまった。
おそらく、この近辺でこのカラスに襲われた人は多いのではなかろうか。私も襲われたという方は、ぜひコメント欄に記載して欲しいと思っている。
以前に、テレビで人を襲うカラスのことを報じていて、実際にカラスが襲う瞬間も放映されていたが、まさか自分が被害に遭うとは思ってもみなかった。なかなか面白い経験だと思うがいかがだろうか。
もう一つ、面白いと思ったのは、日本人と外国人の反応の仕方である。
私は、一瞬何が起きたかわからず、声を出すこともなかったのだが、外国人というのはどうも大げさである。「わぉ!」などと大げさな声を出すほどのことはないではないか。
やはり、生まれ育った環境や文化の違いなのか、それとも、遺伝子のなせるワザか、と思わず高尚なことを考えてしまった。

「科学」ということ

2007年05月09日 | その他
「科学」というと、読者諸兄はどのようなことを連想するだろうか?
一般に自然科学を連想するが、大学などでは、社会科学というように、歴史や哲学、経済、法律なども立派に科学として研究されている。人文科学という呼び方もある。
一般に、「科学」を研究している人たちは、万人誰でもがそのように認識でき、そのことによって万人に幸福がもたらされるという立場を取っている、あるいは、少なくとも本人はそう信じて研究をしているのが普通である。
しかし、実態は必ずしもそうではない。
特に、社会科学と言われる研究分野では、そのことが顕著である。
たとえば、歴史を例に取ろう。
邪馬台国論争などは、科学的な論争ではなく、東大と京大の学閥間の争いにすぎない。あの太平洋戦争に対する事実認識や評価さえ定まっていないのが、現代「科学」の水準である。
経済学にしても同様である。金利の高低、税金のあり方なども、特定の考え方や特定の立場から見ると、至極もっともな政策であっても、立場が異なれば様々な異論が出るのが普通である。
哲学も同様であろう。社会の様々な発展段階において、支配者にとって都合のよい哲学が流行し、その支配を延命させる役割を果たしてきた。
すなわち、特に社会科学の場合は、研究者がいかに中立的な立場をとっても(あるいは本人がそのように思っていても)、実は、特定の立場に立って物事を研究している場合がほとんどである。にもかかわらず、ほとんどの研究者たちは、自らが立脚するその立場をアイマイにしたままで、さまざまな「科学的な」研究を行っているのである。
自然科学の分野においても、原子力や医薬品などに対する考えは、研究者の拠って立つ立場によって、その評価は異なる。
このような中にあって、マルクスだけは、自らの考えを労働者のための哲学であり、労働者のための経済学であると主張した立場の明確な科学者の一人であったろう。
ケインズなどは資本主義の延命のための方策を必死に模索した人物であるが、自らの立場は明らかにはしていない。相変わらず、私の学説を信じれば、世界万民が幸福になると信じている科学者、経済学者の一人だったのであろう。
社会科学も、自然科学と同じように、ある学説(仮説)を社会的に実行(実験)し、その結果によって、その学説の正しさを証明しなければならない。それによって、その学説は仮説の域を超えて、一つの理論として社会的に評価されることになるのだろう。
科学的な視点で、物事や社会をみるということは簡単だと思いがちだが、そこには、自らが拠って立つ立場がおのずと反映せざるをえない。
我々人間は、生活基盤や立場によって様々な意識、考えを持つようになる。それが、社会に対する考え方の違いとなって表われることになる。
様々な社会の事象に対して、どうして自分はそのように考えたのだろうか?ということを、あなたの置かれた立場、境遇に即して分析してみるのも面白いのではなかろうか。そうすることによって、自分の考えが必ずしも中立の立場からのものではないことに気づくはずである。

松坂投手の不調

2007年05月05日 | その他
編集長は、熱心な野球ファンではない。けっして興味が無いわけではないが、特に応援している選手もいないし、プロ野球中継などで時間を潰すのはもったいないという人種である。
したがって、松坂投手の大リーグ入りなどについても特別の関心を持って見てきたわけではない。
最近、テレビのニュースを見ていると、これでもかというくらい松坂投手のことが報道されるので、むしろ、ウンザリしている人間の一人である。
さて、鳴り物入りで大リーグ、レッドソックスに入団した松坂投手、ここ数試合不調が続いている。
編集長は、この結果を当然のことと見ている。
日本のプロ野球は、ナイトゲームが多い。しかも、最近はドームでの試合が多いため、夏でも空調が効いていて、投手にとっては大変楽なコンディションで投げられるのが特徴である。
これに対して、大リーグでは年間の試合数も多く、デーゲームが多い。投手にとって想像以上にスタミナが要求される。
イチローや松井のように野手ではない。しかも、彼らと松坂の決定的な違いはその体型である。
松坂投手はぽっちゃりした体型で、ここ数年は特に太ってきたように思われる。いかにも暑さに弱い体型ではなかろうか。
これから、ますます暑い季節を迎えるが、要はスタミナとの勝負になると思われる。
多くの野球評論家が、多大な期待を寄せただけあって、地元ファンはもちろん、日本のファンも活躍を期待していたのだろうが、やはり、日米野球の違いを十分に認識したうえで、論評すべきであろう。
いずれにせよ、日本の選手が本場の大リーグで活躍することは、日本のプロ野球の発展にとっても素晴らしいことである。
松坂投手には、調整をし直してぜひ素晴らしいマウンドさばきを見せて欲しいと思っている。

能登半島での地震被害

2007年03月26日 | その他
25日の午前中に起きた能登半島での地震で被害に遭われた皆様、避難生活を余儀なくされている皆様に、心からのお見舞いを申し上げます。
震度6強という、阪神大震災並みの地震であったにもかかわらず、死者、負傷者が少なかったことは幸いであった。
地震が局地的であったこと、住民が起きて活動している時間帯であり、火を使用している時間帯でなかったことなど、阪神大震災と条件が異なったことが幸いしたのかもしれない。
また、阪神大震災の教訓から、自治体や住民も地震に対する備えが十分だったことが、被害を最小限にとどめるとともに、その後の救援活動をスムーズなものにしているかもしれない。
いずれにせよ、今回の地震からきちんと教訓を引き出して、今後の防災対策に役立ててもらいたいと思っている。
もし、東京などの都心部でこれだけの規模の地震がやって来たらと考えると、ゾッとする。
下町の住宅密集地では、古い家屋やブロック塀の倒壊などで被害は大きくなるだろう。また、都心部のビル街では、割れた窓ガラスや看板などが頭上から降り注ぎ、想像することもおぞましい光景が広がることだろう。
日々平穏に暮らしていると、日本が地震大国であることすら忘れてしまうが、国や地方自治体だけでなく、各家庭や企業などでも改めて地震対策を行うことが重要であろう。
自然災害の発生は、人間の力で阻止することはできないが、被害を最小限に食い止めることは可能である。
東京はもちろん、読者諸兄の住む街にも、地震はいつか必ずやってくるだろう。その時期を予言することはできないが、いつか必ずや、甚大な被害をもたらす地震に遭遇することは間違いない。その日のために、準備だけは怠りなく進めていただきたいと思っている。

大相撲初場所の番付から

2006年12月29日 | その他
大相撲初場所の番付が先日の新聞に掲載されていた。
力士の出身地をみると、モンゴル、ブルガリア、エストニア、カザフスタン、トンガ、アルゼンチン、アメリカ、韓国、…と実に多彩である。
外国人力士が増えることを快く思わない人もいるかもしれないが、日本の国技と言われる相撲がこのように国際的に認知され、外国人力士が増えていることは、大変望ましいことではないだろうか。外国での相撲興行も大人気だという。彼らに負けずに日本人力士にも頑張ってもらいたいという気持ちも湧いてきて、応援にもついつい熱が入る。
先日まで、アジア大会が開催されていたが、そこで行われていた種目は実に多彩だった。スカッシュ、太極拳、ボディビルやチェスなどまであり、セパタクロー、カバディなどになると、名前はともかくルールまで正確に知っている人はそれほどいないのではなかろうか。
アジア大会には、日本古来の武術である柔道も当然含まれていたが、近いうちに、相撲や剣道も含まれるようになるかもしれない。そして、そこに多くの外国人選手が参加する日が来るようになると思われる。
さて、相撲の例でもわかるが、日本は、諸外国に比べてスポーツ予算が貧困なのではあるまいか。人気のある一部のスポーツ選手を除き、遠征資金や道具などの確保さえできずに苦労する場合が多いのではなかろうか。多くのスポーツ選手は企業チームに所属し、勤務をしながら、厳しい練習を続けている場合が多い。お金も時間も制約を受けながら、厳しいトレーニングを続けているが、最近は企業も経営上の理由からチームを解散するケースも増えている。
以前は、日本といえば、アジアでもっともスポーツが盛んで、優秀な選手を多数輩出してきた。しかし、前述のアジア大会でのメダル獲得数は、中国や韓国に抜かれての3位であった。
フィギュアスケートの荒川静香も自分が練習を続けてきた仙台のスケート場の廃止を嘆き、更なるスポーツ施設の充実を求めていたが、誰もが気軽に、廉価で利用できるようなスポーツ施設の拡充や指導者の育成、配置などに、国、地方自治体が積極的に取り組まない限り、国内のスポーツの空洞化には歯止めがかからないと思われる。
07年度の予算案にどの程度のスポーツ振興予算が含まれているのか、今度調べてみようと思っている。
さて、相撲の番付に話を戻そう。
現在は、日本人力士の出身欄には、出身都道府県が記載されている。しかし、これから外国人力士がどんどん増えてきて、世界各国の国名が出身欄を占めるようになり、日本人力士がどんどん少なくなると、この出身欄には単に「日本」としか書かれなくなる日が来るのではないか、と心配するのは私だけだろうか。

備前焼の手榴弾

2006年12月22日 | その他
編集長は、実は多趣味である。
ミニSLやコイン収集のことを、本紙の片隅に載せているが、これは編集長の比較的最近の趣味である。
実は、もう20年以上も続けている趣味に、焼き物の収集がある。壷などの大きな物は置く場所もなく、価格も高いので、徳利やぐい呑、湯呑みなど小さくて、比較的廉価なものが多いが、数は相当ある。焼き物に関する図鑑や雑誌なども相当勉強した。全国各地の作家の名前も随分と身近に感じるようになった。江戸時代のそば猪口の図柄に惹かれて、骨董屋や骨董市巡りをして買い込んだ時期もある。デパートの美術品売り場はもちろんのこと、個展や著名な陶器店などにも足繁く通って買い集めたり、出張のたびに、地方の骨董店や窯元などに立ち寄って集めたものだ。
全国各地の焼き物を持っているが、やはりだんだんと自分の好みの焼き物が集まってくるようになる。やはり、惹かれるのは釉薬を掛けていない無釉の焼き物だ。岡山には度々出張する機会があったので、自然と備前焼が増えてしまった。人の力が及ばない、土と炎の不思議を感じさせてくれるのが、備前焼の素晴らしいところだ。
いよいよ置く場所もなくなってきたので、最近はあまり買わないようにしているが、良い物が目に止まると無性に欲しくなり、ついつい手が伸びてしまい、後で悔やむことになる。しかし、いろいろなことに興味を持っていることは大切なことだ。日常生活の中で、見逃していることも、事前に知識や興味を持っていれば、思わぬ発見に繋がることがあるからだ。
先日も「なんでも鑑定団」で、備前焼の手榴弾が鑑定に出されていた。
物資が乏しくなり鉄がなくなった太平洋戦争末期、軍部の命令により日本全国の窯元に対して陶器製の手榴弾の製造が命じられたわけだ。
この手榴弾を見て、ひと目で山本陶秀作の手榴弾だとわかった。当時、この製造に関わった人間国宝の山本陶秀氏(故人)が、ほとんど同一の手榴弾を手にした写真が焼き物の雑誌に掲載されているのを以前に見たことがあったためだ。鑑定団に出されたものも、山本陶秀氏の窯で焼かれたもので、類似のものが、備前陶芸会館に展示してある。
この雑誌の中で、山本陶秀氏は手榴弾を作らされた当時を振り返って「あんな時代は二度と来てほしくない。」と不幸な時代を嘆いていたが、まったくその通りだ。
わざわざ壊すための焼き物を作ることは、1000年を越す備前焼の歴史の中でおそらく最も屈辱に満ちた事件だったのではないだろうか。
これからの1000年は、今のような平和な焼き物の里であるように願わずにはいられない。

夢を持って生きていますか?

2006年11月27日 | その他
おもしろい調査結果に目が止まった。
アクサ生命(本社・パリ)が世界15ヵ国を対象に退職後の生活について行った意識調査結果が報道されていた。その内容は大変興味深い。
リタイアについて「自分の時間が持てる」「人生を楽しめる」など肯定的な答えは、日本人は半数以下で、15ヵ国中14位。逆に「孤独」や「貧困」など否定的な答えが高く3位だったそうだ。
「何歳でリタイアしたいですか」との質問に、日本人は就労者が61歳、退職者が65歳と答え、15ヵ国中で日本人だけが60歳を超えた。対照的に、他の14ヵ国ではいずれも50歳代での早期退職を希望していたそうだ。
欧米では働いて老後の蓄えができたら早めに退職し、その後は自分の好きな趣味やボランティア活動をして過ごすのが理想だという。「ハッピーリタイア」と呼ぶ。
一概には言えないが、欧米では仕事は賃金を得るため、家族を養うための「苦役」と考える人が多いという。しかし日本人は違う。仕事は生きがいであり、自己実現の場と考えられてきた。リタイアについての調査結果に大きな差が出る理由だろう。
お国柄であり、一概にどちらがいいとは言えないが、誰もがいずれリタイアの時期を迎える。調査では、リタイア後の人生について、欧米では30代から準備を始めるのに対して、日本人は定年が間近に迫った50代からだった。これでは、リタイア後の人生について、いい夢はなかなか描きにくいのではなかろうか。
編集長も、家族にも、誰にも話していない夢を持って毎日を生きている。その夢を実現するためには、それなりの資金計画も必要なため、もうしばらくは会社勤めという「苦役」を果たさなければならないが、できれば50代の半ばでリタイアし、残る人生を楽しむとともに、少しでも人のために役立つ人生を送りたいと思っている。
私が尊敬する人物の一人である伊能忠敬は50歳で息子に家督を譲り、江戸に出て本格的に天文や測量の勉強を始め、55歳から全国を測量して、日本地図を完成させた。編集長もそういう人生に憧れ、準備を進めている一人である。
読者諸兄はどのような夢や人生を描いているのだろう。
もし読者諸兄の毎日が「生きていくだけで精一杯」というのが現実だとしたら、これほど不幸なことはない。世界第2位の経済大国に住む国民が、単なる働き蜂、会社人間で人生を終えるのではなく、リタイア後の夢を実現できる社会であってほしいと思っている。

雑学ですが・・・。

2006年10月16日 | その他
いま、平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズを読んでいる。
江戸時代の旅籠を舞台にした物語であるが、この中に秋の七福神詣での話が登場する。通常は、正月に行われるものであるが、秋に行われるのが物語の伏線になっている。
白衣の背に、七福神詣と大書した浄衣を着て、提灯を片手に、「ながきよのとおのねぶりのみなめざめ、なみのりぶねのおとのよきかな」という文句を唱えながら、七福神を巡るという。
さて、前置きが長くなったが、ここに登場する文句は、五七五七七のれっきとした和歌(短歌)であるが、賢明な読者諸兄は既にお気づきのように、この和歌は回文(かいぶん、めぐらしぶみ)となっている。
しんぶんし、たけやぶやけた、と同じように、上から読んでも、下から読んでも読める短歌である。
漢字で書くと、次のようになる。
「長き夜の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな」
最も長い回文として、以下のような詩も知られている。私の記憶が正しければ、明治時代に発行されていた「萬朝報」という新聞に掲載されたもので、確か作者不詳のはずである。

時は秋この日に陽訪ねみん
紅葉錦の葉が竜田川の岸に殖え
鬱金峰伝ひに
陽の濃き淡きと
(ときはあきこのひにひたづねみん/こうゑふにしきのはがたつたがはのきしにふゑ/うこんみねづたひに/ひのこきあはきと)

それにしても、昔の日本人というのは大したものだ。詩歌の中に言葉の遊びを取り入れて、見事な文学作品にしてしまうのだから。
英語でも回文はできるが、長文は難しい。以前に、何かの本で読んだことがあるが、Madam, I'm Adam.というのがあるが、ちっとも面白くない。
日本語というのは、こういう言葉の遊びがやりやすい言語なのであろう。私たちの暮らしの中に根付いているダジャレ、ギャグもこういう遊びの変形である。しかし、どうも昔の人たちに比べると、そのレベルは確実に低下しているようである。
最近は、子供の学力低下が心配されているが、もっとも大きな原因はマンガとテレビゲームであろう。
ここ10年くらいは、子供ばかりでなく、スーツを着込んだれっきとした社会人が、電車などでマンガや携帯ゲームに興じる姿をよく見かけるようになった。
思考も短絡的になり、社会性も失われていくであろうことは、容易に想像がつく。
先人が築いた文化や文学、知恵に学んで、伝統的な日本文化の素晴らしさを再認識するとともに、読者諸兄も、秋の夜長に、日本最長の回文作りに挑戦してみてはいかがだろうか。