時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

ここまできた石原都知事の都政私物化

2006年11月29日 | 政治問題
もっと早くこの記事を書きたかったのだが、関連する資料を調べるのに時間がかかったため、記事の投稿が遅れてしまった。とは言うものの、来年4月が都知事選挙なので、ホットな話題には違いない。
さて、超豪華外遊に続き、再び、石原都知事による都税ムダ使い、私物化の実態が明らかにされた。
今度は、特定の文化団体(トーキョーワンダーサイト:TWS)への都税のつぎ込みである。
別に、東京都が自治体として文化活動を援助し、そのための予算を執行することに文句をつけるつもりは更々ない。
しかし、特定の、しかも都知事の知人や四男が深く関わる文化団体に都税を注ぎ込むというのは尋常ではない。
東京都の文化予算とその推移を見てみよう。(2002年度→2006年度の予算の推移)
・トーキョーワンダーサイト:5589万円→4億7152万円
・江戸東京博物館:25億6170万円→16億3997万円
・東京都現代美術館:11億5948万円→8億928万円
・東京芸術劇場:9億7818万円→7億2413万円
・東京都写真美術館:7億4923万円→5億9692万円
・東京文化会館:5億9036万円→3億4374万円
・東京都美術館:4億9746万円→3億1833万円
・東京と庭園美術館:3億4265万円→1億9286万円
以上のように、TWS以外の全ての東京都の文化施設への予算は、この4年間で6-7割に切り捨てられているのに対して、TWSの予算だけは何と8倍にもなっているのである。
しかも、テレビなどで報道されているとおり、2003年には、四男の延啓(のぶひろ)氏を公費を使ってドイツ、フランスに出張させ、2005年には、ニューヨークで行われた芸術サミットに、東京都代表4人のうちの1人として参加させている。
さて、この四男の延啓というのは、どういう芸術分野で活躍しているのか、知る人はほとんどいないであろう。画家だそうだが、東京都を代表する若手芸術家などという代物ではもちろんない。
また、四男だけでなく、古くからの知人である今村有策なる人物を、都の参与に選任し、御茶ノ水ワンダーサイトの施設館長に任命している。また、同氏の妻を同館の副館長および青山ワンダーサイトの館長に採用し、ファミリー支配とも言うべき実態になっている。
「李下に冠を正さず」という言葉があるが、知事という要職にあればこそ、知人や家族がいかに優れた芸術家であったとしても(ましてや、名前さえ売れていないヘボ画家であるが、)こういう行為を避けるのが普通ではあるまいか。到底、尋常な神経を持つ人間の取るべき行動ではない。これでは、都政の私物化と言われても仕方あるまい。
来年は、都知事選挙が行われる。
都税の無駄遣いを止めさせるためにも、石原慎太郎のような人物には、都政から退場してもらいたいと強く願っている。

夢を持って生きていますか?

2006年11月27日 | その他
おもしろい調査結果に目が止まった。
アクサ生命(本社・パリ)が世界15ヵ国を対象に退職後の生活について行った意識調査結果が報道されていた。その内容は大変興味深い。
リタイアについて「自分の時間が持てる」「人生を楽しめる」など肯定的な答えは、日本人は半数以下で、15ヵ国中14位。逆に「孤独」や「貧困」など否定的な答えが高く3位だったそうだ。
「何歳でリタイアしたいですか」との質問に、日本人は就労者が61歳、退職者が65歳と答え、15ヵ国中で日本人だけが60歳を超えた。対照的に、他の14ヵ国ではいずれも50歳代での早期退職を希望していたそうだ。
欧米では働いて老後の蓄えができたら早めに退職し、その後は自分の好きな趣味やボランティア活動をして過ごすのが理想だという。「ハッピーリタイア」と呼ぶ。
一概には言えないが、欧米では仕事は賃金を得るため、家族を養うための「苦役」と考える人が多いという。しかし日本人は違う。仕事は生きがいであり、自己実現の場と考えられてきた。リタイアについての調査結果に大きな差が出る理由だろう。
お国柄であり、一概にどちらがいいとは言えないが、誰もがいずれリタイアの時期を迎える。調査では、リタイア後の人生について、欧米では30代から準備を始めるのに対して、日本人は定年が間近に迫った50代からだった。これでは、リタイア後の人生について、いい夢はなかなか描きにくいのではなかろうか。
編集長も、家族にも、誰にも話していない夢を持って毎日を生きている。その夢を実現するためには、それなりの資金計画も必要なため、もうしばらくは会社勤めという「苦役」を果たさなければならないが、できれば50代の半ばでリタイアし、残る人生を楽しむとともに、少しでも人のために役立つ人生を送りたいと思っている。
私が尊敬する人物の一人である伊能忠敬は50歳で息子に家督を譲り、江戸に出て本格的に天文や測量の勉強を始め、55歳から全国を測量して、日本地図を完成させた。編集長もそういう人生に憧れ、準備を進めている一人である。
読者諸兄はどのような夢や人生を描いているのだろう。
もし読者諸兄の毎日が「生きていくだけで精一杯」というのが現実だとしたら、これほど不幸なことはない。世界第2位の経済大国に住む国民が、単なる働き蜂、会社人間で人生を終えるのではなく、リタイア後の夢を実現できる社会であってほしいと思っている。

釈然としない夕張市の財政再建案

2006年11月27日 | 国家破綻
ちょっと古い話題になるが、財政破綻した夕張市がまとめた財政再建計画案が明らかになった。360億円を約20年で返済するという。
職員数は270名から半減する予定で、職員の月給は平均3割削減され、ボーナスも半分になる。退職時期が遅くなるほど退職金額が減っていく逆スライド案も導入された。
病院の行き帰りのバスは70歳以上の高齢者では一律片道200円で乗れるが、補助の廃止で最高4倍以上に跳ね上がる。市民税、固定資産税、軽自動車税も軒並み増税。入湯税150円が新設され、ごみも有料化、保育料も上がる。歳入を増やすために市の施設使用料を50%アップし、ゴミ収集も有料化する。さらに7つある小学校と4つある中学校を、10年3月までに各1校ずつにし、市民税や下水道使用料も引き上げるという。
地区ごとに開かれている住民説明会では、「住民追い出し計画だ」「この通りにやったら私たちは死んでしまう」という怒号や悲鳴が渦巻いたという。
この財政再建計画案について、夕張市を指導する立場の総務省は、「もっと削れるところがあるだろう」と「全国最低水準」を求め、なおも住民サービスの切り捨てを要求する構えだという。
財政破綻したからといって、住民にその負担を押し付けるというのなら、(失礼な言葉だが)「バカ」にでもできることではなかろうか。少なくとも行政音痴の編集長にも簡単にできることである。
夕張に思い入れもなく、財政的に余裕のある家庭は、夕張を捨てて、近隣の市町村に引っ越せばこの悲惨なサービス切捨てから逃れることができる。
結局、財政破綻のツケは最終的には、力のない住民に回ってくる。
映画祭復活を手がかりに、再生を目指す動きもあるというが、なぜもっと早くアイデアを出して来なかったのだろうか。
財政破綻の原因として、テーマパークの建設など、いわゆる箱物に近い施設をいくつも建設したり、放漫財政を長年にわたって放置してきた責任は一体誰にあるのだろうか?
こういう土建行政からの提案を鵜呑みにして、議会で黙って賛成してきた議員は、いまどうしているのだろうか?
この責任を明らかにしてこそ、夕張市の財政再建が実現できるのではなかろうか。現在のままでは、もし財政再建に成功したとしても、将来また同じように放漫財政を繰り返すのではないだろうか。
さらに、いま、夕張市に偉そうな「指導」をしている国の財政も、万年赤字体質から脱却できずにいるわけであるが、この財政赤字の責任についても、できる限り早くその責任を明らかにし、財政のあり方、使い方についての確固たる方向を打ち出さない限り、国中が夕張市と同じ轍を踏むことになる。そのことを危惧するのは編集長だけではあるまい。

驚いた、公明区議(目黒区)の全員辞職

2006年11月25日 | 政治問題
目黒区の公明区議、6人全員が辞職したという記事を見て大変驚いた。
読者諸兄もこの記事を見て驚いた方もいると思うが、編集長は別の観点から驚きを禁じえなかった。
「なぜ辞職したのが目黒区だけなのか」という点である。
以前に本紙でも簡単に触れたことがあるが、議会の政務調査費というのは、本来は議員活動に充てられるものであるが、実際には、議員の隠れた収入になっており、これが議員本人の自宅の電話代や自家用車の維持費などに充てられているのである。
以前にテレビで報道されたことがあるが、練馬区議会の政務調査費を情報公開によって開示を求めたところ、ひどい領収書が続々と出てきた。
議員と同一の筆跡で書かれた実態のない事務所家賃、電話代、タクシー代、飲食費など数々の領収書はもちろんのこと、麻雀ゲームソフト2本などというものまであった。
元は、国民の税金である。有権者から選ばれた議員は、有権者のために地域で奔走し、議会での活動を区民に広く知らせる義務がある。そのために使われるのが、この政調費でなければならない。
今回の件について、目黒区議会議長(自民)は、「不適切ならお金を返せばよい。」などと述べ、議員辞職の必要がないことを強調している。自分の政調費を調べられれば、到底区民の納得のいかない使途がばれることを恐れての公明党「弁護」発言としか考えられない。
私の住む区でも、数年前に政調費のことを調べたことがあるが、領収書を添付して区の監査を受けていたのは、共産党だけだった。残る自民、公明、民主の3党は、領収書の不要な小額の使途とのことで、領収書などはほとんど残っておらず、区の監査すらまったく受けていないのである。
こういう実態から見て、今回の目黒区の公明党だけでなく、自民党や民主党の議員連中も、政調費を何に使っているかは言わずもがなであろう。
こういう点から見ても、なぜ、目黒区だけで議員辞職なのか?編集長には全く理解できないのである。
公明党が、本当に清潔だ、クリーンだというのなら、目黒区だけでなく、すべての都道府県、市町村の政調費を徹底的に洗い出して、公表してはどうだろうか。目黒区などは氷山の一角だ。
また、自民党や民主党も、これにならって領収書をすべて公表すべきであろう。そして、不正な使途のある議員は、一斉に議員を辞職して当然である。
もっとも、そんなことをすると、全国から、自民党、公明党、民主党の議員は消えてしまうだろうが・・・。
この政調費以上にひどいのが政党助成金である。
使途も定められず、年間300億円以上、施行後10年以上を経た今日までに3,000億円以上の血税が、共産党を除く各政党にばら撒かれた。
今回の件を機会に、政調費や政党助成金の使途について国民の厳しい監視の目が届くようになることを期待している。

国家破綻ネタは好きではないが…。

2006年11月20日 | 国家破綻
日本の国家破綻、財政破綻について関心を持っている人は少なくないようだ。これをテーマにしたホームページやブログも多く、国民の関心の高さを感じさせる。
以前にも書いたとおり、今後の展開次第では、国家破綻はあるかもしれないし、ないかもしれない。しかし、現在のような放漫財政をずっと続ければ、いずれは破綻の日がやってくるのは確実であろう。
私は、国家破綻が起きないように、政府や自治体は最大限の努力をすべきと考えているし、その打開策として、庶民を犠牲にするのではなく、儲けを溜め込んだ大企業や資産家に大増税を行い、財政再建の突破口にすべきと考えている。
しかし、読者としては、実際に国家破綻が訪れた時に、他人のことはともかく、自分だけは何とか被害を最小限にとどめたいと思っておられるだろうし、そう思うのは人間としての素直な感情である。そこで、国家破綻を乗り切れるほどの資産がない庶民のための防衛策をいくつか提案したい。
国家破綻でもっとも心配なのは、円の暴落などにより、食料や生活必需品の輸入が激減し、容易に入手できなくなることだろう。日本は資源に乏しく、食糧自給率はわずか40%である。したがって、国家破綻に対するもっとも完璧な対策は、衣食住を確保することであろう。廉価で長く住める家があり、最小限度の食料や衣類(綿花の栽培と機織り?)、日常雑貨なども自給できれば、資産などはそれほどなくても何の心配もない。少し余分に生産して、販売できればなおのこと心配はない。
自給自足ができない都市住民は深刻であろう。いくらお金があっても食糧や物資を満足に購入できなくなる恐れがある。特に食料の長期保存には限界があるので、いくらお金や場所があっても、いつ起きるかわからない国家破綻に備えて何ヵ月、何年分も食料を備蓄するわけにはいかない。1~2週間分くらいの食料備蓄は、災害対策としても重要なので、準備しておくことをお勧めする。自然災害でも人災でも、混乱の時期の最初の数日から1週間を余裕を持って切り抜けることが重要だ。1週間の余裕があれば、世の中の動きにもじっくり対応ができるものである。
国家破綻に備えてもう一つ重要なことは、資産の分散を行うことである。
日本人は、貯蓄好きの国民である。黙々と働いて、収入の一部を安全性の高い預金としてせっせと積み上げてきたのが、一般的な国民の姿である。労働によってしか新たな価値は生み出されないとすれば、働いて貯蓄する国民の姿は人間としてもっとも健全な姿であろう。稼ぐに追いつく貧乏なし、と言うではないか。
とは言うものの、国家破綻など非常の場合でなくとも、資産の分散は当たり前だ。
通常は、全財産を土地ばかりで所有するなどということはしないであろう。同様に、円貯蓄のみ、株式のみというのもいただけない。また、国債などはもってのほかである。
円だけでなく、外貨にも目を向けて然るべきである。その際は、細かなレートの変動を気にしないことである。レートがどうであれ、1ドルは1ドルであり、1ユーロは1ユーロである。
自らが居住する土地、家屋の確保は重要であろう。その他、株、美術品、貴金属、宝石など何でも良い。とにかく分散して所有することだ。もし、あなたが円は暴落するという確信があるのなら、手数料や売却時の値下がりなどは気にせずに、とにかく他の資産に乗り換えるのが良い。資産は、できるだけ換金性のあるものが望ましいが、混乱が収まってから売却できるものなら何でも良いと思われる。
国家破綻という人災や地震のような天災もいつ来るのかは誰にもわからない。ただ、数十年という期間で見れば、いつかは必ずやってくる。これに備えて、個々人としても、生き延びる努力が必要であろう。
と同時に、以前からたびたび述べているように、日本を国家破綻寸前にまで追い込んできた自民党政権に終止符を打ち、庶民本位の財政再建の道に踏み出すことを希望するものである。国家破綻という人災は、国民の正しい判断によって食い止めることができるのだから。

きかんしゃトーマス運転会:来年もよろしく

2006年11月19日 | ミニSL
本日(2006年11月19日)、足立区梅田で今年最後の運転会を無事に終了致しました。
今日は、今年最後の運転会ということで、張り切って行ったのですが、気温12℃、あいにく雨模様で、かろうじて10時から開始したものの、12時頃には雨が降り出し、あっけなく終了しました。
寒くて、雨模様ということもあって、人出も例年の半分以下、子供たちも少なく少々寂しい幕切れになりました。
雨にぬれた車輪や線路を整備して、来年の運転会に備えたいと思っています。
今年、トーマスとなかまたちに乗車していただいた皆さんにお礼を申し上げますとともに、来年も宜しくお願い致します。

石原都知事のあきれた外遊

2006年11月18日 | 政治問題
都知事の石原慎太郎が、わずか7年の任期中に19回もの「海外視察」という名の外遊を行っていたことが報道された。
しかも、1回当たりの金額は2000万円であり、首都圏の他県の海外視察と比べて3~8倍もも経費がかかっているとのことである。条例で定められた宿泊料金(4万200円)を無視し、何と1泊26万円余の超豪華ホテルに夫人とともに宿泊するなど、デタラメな出費をおこなっていたことも判明している。
この費用はすべて税金であり、資料が入手できた15回分だけで2億4,000万円に及ぶという。
しかも問題はその内容である。
オリンピックやマラソンの視察と銘打っているが、それらの調査は、1回の出張のうちわずか2時間足らずであり、残りの5~7日間は、大型クルーザーを借り切ってのクルージング、オートバイレースの観戦、ヘリコプターをチャーターしての空からの「視察」、グランドキャニオンやレッドウッド国立公園観光など、文字通りの「外遊」である。
しかも、この外遊には、夫人を伴い、その費用もすべて税金からの支出となっている。
このような人物を都知事として戴いていることを都民の一人として恥ずかしいと思うと同時に怒りを覚えるのは私だけではあるまい。
石原都知事は、選挙になると石原軍団が応援に駆けつけ、「裕次郎の兄です。」などと紹介されて悦に入っている人物であり、話の内容はまったくのデタラメであるが、歯に衣着せぬ言動が売りで、都民の多くから支持を得て2期目を務めているのであるが、都民はその言動の内容を精査する必要がある。
今回の「外遊」も都政、都財政を私物化する行為であり、自らが定めた条例さえ平気で踏みにじって恥じない人物である。
さらに、知事としての憲法の遵守義務を棚に上げて、「命がけで憲法を破る」と公言している危険人物である。
また、くだらない都知事の言動を議会で天まで持ち上げて褒め称えてきたのが、自民、公明、民主の3党であり、こういう政党の責任もきわめて重大と言わなければならない。
来年の夏には、都知事選挙が行われるが、このような人物には都政の表舞台からはぜひ退場いただきたいと思っている。

日本経済はどこに向かうのか?

2006年11月17日 | 経済問題
先日、内閣府が2006年の第3四半期の国内総生産(GDP)の速報値を発表した。これによると、第2四半期と比べて名目、実質とも0.5%、年率にして2.0%増になったとのことである。7期連続のプラス成長となったことになる。
しかし、景気回復などという言葉を実感できる国民はそれほど多いとは思われない。
このGDP「成長」の主要因は、大企業の空前の利益である。企業の形状利益の推移は、2001年第3四半期の7兆円だったものが、2006年の第2四半期には14兆円と2倍以上に伸びている。
一方で、GDPの約60%を占める個人消費をみると、前期比で0.7%減と失速しており、成長率の足を引っ張る形になっている。
この原因は、賃金の低迷である。好業績を上げている一部の大企業では、年末のボーナスが史上最高になると予想されているが、これも、企業のボロ儲けのほんのおこぼれが支給されるに過ぎないのである。さらに、企業の多数を占める中小企業では、相変わらず経営は苦しく、そこで働く労働者の賃金は低く据え置かれたままだ。また、大企業に勤務しているとは言っても、派遣や請負という労働形態により、ワーキングプアと呼ばれる貧困層を生み出していることは周知の事実である。
賃金の低下に加えて、定率減税の廃止に伴う増税や社会保険料負担の増加などが国民消費に暗い影を落としている。
GDP速報値を見て、政府は確実の景気が回復していると評価しているが、ここには、国民の懐具合に思いを寄せる姿勢は微塵も感じられない。
GDPの60%を占める国民消費動向に焦点を当ててこそ、日本経済の実態が見えてくるのではないだろうか。

教育基本法「改正」案、直ちに委員会に差し戻せ

2006年11月16日 | 教育
教育基本法「改正」案が、衆院の特別委員会において、自公の与党のみの単独採決によって可決された。
本紙でも、何度も指摘してきたように、この法律「改正」には、愛国心の強要など多くの問題が含まれている。
この法律の成立の過程において、文部科学省による「やらせ質問」が全国各地のタウンミーティングで行われていたことが明らかになり、さらに、全国10ヵ所で開催された教育フォーラムでも「やらせ質問」が行われた可能性が高く、文部科学大臣が委員会において調査を約束した。その直後の採択である。
また、いま問題になっているいじめ問題や履修不足問題では、子供ばかりか校長の自殺者まで出しており、解決の糸口さえ見つけられない状況である。
教育基本法を「改正」すれば、このような問題が解決するのであろうか。
否、この法「改正」によって、ますます、教育現場への締め付けが強まり、自殺件数ゼロなどという報告がまかり通るようになるのは目に見えている。
法案審査の過程で明らかになった「やらせ質問」など、文部科学省の責任を明らかにすることこそが、委員会が真っ先になすべきことである。
今回の教育基本法「改正」案は、直ちに委員会に差し戻すことを強く要望するものである。

<16日夜に追記>
朝、記事を投稿した後にニュースを見ていたら、文部科学省の言いなりに「やらせ質問」をしてくれた人たちには、5,000円の謝礼が支払われていたと報道されていた。この謝礼について、官房長官は「当たり前」と述べていたが、とんでもないことだ。これは、公然とした買収ではないか。選挙でも何でも買収や利益誘導は当たり前という自民党や与党にとっては「当たり前」かもしれないが、税金を使って、自党に有利な発言を強要することに、国民はけっして納得しない。しかも、安倍首相の希望もあって、即刻、衆院の本会議で採択に付すというのだから開いた口がふさがらない。やらせ質問と質問者に対する買収について、明確な回答を行うのが国民に対する責任であることを強調しておきたい。

とんでもない財界の要求

2006年11月14日 | 財界
日本経団連の御手洗冨士夫会長は13日の記者会見で、税制改革の焦点になる法人税の実効税率(現行約40%)について、「欧州など各国の状況をみても30%をめどにして考えるべきだ」と強調し、政府・与党に対し年末にまとめる2007年度税制改正大綱に引き下げ方針を明記するよう求めたという。
大企業は、バルブ期にも達成できなかったようなものすごい収益を上げており、国税庁によると、法人申告所得は14年ぶりに50兆円を突破しており、史上4番目の好景気に浮かれているのである。
そして、二言目には、日本企業が「国際競争力を失っては困る」と言うのであるが、それは企業の勝手であろう。
御手洗氏のキヤノンは、本紙でもたびたび報道してきたように、偽装請負という違法行為にまで手を染めて、労働者を搾り取り、現在問題になっている格差社会を作り上げて張本人ではないか。
そして、減税の具体的な実施時期に関しては「(消費税率の引き上げなど)税制全体の抜本見直しのタイミングに向けてになる」と述べ、08年度以降に段階的に引き下げるべきだと述べたという。
一方で、弱者に負担の大きい消費税の増税を主張しながら、自分には都合の良い法人税率の減税を主張する。とんでもない話だ。
更に許せないのは、これに対して、財務相が実効税率について「イコールフッティング(公平な条件)という面から見てこの辺は課題だ」とも述べ、改めて引き下げの必要性を強調したという。そして、御手洗会長が来年度税制改正で引き下げの道筋を示すべきだと語ったことに関しては「経団連がそういう意見を出していることはしっかり留意しなければならない」と物分りの良さを示していることである。
今までに何度も述べてきたことであるが、日本という国は、大企業や財界への規制が極めて不十分な歪(いびつ)な資本主義国である。
せめて、現在制定されている法律を守らせるだけで、偽装請負などで苦しんでいる何十万人もの労働者の生活を世間並みに引き揚げることができるのであるが、それさえも不十分な対応に終わっている。
安倍政権は、しきりに「セイフティーネット」という言葉を口にするが、一方では、財務相がこういう財界応援団のような発言をして憚らないのである。
この政権のめざす国作りの本質を垣間見た気がした。

給食費の不払い-家庭教育はどこに行ったのか?

2006年11月13日 | 教育
最近こまごましたことで、身辺が多忙になり、記事の投稿が億劫になってしまった。
一つひとつの用件は些細なものばかりなのだが、これが積み重なるとなかなか処理しきれなくなってくる。ここ数日間は、こんな状況で「こうして知らぬ間に時間が過ぎ、この積み重ねが人生になるんだな」と、妙に哲学的なことを考えたりした。
貴重な人生である。お互いに有意義な人生を送りたいものである。
さて、先週土曜日にフジテレビで「秋の教育スペシャル!たけしの日本教育白書……」なる番組があり、編集長も雑多な用件を片付けるかたわら、ちょっと覗き見をした。
教師による破廉恥行為や指導力不足などがマスコミで報道されるが、この番組で紹介された最近の教育現場の実態には驚くばかりである。
教員の指導力不足ももちろんあるだろうが、給食費の不払いを堂々と主張する親たちには、呆れるというよりも、怒りすら覚えた。
この親たちが主張するように、確かに給食というのは教育の一環であり、義務教育期間中である小中学校では本来は無料で提供すべきものと編集長も考えている。しかし、現実問題として、その費用の一部(材料費)を保護者が負担する制度がある以上、やはり不払いというのは納得できない。世間には、経済的な理由によって給食費を払えない世帯もあろう。これを責めるつもりは毛頭ない。しかし、テレビに登場した2人の母親は、子供には携帯電話を持たせ、多い月には6万円もの通話料を負担しているという。その一方で、給食費の不払いを続けているのである。
「子供にとって、給食と携帯とどちらが大切ですか」と聞かれた母親は、すかさず「携帯です」と答えている。
また、自分の子供を「学芸会の主役に」と主張する親たちの話も紹介された。配役を決めようとすると、「なぜ私の子供は花の役なのか」、「主人公にして欲しい」という要望が次々と寄せられるそうだ。
そうして、学芸会では、「桃太郎」とは似て非なる、18名の桃太郎が登場する「桃太郎たち」あるいは「桃太郎s」ともいうべき劇が演じられることになるのである。
このような親から、いったいどのような子供が育つのだろうか。社会のルールや常識を守り、他人の立場や気持ちを理解する子供が育つとは到底思われない。利己的で、自らの要求は、たとえ理不尽であっても無理やり、時には暴力をもってしても押し通そうという子供になるのではないか。
最近のいじめ問題でも、いじめる側には、いじめているという自覚はまったくなく、亡くなった子供への罪悪感も瞬時にして消えうせてしまうのだろう。いじめられていた子供が自殺をしていなくなれば、また次のいじめの「標的」を探すだけだ。いじめをしていたと名指しされた子供の親たちも、内心、遺書の中に自分の子供の名前が書かれたことを迷惑に感じているに違いない。本当に自分の子供が取り返しのつかないことをしてしまったと猛省する親はほとんどいないのではなかろうか。そして、そういういじめの事実そのものを徹底的に隠蔽する学校や教育委員会。悲しいことだが、これが教育現場や家庭の実態である。
10年後、20年後に、日本はどんな国になっていて、どんな人間がこの世の中を闊歩しているのだろうか。想像しただけで、気持ちが沈むのは私だけではあるまい。
読者諸兄の身近に住んでいるこういう理不尽な親たちに、地域や学校で批判の声を上げていくことが唯一の解決策であろう。

あきれた文部科学省のやらせ質問

2006年11月11日 | 政治問題
教育基本法の「改正」に執念を燃やす安部内閣は、早ければ来週中にも衆議院での採択を企てている。
ここに降って湧いたのが、教育改革タウンミーティングでのやらせ質問である。質問内容をあらかじめ文部科学省が作成を、これを内閣府を通じて、都道府県、市町村の教育委員会になどに送られ、タウンミーティングの際に、PTA会長など有力者に質問させたという。その後の調査では、やらせ質問は多くの自治体のミーティングで行われたことが判明している。
ミーティングの前に、あらかじめいくつかの質問が記載された用紙が手渡され、質問して欲しい項目には○印が付いていたという。そして、この文書には、ご丁寧に「依頼されて」、「お願いされて」などと言わないこと、「原稿をそのまま読むのではなく、自分の言葉で」、「棒読みはしないで下さい」などと書かれていたという。
いじめ自殺、履修不足問題などで教育現場が混乱している最中に発覚したスクープである。
教育行政の頂点に立ち、教員や生徒に対しては「規範意識」を持てなどと指導している文部科学省が、このような馴れ合いを指導してきた責任をどのように感じているのだろうか。「規範意識」がないのは、文部科学省ではないか。恥ずかしいと思わないのだろうか。
もう一つは、以前に書いた「狂気は静かに、そして確実にやって来る」の記事の中で述べたように、こういう政府による世論誘導の恐ろしさである。安部首相は、教育基本法と憲法「改正」の2つを目玉にしている内閣であるが、そのいずれも、「愛国心」を養い、日本を戦争ができる国にしようという政治の流れの中に、今回のやらせ事件が存在していることである。
ことは単純なやらせで済むことではない。町の有力者や教育関係者などが、今回の「改正」案について賛同する意見を述べれば、少なくない聴衆も、「なるほどそうなのか」、「それはいいことだ」と思ってしまう。立派な世論誘導、思想操作である。
先に述べたように、今の教育現場には、他に議論しなければならない問題が山積みしている。政府、文部科学省がこういう問題に正面から取り組むことこそが求められているのである。
同時に、読者諸兄もこういう政府の世論操作に惑わされずに、現在、国会でごり押しされようとしている教育基本法の「改正」の本質を見極めていただきたいと願うものである。

逆上がりができない子供たち

2006年11月08日 | 教育
鉄棒の逆上がりができない子供が増えているという記事に接した。
埼玉県教育委員会の調査結果では、平成17年度に県内の小学4~6年生を対象に逆上がりの成就率を調査したところ、小6で男子、女子ともに71%であったということである。約20年前の昭和59年度は、男子で91%、女子で93%だったとのことである。20年前と比べて逆上がりができない子供の割合が20%ほど増えている。
全般的に子供の体力が落ちているのがその一因であろう。動く歩道、エスカレーターやエレベーターなどの便利な生活によって基礎体力が失われたのではという意見もあるという。その通りであろう。
子供の遊びも、10年前、20年前とはまったく異なる。
こどもがのびのびと遊べる場所も少なくなり、木登りなどをしようものなら、危ないからと止められる。今では、コンビニの前や公園の片隅に子供たちが集まって、カードゲームやポータブルゲームに夢中になるようなご時世である。親から「外で遊びなさい」と言われるのだろうが、何も外でたむろして、ゲームで遊ぶことはないではないか。
また、学校の対応にも変化があるようだ。かつて、逆上がりは「学習指導要領」に明記され、「すべての子供に指導されなければならない」ものだったそうだが、現在は各学校の判断に委ねられているそうだ。その理由は、「逆上がりには腕力が必要で、体が重い子供ほど体を持ち上げるのが難しく、全員ができるようになるのは難しいため」だそうだ。全員が必ずできることだけを教えるのが教育なのだろうか。できることもあればできないこともある、得手不得手があるが、励ましあってできるように努力することが大切なのだ。
いま、教育基本法の「改正」が国会で論議されているが、愛国心を植えつけるような法改正に無駄な時間を使うのではなく、子供たちに本当に必要な苦労や努力をさせることが大切なのではなかろうか。
私が子供の頃には、逆上がりや縄跳びの二重とび、そして自転車に乗れた時などは、子供なりに苦労はしたけれど、頑張って良かったという満足感、達成感を抱いたものだった。
生活様式が変化したいま、現代の子供たちはどんなことに満足感や達成感を感じているのだろうか?
「ゲームが最後までクリアできた時」などという答えでないことを祈るばかりである。

憲法「改正」に待った!

2006年11月04日 | 憲法・平和問題
憲法について、一度じっくり考えて意見を書いておこうと思いつつ、随分と日が過ぎてしまった。
安倍首相は、できれば2期6年間の任期を全うし、この間に憲法を「改正」したいという願望を持っているようであるが、そもそも軽々しく憲法「改正」を口にする首相を6年もの間、日本の総理大臣を務めさせることは、国民のとっての悲劇であり、日本にとって恥であろう。
安部首相は、「憲法が時代にそぐわない」から、「改正」すべきと主張している。これはいったいどういう意味だろうか?
憲法が掲げている平和原則、戦力を保持しない、交戦権はこれを認めないという内容が、世界の情勢に合致していないということを言いたいらしい。現在でも中東やアフリカでは戦火が絶えない。各国の核実験や核開発も絶えない。こういう不穏な情勢の下で、日本も海外に派兵し、戦闘ができるように憲法を改めようというのが、彼の考えである。
しかし、この発想は根本において間違っている。
日本の憲法は、太平洋戦争の悲劇の教訓から定められたものであり、特に憲法9条の規定は、世界の国々の外交のあり方を示したものであり、この条項に則った世界をつくろうという崇高な理想を日本として表明したものである。したがって、戦後60年以上にわたって世界各地で戦火が絶えないからといって、理想を廃棄してしまおうというのはまったく逆立ちした議論だ。戦後60年にわたって基本的には政権を担当してきた自民党が、世界の中でこの理想を推進してこなかったからこそ、残念ながら世界で戦火が絶えないのではないか。そのことを棚に上げて、戦火の上がる地域に自衛隊を派遣し、戦闘行為ができるようにしようというのは、本末転倒も甚だしい。
最近、爆笑問題の太田光が「憲法を世界遺産に」という対談集を出して話題になっているが、私も彼の意見に同感である。この本の中で太田は次のように述べている。
「最初はジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を読んだときですね。この本で、日本国憲法ができたときの詳しい状況を知って、ああこの憲法はちょっとやそっとでは起こりえない偶然が重なって生まれたのだなと思ったんです。戦争していた日本とアメリカが戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのはあの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピーク感情と、この国を二度と戦争をさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これはもう誰が作ったとかいう次元をこえたものだし、国の境すら超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だなと感じたんです。アメリカはまた五年後の朝鮮戦争でまた振り出しにもどっていきますしね。僕は日本国憲法の誕生というのはあの血塗られた時代に人類が行った一つの奇跡だと思っているんです。この憲法は、アメリカによって押しつけられたもので、日本人自身のものではないというけれど僕はそうは思わない。この憲法は敗戦後の日本人が自ら選んだ思想であり生き方なんだと思います。」
「理想」というのは、けっして「空想」ではない。
長い歴史の中で、人類はさまざまな困難を克服してきた。戦争と言う国家による暴力も必ず根絶できる時がやって来るに違いない。その時になって、日本が60年前に掲げた憲法の理念が世界の平和の礎になることは間違いないと確信するものである。

人口減少

2006年11月02日 | 社会問題
もう過去の話題かもしれないが、日本の人口が昨年あたりから確実に減少に転じたようだ。
先日の新聞報道によると、現在の人口は、約1億2776万人で、この1年間で2万2000人減少したという。
政府からは、少子高齢化になれば、年金や健康保険などの社会保障に支障が出るといった議論が急に出始めたが、こういうことは今までの統計からも十分にわかっていたはずであり、今更驚くことではない。今後の国民負担や給付については、一層の議論が必要であるが、解決の方向は明確であろう。経済的に困窮している人たちがいるのなら、経済的に十分な余裕のある豊かな人たちから回せばよい。これが基本だ。いずれにせよ、高齢者だけでなく、収入がなく、健康上の問題を抱えた人たちにも憲法で保障された最低限度の文化的な暮らしが送れる仕組みを作って欲しいと願っている。
また、人口減少によって経済の活力が失われるというが、日本という国は、今後も世界の国々の中で、経済的に上位を占め続けなければならないのだろうか?誰がそんなことを決めたのだろう。
日本が本当に経済大国というのなら、国民一人一人ももう少し豊かな暮らしができそうに思うが、いかがだろうか?
経済大国ではなくとも、独自の技術や産物、文化を持ち、豊かに暮らしている国は世界にたくさんある。私たち自身の暮らしを振り返って、本当に日本という国は住みやすくて、素晴らしい国だと胸を張って言える人は、果たしてどのくらいいるのだろう。この機会に、日本が今までどおりに経済大国としての道を歩むのか、それとも別の道を模索するのか、将来どういう方向に進むのが望ましいのか、国民の中で大いに議論してみてはどうだろう。
明治維新の時点での日本の人口は、約3500万人といわれている。その後の140年間で、4倍に膨れ上がったわけである。機械化が進んでいる現在、現状の経済活動を維持するのに、果たしてこれほどの人口が必要なのであろうか。
また、人口減少が確実とはいうものの、年間に何百万人も減少するわけではない。全体から見ればごくわずかの数字である。景気が回復しつつあるとはいっても、日本の失業率は未だに4%台である。少し、人口が減ったほうが失業率も改善するのではなかろうか。また、統計上は表に出ない失業者がいることも考えれば、もっと人口が減っても大丈夫である。また、高齢化が進行すればそれに伴う新しいビジネスも生まれてくることだろう。
人口減少に備えて、どんどん移民を受け入れなければならないという議論もある。しかし、そんなことをわざわざ政策として掲げなくても、在日外国人労働者は確実に増えている。日本が素晴らしい国だと思えば外国人はどんどんやってくるし、どうしようもない国だと思えば日本人もどんどんと外国に出て行くであろう。
このように考えてくると、人口減少はそれほど大きな問題にはならないと思われる。にもかかわらず、政府によって人口減少と相まって「少子高齢化」問題が喧伝されるウラには、そのための増税や各種の負担増を合理化するための思惑、魂胆があることを見逃してはならない。
人口減少とそれによる少子高齢化は確かに大きな問題には違いないが、その変化は緩徐であり、人間の知恵を持ってすれば、乗り越えられない問題ではないと思われる。