時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

教員の不正採用の内部告発50件以上

2008年12月06日 | 教育
大分県の教員採用をめぐる汚職事件を受け、政府の規制改革会議が設けた「教育目安箱」に、現職教員らから「自分の県にも口利きがある」などという告発が50件以上寄せられたことがわかったという。
目安箱は教育関係者から採用や人事面での不満や改善策を聞くため、8月13日から1カ月間設置。インターネットでの投稿か手紙で受け付けた。計238人から意見が寄せられ、このうち4割が教員や元教員から。意見は延べ357件で、口利きに関する54件も含めて採用の問題点を指摘する内容が3割を占めた。
なかには「就職氷河期には議員のコネのある人や、親が校長、教育委員会幹部の人が多数採用された」(愛知県の教員)、「県議から介入を受ける場合がある」(香川県の教員)など具体的な内容もあるという。
ただし、規制改革会議は告発を受けた実態調査は行わず、大分県以外の県には問題を広げたくないという考えのようだ。何のための「目安箱」だったのだろう。
この機会に、各都道府県にある不正採用を徹底して調査し、膿を出し切るべきであろう。
不正採用の陰には、夢を持ちながら教員になれなかった若者がたくさん存在する。こういう人たちを今からでも救済することが大切ではなかろうか。

日の丸・君が代訴訟:再雇用拒否は違法で、都に2700万円賠償命令

2008年02月09日 | 教育
卒業式などで日の丸に向かった起立と君が代斉唱を拒否し、職務命令違反で処分されたことを理由に、東京都教育委員会が再雇用を拒否したのは違憲として、都立高校の元教職員13人が都に1人約559万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が7日、東京地裁であった。
「都教委は職務命令違反を過大視し、ほかの事情を考慮した形跡がなく、裁量を逸脱している」と述べ、総額約2700万円の支払いを命じた。
画期的な判決である。
そもそも、「日の丸」、「君が代」をそれぞれ国旗、国歌と制定した際の政府の国会答弁でも、「教育現場などにおいて強制しない」ことを言明している。
にもかかわらず、実際の現場では職務命令という形で、教職員に強制が行われ、今回のケースのように雇用そのものを拒否されるケースもある。これは、この法律の制定時の政府見解そのものを覆すものであり、思想・信条の自由を侵害する行為である。
もっとも政府の国会答弁などは、あくまでも詭弁で、いったん決めてしまえば、あとは現場で徐々に強制していけば、国民は知らず知らずのうちに、そのことに違和感を持たなくなるという作戦にほかならないわけだが・・・。事なかれ主義で過ごすうちに、後戻りできない状態に陥ったのが、悲惨な戦争に突入していった戦前の教訓にほかならない。
こういう流れに対して、訴訟を提起した元教員の生き方は、日本人としての良識を示した行為であり、絶賛されるべきである。
判決では、職務命令については「憲法で定めた思想、良心の自由を侵害しない」と述べ、合憲と判断したという弱点があるが、全体とすれば、画期的な判決であり、都は控訴を断念し、この判決に直ちに従うべきであることを強調しておきたい。

教育の崩壊、加害者の母親に問う

2007年11月01日 | 教育
10月11日に「教育の崩壊」というタイトルで、足立区で起きたコンビニでの万引き事件に関する記事を書いておいた。
この記事の中で、この事件に関わった加害者である中学生とその保護者の責任はもちろんであり、罪の償いをすべきであること、同時に、この間足立区で起きた学力テスト問題にまつわるさまざまな不祥事、学校選択の自由化など足立区の教育行政の問題点について指摘しておいた。
これに対して、数日前に、この事件に関わった5人の中学生のうちの1人の母親という方からコメントをいただいた。内容にはリアリティがあり、いたずらではなさそうである。
さて、この母親は、「窃盗行為について、これは弁解の余地もなく、うちの子が悪いです。充分反省しなくてはなりませんし、それなりの償いは当然です。」と述べる一方で、「家庭で反抗するような事も暴れた事もありませんし、今でも食事や旅行、買い物、家族みんなで行きます。私達保護者が言いたいのは、半分は大人に仕立て上げられた「不良少年」というレッテルなんです。」と述べている。そして、学校や教育委員会の対応を批判し、「こんな学校に育てられている子供達のこれから先が、私は不安でなりません。」と締めくくっている。
長文のコメントではあるが、事件の加害者の母親という立場を考えると、まだまだ書き足りない部分もあったと思われるが、このコメントを読んで気になったことを述べておこう。
万引きという行為について、この母親はどのような認識を持っているのだろうか。1000円の商品を1点盗まれると、この損失を取り戻すために、商店はいくらの商品を売らなければならないのか、正しく認識されているだろうか。そして、その重大性を子供にきちんと説明し、理解させているのだろうか。
先の記事の中で、保護者が「死ぬ気で子供と向かい合ってきたとは到底思えない。」と書いておいたが、いただいたコメントからは、和気あいあいと食事や旅行、買い物に出かける家族像しか浮かんでこない。都合の悪いことにはお互いに口をつぐみ、親も子供を批判して真摯に反省を求めることがなく、子供もそれに甘えて表面上は「良い子」を演じている。そういう家庭像を想像してしまうが、これは私だけが感じることだろうか。
報道によれば、この中学生5人は、「度重なる補導や授業の妨害」があったと報じられており、母親も「窃盗行為について、・・・うちの子が悪いです。・・・それなりの償いは当然」と述べているので、話半分としても、近隣の商店や学校やクラスの友人たちにも相当な迷惑をかけていたことが推察できる。
では、今までに万引きなどを行った全ての行為を告白させ、1軒1軒の商店に謝罪に行き、損害を償い、教員やクラスメートの自宅も訪問し、今回の件で迷惑をかけたことを謝罪して回ったのだろうか。これが、「家庭」としてまず行うべき「償い」の第一歩だ。
私なら間違いなく、子供を連れて1軒1軒謝罪訪問をさせるだろう。
この母親は、反省を口にする一方で、結局は「こんな学校に育てられている子供達のこれから先が、私は不安でなりません。」と学校に責任に転嫁していないだろうか。
足立区の教育行政、学校現場の問題点は、私もいやというほど目にしている。これはこれで、正さなければならないことだ。そのために私も微力を尽くしたいと思っている。
しかし、加害者の母親、保護者がまずなすべきことは、他人のこと(新聞報道、警察情報、隣近所の噂、社会のレッテル、学校の対応、教育行政、仲間の中学生やその家族など)を論評したり、批判したりすることではなく、ましてや署名を集めたりすることではけっしてない!
「償い」というのは、何も「法的なこと」だけを意味するものではない。それは、警察や法曹関係者に任せておけばよい、世間の噂も世間に任せておけばよいことであり、家族が云々することではない。
「家族」がなすべきことは、「家族」でしかできない「償い」の行動をまず行うことである。「保護者」や加害者の中学生本人に、こういう固い決意があるかどうかを本人はもちろん、この母親と家族に問いたいと思う。

教育の崩壊

2007年10月11日 | 教育
コンビニからたばこを集団で万引きしたとして、足立区内の3つの区立中学校に通う2~3年の少年(いずれも14歳)3人を窃盗の疑いで逮捕したという事件があった。
中学生が万引きした場合、逮捕せずに補導で済ませるケースが多いが、同課は、3人が通う中学校から「度重なる補導や授業の妨害で学校の指導力では手に負えない」との上申書の提出を受けたことなどから、家庭裁判所による審判が必要と判断し、先月下旬に逮捕に踏み切ったという。
そもそも事件があったのは、4ヵ月も前の今年の6月である。当時13歳だった中学2年生2人とともに、同区伊興のコンビニで、レジの前のかごにあったたばこ7カートン(販売価格計2万1000円)を万引きした疑いである。
報道内容から察するに、今回の万引きが初めてではなく、たびたび補導されており、学校や家庭もいろいろと努力をしてきたがどうしようもなく、とうとう逮捕に踏み切ったという感じである。
この事件については、他のブログでもいろいろと論じられているが、まずは、親の責任をどうみるかという点であろう。未成年者の行為に対して、これらの生徒の親はどう感じているのだろうか。死ぬ気で子供と向かい合ってきたとは到底思えない。
次に、学校の問題であるが、学校としても上申書の提出は苦渋の選択だったのだろう。学校関係者の心中も察するに余りある。
残念ではあるが、矯正施設において「隔離」する以外に方法はないように思われる。「隔離」して本人たちが反省するかどうかは疑問だが、家庭や学校、社会のためにもそのほうが良いだろう。
さて、教育を巡って、足立区ではいろいろと問題が起きている。正確には、足立区はいろいろと問題を起こしている、というべきだろう。
公立小学校の学力テスト不正問題もついこの間まで報じられていた。情緒障害などのある児童3人の答案を無断で抜き取り、採点から外したとか、教育委員会が事前に校長にテスト問題を配布し、校長も学校で事前に勉強させていたとか、テストの最中に答えが間違っている個所を指で指し示して注意を促したとか、教育現場にあるまじきお粗末な内容が報じられている。
この背景には、学力テストの成績によって、各学校への予算配分を決めるという方針を区が打ち出したことにある。各学校とも、予算を取るために学力テストの成績を1点でも上げたいという「競争」の中に放り込まれたわけである。
しかも、この学力テストは、各生徒に答案が返ってこないため、生徒がどこがわかっていて、どこがわかっていないのかが生徒にも教師にもわからない。これでは、改善策の立てようもない代物だ。小中学校という義務教育の中に、このような「格差」を持ち込むことが、生徒に良い影響を与えるわけがない。
こういう区で、まともな教育ができるだろうか。
足立区では、小学校も中学校も学校は自由に選択できる。学校に格差ができるので、親たちは評判の良い学校に子供を通わせたがり、ある学校は1学年6クラス、評判の悪い学校には生徒が集まらず、1学年が1クラスという実態がある。希望した学校に入れず、評判の悪い学校に回された生徒たちは、入学した時から劣等感を持ちながら通うことになる。こんなやり方で生徒がまともに育つわけがない。
さて、万引き事件に戻るが、このような事件の背景には、足立区の教育行政の歪みも反映していると思われる。

公立小中学校の統廃合、経費削減効果を強調

2007年05月24日 | 教育
公立小・中学校の統合を加速させよ――。財務相の諮問機関・財政制度等審議会(財政審)は6月初めにまとめる報告書(建議)で小中学校の統廃合による経費削減効果を強調する見通しだ。財務省は、527校を221校に統廃合した結果、年約170億円の削減効果があったとの資料をまとめ、「保護者にも好評」とするが、通学が不便になったとの反発もある。
財務省が財政審に提出した資料は、公立小は387校から161校に、公立中は140校から60校へ、それぞれ統廃合して2005年4月に再出発した計221校を独自調査したもの。統合前後で公費支出を比べると、小学校で年129億円、中学校で45億円減ったという。
資料は、小学校は1学年で2クラスに満たない学校が全国で半数を占めるなど、小中学校ともに文部科学省が「標準」とする規模に満たない学校が約半数に上るとする。また、2006年の小学校の児童数は、最近のピークだった1981年より4割減なのに対し、学校数は1981年に比べ9%減でしかないとして、統廃合が遅れていることを強調している。
財政審の西室泰三会長は21日の会合後に、小中統廃合を通じ、「教育にかかる費用を節約できるのは、はっきりしている。しっかり打ち出したほうがいい」と述べたと報じられている。
この種の議論を見ていていつも感じるのは、「まずお金ありき」の議論だ。
少子化で、子供全体にかかる義務教育の費用は当然安くなっているはずだ。教科書や教材も少なくて済むのだから。したがって、ここで浮いたお金を使えばよいではないか。
あるいは、本当に少子化対策を真剣に考えるというのであれば、義務教育にはもっとお金をつぎ込むべきだろう。
経済効果しか頭にないような審議会の開催にお金をつぎ込むよりよほどマシではあるまいか。

「学校に行きたい~極寒モンゴルの移動教室~」を見て

2007年02月27日 | 教育
先日、フジテレビ系列で「学校に行きたい~極寒モンゴルの移動教室~」という番組が放映された。
女優の永作博美が、モンゴルの遊牧民一家の8才のナラという女の子を訪問する。
ナラは、怪我をした父や病気の母を助けて働くことに忙しく、兄や姉が通った村の学校に通っていない。「字を覚えたい」と言い、仕事の合い間にも、ボロボロになった教科書を開くことを楽しみにしている。そんな少女だ。
モンゴルでは、夏と冬の学校の休みに、学校に通えない子ども達のために2週間の移動教室が開かれている。ナラはこの教室を心待ちにしている。
さて、番組内容の詳細をここに紹介しようとは思わないので、興味のある方は、別のホームページを調べてみて欲しい。
この番組の最後に、学校に行きたいのに行けない子どもも、学校に行けるのに行きたくない子どももどちらも不幸だという趣旨のナレーションがあったが、編集長はこの番組を見て、日本の学校教育のあり方を考えさせられた。
新しい知識を得ることは、成長期の子供にとって何よりの喜びであるはずだ。
新しい文字や計算の仕方、自然や宇宙、日本や世界のこと、いずれも驚きに満ちた世界のはずだ。ところが、残念なことに、日本ではこういう一つひとつのことを学び、知ることが子供たちにとって苦痛になっているというのはどういうわけだろうか?
もっとも大きな原因は、個々の子供の能力や学力に合わせた指導や援助が行われていないからだろう。
教師は、決められた期間に決められただけのページ数の授業をこなし、わからない生徒がいても、どんどん先に進まなければならない。小学校2年生で掛け算を学ぶが、ここで取り残された生徒にとっては、それ以降の中学卒業までの数学の授業は、まったく無味乾燥なものになるだろう。
3年、4年と学ぶことが多くなればなるほど、落ちこぼれ(「落ちこぼし」というほうが正しいかもしれない)は増えてゆく。
子供たちは、テストの点数によって序列化され、競争を強いられ、授業についていけない子供たちは、どんどん置いていかれる。こういうやり方が子供の成長に望ましいわけがない。
義務教育というのは、すべての生徒が学び、理解すべき内容を含んでいる。最後の一人まで、というのは現実的には無理かもしれないが、せめて、7割、8割の生徒が完全に理解できるまで、工夫をして、援助すべきではなかろうか。
しかし、これらはけっして生徒本人や学校任せにしてはならない。ましてや、塾任せでは到底ありえない。親や地域なども協力して、子供たちの学ぶ意欲に応えるとともに、学ぶ喜びを感じてもらえるような努力が必要であろう。
遠くモンゴルの地に住む小さな少女を通じて、そのことを考えさせられた。

教育基本法案、参院特別委で可決:あきらめずに声を上げよう

2006年12月15日 | 教育
教育基本法「改正」案が参議院の特別委員会で可決された。
今夕にも本会議で可決見通しということだが、まだそのニュースは届いていない。
国の教育の根幹にかかわる重要な法案を、国会の多数決のみをもって強行することは許されない。
この法案に限らず、議会の運営というものは、可能な限り、野党を含めて多数の合意の形成に努力すべきだ。それを無視して与党単独で強行採決というのはいただけない。こういう乱暴な議会運営が続けば、議会で過半数を掌握した政党なり、政党群の主張は何でも通ってしまうことになるし、少数政党は議会では何もできないことになってしまう。
まずは、基本的な議会運営のあり方について、苦言を呈しておきたい。
さて、この教育基本法「改正」案であるが、政府が唯一の「改正」理由に掲げていたタウンミーティングでの「国民の声」なるものの多くが、実はやらせだったことが判明し、安倍首相自身もその責任を取って、3ヵ月間の給与の返上を決めたのではなかったのか。また、内閣府など3省の26人を処分したという。
だとすれば、政府のいう「改正」理由は霧散霧消したことになる。にもかかわらず、今回の強行採決だ。まったく道理がないことは明瞭である。
また、与野党の各政党の推薦者による公聴会でも、24名中13名が「改正」に反対し、今国会で「改正」すべきという意見はたった1名しかいなかった。与党の推薦人でさえ、「改正」には賛成だが、拙速に行うべきではないという意見がほとんどだ。
こういう点から見ても、今回の採決は暴挙以外の何物でもなく、与党の行動には道理がない。
国民は、これからもあきらめずに声を上げていくことが重要だ。今までの努力と今日からの行動が、必ずやこれからの世論や政局を動かす大きな力になるだろうから。

教育基本法「改正」案、直ちに委員会に差し戻せ

2006年11月16日 | 教育
教育基本法「改正」案が、衆院の特別委員会において、自公の与党のみの単独採決によって可決された。
本紙でも、何度も指摘してきたように、この法律「改正」には、愛国心の強要など多くの問題が含まれている。
この法律の成立の過程において、文部科学省による「やらせ質問」が全国各地のタウンミーティングで行われていたことが明らかになり、さらに、全国10ヵ所で開催された教育フォーラムでも「やらせ質問」が行われた可能性が高く、文部科学大臣が委員会において調査を約束した。その直後の採択である。
また、いま問題になっているいじめ問題や履修不足問題では、子供ばかりか校長の自殺者まで出しており、解決の糸口さえ見つけられない状況である。
教育基本法を「改正」すれば、このような問題が解決するのであろうか。
否、この法「改正」によって、ますます、教育現場への締め付けが強まり、自殺件数ゼロなどという報告がまかり通るようになるのは目に見えている。
法案審査の過程で明らかになった「やらせ質問」など、文部科学省の責任を明らかにすることこそが、委員会が真っ先になすべきことである。
今回の教育基本法「改正」案は、直ちに委員会に差し戻すことを強く要望するものである。

<16日夜に追記>
朝、記事を投稿した後にニュースを見ていたら、文部科学省の言いなりに「やらせ質問」をしてくれた人たちには、5,000円の謝礼が支払われていたと報道されていた。この謝礼について、官房長官は「当たり前」と述べていたが、とんでもないことだ。これは、公然とした買収ではないか。選挙でも何でも買収や利益誘導は当たり前という自民党や与党にとっては「当たり前」かもしれないが、税金を使って、自党に有利な発言を強要することに、国民はけっして納得しない。しかも、安倍首相の希望もあって、即刻、衆院の本会議で採択に付すというのだから開いた口がふさがらない。やらせ質問と質問者に対する買収について、明確な回答を行うのが国民に対する責任であることを強調しておきたい。

給食費の不払い-家庭教育はどこに行ったのか?

2006年11月13日 | 教育
最近こまごましたことで、身辺が多忙になり、記事の投稿が億劫になってしまった。
一つひとつの用件は些細なものばかりなのだが、これが積み重なるとなかなか処理しきれなくなってくる。ここ数日間は、こんな状況で「こうして知らぬ間に時間が過ぎ、この積み重ねが人生になるんだな」と、妙に哲学的なことを考えたりした。
貴重な人生である。お互いに有意義な人生を送りたいものである。
さて、先週土曜日にフジテレビで「秋の教育スペシャル!たけしの日本教育白書……」なる番組があり、編集長も雑多な用件を片付けるかたわら、ちょっと覗き見をした。
教師による破廉恥行為や指導力不足などがマスコミで報道されるが、この番組で紹介された最近の教育現場の実態には驚くばかりである。
教員の指導力不足ももちろんあるだろうが、給食費の不払いを堂々と主張する親たちには、呆れるというよりも、怒りすら覚えた。
この親たちが主張するように、確かに給食というのは教育の一環であり、義務教育期間中である小中学校では本来は無料で提供すべきものと編集長も考えている。しかし、現実問題として、その費用の一部(材料費)を保護者が負担する制度がある以上、やはり不払いというのは納得できない。世間には、経済的な理由によって給食費を払えない世帯もあろう。これを責めるつもりは毛頭ない。しかし、テレビに登場した2人の母親は、子供には携帯電話を持たせ、多い月には6万円もの通話料を負担しているという。その一方で、給食費の不払いを続けているのである。
「子供にとって、給食と携帯とどちらが大切ですか」と聞かれた母親は、すかさず「携帯です」と答えている。
また、自分の子供を「学芸会の主役に」と主張する親たちの話も紹介された。配役を決めようとすると、「なぜ私の子供は花の役なのか」、「主人公にして欲しい」という要望が次々と寄せられるそうだ。
そうして、学芸会では、「桃太郎」とは似て非なる、18名の桃太郎が登場する「桃太郎たち」あるいは「桃太郎s」ともいうべき劇が演じられることになるのである。
このような親から、いったいどのような子供が育つのだろうか。社会のルールや常識を守り、他人の立場や気持ちを理解する子供が育つとは到底思われない。利己的で、自らの要求は、たとえ理不尽であっても無理やり、時には暴力をもってしても押し通そうという子供になるのではないか。
最近のいじめ問題でも、いじめる側には、いじめているという自覚はまったくなく、亡くなった子供への罪悪感も瞬時にして消えうせてしまうのだろう。いじめられていた子供が自殺をしていなくなれば、また次のいじめの「標的」を探すだけだ。いじめをしていたと名指しされた子供の親たちも、内心、遺書の中に自分の子供の名前が書かれたことを迷惑に感じているに違いない。本当に自分の子供が取り返しのつかないことをしてしまったと猛省する親はほとんどいないのではなかろうか。そして、そういういじめの事実そのものを徹底的に隠蔽する学校や教育委員会。悲しいことだが、これが教育現場や家庭の実態である。
10年後、20年後に、日本はどんな国になっていて、どんな人間がこの世の中を闊歩しているのだろうか。想像しただけで、気持ちが沈むのは私だけではあるまい。
読者諸兄の身近に住んでいるこういう理不尽な親たちに、地域や学校で批判の声を上げていくことが唯一の解決策であろう。

逆上がりができない子供たち

2006年11月08日 | 教育
鉄棒の逆上がりができない子供が増えているという記事に接した。
埼玉県教育委員会の調査結果では、平成17年度に県内の小学4~6年生を対象に逆上がりの成就率を調査したところ、小6で男子、女子ともに71%であったということである。約20年前の昭和59年度は、男子で91%、女子で93%だったとのことである。20年前と比べて逆上がりができない子供の割合が20%ほど増えている。
全般的に子供の体力が落ちているのがその一因であろう。動く歩道、エスカレーターやエレベーターなどの便利な生活によって基礎体力が失われたのではという意見もあるという。その通りであろう。
子供の遊びも、10年前、20年前とはまったく異なる。
こどもがのびのびと遊べる場所も少なくなり、木登りなどをしようものなら、危ないからと止められる。今では、コンビニの前や公園の片隅に子供たちが集まって、カードゲームやポータブルゲームに夢中になるようなご時世である。親から「外で遊びなさい」と言われるのだろうが、何も外でたむろして、ゲームで遊ぶことはないではないか。
また、学校の対応にも変化があるようだ。かつて、逆上がりは「学習指導要領」に明記され、「すべての子供に指導されなければならない」ものだったそうだが、現在は各学校の判断に委ねられているそうだ。その理由は、「逆上がりには腕力が必要で、体が重い子供ほど体を持ち上げるのが難しく、全員ができるようになるのは難しいため」だそうだ。全員が必ずできることだけを教えるのが教育なのだろうか。できることもあればできないこともある、得手不得手があるが、励ましあってできるように努力することが大切なのだ。
いま、教育基本法の「改正」が国会で論議されているが、愛国心を植えつけるような法改正に無駄な時間を使うのではなく、子供たちに本当に必要な苦労や努力をさせることが大切なのではなかろうか。
私が子供の頃には、逆上がりや縄跳びの二重とび、そして自転車に乗れた時などは、子供なりに苦労はしたけれど、頑張って良かったという満足感、達成感を抱いたものだった。
生活様式が変化したいま、現代の子供たちはどんなことに満足感や達成感を感じているのだろうか?
「ゲームが最後までクリアできた時」などという答えでないことを祈るばかりである。

「国旗」、「国歌」について

2006年09月22日 | 教育
入学式や卒業式で、起立や「国歌」斉唱を定めた東京都の通達について、東京地裁で違憲判決が出た。この判決では、通達に従わない教職員に対し、懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想、良心の自由を侵害する行き過ぎた措置だと断じている。そして、明治時代から終戦まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在でも、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えないとし、教職員が起立や斉唱を拒否しても、式典の進行や、国旗と国歌に対する正しい認識を生徒に教えることを阻害するものではないと述べている。まずは妥当な判決との印象を持っている。
さて、この判決については、賛否両論があるだろうが、今日は、日の丸、君が代についての意見を書いておこう。
日の丸、君が代が法律によりそれぞれ「国旗」、「国歌」と定められたのは1999年であるが、この判決が明らかにしているように、国民の間で「中立的な価値」が認められたとは言えまい。
日の丸は、日本人にとってはあまり違和感がないかもしれないが、アジア諸国民にとっては、やはり日本の侵略行為と切っても切れない存在として記憶されているであろう。しかも問題なのは、アジア諸国民の感情を逆なでするように、総理大臣が靖国神社を参拝し、自衛隊を海外に送るような歴史に逆行する行動が続いていることである。なおさら、日の丸への理解は進まないに違いない。
日本が、先の侵略戦争を心底から反省し、アジアを含む国際社会において、憲法や国連憲章に則った平和原則に従って行動してこそ、日の丸が平和の象徴として世界から受け入れられる日が来るのである。
さて、君が代であるが、こちらは日の丸と違って、歌詞の内容そのものに大きな問題を含んでいる。君が代とは、「天皇が支配する世の中」という意味であり、これが末永く続くようにというのが歌の主旨であり、明治憲法下の世の中なら許されるが、国民主権を標榜する現憲法下では許されない内容である。
また、異説ではあるが、この歌のルーツに関する研究も進んでいる。君が代は古今和歌集の賀歌の冒頭に掲載されているが、作者は不明である。いわゆる「読み人知らず」だ。天皇の世を祝賀し、賛美する第1番目の歌の作者がわからないというのはどういうことだろうか?
古田史学によれば、この歌に登場する「君」とは、現在の近畿天皇家ではなく、7世紀末まで博多湾岸に存在した九州王朝の王(筑紫君という言葉は、天皇家の正史である日本書紀にも登場する)のことであり、この地には、千代(ちよ)町、細石(さざれいし)神社、井原(いわら)山、井原遺跡、苔牟須売神(こけむすひめ)が祭られた若宮神社など、古代より歌詞と関係の深い地名や遺跡、神社が多数残っていることもこの説の根拠となっているようである。なかなか面白い説と思われる。もしそうなら、天皇家は8世紀初頭に日本の支配を確立した後に、博多湾岸で口伝えに歌われていたか、もしくはその地方の権力者の歌集に記載されていたこの「君が代」を拝借して、古今和歌集に「読み人知らず」として転載したと考えられる。
話はそれたが、いずれにせよ、現憲法下では容認できない内容の歌であることは明白である。
また、スポーツの国際試合などで、外国人選手から「今の曲は葬送曲か?」と質問されることも多いと聞いている。それほどリズム感がなく、メロディーも暗い。
したがって、国歌については、改めて日本にふさわしい歌詞やメロディーを公募し、真に国民が親しめる歌を定めることが望ましいと考えている。
卒業式、入学式などで、「国旗」、「国歌」が強制される以前には、教育現場が混乱を来たすことはなかった。それぞれの学校で、生徒や教職員が主役になって思い出に残る式が行われていた。お役所の都合や強制、来賓の希望ではなく、主役である生徒や教職員の気持ちを大切にこれらの式が進められることを希望したい。最後に、東京都が控訴することがないように切望するものである。