時々新聞社

慌ただしい日々の合い間を縫って、感じたことを時々報告したいと思います

公明党がやりました!

2006年09月30日 | 政党
近所を歩いていると、「公明党がやりました!」というポスターを見かけることがある。
地元の議会で、他の政党とともに議案に賛成したことをもって、あれもこれも「自分がやった」と言ってポスターまで貼り出して、厚顔無恥な宣伝をしているのである。
しかし、考えてもみよう。公明党が自民党とともに連立政権を組んでからの7年間、公明党が国政で行ってきたことはどんなことだっただろう。
以下に、7年間の公明党の「実績」を列記しておこう。

<2000年>
3月:年金法「改正」…支給開始年齢を段階的に65歳からに。
11月:健康保険法「改正」…高齢者の1割負担の導入
<2002年>
7月:医療保健法「改正」…サラリーマン本人が3割負担に。
<2003年>
4月:雇用保険法「改正」…失業給付の削減
<2004年>
1月:所得税の配偶者控除の廃止
4月:生活保護費の高齢加算の削減
6月:年金法「改正」…「100年安心」どころか、たちまち綻びが…
<2005年>
1月:所得税の年金控除の削減、老年者控除の廃止
4月:生活保護の母子加算の削減
6月:住民税の配偶者特別控除の廃止
6月:介護保険法「改正」…サービスの切捨て、自己負担の増加
10月:障害者自立支援法成立…自己負担の増加(定率1割の利用料)
<2006年>
1月:所得税の定率減税半減
6月:住民税の定率減税半減、住民税の公的年金控除の削減、高齢者の非課税限度額の廃止
6月:医療法「改正」…埋葬料の減額など

いずれも、国民いじめの増税、負担増ばかりである。
本当に増税や負担増が必要なら、そして、それが日本の社会を良くするものと確信しているのなら、正々堂々と理由を述べて、自らの「実績」を主張すればよいではないか。ところが、実際には、こういう「実績」には頬かむりをしながら、路地裏には、姑息なポスターを貼り出すのである。
もし、公明党が国民に対して少しでも誠意を持っているのなら、こういう項目を並べて、「公明党がやりました!」と堂々とポスターを貼り出してほしいものである。

同盟国からも説教される安部新政権

2006年09月29日 | 政治問題
ライス米国務長官が、26日のラジオのインタビューで日中両国関係について問われて、「歴史を克服するのは難しいが、過去に歴史問題があったことを認めてこそ未来に進んでいける」と述べたと伝えられている。誠に卓見としか言いようがない。
日本が本当に過去の侵略戦争を反省したうえで外交を進めることを、同盟国からも要求されるほど、日本の外交はお粗末なものとなっている。
ライス長官はさらに「日中両国が巨大な貿易関係をもち、隣人として、北朝鮮核問題など多くの共通の課題に直面している」とし、現状のままでは北朝鮮核問題の解決ははなはだ心許ないことを指摘している。
このような指摘は、ライス国務長官だけにとどまらず、同盟国アメリカでは当たり前の認識になっている。
27日付のニューヨーク・タイムズでは、「安倍晋三のアジアにおける課題」と題する社説を掲載し、安倍新首相は日本の繁栄と安全保障にとって最重要である中国との外交関係を再構築すべきだと主張したという。また、同紙は「前首相と同様の支持と成功を得たいなら、過去の失政を大胆に捨て去る必要がある」として、「小泉純一郎氏(前首相)が挑発的に繰り返した靖国神社参拝をやめると宣言することが第一歩だ」と指摘したことが報じられている。小泉前首相が支持と成功を得たと言う点については、編集長には極めて疑問であるが、小泉前首相の靖国参拝によってガタガタになった日本と中国、アジアとの関係を同盟国であるアメリカのマスコミからも批判を浴びているのである。
また、25日付のワシントン・ポスト紙でも、「過去をごまかすことでは(安倍氏は)小泉首相より上だ。安倍氏は東京裁判の正当性を疑問視してきた」と述べ、「新首相は歴史に誠実でなければならない」、「過去の誤りを認めないなら責任ある民主主義として受け入れられない」と厳しい指摘を行っている。
さらに、安倍政権発足直前には、米下院外交委員会のハイド委員長が「事実に基づかない靖国神社の歴史観は是正を求める」と発言し、次期委員長の噂のあるラントス議員も「ナチス指導者に花輪を捧げるようなもの」と厳しい批判の声を上げているのである。
本紙で指摘したように、安部首相も官房長官時代にコッソリと靖国神社を参拝してきた人物であり、こういう人物がまともなアジア外交を築けるはずはないのである。また、大変残念なことであるが、中国を通じてしか北朝鮮と外交ルートを持たない安倍政権にとって、このような状態では、北朝鮮の拉致問題でも前進を築くことはほとんど期待できないと思われる。

人のために生きるということ

2006年09月28日 | その他
めっきり涼しくなり、いきなり風邪をひいてしまった。そのせいで、記事の更新も、「時々」になってしまった。まぁ、発行時の原点に戻ったということかもしれない。
さて、体調がすぐれないので、何となくテレビをつけたら、何の番組だか知らないが、富士山測候所に長年にわたって勤務し、富士山頂での滞在記録を持っているという人がテレビに出ていた。
1年のうち3分の1を富士山頂で、残りを地上で過ごすような生活だったそうで、過酷な勤務の中で遭難のために同僚を何人も失い、それでも気象観測を続け、日本の気象予報に貢献できたことへの誇りを語っていた。
番組の途中だったので、わずか10分ほどしか見られなかったが、この人が番組でさりげなく語った一言が大変印象に残った。
「人は人のために生きるようになっている。」
なかなか素敵な言葉ではないか。
人は、日々の生活の中で、「人のために生きている」ということを意識することは少ない。しかし、よく考えてみると、家族や友人、同僚などから必要とされていると感じられてこそ、日々の生活に喜びや張り合いが生まれるものであろう。
最近は、殺人、傷害、窃盗、詐欺など殺伐とした事件も多いが、この背景には、家族や同級生、同僚など、身近な人から必要とされていないのではないか、むしろ疎まれているのではないか、と感じている人たちが多くなったことが背景にあるのかもしれない。あるいは、若い人たちの自殺も増えているが、この背景も同じかもしれない。
人は、こういう行為に手を染めるまで追い詰められた時に、通常、その行為に伴う家族や友人の悲しみ、困惑などに思いを馳せるだろう。しかし、その歯止めがなくなってしまうと、人は人でなくなってしまうのである。
最近は、家族や友人のみならず、隣近所といったコミュニティとの関係なども希薄になっているが、編集長は、コンピューターゲームやインターネット上での仮想社会の広がりに大きな一因があると考えている。
また、最近顕著になってきた異常なまでの「拝金主義」も、利己主義を助長し、「自分さえ良ければ・・・」、「他人がどうなろうと関係ない。」という風潮を生み出しているのではなかろうか。
本紙でも、格差社会や国家破綻に関する記事の中でも書いてきたが、読者諸兄が自分の生活を守るという狭い発想ではなく、広く社会に目を向けて、考え、行動することを希望するものである。
「人は人のために生きている」という言葉を頭の片隅に記憶いただき、自分の行動のどこが人のためになっているのか、どのような行動がより人のためになる行動なのかを絶えず自問自答しながら生きてほしいと思っている。

高額所得者に大増税を

2006年09月23日 | 経済問題
サラリーマン、OLの所得税と住民税を合わせた現行の最高税率は50%である。
この数字を見ると、「そんなに税金を取られたら働く意欲がなくなる」という意見もわからなくはない。しかし、以下の説明をよく読んでいただければ、一般庶民にとってはまったく関係のない税率だということがおわかりいただけると思う。
この50%という税率について誤解している人がいるので、ちょっと説明しておこう。
最高税率が50%だからといって、何も半分が税金で持っていかれるわけではない。最高税率が適用されるのは、さまざまな控除を除いた課税所得が1800万円超の人だけであり、しかも、このうち50%の税金がかかるのは、1800万円を超えた部分、すなわち、もし課税所得が2000万円であれば、50%の税金がかかるのは、200万円(2000万円―1800万円)についてだけである。
1800万円までの課税所得については、もっと低い税率が適用される。
課税所得(額面の収入ではない!)に対する所得税率と住民税率を一覧表にしておこう。
<所得税>
300万円以下の部分:10%
300万円~900万円以下の部分:20%
900万円~1800万円以下の部分:30%
1800万円超の部分:37%
<住民税>
200万円以下の部分:5%
200万円~700円以下の部分:10%
700万円超の部分:13%
したがって、現在では、実際に半分を税金で持っていかれる人は存在しないのである。
1983年以前には、所得税は19段階にも細分化され、所得税だけで最高税率は75%であった。その後、資産家優遇の税制「改革」が行われ、現在のような税率になったのである。
現在の税率は、1999年から適用されているが、それ以前(1998年以前)と現在で、サラリーマンの税率はどのように変化したのだろうか?
課税所得10億円:60.8%→47.0%(50%に近い税率)
課税所得3億円:58.6%→45.8%(50%に近い税率)
課税所得1億円:52.3%→42.4%
課税所得3千万円:32.4%→30.6% … 日銀総裁くらいの課税所得
課税所得1千万円:11.3%→11.3%(変化なし)… 庶民には関係なさそうだが。
1999年の税制「改革」によって、減税の恩恵を受けたのは、課税所得(繰り返し言う、額面の年収ではない!)1億円以上のサラリーマンだけである。
課税所得3千万円の超高給取りでさえ、減税の恩恵はわずか2%足らずにすぎない。ましてや、課税所得1千万円のサラリーマンでさえ、この時の税制「改革」の恩恵はまったく受けていないのである。
テレビの街頭インタビューなどで、編集長と同様にたいした年収もなさそうなサラリーマンが、「所得税の最高税率が50%なんてとんでもない。そんなに税金を持っていかれたんじゃ、働く気がしない」などというセリフを吐いている姿を見るが、「無知」ほどお気の毒なものはない。
所得が1億円を超えるような高額所得者に相応の税負担を課すことに、国民はためらってはならない。「高額所得者に大増税を!」この声が国民の中に広がることを願っている。

「国旗」、「国歌」について

2006年09月22日 | 教育
入学式や卒業式で、起立や「国歌」斉唱を定めた東京都の通達について、東京地裁で違憲判決が出た。この判決では、通達に従わない教職員に対し、懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想、良心の自由を侵害する行き過ぎた措置だと断じている。そして、明治時代から終戦まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在でも、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えないとし、教職員が起立や斉唱を拒否しても、式典の進行や、国旗と国歌に対する正しい認識を生徒に教えることを阻害するものではないと述べている。まずは妥当な判決との印象を持っている。
さて、この判決については、賛否両論があるだろうが、今日は、日の丸、君が代についての意見を書いておこう。
日の丸、君が代が法律によりそれぞれ「国旗」、「国歌」と定められたのは1999年であるが、この判決が明らかにしているように、国民の間で「中立的な価値」が認められたとは言えまい。
日の丸は、日本人にとってはあまり違和感がないかもしれないが、アジア諸国民にとっては、やはり日本の侵略行為と切っても切れない存在として記憶されているであろう。しかも問題なのは、アジア諸国民の感情を逆なでするように、総理大臣が靖国神社を参拝し、自衛隊を海外に送るような歴史に逆行する行動が続いていることである。なおさら、日の丸への理解は進まないに違いない。
日本が、先の侵略戦争を心底から反省し、アジアを含む国際社会において、憲法や国連憲章に則った平和原則に従って行動してこそ、日の丸が平和の象徴として世界から受け入れられる日が来るのである。
さて、君が代であるが、こちらは日の丸と違って、歌詞の内容そのものに大きな問題を含んでいる。君が代とは、「天皇が支配する世の中」という意味であり、これが末永く続くようにというのが歌の主旨であり、明治憲法下の世の中なら許されるが、国民主権を標榜する現憲法下では許されない内容である。
また、異説ではあるが、この歌のルーツに関する研究も進んでいる。君が代は古今和歌集の賀歌の冒頭に掲載されているが、作者は不明である。いわゆる「読み人知らず」だ。天皇の世を祝賀し、賛美する第1番目の歌の作者がわからないというのはどういうことだろうか?
古田史学によれば、この歌に登場する「君」とは、現在の近畿天皇家ではなく、7世紀末まで博多湾岸に存在した九州王朝の王(筑紫君という言葉は、天皇家の正史である日本書紀にも登場する)のことであり、この地には、千代(ちよ)町、細石(さざれいし)神社、井原(いわら)山、井原遺跡、苔牟須売神(こけむすひめ)が祭られた若宮神社など、古代より歌詞と関係の深い地名や遺跡、神社が多数残っていることもこの説の根拠となっているようである。なかなか面白い説と思われる。もしそうなら、天皇家は8世紀初頭に日本の支配を確立した後に、博多湾岸で口伝えに歌われていたか、もしくはその地方の権力者の歌集に記載されていたこの「君が代」を拝借して、古今和歌集に「読み人知らず」として転載したと考えられる。
話はそれたが、いずれにせよ、現憲法下では容認できない内容の歌であることは明白である。
また、スポーツの国際試合などで、外国人選手から「今の曲は葬送曲か?」と質問されることも多いと聞いている。それほどリズム感がなく、メロディーも暗い。
したがって、国歌については、改めて日本にふさわしい歌詞やメロディーを公募し、真に国民が親しめる歌を定めることが望ましいと考えている。
卒業式、入学式などで、「国旗」、「国歌」が強制される以前には、教育現場が混乱を来たすことはなかった。それぞれの学校で、生徒や教職員が主役になって思い出に残る式が行われていた。お役所の都合や強制、来賓の希望ではなく、主役である生徒や教職員の気持ちを大切にこれらの式が進められることを希望したい。最後に、東京都が控訴することがないように切望するものである。

日本という社会の本質を見極めよう

2006年09月21日 | 政治問題
今までにいろいろと記事を書いてきたが、それぞれの政治的あるいは社会的な事件、事象の本質をなす日本と言う国の社会体制について論じておきたい。
ソ連が崩壊するまでは、世界を資本主義と社会主義の対立として描く論評が多かった。少なくとも、資本主義とは何か、社会主義とは何かということを各論者が(その認識の内容に差はありつつも)念頭に置いて論じられてきた。
ところが、ソ連崩壊後は、資本主義、社会主義という社会体制の決定的な違いさえ理解しない論調が生まれ始めている。(もっとも、ソ連という国が社会主義国だったのかどうか、編集長は大いに疑問を持っているが。)
いくつかのhomepageやブログでは、「日本は社会主義国になってしまった」という記載さえなされている。この論者によれば、銀行などを国有化しているから、日本は社会主義国だというのである。
社会体制というのは、どういう階級が生産手段(土地、工場、機械、原材料など)を所有し、権力を握り、どういう階級を支配しているかによって定義されるものである。
資本主義体制とは、一握りの資本家階級が生産手段を所有し、労働者を働かせ、その生産物を搾取するとともに、中小業者などを収奪する社会体制であり、社会主義体制とは生産手段を社会的に所有する社会体制である。
資本主義社会では、資本家階級が自らの言いなりになる政党を育成、支配し、資本家にとって都合の良い法律、教育、税制、経済的な仕組み、マスコミへの支配等々を作り上げている社会である。
銀行に税金をつぎ込んで、国有化したことをもって資本主義体制はけっして崩壊しないのである。それどころか、放漫経営によって膨大な不良債権を抱え込んで倒れかけた銀行資本に、国民の血税をつぎ込み、経営者の責任はうやむやにしたまま、これを立て直し、その支配を再び資本家に委ねた行為は資本主義の経済体制の延命を図るという資本家、財界の要求そのものである。
高度経済成長の最中には、さまざまな公害問題なども起こった。有害な廃液の垂れ流し、工場の煤煙などによって、国民に大きな健康被害を与えてきた。イタイイタイ病、水俣病、六価クロム、四日市喘息、光化学スモッグ、種々の薬害事件のほか、つい最近もアスベスト問題や原発問題、産業廃棄物などのゴミ問題、自然破壊も然りである。こういう事件は枚挙に暇がない。政府も公害企業も種々の法律に守られて、国民からの批判の声に押されて何十年もかかった後にしぶしぶ救済の手を差し伸べる。これが資本主義社会の本質である。
はっきりと言っておこう。日本は、純然たる資本主義社会であり、少なくともヨーロッパなどに比べて大企業に対する規制が極めて不十分な資本主義社会である。
資本主義社会は、生産手段を所有する少数の資本家が、多数の労働者やその他の階層を支配する社会であるため、非常にムダの多い非効率な社会体制である。財界は、その支配を維持するために、支配の請負人である政党の代議士、企業の管理職などに多少高額な報酬を与え、おだて上げ、企業活動への忠誠を誓わせるとともに、労働組合運動やさまざまな社会運動を妨害し、国民の階層間の分断を図り、資本主義体制の延命のために躍起になっているのである。
そして、長期的に見ると国民の支持が失われつつある自民党に代わる資本主義政党として、民主党の育成に取り組んでいるのである。資本主義を擁護する2大政党制の実現、そのための小選挙区制の導入も、財界が戦後からずっと準備して実現してきたことである。
今の日本は、資本主義社会であるが故の矛盾がさまざまな形で噴き出している。この資本主義に変わる新しい社会体制について、国民の間に、積極的な討論が巻き起こることを期待したい。
今日は誌面が尽きようとしている。日本の歪んだ資本主義の実態やソ連「社会主義」とは何だったのか、中国などはどんな社会を建設しようとしているのかを、稿を改めて検討したい。

扶養家族手当は不要なのか?

2006年09月20日 | 経済問題
以前は、給料の明細をみると、本人給、扶養家族手当、住宅手当、通勤手当などが支給されるのが当たり前であった。
本人給は年功や本人の能力(キャリア、実績)を加味して計算され、企業によっては別に「資格給」、「能力給」などを別に計算する企業もあった。残りの手当は読んで字の如く、家族、住宅、通勤費に対する手当である。
ところが、最近は、年齢に関係なく、本人の能力のみを評価した本人給と通勤手当のみが支給され、他の一切の手当は切り捨てられる傾向がある。
今回は、この手当のうち、扶養家族手当、住宅手当について考えてみたい。
ここに、同年齢で、同程度の能力をもつと評価されている2人のサラリーマンAとBに登場してもらおう。Aは結婚して子供が3人いるが、Bは独身である。
最近の傾向によると、この2人の給料は、ほぼ同額である。
同じ労働をしているのだから、2人の給与が同じであるのは当たり前という考え方は、一定の説得力を持っている。
しかし、最近の少子化問題を考慮すると、事態は一変する。
Aは、Bと同じ給料でありながら、社会にとって重要な次の世代を養っている。これは、一企業という観点からみると、現時点でAが子供を何人育てようと何のメリットもないが、企業集団で考えると、Aの子育ては、将来のいずれかの企業で働く人材を育てていることになる。一方、Bは、将来の社会に何のメリットも及ぼさない。
したがって、企業集団で考えれば、Aの子育ては大変重要な意味を持つことになる。
少子化問題を解決するために、政府はさまざまな形で税金を投入しようとしているが、これも一つの解決方法ではある。子供のない人の税金が子育てに使われるので、子供のいないBの税金がAの子育てに使われることになるからである。
しかし、考えてもみよう。今までは、一つひとつの企業が、子育てのために必要な扶養家族手当、住宅手当を支払っていたが、各企業がこれらの手当を支払わなくなったので、今度はそれらを国が税金で賄うことになる。これはおかしい。
もし、国が税金で子育て支援を行うのなら、能力給なる都合の良い給与体系を構築し、これらの経費を削減してきた企業がこれらの経費を負担するのが当たり前ではないか。
個々の企業をみると、確かに自社の社員が子供を何人育てようが何のメリットもないが、こうして育てられた子供たちに必要な教育を施し、企業に送り出すことは、企業全体にとっては大変重要なことなのである。
この数年の間に、企業は「能力給」という企業にとってすこぶる都合に良い制度をもっともらしい理由(同一労働、同一賃金)を付けて進めてきたが、この誤りは明白であろう。
政府が進める少子化対策の基本には、企業が子育てに対して必要な金銭的補助を行うことを盛り込む必要がある。もし、企業が現行のような能力給制度をそのまま続けるのであれば、政府は、そういう企業に対して何らかの形で増税を行い、その税金を子育てのために使うべきである。
今までも他の記事で述べてきたように、現在の政府、与党は財界擁護政党として、財界の応援を受けて存立してきた。ゆえに、この間に企業が進めてきたこの扶養家族手当、住宅手当の削減を容認してきたのである。
多くのサラリーマン諸兄が、この矛盾に気づき、労働組合などが、扶養家族手当や住宅手当の復活のために奮闘することを期待するものである。

医療費はもっと削減できる

2006年09月16日 | 医療・社会保障
国民医療費は、年間30兆円を超えている。
このうち薬剤費の占める割合は、約2割と言われている。
ここで、日本の主な製薬会社の売上げと経常利益を見てみよう。
恐るべき利益率である。
製薬企業の売上げ高(経常利益)
武田薬品:1兆2,300億円(4,860億円)、アステラス製薬:9,000億円(1,840億円)、エーザイ:6,400億円(1,040億円)、中外製薬:3,100億円(540億円)、大正製薬:2,660億円(450億円)、大日本製薬:2,600億円(400億円)、塩野義製薬:2,100億円(310億円)、テルモ:2,600億円(540億円)、田辺製薬:1,720億円(280億円)
売上げの2~3割が経常利益である。こんな産業は世界中どこを探しても存在しない。
薬価制度、保険制度という「規制」に守られて、保険財政を食い物にしている実態が表れている。
これに対して、新薬の開発に莫大な費用がかかり、海外の製薬会社との競争力を維持するためなのでやむを得ないというのが、厚生労働省の言い分である。
毎年のようにこのような高利益をたたき出しながら、まだ開発費用が足りないと言うのなら、経営者は無能のそしりを免れないであろう。
製薬会社の社員の高給もよく知られている。MRと呼ばれる営業社員は、40歳で軽く1,000万円を超える給料を受け取っている。以前に、銀行マンの高給が問題になったが、これとさほど違わないくらいの高給が保障されているのである。
また、日本の薬剤費に占める新薬の比率は80%以上であり、欧米の50%と比較して異常に高率となっている。新薬には特許が保障され、特許期間中は独占販売となるため、開発費用は十分に回収でき、結果、前述のような製薬会社の高収益が保障されるのである。特許が切れるとジェネリック医薬品と呼ばれる後発品が登場し、新薬の売上げはガタ落ちになる。欧米では、この特許切れの低価格の医薬品が市場に出回るため、薬剤費を大幅に削減できる。ところが、日本の場合、後発品を処方する医師が少ないため、ジェネリック医薬品の普及が進まないのである。
医師がジェネリック医薬品を処方したがらない理由は2つある。一つは品質が信用できないという理由である。しかし、ジェネリック医薬品も厚生労働省によって認可された医薬品であり、品質にそれほどの違いはない。事実、欧米では新薬の特許が切れると直ちにジェネリック医薬品に切り替えられ、効果や副作用には何の問題もなく使用されている。もう一つの理由は、医師が患者の医療費負担に無関心なことである。高給を貰っている医師にとっては、患者が窓口でいくら薬剤費や医療費を負担しようが知ったことではないという意識があることである。
ジェネリック医薬品の普及により、患者の経済的な負担は大幅に軽減することができ、同時に保険財政も相当改善するはずである。
また、開発費用などを算定根拠として新薬の薬価が決められるため、新薬の薬価が異常に高いことも問題である。従来までは、2年に1度の薬価改定であったが、今後はこれを毎年改定する方向が打ち出されているが当然であろう。
さらに、医師が治療上必ずしも必要でない薬剤を大量に処方することも問題である。読者諸兄の自宅にも、医師から処方された飲み残しの薬剤が救急箱の片隅に残っているのではなかろうか。このような飲み残しの薬剤は、薬の品質が保証できないため、誤って家族が服用したりするととんでもない事故を招く恐れもある。
この機会に薬というもののあり方を見直し、医療費の削減の一助になるような使い方がなされることを切に希望するものである。

侵略行為に未来はない

2006年09月14日 | 憲法・平和問題
タイトルをご覧になった方は、最近のレバノン情勢に関する話題と思われたかもしれないが、実は、NHK大河ドラマ「功名が辻」を見ていて書き始めた記事である。
ご存知のとおり、日本の統一を成し遂げた秀吉は、朝鮮「征伐」に乗り出した。いわゆる文禄・慶長の役である。日本の社会科や歴史の教科書には、「征伐」という言葉が使われているが、朝鮮にとっては、別に日本に征伐される理由はまったくなく、突然に襲来した日本軍による不法な侵略行為であったことは明瞭なので、読者諸兄には、これからは朝鮮侵略と呼んでいただきたい。
この侵略行為は、散々の結果に終わった。それだけではない。この敗戦が、豊臣政権を弱体化させる一方で、朝鮮侵略に一人の兵も送らず、兵力と財力を温存した徳川家康の台頭を許す結果になったことは明瞭である。秀吉が7年にも渡る無益な朝鮮侵略などをやめて、国内経営に力を注いでいれば、おそらく徳川の出番はなかったのではなかろうか。
さて、朝鮮半島に侵略行為を行ったのは、実は秀吉が初めてではない。日本は、弥生から古墳時代にかけてすでに朝鮮半島南部に領土を持ち、任那日本府などを置いていた。そして、663年には、日本-百済連合軍が、唐-新羅連合軍と朝鮮半島での覇権を争い(白村江の戦い)、日本は壊滅的な打撃を被っている。古田史学によれば、この戦いで敗れたのは博多湾岸に本拠を置く九州王朝であった。九州王朝は、この敗戦の痛手により一気に弱体化し、8世紀初頭からはこの戦いに兵を送らなかった新興勢力である大和政権にその座を譲ることになったのである。現在の近畿天皇家の世界舞台への登場である。近畿天皇家は、白村江で唐-新羅連合軍と戦わなかったからこそ、その後、唐との間に遣唐使という友好関係を築き得たのである。
古くからこのような貴重な歴史的経験を持ちながら、日本国民というのはどうも懲りない国民なのかもしれない。1910年には韓国を不法に併合し、その後、太平洋戦争の終結まで、アジア諸国に対して長く侵略行為を続けてきたのである。その結果については、ここに述べるまでもあるまい。
また、アメリカによるベトナム侵略、旧ソ連によるアフガニスタン侵略など、他国に対する侵略行為はいずれも破綻の憂き目を見ているのである。
どのような理由よるものであろうと、他国に対する侵略行為は許されない。そして、侵略国には、いつも悲惨な未来が待ち受けていることを、歴史からしっかり学ぶべきである。

格差社会は当然?

2006年09月12日 | 格差社会
格差社会に関するブログなどを見ていると、議論の本質を履き違えて、「格差があるのは当たり前」などという的外れな主張を行っているものがある。
編集長も、まったく格差のない社会、万民が平等な社会というのはあり得ないと思っている。万民が平等な社会なんて、想像しただけでも気味が悪くて仕方がない。
いま、世間で議論になっている「格差」問題というのは、格差の存在の是非、善悪や漠然とした格差の広がりを論じているのではなく、以前から存在した格差が、この10年の間にどんどん拡大し、日々の生活にさえ困窮する家庭、義務教育さえ普通に受けられない子供たち、正規社員として就業できない青年たち、再就職できない一家の大黒柱、医療や介護も受けられない老人たち、100万世帯を超えた生活保護世帯など、人間としての最低限度の生活さえ保障されず、もはや個人の努力などでは解決不能な例が増大していることについて、多くの良識ある国民が懸念を表明しているのである。
以前は、徴収された税金が、教育や医療、福祉などに使われ、一定の格差の縮小が行われてきた。しかしながら、所得税の最高税率の引き下げ(75%→37%)、法人税率の引き下げ、マル優の廃止、消費税の導入、相続税の軽減など、所得の再分配機能を低下させる政策が次々に実行されたことが、格差を拡大する最大の原因になってきたのである。
本紙において何度も論じてきたように、労働市場での規制緩和によって非正規雇用者が増加し、今や3人に1人が、派遣社員、請負、フリーターなどの非正規雇用者であり、その年収は正規雇用者の数分の1の水準である。この規制緩和で、富を集積してきた企業に対して、必要な規制を行わない限り、格差は絶対に縮小しないのである。
自民党の杉村太蔵などは、自らのブログの中で、「ニートやフリーターが増えるのも小泉改革の責任だって。 えっ、マジかよ?」などと述べているが、このような認識では、現在の格差の広がりを是正することはできないのである。
冒頭に述べたように、相応の所得格差が生まれることを編集長は否定しない。しかし、現状のように、人間としての最低限度の生活さえ確保されない人たちが多数存在する社会はあまりにも異常ではないか。このような異常なまでの格差は子供の世代に引き継がれ、階層が固定化され、教育や職業選択の機会均等さえ保たれない。人生のスタートはできる限り平等であるべきだ。にもかかわらず、生まれた時から人生に希望が持てない社会というのはいかがなものであろう。これでは逆に、労働意欲も減退し、社会の活力も失われるのではあるまいか。
格差是正のためには、まず低所得者層の底上げが必要である。そのためには、企業に対する規制を強化し、正規労働者の雇用の促進、サービス残業の根絶、残業時間や労働時間の大幅短縮、最低賃金の引き上げなどを企業の社会的責任として、法的に規制して実行させることである。トヨタなどで行われていた違法な偽装請負などはつい最近厚生労働省が行政指導を行い、解決への道筋ができたではないか。これらのことはやる気があればすぐにでもできることばかりである。
また、ホームレスや障害者、母子家庭、病人などの社会的弱者に対しては、さらにきめ細やかな施策を講じる必要があることは言うまでもないことである。
さらに、付け加えるならば、この10年間にわたって、このような愚策を推し進めてきた自民・公明の連立与党の責任を広く明らかにし、今後のあらゆる選挙では、このような政党には絶対に1票を投じないことである。国民の良識ある態度に期待したい。

格差社会への対応

2006年09月10日 | 格差社会
昨夜のテレビ朝日で放映された「緊急特番!!仰天格差社会ニッポン!」という番組を見た。
それなりに、現代社会の矛盾を告発する内容になっていたが、結論はどうもいただけない。
番組の中で、森永卓郎が今のような格差社会が出現した原因について、以前は派遣労働に対する業種が特定されていたが、その後の規制緩和、派遣労働法の「改正」によって、一般事務労働はもとより製造現場にいたるまで、ほとんどの業種に拡大されたことが述べられていた。
以前にも本紙の中で格差社会について論じたことがあるが、規制緩和の名の下に、派遣労働があらゆる業種に認められるようになったことが、現在の賃金格差、収入格差の根本的な原因である。
収入の格差はそのまま結婚や子供の教育、健康、老後の生活資金などの格差につながっていることは明瞭であろう。
これに対して、番組が提供した答えは、余りに貧弱なものであった。
女性のコメンテーターは、生活保護制度を取り上げ、それを就労や教育支援などのバックアップ機能を兼ね備えたものにする必要があると主張していた。この主張には、一定賛同できるものがあるが、そもそも、生活保護などがなくても自立できる、働く意思のある者がきちんと正規職員として働けるような社会の仕組みを作ることが重要なのではなかろうか。
また、都会のサラリーマン暮らしを捨て、田舎で自給自足に近い農業に取り組み、年収300万円でも豊かな生活が送れるという例が紹介されていた。この例などは、森永氏の著書(「年収300万円時代の経済学」)に対応した内容である。
確かに、豊かさというものは、経済的な基盤によってのみ成り立つものではなく、編集長もこうした田舎生活に憧れている一人である。しかし、個人の努力や工夫によって、格差社会を乗り切れるという主張には賛同しがたい。
このような格差が生まれた最大の原因は、森永氏も主張しているように、規制緩和によって、派遣労働の業種をどんどん拡大し、さまざまな業種で企業が安い労働力をふんだんに利用できるようになったことが最大の原因である。また、偽装請負など、違法な派遣労働を野放しにしていることに最大の原因がある。「規制緩和」という言葉を聞くと、庶民の多くは何か新しいことが行われると期待をするが、この労働者派遣法の実態は、企業の儲けにとって不要あるいは邪魔な「規制」を撤廃しただけの話であり、賃金の切り下げに道を開いた最悪の法律「改正」であったことは間違いない。
読者諸氏は、ボトム10という言葉をご存知だろうか。ある外資系企業では、能力主義を導入し、成績評価の悪い(言い換えれば、会社にとって都合の悪い)10%の社員に露骨な退職干渉などを行っている。個々人が努力しても、社員全員が平均点以上の成績を取ることは理論上まったく不可能である。ボトム10を退職させた後には、また新たなボトム10が出現し、退職を強要されるという悪循環を生むのである。
したがって、個人の努力次第で、年収が下がっても生活できるなどという番組の結論はどうもいただけないのである。
個々の国民は、自らの努力や能力開発を怠ってはならない。それは当たり前である。しかし、多くの国民が、現在の格差社会に矛盾を感じているのなら、規制緩和の名の下に行われてきた派遣労働、不安定雇用を元に戻して、企業に対する規制強化を改めて行うよう政府に要求することなくして、現在の格差社会を解決することは不可能であろう。

小沢主義(オザワイズム)の正体

2006年09月08日 | 政党
民主党の小沢代表が、「小沢主義(オザワイズム)」という本を出版した。
小泉内閣が進めた構造改革について、「セーフティーネットの対策を講じていない」として、それを批判する一方で、「構造改革」路線そのものについては、「改革とは最初から痛みや犠牲を伴うものと決まっている。痛みを伴わない改革はどこにもない」と主張し、この路線を擁護している。
小泉内閣による構造改革によって、財界や大企業は、不良債権という重荷を降ろし、そのしわ寄せをすべて庶民になすりつけてきたわけだが、以前より、規制緩和、民営化、民間開放の数値目標を自民党と競い合ってきた民主党の党首として、これによって生じた庶民の痛みを感ずる心はあいにく持ち合わせていないようである。
外交についてはどうだろうか。
小泉内閣を「無批判な対米追従政治」などと批判する一方で、「最も重要なのは日米関係」などと述べ、支離滅裂な主張しかできないのである。今そして今後ますます、日本経済の中で重要性を増しているのは、中国や東南アジアなどアジア諸国であろう。小泉内閣が破壊したアジア外交をどのように立て直していくのか、その展望が語れない姿は、哀れと言うしかない。
靖国問題については、「中国や韓国が繰り返している批判には同調するつもりはない」などと述べ、アジア諸国の人たちの過去の苦難やアジア地域の平和を願う多くのアジアの人たちの心を理解することはないのである。
2大政党制については、「政権交代のないところには真剣な政策論争も起こりえない」などと述べているが、自民党と政策がまったく同じなのだから、政策論争などはもとより起こり得ないのである。そして、小選挙区制という得票率と議席数が比例しない最悪の制度、この非民主的な制度の成立を自らの「成果」と自慢する始末である。
安倍官房長官が総裁選への出馬を表明した9月1日に合わせて出版された本であるが、奇しくも、自らが自民党と同じ政策しか持ち合わせていないことを露呈しているだけの内容になっているのである。

コインコレクターのつぶやき(2)

2006年09月06日 | コイン収集など

編集長の趣味の一つであるコインの収集について、思いつくままに書いていこう。
1)他山の石
コインに限らず、すべてのコレクターに共通することであるが、他人のコレクションというのは大変参考になる。コインコレクションに関連するhomepageを見ると、コレクターの誠実さが伝わってくるようなもの、見事な未使用品の年代別コレクション、数は少なくてもこれこそがコレクションだというものなど見ていて飽きない。その一方で、ガラクタを羅列してホームページや元の所有者を自慢したものまであって思わず失笑してしまうものもある。一般に、コレクターというのは自分のコレクションに思い入れがあるが、絶えず謙虚に自分のコレクションを眺めることが大切である。
2)コインコレクターのタイプ
コレクターは、どういう種類(国、年代、材質など)のコインを集めるかという違いはあるが、これ以外にも大きな違いが存在する。質を重視するタイプと量を重視するタイプである。
回りにギザギザのある10円、いわゆる「ギザ10」や明朝体の5円玉、通称「筆五」などを年号別に何十枚、何百枚も集めている人がいる一方、世界の現行貨幣を片っ端から集めている人など、とにかく大量に集めている人がいる。一方で、枚数は少なくても本当に状態の良いものに絞ったコレクションをしている人もいる。他人から見るとわけがわからないだろうが、コレクターから見るとどちらの心理も痛いほどわかるのである。編集長は、世界の大型銀貨の国別収集なので、どちらかというと数多く集めているが、できる限り未使用で、変色などのない銀貨にこだわりを持って収集している。50年後、100年後に、子孫の一人でも興味を持って見てくれると幸いである。
3)1980年以降の記念コインの氾濫
戦後発行された銀貨の多くが記念銀貨である。特に、1980年以降は、記念銀貨が一段と氾濫したように感じられる。
1980年以前は、たとえばオリンピックの記念銀貨なども1枚、2枚と発行される程度であったが、最近は、開催国でもない国が開催年の1年くらい前から何10枚も発行し、これが終わってしばらくすると、2年後の冬季オリンピックの記念銀貨が発行されるという具合だ。
最近は、阪神の優勝記念、ポケットモンスター、キティちゃん、ウルトラマンの銀貨など、話題性はあるが、収集対象としては疑問を感じるような記念コインも多い。
切手も、1980年頃から大量に発行されるようになり、切手コレクターから非難の声が上がったが、コインについても、世界各国から「売らんかな」の大量発行が続き、その傾向はますますエスカレートしているように思われる。コレクターというのは、この程度までなら収集できそうだという限度があればコレクションにも身が入るが、際限がなくなると逆に収集意欲を失うものである。したがって、こういう大量発行を続ければ続けるほど、コレクターが減少することになぜ気づかないのだろうか。猛省を促したい。

きかんしゃトーマスの運転

2006年09月04日 | ミニSL
以前に本紙の中で触れたことがあるが、編集長の親父はミニSL作りを趣味としている。このうち、バッテリーで動く電動ライブのきかんしゃトーマスなど6台が我が家にあり、たまに、近所の公園などで走らせて楽しんでいる。
写真は、近所の公園での運転風景である。
運転会になると、いつも、SLファンの青年たちが応援に駆けつけてくれ、運転手や乗客整理などを手伝ってくれるので、大助かりである。礼儀正しく、まじめな良い青年たちばかりである。
いま、我が家には、写真のトーマスの他にエドワードとデュークがあり、この他に我が家オリジナルの人面きかんしゃで、「ベル号」(B型サドルタンク)と名付けられた電動ライブがあり、公園で走らせる時には、この4台のうちの常時2台を楕円形のレールを走らせている。
最近は、少子化が進んでいると言われるが、どこにこんなに子供がいたのだろうと思うくらい、小さな子供たちがたくさん集まってきて、若いお父さんやお母さんたちと一緒に長い列ができ、あちらこちらでカメラや携帯のシャッターが押される風景が見られるのである。
こういう子供たちを見ていると、不正義がはびこる社会を後世に残してはならないと強く感じる今日この頃である。

再び、国家破綻について

2006年09月03日 | 国家破綻
国家破綻については、以前にも述べたが、毎年のように国や地方自治体が借金を積み上げるような状況では、いつかは破綻の日が訪れることは間違いない。その時期は明言できないが、借金の積み上げという量的変化は、いつか必ず財政破綻という質的変化を生むことになる。
同時に、この破綻から、「絶対確実に」逃れる方法はない。
「国家破綻に勝つ…」などというホームページやブログも多いが、内容は外貨投資、世界各国への株式投資、不動産投資、貴金属投資などの各種の投資話である。
「資産形成」の記事の中で論じたことがあるが、投資というのは、所詮は、ギャンブルと同じであり、儲ける人もいれば、損をする人もいて、最終的にはきちんと帳尻が合うようになっているのである。確実に儲かるのは、仲介業者のみかもしれない。
投資によって資産を作ったという人は確かに存在する。しかし、その一方で、投資で財産を失った人は同じくらい存在するのである。人は、儲かった話にばかり気を取られるが、損をした話には耳を塞ぐのが常であり、自分だけは投資で儲かるように勘違いをしているだけなのである。
海外に資産を移し、外貨で資産を保有していれば、日本が財政的に破綻した場合、資産を守ることができるかもしれない。しかし、投資した外貨が信用不安を起こし、それによって財産を失う可能性もある。また、その資産を日本に持ち込む場合に課税される可能性もある。また、資産の名義人が死亡した場合に、家族がそれを簡単に相続できるのか、外国の銀行などを相手に資産の移転などの交渉が可能なのか、資産を預けている銀行あるいは仲介業者などが破綻する危険性はないのか、等々の不安が付きまとう。そうかと言って、自宅の金庫に財産を保有していれば、確率は低いかもしれないが、火事や盗難などのリスクは避けられない。結局、どこに資産を保有していても、絶えずこの種の不安から逃れることはできないのである。
国家破綻の際に、自らの生活を保障する最大のポイントは、定職に付いていて、定期的な収入があるかどうかである。国家破綻したトルコでは、未だに猛烈なインフレに襲われているが、収入も遅ればせながら上昇し、国民も比較的に明るく暮らしている。
資産形成は、労働によってのみ成し遂げられるということに気づくべきである。
国家破綻ともなれば、真っ先に生活の破綻に直面するのが、失業者や年金暮らしの高齢者などであろう。しかし、こういう場合にも、国や地方自治体によって、憲法に保障された最低限度の生活が保障されるような仕組みを作ることこそが大切なのである。
個々人が本人の責任において投資のために時間を使うことを私はけっして否定しないが、私なら、そういうことに使う時間を、自らの能力開発や社会貢献、趣味や家族との語らいに使うであろう。
何十年もの間、株式投資をしてきた投資家の話をどこかで読んだことがあるので紹介しておこう。
彼は、晩年になって、「投資などに無駄な時間を費やすべきではなかった。もっと別にやるべきことがあったはずだ。」という悔恨の言葉を述べていたのが印象に残っている。
今のままの状況が続けば、日本の財政は破綻する可能性が高い。
破綻に備えて、各人がさまざまな投資を行い、資産を形成したいと思う心情はけっして否定しない。うまく投資をすれば、日本が破綻した時にも、それを乗り切れるくらいの財産を築けるかもしれない。しかし、同時に、それと同じだけの資産を失う人が存在することも厳然たる事実である。国家破綻の際に、あなたがそのどちらに属しているかは、あなた自身の責任である。
同時に、国家破綻に関心を持つあなたが、個人の資産形成、個人的な生き残りという狭い思考にとらわれずに、もっと視野を広げて、政府や議会にむけて、庶民の立場から、予算の無駄を徹底的に削減し、財政破綻が訪れることがないように、声と行動を起こすことを切望するものである。