[三上智恵監督『標的の島 風かたか』公式ページ(http://hyotekinoshima.com)より↑]
東京新聞の桐山桂一さんのコラム【【私説・論説室から】沖縄は「捨て石」か】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2017080202000162.html)と、
マガジン9の記事【風塵だより 鈴木耕/沖縄熱風篇:大田さんへ、花を捧げに……】(http://maga9.jp/fujin170802/)。
《「沖縄が『捨て石』なのは今も同じ」と嘆く大田 さんに当時、最も恐ろしく感じることは何かと尋ねてみたら、こんな答えだった。「新聞の論調が戦前と同じように、権力に迎合する風潮が強まっていることですね」 (桐山桂一)》。
《26日の「大田昌秀元沖縄県知事県民葬」に参列したいと思ったからだ…安倍首相…は「沖縄の基地負担軽減について、政府として引き続き全力を尽くします」などと読み上げたが…。ぼくの隣席の男性は「どの口が言う」と不愉快そうにつぶやいていたし、安倍氏が読み終えたころ、会場から女性が…》。
『●大田昌秀さん「軍隊は人を守らない」と、
従軍記者ボールドウィン氏「沖縄戦は、戦争の醜さの極致だ」』
『●目を逸らす本土…「米国側からみた心温まる
ヒューマン・ストーリーだけではなく、そこに暮らす人々」に…』
「「慰霊の日」に際して、「沖縄全戦没者追悼式」でのアベ様の挨拶の
前に、「平和の礎はあらゆる戦争を正当化させない思いでつくった
県民の礎でしょ。そこへ戦争屋の安倍がのうのうと挨拶すること自体が
県民として許せません」(『報道特集』2017年6月24日)。
県民の怒りの声は届かないロバ耳東風な「戦争屋のアベ様」」
『●「戦争の愚かさを身に染みて知っているはず…
9条の「戦争放棄」「戦力不保持」の理念はその教訓の結晶」』
『●「戦争屋のアベ様」やアノ木原稔氏のココロには
響かない女性の訴え…「基地を造ったら沖縄が戦場になる」』
『●島袋文子さん「基地を置くから戦争が起こる。
戦争をしたいなら、血の泥水を飲んでからにしてほしい」』
「敗戦後」も戦争は続き、《唯一の地上戦があった沖縄はいわば「捨て石」同然だった》。《捨て石》状態も《新聞の論調》も今も変わらず。基地負担も、高江・辺野古をはじめとした沖縄破壊も、日米地位協定も、差別発言も、ヘイト番組も…「本土」の感覚は何も変わっていない。
《戦争屋のアベ様》から、《沖縄の基地負担軽減について、政府として引き続き全力を尽くします》という弔辞…まさに《どの口が言う》だ。《安倍氏が読み終えたころ、会場から女性が「大田先生の遺言は基地を造らせてはダメ、沖縄がまた戦場になってしまう。基地はやめてください、お願いします」と声を上げた》が、当然、アベ様やあの木原稔氏のココロに響くことは無い。
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【http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2017080202000162.html】
【私説・論説室から】
沖縄は「捨て石」か
2017年8月2日
七月二十六日に沖縄県民葬が営まれた元県知事の故大田昌秀さんに二度、インタビューしたことがある。
一度目は一九九五年の米兵による少女暴行事件のときだ。二度目は戦後六十年の二〇〇五年で、戦中の記憶を語ってもらった。そこで教えてもらった歴史がある。
一九四五年八月十五日。つまり終戦の日。平和が戻った日であると思い込んでいたが、沖縄師範学校の学生で「鉄血勤皇師範隊」に組み入れられていた大田さんらには平和など訪れては来なかったそうだ。
その日、米軍の軍艦から花火が打ち上げられるのを見ただけである。「終戦」どころか、米軍の掃討戦は十月すぎまで続いたという。宮古島や奄美諸島にいた陸海軍の将官が確かに、米軍の司令官との間で九月七日に降伏文書に署名している。
それでも戦闘があったというのだ。大田さんも至近弾を受けた。南部の摩文仁の丘から出たのは十月二十三日である。唯一の地上戦があった沖縄はいわば「捨て石」同然だった。占領下から現在も米軍基地は残る。
「沖縄が『捨て石』なのは今も同じ」と嘆く大田さんに当時、最も恐ろしく感じることは何かと尋ねてみたら、こんな答えだった。
「新聞の論調が戦前と同じように、権力に迎合する風潮が強まっていることですね」 (桐山桂一)
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【http://maga9.jp/fujin170802/】
風塵だより 鈴木耕
沖縄熱風篇:大田さんへ、花を捧げに……
By 鈴木耕 2017年8月2日
7月23日~27日、ぼくは沖縄へ行ってきた。26日の「大田昌秀元沖縄県知事県民葬」に参列したいと思ったからだ。
前にこのコラムの番外篇で書いたように、ぼくは大田さんにはずいぶんお世話になった。新書『沖縄、基地なき島への道標』(集英社新書=これはいま読んでもとても示唆に富んだ名著だと思う)の編集担当としてからだから、もう18年ほどのおつき合いになる。大田さんの事務所を訪れ、さまざまなお話を伺うことが、ぼくの沖縄行の目的のひとつだった。その大田さんはもういない。せめて献花だけはしてきたい。それが今回の旅の主目的だった。
レンタカーが「大渋滞」
23日、那覇空港へは午後2時ごろ到着。だが、困った。なんと、レンタカー営業所が凄まじい混雑。待合室に、ぼくがざっと数えただけで200名近くの人が待っている。これじゃあ、いつぼくの番が回ってくるか? 恐れていた通り、やっと車を借りられたのは、ほぼ2時間後だった。
その夜は、沖縄タイムス政経部長・宮城栄作さんとお会いする約束をしていた。宮城さんは、美しい奥さまとご一緒に現れた。そして、地元の人しか知らないようなちょっとディープな“沖縄風中華料理店”へ連れて行ってもらった。初日から、出だしはラッキー。でも、レンタカーの話をすると、宮城さんも「あれは沖縄でも問題になってるんです。せっかくの休暇が、最初の1日がほとんど使えなくなってしまうんですからねえ。観光にも打撃ですよ」と、現地ジャーナリストらしい感想。
それはそれとして、美味しい一夜。奥さまが、また酒豪。「東京生まれなのだけれど、たった数カ月ですっかり沖縄に同化しちゃいました」と笑う。楽しい夜でした…。
大田さんの足跡をたどって…
24日、朝早くから起き出したぼくは、まず、大田さんの足跡を訪ねることにした。
最初に、大田さんが開設した「沖縄国際平和研究所」へ。ここは何度も訪れている。しかしこの日は、間近に迫った「県民葬」のことで、スタッフのみなさんも忙しそうだったのでお邪魔するのは遠慮して、研究所の前でしばらく感慨にふけってから退去。
車は南下、本島最南端の摩文仁の丘へ。ここには、大田さんが心血を注いだ「平和の礎(いしじ)」がある。沖縄戦で死んだ人たちは、軍人、民間人の区別も、国籍の違いも、老若男女の別なく、すべてひとりの人間として同等に扱う、という世界でも例をみない慰霊の碑。それは延々と沖縄の夏空の下に続いていた。ぼくは、一つひとつの碑に頭を垂れながら歩いた。
ふと気がつくと、なんと「秋田県」の碑もあった。ぼくの故郷。遥か南の彼方まで連れてこられて若い命を失った同郷人が、こんなにもたくさんいたんだ…と思うと、突然、目の奥が熱くなった。
誰がきみを殺したのか、きみは誰のために死んだのか。
今のぼくよりは絶対に若かったはずの青年たちが、ここに祀られている。名もなき兵士が、ここでようやく名を回復してもらったのだ。
ぼくは戦争を憎む。戦争を起こした者や、これから起こそうとする者を憎む。
(摩文仁の丘からの眺め)
(公園にある平和祈念堂)
(「平和の礎」の秋田県人たち…)
戦争の過去と基地問題の現在
戦跡を辿ろうと思った。
引き返して、嘉数高台公園へ向かった。ここも何度か来た場所だ。激戦地。それを示す弾痕が、今も生々しく残っているし、日本兵が立て籠って絶望的な抵抗をしたとされるトーチカも、真夏の陽射しの下で焼け焦げたような姿をさらしている。
この丘の上に展望台がある。それを上れば、あの普天間飛行場が一望のもとだ。政治家どもが沖縄へ来ると、必ずと言っていいほどここを訪れ「ほんとうに市街地のど真ん中、危険な基地ですねえ。何とか早く移転させなければ」などと、いい加減な感想を記者団に述べる、お決まりの場所だ。そんな感想が実現したためしは、ない。
汗が目に入るほどの暑さ。公園のすぐ下に沖縄そば店があった。そばよりも、涼しさを求めてその店へ。汗が引いた体に、沖縄そばが美味だった。
それからまた走る。
次は、過去から現実へ。昨年、女性が暴行されて殺され、そして遺棄された現場へ。国道58号線を北上し、ゴルフ場へ曲がる交差点をうるま市石川のほうへ右折して間もなく。そこは、「えっ、こんな場所?」と驚くほど、2車線のりっぱな道路のすぐ脇だ。ぼくは買っておいた花を供えた。今もたくさんの花が供えられていて、小さな献花台もあった。数十万人もが死んだ戦争のあとの米軍基地問題は、現実としてここになお存在している…。
(日本兵が立て籠ったトーチカ。せみしぐれが降っていた)
(嘉数高台公園から普天間基地を見下ろす)
辺野古の浜で見たものは…
25日。この日は、辺野古の浜で、大規模な「海上座り込み集会」があると聞いていた。「海上座り込み」って面白い言い方だが、多数のカヌーを出して、海上で基地反対を訴えるというものだ。そういえば、三上智恵監督に『海にすわる~辺野古600日間の闘い~』というドキュメンタリー作品があったことを思い出す。
辺野古までは、那覇から1時間半ほどかかる。高速の沖縄道を宜野座で降りて329号線を北上。沖縄工業高専の架橋の下をくぐれば、間もなくキャンプシュワブのゲート前。まずそこへ。数十名の人たちが、酷暑の中、テントに座っていたが、聞いてみると多くの人たちは辺野古の浜辺へ降りて行っているとのこと。ぼくも浜辺へ。
でも、残念ながら「今日の行動は午前中で終了しました。実は、午後も続ける予定でしたが、海上に落雷注意報が発令されたので、中止せざるを得なくなりました」と、カヌーのそばの女性が教えてくれた。
浜場に、黒い連凧が舞っていた。頑丈なフェンスの向こう側を、若い米兵が2名、しきりにこちらを伺いなら行ったり来たりしている。そうとう気にしているようだ。
午後1時から、浜での集会が始まった。次第に人が増え、最終的には250名ほどか。午前中に「海上座り込み」に参加したカヌーは71隻、抗議船は8隻で、計150名ほどが参加したという報告。
(たくさんのカヌーが並んでいた)
(辺野古の浜辺のフェンスには、たくさんのアピールが…)
集会で、沖縄タイムスの阿部岳記者や、元自衛官で反戦活動をしている井筒高雄さんなどに会った。上空をドローンが飛んでいた。
実はこの日、現場で山城博治さんにお会いできるかと思っていたのだが、ホテルを出がけに山城さんから「事情があって、この日は集会には参加できなくなりました。お会いしたかったのですが、すみません。また東京でお会いしましょう」と、とても丁寧な電話。この誠実さが人を引き付ける魅力のひとつなんだなあ。
帰りがけ、浜辺のテントに立ち寄り、ささやかなカンパを出したら、きれいな絵ハガキをお礼に…って。
(浜辺での集会)
(黒い連凧が上がって)
その後、時間があったので、ぼくはもっと北上。そこからまだ数十キロもある東村高江へ向かった。例の、米軍ヘリパッドが強行工事されたところだ。メインゲート前まで来たけれど、誰もいなかった。時間も時間だし、仕方ない。ここでぼくはようやくUターン。
この夜は、三上智恵さん(最近作『標的の島 風かたか』は傑作です!)と食事する約束をしていたのだ。遅れちゃいけない。
場所は、北谷(ちゃたん)。米軍基地が返還されて、今や若者の街としてすっかり観光地に変身した地区だ。でも、ぼくは若くない。静かなところにしましょうね、というわけで、三上さんお薦めの港が見える店へ。
三上さんは、琉球新報報道局長の普久原均さんを紹介してくれた。3時間ほど、ビールとワイン(ぼくはワインは飲まないのでビールだけ)と、美味しい料理で歓談。沖縄の状況と本土の関心の温度差、沖縄のメディア状況、そして安倍政権の沖縄対策、沖縄側の反応…。いくら話しても、話は尽きなかった。
それにしても、タイムスの宮城さんといい、新報の普久原さんといい、まさに本物のジャーナリスト。本土の記者たちとは、どこが違うのだろう? ぼくは沖縄へ来るたびに、そう考え込んでしまうのだ。
大田さんの「県民葬」へ
26日は、朝から異様な雰囲気だった。ぼくは道路事情がよく把握できないから、徒歩で「県民葬」会場のコンベンションセンターに行けるよう、会場近くのホテルに宿泊していた。ハイシーズンなので、かなり値段は高かったけれど、大田さんのためだもの、と言い訳して予約したホテルだった。
朝からすごい数の私服警官(私服だが腕に「沖縄県警」の腕章をしていた)が、ホテルの中を見回っていた。最初は「県民葬に、なんでこんな警戒を?」と不思議に思ったのだが、安倍首相が参列することを思い出して、納得した。安倍首相が沖縄でどう思われているか、それを考えれば、警察としてナーバスになるのも理解できる。何が起こるか分からないというわけだ。まあ、もっとあけっぴろげに言ってしまえば、それだけ安倍首相が沖縄では嫌われている、という証拠でもある。
式は午後2時から。ぼくは徒歩で会場へ、1時前には着いた。会場周辺も、ちょっと驚くくらいの警備体制。
大田さんの長年の秘書を務めた桑高英彦さんとも、ぼくはずいぶん長いおつき合い。それもあって、ぼくは「招待者」の書状をもらっていたから、あまり待たずにすんなりと会場に入ることができた。
大きな祭壇に、大田さんの少し笑みを浮かべた遺影がさびしい。
(大田さんの優しいお顔が…)
(ぼくがいただいた「招待者への案内状」)
2時ギリギリに安倍首相が入場。そして、開会の辞の次に安倍首相が弔辞。彼は「沖縄の基地負担軽減について、政府として引き続き全力を尽くします」などと読み上げたが、会場からの拍手はまばら。ぼくの隣席の男性は「どの口が言う」と不愉快そうにつぶやいていたし、安倍氏が読み終えたころ、会場から女性が「大田先生の遺言は基地を造らせてはダメ、沖縄がまた戦場になってしまう。基地はやめてください、お願いします」と声を上げたが、首相はもちろん、そちらを見ようともせずに足早に壇上から降りた。
逆に、大田さんの友人代表としての比嘉幹郎さんが「大田さんの遺志を尊重し、今後とも県民に対するいかなる差別や犠牲への強要にも反対する」と述べたときには、安倍氏への拍手の数倍の共感の拍手が巻き起こった。それが沖縄の意志であろうと、ぼくは聞きながら思っていた……。
安倍首相は、列席者の弔辞が済むと、そそくさと式場を後にした。そのすぐ後に「大田さんを偲ぶVTR」がスクリーンに流された。それは、大田さんがいかに政権と闘い、いかに米軍基地に反対し、いかに平和を希求し、いかに反戦を訴え、いかに県民を愛したか、を克明に辿るものだった。
「これを安倍さんに観てほしかったなあ」と、隣席の男性がしみじみと呟いていたが、ぼくも同感だった。あれを観て、安倍首相がどんな反応をするか、それを知りたかったよ…。
(翌日の沖縄タイムス)
旅の終わりに…
27日、ぼくは帰りの便を、那覇空港で待っていた。
たった5日間の旅だったけれど、たくさんの人に会い、たくさんの場所を巡り、たくさんの美味を堪能した旅だった。
念願だった大田さんへの「サヨナラ」も言えたし、ちょっとしたセンチメンタル・ジャーニーの終わり。
帰りがけ、携帯電話が鳴った。大田さんのご子息・憲さんからだった。憲さんは残念ながら病床にあり、県民葬への列席はかなわなかった。それでもぼくに、参列のお礼を言いたいと、電話をくれたのだ。
大田さんのお墓は、生まれ故郷の久米島にあるという。病が癒えたら憲さんはそこへ参りに行く、と言っていた。ぼくは、沖縄ではたくさんの島々を訪れているが、まだ久米島へは行ったことがない。
次のぼくの沖縄行は、久米島に決めた。花を持って、大田さんの墓前に供えてくる、という目標もできたのだし……。
鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。
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