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●初めての死刑執行後の再審請求「福岡事件」…《無実を訴えながら死刑を執行された西武雄さんが獄中で詠んだ》〈叫びたし寒満月の割れるほど〉

2025年01月05日 00時00分39秒 | Weblog

(2024年12月10日[火])
飯塚事件久間三千年さんは、最早、自分の口で無罪を訴えることも出来ない、冤罪なのに死刑にしてしまったから…。同様に、(これも福岡…)《「福岡事件」で冤罪を訴えながら1975年に処刑された西武雄さん》…〈叫びたし寒満月(かんまんげつ)の割れるほど〉、《無実を訴えながら死刑を執行された西武雄さんが獄中で詠んだ》(天声人語)そうだ。《西さんは「事件とは無関係」として一貫して無罪を…主張したが、1956年にともに最高裁で死刑が確定した。…「現場にいなかった」と訴える西さん》…。《日本の裁判史上初めての死刑執行後の再審請求》。最早、関係者も亡くなり、再審請求も出来ない。
 東京新聞の記事【その死刑囚が突然処刑されたのは、「無実」の声が盛り上がる中だった 再審運動を続ける僧侶がいま伝えたいこと】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/371778?rct=tokuhou)、《1966年の静岡県の一家4人殺害事件袴田巌さん(88)の再審無罪が確定するなど、今年は再審が注目された1年になった。戦後まもなく福岡市で発生した「福岡事件」で冤罪(えんざい)を訴えながら1975年に処刑された西武雄さん=当時(60)=の再審運動を続ける僧侶は「他の再審運動や死刑制度にも目を向けてほしい」と願う》。

   『●『冤罪File(2010年3月号)』読了
     「2008年10月28日、無実を訴えながら死刑執行された
      久間三千年(くまみちとし)さんに対する「殺人問題」、
      取り返しのつかない、その手遅れな再審にも重大な影響」
     「池添徳明氏「コラム/「福岡事件」題材に裁判員裁判劇/
      関東学院大生ら無罪評決」(pp.68-69)。博多駅近く。
      一審段階で戦後初めて死刑判決が言い渡された事件。
      射殺を認めた石井氏は1975年に恩赦で無期懲役に減刑、その後、
      仮釈放。西武雄さんは「一貫して容疑を否認し無罪を主張したが、
      石井さんに恩赦減刑の決定が伝えられた同じ日に、
      死刑が執行された」。熊本県玉名市の生命山シュバイツァー寺
      古川龍樹代表」

   『●それは、職業裁判官の怠慢にすぎない
    「…など職業裁判官の怠慢の例は
     数え上げたらきりがありません。ましてや、福岡事件西武雄さん
     飯塚事件久間三千年さんといった無罪な人を死刑・私刑にして
     しまった可能性(控え目に表現しています)さえあります。村木厚子さん
     志布志事件の裁判結果などは極々稀な例です」

   『●東電OL殺人事件元被告マイナリさん、冤罪15年間への償いはできるのか?
     「▼〈叫びたし寒満月(かんまんげつ)の割れるほど〉の一句を思い出す。
      無実を訴えながら死刑を執行された西武雄さんが獄中で詠んだ」

 Wikipediaによると、《福岡事件(ふくおかじけん)とは、1947年(昭和22年)5月に福岡県福岡市で発生した殺人事件である。別名を福岡ヤミ商人殺人事件ともいう。捜査当局は7名を検挙したが、事件は偶発的に発生したものであり、主犯として処刑された人物については冤罪ではなかったかと指摘されるなど、捜査および裁判に対する疑問が現在でも残る事件である》。
 また、2009年7月26日(日) の『ドキュメント九州』の【その月が割れるまで ~福岡事件・再審請求の行方~】(テレビ熊本TKU)(https://www.tnc.co.jp/dq/back-number/archives/26) によると、《1947年5月、福岡市で軍服の取引にからみ、日本人と中国人の商人2人が殺害された。警察は計画的強盗殺人事件として捜査し、取引の手付金を手にしていた西武雄さん(当時32)を主犯、2人を撃った石井健治郎さん(当時30)を実行犯、5人の男を共犯として逮捕した。西さんは関与を否定し、石井さんは「自分が撃たれると思ったから撃った」と正当防衛または誤殺を主張した。しかし、1956年に2人は強盗殺人罪で死刑が確定。1975年に西さんの死刑が執行され、同じ日に石井さんは無期懲役に減刑された。そして、石井さんは1989年に恩赦で仮釈放され、刑務所で教誨師をしていた古川泰龍さんの生命山シュバイツァー寺(熊本県玉名市)に身を寄せた。石井さんは西さんを含め冤罪を主張し、2005年5月に福岡高等裁判所に6度目の再審請求をした。日本の裁判史上初めての死刑執行後の再審請求である。しかし、石井さんは去年11月に死亡。この西さんと石井さんの名誉回復のため、『叫びたし寒満月の割れるほど』という西さんが獄中で詠んだ句を合い言葉に、古川さんの長男・龍樹さんや福岡の大学生たちが再審の支援活動を続けている。3月31日、福岡高裁は再審請求棄却の決定を出した。失意の底に沈む古川さん一家だったが、学生たちはあきらめず、全国の大学の法学部の教授たちに支援を呼びかける手紙を出した。その姿を見て、古川さんは活動の継続を誓うのだった》。

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https://www.tokyo-np.co.jp/article/371778?rct=tokuhou

その死刑囚が突然処刑されたのは、「無実」の声が盛り上がる中だった 再審運動を続ける僧侶がいま伝えたいこと
2024年12月6日 11時00分

 1966年の静岡県の一家4人殺害事件袴田巌さん(88)の再審無罪が確定するなど、今年は再審が注目された1年になった。戦後まもなく福岡市で発生した「福岡事件」で冤罪(えんざい)を訴えながら1975年に処刑された西武雄さん=当時(60)=の再審運動を続ける僧侶は「他の再審運動や死刑制度にも目を向けてほしい」と願う。


◆「やってない」確信した教誨師の努力

 福岡事件は1947年に福岡市で発生。軍服の闇取引の最中だった中国人と日本人の計2人が射殺され、現金が持ち去られた。警察は西さんを主犯、石井健治郎さんを実行犯とする強盗殺人事件と断定し、計7人を逮捕。西さんは「事件とは無関係」として一貫して無罪を、石井さんは「誤射」と主張したが、1956年にともに最高裁で死刑が確定した。

     (講演で福岡事件や死刑制度について話す古川龍樹さん(本人提供)

 西さんの教誨(きょうかい)師で、後に生命山シュバイツァー寺(熊本県玉名市)を開いた僧侶、古川泰龍さんは「現場にいなかった」と訴える西さんらの証言や現場調査から...
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●元刑事裁判官・木谷明さんは《検察の権限が強すぎることも、裁判官が検察の主張に引きずられやすいと同時に、冤罪を生む温床となっていると指摘》

2025年01月04日 00時00分44秒 | Weblog

[↑ ※《第三者は捜査機関の者である可能性が極めて高いと思われる》(『報道特集』、2023年03月18日[土])]


(2024年12月09日[月])
《有罪率99%の日本の刑事裁判で、裁判官時代に30件以上の無罪判決を出し、上級審で覆させず確定させたことで知られる》元刑事裁判官・木谷明さん。《刑事司法のあり方についてメディアなどで積極的に発信》して来られました。《伝説の無罪裁判官として法曹界の尊敬を一手に集める》木谷さんは、惜しまれながら、先々月21日に、お亡くなりになりました。

   『●《有罪率99%の日本の刑事裁判で、裁判官時代に30件以上の無罪判決を
     出し、上級審で覆させず確定させたことで知られる》元刑事裁判官・木谷明さん

 神保哲生さんのビデオニュースドットコムの二つのインタビュー映像をご紹介します。
 1年半ほど前の映像資料【(2023年03月18日公開)日本の裁判官はなぜ無罪判決を書けないのか/マル激トーク・オン・ディマンド(第1145回)/ゲスト 木谷明】(https://www.videonews.com/marugeki-talk/1145)によると、《裁判官時代に日本の裁判官としては異例中の異例とも言うべき30件以上の無罪判決を出したことで知られる木谷明弁護士は、日本の裁判官が無罪判決を出したがらない理由として、まず第一に無罪判決を書くのが大変だからだと証言する。裁判というのは検察の犯罪立証に対して「合理的な疑いを差し挟む余地」があれば無罪とするのが近代裁判の要諦だ。そのため裁判官が無罪判決を出すためには、検察の犯罪立証のどこに「合理的な疑いを差し挟む余地」があるかを明確に書かなければならない。その論拠が甘ければ、仮に一審で無罪となっても、検察に控訴され、二審では確実に逆転有罪となってしまう有罪判決は容易だが無罪判決は裁判官の能力が試されるのだという。誰しも楽をしたいと考えるのが人情だ。裁判官にとっては検察の言い分をそのまま受け入れ有罪としてしまった方が、仕事が遙かに楽になるというのが、多くの裁判官の本音なのではないかと木谷氏は言う。また、木谷氏は検察の権限が強すぎることも、裁判官が検察の主張に引きずられやすいと同時に、冤罪を生む温床となっていると指摘する》。
 完全版も公開されていますので、是非、ご覧ください。

 さらに10年ほど前の、もう一つの映像資料【(2013年04月27日公開)裁判所はなぜ決断できないのか/インタビューズ/ゲスト 木谷明】(https://www.videonews.com/interviews/20130427_kitani)によると、《しかしながら、いまだ裁判所は多くの場合、検察や国、行政側の主張に沿った判断を下しがちである。たとえそれが一般常識に照らすと首をかしげたくなるようなものであっても、だ。裁判所は何に遠慮しているのか。》
 この10年、何にも変わっていない…。

   『●大崎事件…再審するかどうかを延々と議論し、
      三度にわたる再審開始決定を最「低」裁がちゃぶ台返し
    《会見に同席した元裁判官の木谷明弁護士も「無実の人を救済するために
     裁判所はあるのではないのか大変がっかりしている」と批判した》

   『●《家族への脅迫状…「苦しみ抜いて一人で罪をかぶろう 
         としているのに許せない。もともと無実なのだから」》
    「大崎事件について、
     《元裁判官の木谷明弁護士…
     「無実の人を救済するために裁判所はあるのではないのか」》と。
     【報道特集】…によると、《”伝説”の元裁判官~冤罪救済に挑む…
     無罪判決を30件も出し、全てを確定させた元裁判官。
     退官後、81歳となった今、冤罪救済を目指す弁護士として裁判所に
     挑んでいる。そこで直面した裁判所の現状とは》。
     『イチケイのカラス』…のモデルの一部になっているらしい」

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https://www.videonews.com/marugeki-talk/1145



木谷明×宮台真司×神保哲生:日本の裁判官はなぜ無罪判決を書けないのか【ダイジェスト】
 (https://youtu.be/U1xfHsDWwWw


2023年03月18日公開
日本の裁判官はなぜ無罪判決を書けないのか
マル激トーク・オン・ディマンド (第1145回)


ゲスト

木谷明
(きたに あきら) 弁護士・元裁判官
1937年神奈川県生まれ。61年東京大学法学部卒業。63年判事補任官。東京地裁判事補、名古屋地裁判事、最高裁調査官、東京高裁判事部総括などを歴任。2000年退官。霞ヶ関公証役場公証人、法政大学法科大学院教授を経て12年より現職。著書に『刑事裁判のいのち』、『「無罪」を見抜く-裁判官・木谷明の生き方』など。


概要

 木谷明氏の2024年11月のご逝去を受けて、過去の番組を追悼番組として無料で放送いたします


 今週の月曜日(3月13日)、57年前に逮捕され43年前に死刑が確定していた袴田巌氏の再審決定が下された。まだ高検が最高裁に特別抗告を行う可能性は残っているが、再審そして無罪は確定的と見ていいだろう。確定死刑囚の再審無罪となると島田事件(1989年に再審無罪が確定)以来戦後5件目となる。

 袴田氏は1966年に静岡県清水市で発生した強盗殺人放火事件の犯人とされ、1966年から2014年までの48年間、東京拘置所に収監されていた。そのうち1980年に死刑が確定して以降の34年間は確定死刑囚としてもっぱら刑の執行を待つ身だった。再審開始、そして再審無罪がほぼ確定的になったとはいえ、1966年に30歳で逮捕された袴田さんにとって失われた時は取り戻せない起きてはならないことが、また起きたのだ

 この事件では他の冤罪事件と同様に、もっぱら被疑者の自白に頼った犯罪立証が行われた。捜査段階では真夏の苛酷な環境の下、来る日も来る日も10時間を超える取り調べが行われ、当初否認していた袴田氏は勾留19日目に自白に転じている

 ところが、取り調べ段階で一度は自白した袴田氏が公判段階で否認に転じたため、慌てた捜査当局は袴田氏が働いていた味噌製造工場の味噌樽の中に血染めの洋服を隠し、事件から1年以上が経ってから袴田氏が犯行時に着ていた服が見つかったとして追加で証拠提出してきた。しかし、逆に今回、東京高裁はその洋服は捜査員が捏造した証拠である疑いが濃いとして、再審を決定していた。その事実関係が再審公判で認定されれば、有罪をでっち上げるために捏造した証拠が逆に墓穴を掘る形となったわけだが、それにしても決定的とされた証拠が捏造だったことが認められるまでにあまりにも時間がかかりすぎた

 それにしてもだ、事件直後に逮捕された袴田氏に対して、警察と検察は来る日も来る日も長時間の厳しい取り調べを行い、袴田氏はまともにトイレにも行かせてもらえなかったという。日本の刑事裁判でそのような拷問同然の環境下に3週間も置かれた末の自白に基づいて有罪が確定してしまうのは、裁判所がそれを有効な証拠として認めているからだ。逆に欧米諸国の刑事事件で被疑者の起訴前勾留期間が最長でも2~3日と短いのは、それ以上勾留した後で得られた自白は被疑者側から「拷問があった」と主張され、裁判所もそれを認めるため証拠として使えないからに他ならない。袴田氏の裁判で末席の裁判官を務めた熊本典道氏(故人)は晩年、袴田さんは無罪であるとの心証を得ていたが他の裁判官の意見に抗えずに有罪判決に迎合してしまったことを悔やみ、謝罪している

 裁判官時代に日本の裁判官としては異例中の異例とも言うべき30件以上の無罪判決を出したことで知られる木谷明弁護士は、日本の裁判官が無罪判決を出したがらない理由として、まず第一に無罪判決を書くのが大変だからだと証言する。裁判というのは検察の犯罪立証に対して「合理的な疑いを差し挟む余地」があれば無罪とするのが近代裁判の要諦だ。そのため裁判官が無罪判決を出すためには、検察の犯罪立証のどこに「合理的な疑いを差し挟む余地」があるかを明確に書かなければならない。その論拠が甘ければ、仮に一審で無罪となっても、検察に控訴され、二審では確実に逆転有罪となってしまう有罪判決は容易だが無罪判決は裁判官の能力が試されるのだという。

 誰しも楽をしたいと考えるのが人情だ。裁判官にとっては検察の言い分をそのまま受け入れ有罪としてしまった方が、仕事が遙かに楽になるというのが、多くの裁判官の本音なのではないかと木谷氏は言う。

 また、木谷氏は検察の権限が強すぎることも、裁判官が検察の主張に引きずられやすいと同時に、冤罪を生む温床となっていると指摘する。

 日本では2021年には、裁判が確定した21万3,315人のうち、無罪判決を受けたのは94人のみで、割合にして0.04%だ。つまり1万件につき4件しか無罪にはならないのが日本の刑事裁判なのだ。確かに99.9%以上の有罪率というのは異常としかいいようがないが、実はこの数字には隠されたマジックがある。

 確かに日本では起訴されたら99.9%の可能性で有罪となるが、実は警察から送検されてきた事件のうち3分の2(64.2%)は検察によって不起訴や起訴猶予処分にされ、実際は裁判にはなっていない。つまり、検察は警察から送られてきた事件のうちほぼ確実に有罪にできる全体の3分の1ほどの事件だけを起訴し、それがほぼ100%に近い確率で有罪となっているということなのだ。このように公訴権を独占していることも検察の権限が強すぎる一つの要素となっている。

 しかし、このことが逆に検察にとっては大きなプレッシャーともなり得る。なぜならば、検察は事件を厳選し有罪にできる事件しか起訴していないのだから、いざ起訴した事件は必ず有罪にしなければならないことになる。しかし、人間なので必ずミスは起きる。最初の見立てが間違っていたことに後で気づくこともあるだろう。しかし、一度起訴してしまった以上、何が何でも有罪にしなければならない。刑事事件、とりわけ社会から注目される刑事事件で起訴をしておきながら無罪になどなってしまえば検察の信用はまる潰れだ担当検事やその上司の経歴にも大きな傷を付けることになる。そうした中で冤罪が起きる。酷いケースでは自白の強要が行われ、時として証拠の捏造まで起きていたことが、近年明らかになっている。

 検察が圧倒的に優位な司法制度と、本来であればその司法をチェックするはずのメディアが、逆にその制度の走狗となって世論を誘導する中、仮に検察立証に疑いがあったとしても、裁判官にとって無罪判決を書くことには計り知れない勇気と能力と責任感、そして使命感が求められる。そもそも裁判官が有罪判決は気楽に書けるが、無罪判決を書くには覚悟が必要な制度自体が倒錯した制度と言わなければならないが、それ自体が日本の司法制度の異常さと歪みを象徴していると言っていいだろう。

 伝説の無罪裁判官として法曹界の尊敬を一手に集める木谷明氏と、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。
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https://www.videonews.com/interviews/20130427_kitani



【裁判所はなぜ決断できないのか】
 (https://youtu.be/nkY-LQewxSg


2013年04月27日公開
裁判所はなぜ決断できないのか
インタビューズ


ゲスト

木谷明
(きたに あきら) 弁護士
1937年神奈川県生まれ。61年東京大学法学部卒業。63年判事補任官。東京地裁判事補、名古屋地裁判事、最高裁調査官、東京高裁判事部総括などを歴任。2000年退官後、霞ヶ関公証役場公証人、法政大学法科大学院教授を経て、12年より現職。著書に『事実認定の適正化』、『刑事事実認定の理想と現実』など。


概要

 原告の主張を大筋で認めながら、申し立てを棄却した「ふくしま集団疎開訴訟」や、捜査は適法としながら、原告への賠償を命じた「北海道おとり捜査裁判」など、ねじれた論理の判決相次いでいる。その一方で、「水俣認定裁判」では、専門技術的裁量の求められる領域についても、裁判所が判断を示した画期的な判決が出ている。

 しかしながら、いまだ裁判所は多くの場合、検察や国、行政側の主張に沿った判断を下しがちである。たとえそれが一般常識に照らすと首をかしげたくなるようなものであっても、だ。

 裁判所は何に遠慮しているのか。現在、鹿児島・大崎事件の再審弁護団の一員である弁護士の木谷明氏は「裁判官には、検事は間違わないと信じているタイプか、疑いを抱いても結局は流されてしまう優柔不断なタイプが多い」と話す。そして何より無罪判決を下すには、誰もが納得する判決文を書ける能力と技術が必要で、相当の労力を要するため、個別の事件にそこまでコミットしようとする人材が少ないとも指摘する。木谷氏は、東電OL殺人事件裁判の当時、東京高裁裁判長として、無罪被告(一審)の勾留をあくまでも求める検察側の主張を退けたことで知られている。

 裁判官が無罪判決や国の責任を認めることを躊躇する理由や、その際に裁判官にかかる重圧、そして「再審の壁」などについて、ジャーナリストの神保哲生が聞いた。

(聞き手 神保哲生(ビデオニュース・ドットコム))
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●大谷昭宏さん「無実で犯行をでっちあげられながら、それを立証できずに人生を奪われた人は無数にいるかもしれない」…飯塚事件の真相解明を望む

2025年01月03日 00時00分10秒 | Weblog

(2024年11月26日[火])
大谷昭宏さん「…無実で犯行をでっちあげられながら、それを立証できずに人生を奪われた人は無数にいるかもしれない。誰にでも起こり得る。決して他人事ではないんです」(東京新聞)…例えば、飯塚事件の真相の解明が望まれるが、警察・検察・裁判所は再審を拒否し続けている。久間三千年さんは自分の口で無罪を訴えることも出来ない、死刑にしてしまったから…。冤罪で死刑執行。

(日刊スポーツ)【大谷昭宏のフラッシュアップ/警察、検察の「なりふり構わぬねつ造」どれだけあるんだ】。頼みの綱の裁判所がきちんと機能しているだろうか? そして、《人権を脅かす捜査の不正を監視し、暴く報道の使命》《「…公権力をチェックするのは報道の生命線でもある…」》はずなのだが…。
 東京新聞の記事【戦前と戦後のボーダー世代として報道と向き合う 「負の歴史踏まえ権力監視」 ジャーナリスト・大谷昭宏さん】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/369242)。《静岡県一家4人殺害事件、福井中3殺害事件…。再審事件の背景に、警察や検察による証拠の捏造や不都合な事実の隠蔽が指摘されている。大谷昭宏さんはこれらの事件を含め多くの冤罪を取材し、捜査の問題点を社会に問い続けてきた》《◆「戦後メディアは、戦意高揚に加担した反省に立ち再出発」》《◆新聞に染み付いたDNAとは?

   『●《日本の刑事司法はおそろしいほどに後進的…
       代用監獄…人質司法》…さらに、司法取引まで投げ渡す大愚
   『●《えっ、じゃあ日本はフランスより民度が高いの?》(鈴木耕さん)
                 …金(カネ)色の五つの輪と刑事司法等々
   『●事件から五十七年。無実を訴え続けても、なぜこんなに歳月を費やしたのか。
     刑事訴訟法の再審規定(再審法)が大きな欠陥を抱えつつ放置されているからだ
   『●《冤罪を起こしてはならない。再審法の改正が待たれる。杉山さんや桜井
       さんらが残した人間の笑い泣き、そして袴田さんの思いを見逃すまい》
   『●再審法の改正を…桐山桂一さん《冤罪ほど人生や人権を踏みにじる不正義
     はない。…袴田巌さんの再審が決まった…大崎事件は…冤罪が疑われる》
   『●死刑台からの生還、島田事件・赤堀政夫さん「僕は無罪である以前に無実」
     「青春を返してほしい」…そして飯塚事件・久間さんの〝命を返してほしい〟
   『●鹿児島県警、呆れた…《「再審や国賠請求等において、廃棄せずに保管して
      いた捜査書類やその写しが組織的にプラスになることはありません!!」…》
   『●再審法改正…《法規定の不備が救済の障壁になっているのは明白だ。無実
     人にとっては「法との闘い」が強いられている。何という非人道的なことか》
   『●《<無実者を罰することは、犯罪事実よりも犯罪的である>…無実の人を罰する
       のは究極の国家犯罪といえる。理不尽な刑事司法とはもう決別すべき時だ》
   『●検察・警察、裁判所、マスコミによって《大きく人生を変えられたのは、
     巌さんだけではありません。巌さんを58年支え続けてきた、姉のひで子さん》
    《48年、巌が(拘置所に)入っていたってことはね、それこそ
     大変苦労してる。だから、(無罪判決が出たからといって
     それでいいとしてはいけないと思って、再審法の改正には、
     皆さんにお力をお借りしたいと思っております》

   『●福井事件 (1986年) は明らかな冤罪…7年間の服役を終えた前川彰司さん
      の第2次再審請求で、名古屋高裁金沢支部 (山田耕司裁判長) が再審決定
    (日刊スポーツ)【大谷昭宏のフラッシュアップ/警察、検察の
     「なりふり構わぬねつ造どれだけあるんだ】《袴田事件では
     物的証拠を捏造し、福井の事件では証言を捏造する。検察、警察の
     許し難い不正が、また暴き出された。38年前、1986年に起きた
     「福井女子中学生殺害事件」で殺人罪に問われ、7年間服役した
     前川彰司さん(59)の再審請求に対して、名古屋高裁金沢支部は
     先週、再審を決定。きのう28日開始が確定した。私は20年前、
     出所直後に入院した前川さんに代わって、ひとり冤罪を訴え続ける
     お父さんや現地を取材。決定当日は福井テレビにリモート出演
     させていただいた》

   『●工藤隆雄氏《日本の司法には昔から冤罪体質があり…事件の背後には後に
     「冤罪王」「昭和の拷問王」と呼ばれた紅林麻雄という静岡県警の刑事がいた》
   『●福井事件、発生から38年も経って漸く再審を決定…《検察が手持ち証拠の
      開示に応じることが、冤罪を晴らす上で、どれほど重要かを示す好例だ》
   『●《死刑制度「廃止含め議論を」》…《現在の制度には放置が許されない多くの
      問題があり、「現状のままに存続させてはならない」との認識を示した》

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https://www.tokyo-np.co.jp/article/369242

戦前と戦後のボーダー世代として報道と向き合う 「負の歴史踏まえ権力監視」 ジャーナリスト・大谷昭宏さん
2024年11月26日 12時00分

昭和20年に生まれて Born in 1945

 静岡県一家4人殺害事件福井中3殺害事件…。再審事件の背景に、警察や検察による証拠の捏造(ねつぞう)不都合な事実の隠蔽(いんぺい)が指摘されている。大谷昭宏さんはこれらの事件を含め多くの冤罪(えんざい)を取材し、捜査の問題点を社会に問い続けてきた。


 大谷昭宏(おおたに・あきひろ) 1945年7月8日、東京都生まれ。早稲田大卒業後、読売新聞に入社。大阪社会部で事件取材やコラム「窓」を担当。退社後はテレビにも活動の場を広げている。主な著作に「警察が危ない」「事件記者という生き方」など。


     (新聞に宿る「DNA」について語る大谷昭宏さん
      =千代田区で)


◆「戦後メディアは、戦意高揚に加担した反省に立ち再出発」

 「裁判で冤罪が確定すれば大ニュースになるが、無実で犯行をでっちあげられながら、それを立証できずに人生を奪われた人は無数にいるかもしれない。誰にでも起こり得る。決して他人事ではないんです」

 人権を脅かす捜査の不正を監視し、暴く報道の使命。「日本のメディアは戦時中、軍部に屈し、戦意高揚に加担した負の歴史を持つ。戦後は、その反省に立ち再出発した。公権力をチェックするのは報道の生命線でもあるんです」

     (袴田巌さんの再審公判を終え、無罪判決に笑顔を見せる
      姉ひで子さん(中)ら=9月、静岡市の静岡地裁で)

 大谷さんは読売新聞大阪本社で記者生活をスタートさせた。後に社会部長となる黒田清さん(1931~2000年)と出会い、事件取材に強い「黒田軍団」の一員として社会問題を追った。1984年には大阪府警賭博ゲーム機汚職事件を取材したルポで、大阪社会部として日本ノンフィクション賞を得ている。


◆新聞に染み付いたDNAとは?

 事件に加え、黒田軍団が力を注いだのが戦争の記憶を伝える報道だ。連載「新聞記者が語りつぐ戦争」は18年間に及び、書籍化もされた。連載中の87年には、戦争犠牲者の親族らが大切にする形見やゆかりの品を集めた特別展も開催している。「息子が戦地で最後まで手にしていた水筒」「父からの最後の手紙」「夫の千人針」…。黒…………
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●(リテラ)【渡邉恒雄の追悼報道でマスコミが触れない裏の顔! 中曽根、児玉誉士夫、佐川急便をめぐる疑惑、汚職政治家のファミリー企業にも】

2025年01月02日 00時00分48秒 | Weblog

[『渡辺恒雄 脳内解析 ナベツネだもの』石黒謙吾著、情報センター出版局、2004年11月刊]


(2024年12月23日[月])
本田靖春さん…はそんな読売の現状を憤り、生前こう語っていた。

    「僕らの不幸は最も優秀な経営者をボスとして頭にいただいている
     ことだと、いつも思っていた。正力さんは天才事業家だけど
     新聞をチラシ広告と同じぐらいにしか考えていなかった
     務台さんも『販売の神様』であってジャーナリストじゃない
     その後を受けた渡辺さんもジャーナリストというより政界の人間
     ですよね。だから読売でジャーナリストであろうとすると
     必ず上とぶつかることになる」
     (●魚住昭さん: 読売経営者陣と本田靖春さん

   『●魚住昭さん: 読売経営者陣と本田靖春さん
    《渡邉氏は政治部記者時代から中曽根康弘元首相ら政官界の要人たち
     と密接な関係を築き、社内の派閥抗争を勝ち抜いてのし上がって
     きた男だ。彼が実権を握って以来、読売の論調は右旋回し、
     “渡邉社論”に反する記事の掲載は許されなくなった
     抵抗する記者は排除され、社内民主義は機能しなくなった

   『●本田靖春さん《渡辺さんもジャーナリストというより政界の人間ですよね。
     だから読売でジャーナリストであろうとすると必ず上とぶつかることになる》

 問題は、ナベツネ氏について好意的な追悼報道が多すぎるのではないかということ。権力を監視すべき新聞が、渡邉恒雄 (渡辺恒雄) 氏という権力者によって牛耳られていたという大問題。
 リテラの記事【渡邉恒雄の追悼報道でマスコミが触れない裏の顔! 中曽根、児玉誉士夫、佐川急便をめぐる疑惑、汚職政治家のファミリー企業にも】(https://lite-ra.com/2024/12/post-6354.html)によると、《戦後政治を牛耳ってきた“読売グループのドン” 渡邉恒雄、通称ナベツネが亡くなった。訃報の直後から、新聞やテレビ、ネットニュースは回顧記事や追悼報道を流しているが、そのほとんどが政界、メディア、球界への影響力を讃えるものばかり。最大の問題だった政治家との癒着についても、「政治家との距離の近さが物議をかもすこともあった」というレベルの表現でお茶を濁している。しかも、まったく触れられていないのが、その黒い過去だ。ナベツネはたんに政界に食い込んで政策を思いのままに動かしていただけではない。盟友・中曽根康弘とともに、ロッキード事件の被告でもあった右翼の大物・児玉誉士夫裏ビジネスに関与したり、政界への巨額献金で摘発された佐川急便に読売新聞の土地を買わせるなど、政治家や疑獄事件関係者との黒い疑惑が複数もちあがった。ところが、今回、メディアはこうした過去を一切報じていないのだ》。

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https://lite-ra.com/2024/12/post-6354.html

渡邉恒雄の追悼報道でマスコミが触れない裏の顔! 中曽根、児玉誉士夫、佐川急便をめぐる疑惑、汚職政治家のファミリー企業にも
2024.12.21 07:48

     (『誰も書けなかった日本の黒幕』(宝島社))

 戦後政治を牛耳ってきた“読売グループのドン” 渡邉恒雄、通称ナベツネが亡くなった。訃報の直後から、新聞やテレビ、ネットニュースは回顧記事や追悼報道を流しているが、そのほとんどが政界、メディア、球界への影響力を讃えるものばかり。最大の問題だった政治家との癒着についても、「政治家との距離の近さが物議をかもすこともあった」というレベルの表現でお茶を濁している

 しかも、まったく触れられていないのが、その黒い過去だ。ナベツネはたんに政界に食い込んで政策を思いのままに動かしていただけではない。盟友・中曽根康弘とともに、ロッキード事件の被告でもあった右翼の大物・児玉誉士夫裏ビジネスに関与したり、政界への巨額献金で摘発された佐川急便に読売新聞の土地を買わせるなど、政治家や疑獄事件関係者との黒い疑惑が複数もちあがった

 ところが、今回、メディアはこうした過去を一切報じていないのだ。

 いや、これは今回の追悼記事だけではない。もっと以前から、新聞やテレビはもちろん、週刊誌さえナベツネのこれらの疑惑にはほとんど触れようとしなくなった

 だが、ナベツネが亡くなる半年前の今年6月、このメディア界のドンの黒い過去に踏み込んだ本が出版された。

 本のタイトルは『誰も書けなかった日本の黒幕』(宝島社)。同書は、政界スキャンダルや経済事件を長く取材してきたジャーナリストや事件記者が勢ぞろいし、政界、財界、裏社会で「フィクサー」「首領」「政商」などといわれた人物たちの実態を暴いた一冊だが、その中に収められた「渡邉恒雄 戦後政治を牛耳ってきた怪物フィクサーのタブーと裏の顔」というレポートに、政治家、疑獄事件の関係者たちとのただならぬ関係が詳しく記されていた。今回は、その一部を紹介しよう。


■右翼の大物・児玉誉士夫の裏ビジネスへの関与も取り沙汰されたナベツネ 出版社乗っ取りも

 『日本の黒幕』がまず、大きく取り上げているのが、前述した児玉誉士夫、中曽根康弘との問題だ。

 ナベツネが盟友・中曽根とともに、児玉による九頭竜ダムの補償口利きにかかわっていたことは、児玉に口利きを依頼した緒方克行という人物が『権力の陰謀 九頭竜事件をめぐる黒い霧』という告発本で明らかにし、当時、大きな問題になった。

 だが、『日本の黒幕』はナベツネと児玉、中曽根にそれ以上の関係があったことを指摘している。ナベツネは児玉とともにある出版社の乗っ取りにかかわり、自身と中曽根、児玉が株主になったうえ、ナベツネの実弟にその出版社の社長をやらせていたというのである。同書はその詳細をこう書く。

〈その出版社の名前は「弘文堂」という。もともとは明治33年創業の名門学術出版社だったが、1960年代はじめに経営危機に陥り、児玉誉士夫の一派に乗っ取られてしまう。
 当時の弘文堂の新たな株主リストにはこんな名前が並んだ。
 大橋富重、北海道炭礦汽船、東京スタヂアム、東日貿易、児玉誉士夫 中曽根康弘、渡邉恒雄。
 筆頭株主の大橋富重は児玉や小佐野賢治とともに幾つかの経済事件にかかわり手形詐欺で東京地検に逮捕された人物。北海道炭礦汽船、東京スタヂアム、東日貿易もすべて児玉と親しいオーナーが所有していた企業だ。そして、児玉、中曽根、ナベツネの名前……。ようするに、児玉人脈一色の会社で、ナベツネは中曽根とともに株主になっていたのである。
 それだけではない。当時の弘文堂には、ナベツネの実弟・渡邉昭男が代表取締役社長に就任していた。
 そもそも、弘文堂乗っ取りには、ナベツネが最初から深く関わっていたとされる。ナベツネは弘文堂の前経営者と旧知の間柄で、最初の著作『派閥』も同社から出版していた。ところが、1960年ごろ、弘文堂は内紛にみまわれたうえ、経営危機に陥り、借金のかたに会社を取られそうになる。
 そこで旧経営者に相談を受けたナベツネが、旧知の児玉誉士夫に依頼し、介入してきた暴力団や不動産会社を排除したのだという。
 だが、その代わり、弘文堂には児玉人脈の資金が投入され、前述の面々が株主になってしまった。そして、ナベツネは児玉らと協力して前経営者を会社から追い出し、自分の弟を代表に据えるかたちで、同社の事実上の経営権を握った。
 弘文堂とナベツネの間には、金の流れもあった。ナベツネは65年、千代田区番町にある豪華マンション「五番町マンション」の180平米にも及ぶ広さの部屋を購入している。登記簿によると、このマンションは、弘文堂とナベツネで共同購入するかたちとなっていた。持分は18分の10が渡邉恒雄で、18分の8が弘文堂だった。〉


■佐川急便との土地取引をめぐる疑惑でTBSを逆ギレ提訴 法廷で証言されたナベツネの関与

 『日本の黒幕』は、1990年代はじめに報道された読売新聞と佐川急便との土地取引問題についても、メディアがほとんど報じてこなかった新たな事実を掘り起こしている。

 1992年、佐川急便グループの中核企業・東京佐川急便をめぐって金丸信への5億円をはじめとする政治家への巨額裏献金、暴力団、右翼団体への過剰融資が次々発覚。同社社長・渡辺広康らが特別背任容疑で東京地検特捜部に逮捕・起訴された。

 その特捜部捜査の真っ只中だった2月、TBSの『ニュース23』などが、読売新聞社がJR新大阪駅前の社有地を佐川急便側に届出価格202億円で売却していたと報じた。

 TBSは、当該土地の取引のあった1991年はじめ、佐川急便は経営状態が悪化していたにもかかわらず、相場より50億円近くも高い金で読売から土地を買ったとし、その背景について「読売新聞の渡邉恒雄社長と、東京佐川急便社長だった渡辺広康容疑者、トップ同士のコネクションが決め手で、大物政治家の影もちらついている」と解説した。

 しかし、ナベツネはこの報道に対し、「正当な取引」だと主張し、渡辺広康とは「パーティで一、二回会っただけ、土地の話なんてしていない」、交渉も「担当部署が行っていて、自分は無関係」と完全否定。読売新聞社も、報道の取引価格や実勢価格が出鱈目だとして、TBS に1億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。しかも、さまざまなメディアの取材にナベツネ自身が応じて、「TBSはインチキばかり垂れ流す」と吠えまくった。

 こうした勢いに押されてか、他のテレビや新聞はTBSの報じた疑惑を一切検証しようとしなかった。週刊誌も問題を「読売とTBSの喧嘩」に矮小化したり、「TBSの勇み足」とむしろTBSを批判するトーンが大勢を占めた。そして、そのままほとんど話題にならなくなっていた。

 しかし『日本の黒幕』は、この読売とTBSの裁判が突然の和解という不可解な決着となったと指摘したうえ、裁判で飛び出していたナベツネの疑惑を裏付ける証言と、政治家の関与の可能性を詳述している。

〈この裁判では、土地取引の一方の当事者である元東京佐川急便社長の渡辺広康(91年7月に同社解雇)が93年7月、東京地裁の出張尋問に応じ、こう証言しているのだ。
「90年11月、首相経験者を含む政治家2人が同席した会食の中で、読売新聞の渡邉恒雄社長(当時副社長)から土地取引を持ちかけられた
 渡辺は具体的な名前をいわなかったが、同席していた首相経験者はナベツネの盟友・中曽根康弘だったといわれている。
 この会食が行われた同じ日、東京プリンスホテルで太刀川恒夫の東京スポーツ新聞社社長就任を祝うパーティーが開かれていた。太刀川といえば、児玉誉士夫の秘書として戦後の裏面史に暗躍した人物だ。
 パーティには、旧児玉系右翼幹部が勢揃いしていたが、乾杯の音頭をとったのがナベツネ、最初にスピーチをしたのが中曽根だった。そして、会場には、旧児玉系右翼に280億円もの乱脈融資をしていた東京佐川の渡辺広康の姿もあった。
 TBSは3人がこのパーティーから抜け出して、千代田区内の料理屋で土地の交渉をしたと見ていた。
 いずれにしても、ナベツネが政治家同伴の席で、土地の話を持ち出したことを、当事者である元東京佐川・渡辺が裁判で証言していたのである。取引金額がいくらだろうが、これだけでも報道機関のトップとして許される行為ではないだろう。〉


■政治家と癒着し日本の政治を左右してきたナベツネ 批判も追及もせず放置してきたマスコミ

 さらに、『日本の黒幕』は、マスコミが一切報じてこなかった、贈収賄事件で逮捕された大物政治家とのただならぬ関係についても指摘している。

 その政治家とは元建設相の中尾栄一。中尾は2000年6月30日、建設省発注の工事をめぐり、中堅ゼネコン・若築建設から6000万円の賄賂を受け取ったとして、東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕された。若築建設は許永中の裏金づくりの舞台になった石橋産業の子会社で、中尾への賄賂は許永中の政界工作の一端ともいわれた。

 ところが、マスコミは報じなかったが、この逮捕で驚きの事実が判明していた。同書を引用しよう。

〈問題は、逮捕当日、中尾の地元・山梨県甲府市に本社を置く「日本ネットワークサービス(以下・NNS)」という会社が同容疑で特捜部から家宅捜索を受けたことだった。
 NNSは山梨県内約18万6000世帯が加入する大手ケーブルテレビ局だが、以前は中尾栄一の典型的なファミリー企業だった。当時の経営陣は、代表取締役会長が中尾栄一、社長が長男・嶺一、取締役に姉の栄子。しかも、NNSの東京支社は、石橋産業の発行小切手を裏書きするなど、事件の鍵を握る中尾の政治団体「東京山栄会」と同住所にあった。
「当時、特捜部はNNSの子会社が裏金づくりに関わっているのではないかと見て、ガサ入れをしたようだ」(当時の司法担当記者)
 ところが、マスコミ各社がこのガサ入れでNSSの法人登記簿を取り寄せたところ、驚きの事実が判明する。取締役欄に「渡邉恒雄」の名前が記載されていたのである。
 たしかに、中尾はナベツネの盟友・中曽根康弘の腹心中の腹心で、ナベツネとも非常に親しい関係にあった。ナベツネが政局を動かす際の料亭密談にもしばしば同席しており、たとえば、98年に自自連立を仕掛けた際も、野中広務との料亭での会談に中尾を「見届け人」として同伴していたと報じられている。
 しかし、親しい政治家とはいえ、報道機関のトップが、汚職政治家のファミリー企業の取締役を務めているとは……。さらに、驚かされたのは当時のNNSの株主だった。筆頭株主は約76万株を保有する中尾栄一だったが、その中尾に次ぐ大株主が読売新聞社だったのである。〉

 この後、記事はナベツネが中尾の会社に取締役として入り、読売新聞が大株主となった経緯についても、記している。詳しくは同書を読んでほしいが、問題は、ナベツネのこうした問題をある時期から、メディアがほとんど報道しなくなったことだろう。

 メディアがマスコミトップと政治権力とのありえない癒着を追及せずに放置してきた結果、ナベツネは日本の政治を左右するフィクサーと化してしまった

 『日本の黒幕』はマスコミが追及に及び腰になっていた要因についても検証した上、いまの状況を予見するような文章で記事を結んでいる。

〈戦後政治を牛耳ってきた “最後の大物フィクサー”渡邉恒雄も98歳。そう遠くない先、泉下の客となる。
 しかし、そのとき、メディアが流す夥しい数の追悼特集や回顧報道をどう総括するのだろうか。
 現状を見る限り、本稿が指摘した「罪」や「裏面」にまで踏み込む動きが出てくるとは、到底、思えないのだが……。〉

((編集部/文中敬称略))
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●《看護師で登山家の渡邊直子さん…世界に14座ある標高8000m以上の高峰を完全制覇し、日本人女性初の「14サミッター(サミットは山頂の意味)」》に

2025年01月01日 00時00分00秒 | Weblog

(2024年12月15日[日])
2013年06月29日のブログ『●「自己責任」を叫ばれた人の立場』…《冒険家は本来称えられるべきなのだろう。小心者で空疎な小皇帝石原慎太郎元「ト」知事はかつて堀江健一さんに因縁をつけた訳ですが、その冒険心の無さを図らずも露見させました(大略 by 本多勝一さん)。辛坊氏が救助されたこと、何よりも良かったと思う。でも、今回の件、単に目立ちたがりだった側面は無いのだろうのか? 24時間テレビに関連してた、との噂もある。準備や訓練の状況は十分だったのだろうか?》
 ここで云う「辛坊氏」とは、あの辛坊治郎氏のことである。あのお維べったりの、お維広報官のことである。

   『●「自己責任」を叫ばれた人の立場

 さらに、以下のように続く…《一方、あの頃の集団ヒス的状況、思い出すたびにゾッとする。

   『●『戦争と平和 ~それでもイラク人を嫌いになれない~』読了(1/2)
   『●『戦争と平和 ~それでもイラク人を嫌いになれない~』読了(2/2)
      「しかし、彼女ら (郡山さんと今井さん) の予想は全く裏切られ、
      「自己責任」とばか騒ぎし、醜悪なバッシングの嵐。解放後、
      「生まれ故郷に帰るのに「覚悟」が必要」(p.141) な国って、
      いったい何?? 解放後の「新たな不安と恐怖」(p.147) は、
      拘束時以上だったのではないだろうか…。」
      [※: 高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さん]

 橋下徹元「ト」知事も「自己責任」というお言葉がたいそう好きだったように思うのですが、ブログ主の勘違いでしょうか? 他人(公務員や教員、弱者等々)には厳しく自己には甘い様に見えます》。
 その際、引用した記事の中の天木直人氏の言葉:

   「正確な言葉は忘れましたが、あのころ辛坊氏はイラク戦争に
    反対している人々に厳しい態度を取っていました
    人質になるというヘマをしでかすとはけしからん、と言わんばかり
    だったのです。彼は時の権力者側に立ちたがる人。だから弱者に
    厳しいのですそもそも今回の航海については、万全の備えや
    訓練を積んで出発したかも疑問です。自己責任を振りかざした人が
    大勢の尽力によって、イラクの人質たちみたいに助け出されたとは
    皮肉で滑稽な出来事。辛坊氏は当分、自己責任論を語れないでしょう」



 さて、そんなことを思い出した東京新聞の記事…《日本人女性初…14サミッター》。
 竹村和佳子記者による、東京新聞の記事【8000m峰に魅せられた破天荒看護師の渡邊直子さん 雪崩もトイレトラブルも乗り越え日本女性初の14サミッターに】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/365415)、《今秋、日本の登山界に快挙の知らせが届きました。このコラムでも何度かご紹介した看護師で登山家の渡邊直子さん(43)=福岡県大野城市出身=が、世界に14座ある標高8000m以上の高峰を完全制覇し、日本人女性初の14サミッター(サミットは山頂の意味)」となりました》。

 以下は、日本赤十字豊田看護大学のWP:

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https://www.rctoyota.ac.jp/news/collegenews-news/30509.html

祝!2期生渡邊直子さん日本人女性初8000m峰14座登頂達成!
2024.10.15ニュース

本学2期生(卒業生)・現役看護師であり登山家である渡邊直子さんが、日本人女性初の8000m峰14座登頂を達成しました! おめでとうございます!!

渡邊さんは本学にお越しいただいた2022年時点で13座登頂済みであり、残り1座(中国のシシャパンマ8027m)の登頂許可を待っていると語っていました。
今秋やっと中国政府の許可がおり、2024年10月9日ついにシシャパンマ登頂!
地上に14座しかない標高8000メートル以上の高峰を全山登頂しました。

「(14座登頂後は)ヒマラヤで世界中の子どもたちに冒険を楽しんでもらったり、疲れた大人たちを元気にする活動をしたい」とインタビューで語っていた渡邊さん。本学はこれからも渡邊直子さんを応援します!


【本学広報紙「いとすぎの丘」vol.36での渡邊さんインタビュー記事はこちら】
https://www.rctoyota.ac.jp/wp-content/uploads/2022/11/ITOSUGI36.pdf

【本学へお越しいただいた際の様子】
アジア人女性初を目指す登山家ナース渡邊直子さん(卒業生)来訪 | 日本赤十字豊田看護大学 (rctoyota.ac.jp)
登山家ナース渡邊直子さん(卒業生)へ目録贈呈! | 日本赤十字豊田看護大学 (rctoyota.ac.jp)
同窓会 定期総会・里帰りイベントを開催しました | 日本赤十字豊田看護大学 (rctoyota.ac.jp)

【渡邊直子さんの近況が分かるSNS
Instagram:@naokowatanabe8848
https://www.instagram.com/naokowatanabe8848/


congratulation‼
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https://www.tokyo-np.co.jp/article/365415

8000m峰に魅せられた破天荒看護師の渡邊直子さん 雪崩もトイレトラブルも乗り越え日本女性初の14サミッターに
2024年12月6日 12時00分

山にまつわるエトセトラ⑩

 今秋、日本の登山界に快挙の知らせが届きました。このコラムでも何度かご紹介した看護師で登山家の渡邊直子さん(43)=福岡県大野城市出身=が、世界に14座ある標高8000m以上の高峰を完全制覇し、日本人女性初の14サミッター(サミットは山頂の意味)」となりました。

 最後の1座は世界14番目のシシャパンマ(8027m=中国)。コロナ禍などで中国の入山許可が下りなかったり、昨年は雪崩などもあって途中撤退したりと苦労もしましたが10月9日、2度目の挑戦で登頂に成功しました。

     (シシャパンマ登頂を果たした渡邊直子さん(中央)と、
      一緒に登ったミグマル・ドンドゥプ・シェルパ㊧、
      プルバ・シェルパ㊨=10月9日午前8時35分
      (渡邊直子さん提供))

 マイナス数十度にもなる極寒、酸素濃度は地表の3分の1…人間が生存できない死の領域という意味から「デスゾーン」とも呼ばれる標高8000mの世界。実際に死と隣り合わせの過酷な経験を何度も味わっているというのに、ヒマラヤは「素の自分に戻れる場所」、14サミッターの快挙ですら「特別な感情は無かった」と言います。

 昨年のインタビューで伺った通り、渡邊さんの夢は「日本の子どもたちをヒマラヤに呼んで冒険させたい」というもの。雪崩を乗り越えての登頂、その陰にあった「面白エピソード」、夢の「ヒマラヤトレッキング」の進捗具合など…ロングインタビューをお届けします。(竹村和佳子)


◆二度とない「カオス」な状況の方が

 2年越しで果たした14座コンプリート。ようやくたどり着いたシシャパンマの頂上は、さぞかし感慨深かっただろうと思ったが、「登っている間は特別な感情が出てくるのかなと思っていたけど、着いてみたらやっぱり普通、いつもと変わらない山頂」と意外な返答。

     (14サミッター達成となったシシャパンマ登山の様子を
      語る渡邊さん(七森祐也撮影))

 「むしろ、登頂日がもっと延びないかなって、ずっと思っていた。一生のうちにもう二度とないだろうという『カオス』な状況だったから、私の14座より、その特別感をもっとたっぷり楽しみたかった」

 その状況というのは、この2年間の足踏みとも関係がある。標高8000m以上の14座はすべてヒマラヤにあり、ネパール、インド、パキスタンなどに分布するが、シシャパンマは中国のチベット自治区内にある。新型コロナウイルスの感染拡大で中国は厳格なゼロコロナ政策を敷いたため、昨年春までは外国人に入山許可がほとんど下りなかった。


◆待ちに待って…山頂はスター勢ぞろい

 やっと許可が下りた昨年秋はシシャパンマ内の数カ所で雪崩が頻発し頂上アタック中の4人が死亡。別の場所ではあるが渡邊さんも雪崩に遭い、様々な条件を考慮して標高6965m地点で撤退を決断した。

 近年、14サミッターを目指す若い登山家が世界中に増えていたが、中国が数年間閉山していたせいで皆最後の1座がシシャパンマ、という特殊な状況が生まれていた。さらに昨年の雪崩事故を受け、今年は全員が、昨年とは違う安全なルートで、頂上まで固定ロープを張られた後に登ることが決められていたのだという。

     (10月10日、登頂を果たしベースキャンプに戻ってきた
      渡邊さん(右端の背中)を祝福する外国人登山家たち。
      渡邊さんの方に手を置いているのは世界最速で14座を完登
      したノルウェー人登山家・クリスティン・ハリラ。その後ろは
      今回ロシア人初の14サミッターとなった
      アリーナ・ペコバ(渡邊直子さん提供))

 かくして、ベースキャンプ(登山拠点)には渡邊さん同様「ここでコンプリート」という登山家が多数集まっていた。「ロシア人初とか台湾人初、最年少達成を目指している子とか、有名なシェルパ(ヒマラヤ登山の案内人)ばかりが20人以上集まっていた。この人もいる、あ、あの人も…みたいな状況、そんな中にいる自分が不思議な気分だった」。渡邊さん自身もその一員なのに、「スター勢ぞろい」を楽しんでいたようだ。

 実はもう一つ、切実に「登頂日が延びてほしい」理由があった。


◆「スーツの中で失禁したんです」

 今回はシシャパンマの前にもう1座、世界8位のマナスルに登ってからシシャパンマのベースキャンプ入りしていた。初めて8000m峰に登りたいという人をサポートするためだったが、………
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