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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

9月26日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年09月27日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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敬老の日「似顔絵展」を「亀戸クロック」に見に行きました。

2022年09月26日 | 身辺あれこれ

今年の4月の終わりにオープンした大型商業施設の「亀戸クロック」に一番下の孫の絵を観に行きました。

幼稚園がまとめてくれて提出したものだそうだそうです。

本屋で「散歩の達人 錦糸町 亀戸 平井」というのが平積みになっていたので購入しました。

一階の店で京葉道路の往来をぼんやり眺めて一休みしました。

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平井・諏訪神社の三百年祭                     13年前の今日2009年9月26日の本ブログに掲載  

2022年09月26日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

東京江戸川区の平井に諏訪神社があります。今年は享保年間に信州諏訪大社からこの地に祭神を勧請して三百年とのことで、盛大なお祭がありました。

二年前の祭のサイトにこうありました。

「下町ならではのイベントとして親しまれているこのお祭りは、町をあげての神輿の練り歩きがメイン。

10時に本社神輿の宮出しが行われると、昼過ぎにかけて平井駅周辺を重さ1トンを超える神輿が練り歩く。

さらに夕方16時には連合神輿6基、子ども神輿1基が平井駅の商店街に登場。夜20時30分ころまで駅周辺を盛大に練り歩き、町をお祭りムード一色に染め上げる。

駅周辺の商店街には露店なども出て雰囲気は最高。」駅を降りるとちょうど神輿が動き始めたところでした。

宮神輿は大正15年の建造で台座は三尺五寸(107cm) 五段の桝組みや木彫が素晴らしい勾欄造りの神輿です。駅から町内をこうして練り歩きます。

この下町で三百年もこうして祭が継続し、町の人が心を合わせて、それぞれお互いの役割を担って参加している様を目の当たりにして感激しました。

 ああ、これが町方が伝えてきた日本の一つの伝統なんだと。


獅子頭の神輿は出番を終わって拝殿の横に置かれていました。




「木遣り保存会」と染め抜いた半被を着ている方々がいたので、声をかけたら下諏訪から4年に一回この祭に招待されて来ているという「諏訪御柱祭」の「木遣り隊」の6人でした。

「長持ち隊」20人と共に朝5時半に下諏訪を立って当地に来られたのだそうです。

  自分は今は神戸に住んでいるが、諏訪に縁がある人間ですと話したら、「来年は御柱の年だで、また来たらいいわさ」と諏訪の言葉で言ってもらって嬉しかったです。

木遣りを歌う時に手にする“オンベ”を見せてくれました。

日が暮れると駅の広場に飾られた提灯アーチに灯が入りました。

これが今身内が住んでいる町内の神輿です。借りる部屋を探して都内をあちこち歩き回った末、条件が合った部屋をみつけて平井に住み着いたのはたまたまですが、

その平井に、祖父母が生まれ育った諏訪の神様がおられるとは、祭があるまで思いもしなかったそうです。

 まさか諏訪の神様が彼らを平井に呼んでくれたのではないとは思いますが・・。

今やこの神輿を、ムコ殿が古くからの住民に混じって喜んで担いでいるのを見るのは心楽しいものでした。

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たまにはニヤリと笑いたい  [お殿さまへオウムを献上]

2022年09月26日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年11月24日(火)
 

お城ヘ出入りの商人が、外つ国から新しく渡来した新種のオウムを手に入れました。

ぜんぶで六羽います。

たいへんめずらしいので、お殿さまに献上することになりました。
 
ところが、このお殿さまは、とても縁起をかつぐお方。


 めでたい数でないと、およろこびになりません。

「まずいな。七・五・三のどれかでないと、まずい。いくらかぞえてみても、

・・・やれやれ、六羽しかおらんわ」

 商人は、しばらく考えておりましたが、

「ええ、ままよ」

と、日本で何代も育ちよく馴染まれているオウムを一羽まぜ、七羽にして、殿さまに献上いたしました。

「おお、これはめずらしい」

殿さまは、たいヘんごきげんで、一羽一羽、念入りにごらんになっていましたが

「はて、遠い外国の新しいオウムと申しながら、見たようなオウムが一羽まじっておるぞ。どうしたことじゃ」

 とたずねられましたが、商人は返事ができず、ふるえておりました。
 
すると、日本生まれのオウムが小さな口をあけてもうしました。

 「お殿さま。わたくしは、通訳でございます」

ちゃんちゃん

江戸小話のアレンジ版

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9月25日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年09月26日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 

 

 

 

 

 

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尖石遺跡 国史跡指定70年の変遷たどる                 長野日報

2022年09月25日 | 諏訪便り

2022年9月24日 6時00分     「特別史跡尖石石器時代遺跡」の歴史を紹介している企画展。土器のほか、書物なども並ぶ

茅野市尖石縄文考古館は23日、国特別史跡「尖石石器時代遺跡」の変遷を紹介した企画展「特別史跡尖石石器時代遺蹟の今まで」を始めた。

尖石遺跡の発掘に尽力した宮坂英弌のフィールドノート(発掘途中のメモ)や、与助尾根遺跡の初代復元住居の設計図などを展示。

土器など遺物のほか、日記や書籍、写真などを並べ、発掘調査の歴史をきめ細かに伝えている。11月23日まで。

1952(昭和27)年に特別史跡指定を受け今年が70年に当たることと、今年3月、明治時代からの遺跡調査を網羅した「総括報告書」が完成したのを記念して開催した。

尖石遺跡名が初めて記載された大正時代の書物「諏訪史」第一巻や、宮坂が33(同8)年に発掘し遺跡調査のきっかけとなった土器2体を展示

合わせて宮坂が記録したフィールドノートや発掘時の写真も置いた。

特別史跡指定前の42(同17)年には国史跡に指定されており、この指定をめぐって地元と文部省とのやりとりを記した手紙や、

49(同24)年に与助尾根遺跡に完成した初代の復元住居の設計図や骨組みの写真も展示した。

現在は、指定地の範囲を調べたり、以前はできなかった花粉分析によって当時の環境を調査したりしている―などと紹介している。

同館は「『国宝』が目立ち注目を集めがちだが、特別史跡は『不動産の国宝』といえる。その価値を改めて感じてもらえれば」としている。

関連イベントとして10月9日午後2時から、シンポジウム「特別史跡尖石石器時代遺蹟 その価値を語る」を開く。

守矢昌文同館特別館長と勅使河原彰・尖石縄文文化賞選考委員、斉藤慶吏・文化庁調査官がパネリストになり、それぞれの立場から語る。

問い合わせは同館(電話0266・76・2270)へ。

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●尖石遺跡(尖石縄文考古館)

八ヶ岳山麓に栄えた縄文時代の文化を紹介
国宝「縄文のビーナス」が展示されてます

八ヶ岳山麓に栄えた縄文時代の文化を紹介。国特別史跡「尖石遺跡」を中心に、
尖石縄文考古館をセンターとした史跡公園となっている。
館内には、美的感覚の優れた国宝「土偶」(縄文のビーナス)を中心に、たくましい力動感あふれる
豪壮な土器や黒曜石で作られた精巧な石器など2000点余りの縄文時代の遺物が展示してあります。
問/尖石縄文考古館 TEL 0266-76-2270  ホームページ

 

 

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尖石・与助尾根遺跡(とがりいし・よすけおねいせき)は、長野県茅野市豊平にある縄文時代中期の集落遺跡。

南側の尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の1つとして知られているが、

現在では同遺跡と浅い沢1つ隔てた北側の台地上にある与助尾根遺跡と一括して扱われることが多い。「尖石」の名称は遺跡の南側にあった三角錐状の巨石の通称に由来する。

遺跡周辺は史跡公園となり、園内には茅野市尖石縄文考古館がある。

概要[編集]

 
尖石遺跡から出土した蛇体把手付土器
 
尖石遺跡の名前の由来となった尖石(とがりいし)

八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にある標高1050-70mの東西に広がる長い台地の上にある。前述のように台地の中央部に沢が走り、北側が与助尾根、南側が尖石にあたる。

尖石遺跡を最初に学界に報告したのは1893年(明治26年)考古学者、小平小平治(湖東村出身)によってであるが、

本格的な発掘調査を行ったのは地元の考古学者宮坂英弌(ふさかず)である[1]。宮坂が当遺跡とかかわったのは、1929年(昭和4年)、伏見宮博英王が行っていた発掘を、

小平小平治の弟で、俳句の師である小平雪人とともに手伝ったのが最初である[2]。1930年(昭和5年)から独力で発掘を開始し、同年には炉跡を発掘。

1940年(昭和15年)からは、縄文集落の確認を目的として本格的な発掘を開始し、途中太平洋戦争を挟んで発掘は1952年(昭和27年)まで続けられた[3]

また、1946年には与助尾根の発掘にも取り掛かった。与助尾根は1935年(昭和10年)に現地を開墾中に発見されたものであったが、この時までほとんど手付かずであった。

宮坂は縄文土器及び石囲炉を手掛りに住居を探すもので、尖石では竪穴式住居跡33か所をはじめ、53か所の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘されたが、

土器に比べ石器の出土が極端に少なく、特に石鏃(41)が少なく、打製石斧45、破片8が見つかっている。

また、与助尾根でも28か所の住居、石鏃10、打製石斧14、破片4、磨製石斧、石皿、凹石など多数を発掘している。

宮坂は、ワナ猟とクリ林、黒曜石の交易が行われていたと考えた。それに対し、藤森栄一は狩猟・採集以外の何かの生業、例えば焼畑農業が存在したのではないかと考えた。

この集落遺跡は、東西170m・南北90mの範囲をU字形に巡り中央に広場が存在していたことが判明し、これによって日本で最初の縄文時代の集落の存在が確認された遺跡となった。

当遺跡は、「尖石石器時代遺跡」の名称で1942年10月14日、国の史跡に指定された。

宮坂の尽力によって、当遺跡は「縄文集落研究の原点」とされる重要な遺跡と位置づけられ、

1952年3月29日には文化財保護法に基づき特別史跡に指定。1993年4月6日には与助尾根遺跡の区域が特別史跡に追加指定された。

追加指定分を含む特別史跡指定範囲の面積は66,933.405平方メートルである[4]

Wikipediaから部分引用  引用元。

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諏訪地方御柱祭最盛期 市街地に掛け声と熱気                    長野日報

2022年09月25日 | 諏訪便り

2022年9月19日 6時00分      諏訪二葉高校近くのカーブを進む手長神社の一之御柱と氏子たち

諏訪地方で御柱祭が最盛期を迎え、3連休中日の18日は諏訪市上諏訪地区の手長、八剱両神社で山出しが盛大に行われた。

新型コロナウイルスの感染対策で沿道の振る舞い酒はなかったが、法被姿の老若男女が力を合わせて曳行。

台風が迫る中、御柱は雨上がりの住宅街や幹線道路、JR線の踏切を進み、市街地は氏子の掛け声と熱気に包まれた。

すでに山出しを終えている先宮神社を含む同地区3神社は1週間後に里曳き、建て御柱を繰り広げる。

■手長神社

手長神社は一之柱が角間新田上、二、四之柱が胡桃久保、三之柱が金山から曳行を開始。

担当地区の住宅街を経て旧甲州街道で合流し、国道20号を進んで赤羽根の御柱置き場に無事曳き着けた。

一之柱は正午すぎに諏訪二葉高校前から「大根坂」を下り、北澤区の集落へ。続いて二之柱が近くの地蔵寺横の駐車場で旋回して南澤区に進んだ。

ともにカーブが続く細い道だが、元綱やてこ衆らが一致団結し、「あらよいてーこしょ、よこさっ」「さあー、さあー」などと声を合わせて”難所”を乗り越えていた。

子どもたちも元気いっぱいの姿を見せた。

元町交差点から国道20号に向かう二之柱の先頭に乗った上諏訪小学校3年の児童(8)は「揺れすぎて怖かったけど楽しかった」と笑顔で話していた。

八剱神社click

御柱置き場の高島城・冠木橋前に到着した八剱神社の一之御柱と、最後の力を振り絞る氏子たち

八剱神社は新型コロナの感染対策で、諏訪二葉高校上だった曳行開始地点を国道20号下の3カ所に変更した

一之柱と二之柱は旧JA小和田支所跡地、三之柱はスワテック建設前、四之柱は杉菜池から出発。担当地区を回る新ルートもあり、御柱は市街地を和やかに曳行した。

一之柱と二之柱は新小路の細い路地をぐんぐん進み、かまぼこ型の踏切も一気に横断した。

暗くなると各柱は地区名が書かれた弓張りちょうちんを掲げ、御柱置き場の高島城周辺で時代絵巻を繰り広げた。

「えんやーらよー」などと独特の節回しと歌詞の木やりが曳行を盛り上げていた。

最後の一之柱が時間通りに高島城前に到着すると、花火が上がり、氏子の熱気は最高潮に達した。

御柱曳建長の桑原良次さん(62)は「良い天気の中で楽しくお祭りができてよかった。里曳きに弾みがついた」と語っていた。

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大相撲秋場所九日目  その一                 13年前の今日 2009年9月25日の本ブログに掲載

2022年09月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

11時半ごろには両国の国技館に入りました。席に荷物を置いてからチャンコの列に並びました。

今場所、国技館で出されるチャンコは九重部屋のレシピで、当日はしょう油チャンコでした。塩チャンコの日もあるそうです。

12時前から長い列が出来ていましたが、動き出すとそう待たされることなく食べる事が出来ました。

お椀にたっぷり野菜やカシワ、こんにゃくなど具沢山で満足しました。一杯250円という値ツケも絶妙だなと思いました。


 まだ早い時間なのに正門から、わたしたちを含めて老若男女、善男善女が切れ目なく入場していました。

切符は東京の身内が、売り出し初日に必死で電話してなんとか向正面の後ろの升席を確保してくれていました。

切符そのものは全国のコンビニで受取れるというのは便利なことです。

売り出しの翌日からはネットでも予約できるそうですが、おそらくいい席は初日に売れてしまうのかも。

この時間は3段目の取組みで前の方に行って見ていてもいいようです。
ここは向正面でいつも舞の海親方が解説する席のようでした。

驚いたことには若い女性4人組の升席があったり、若いカップル二組の4人の白人が狭い狭い升で初めから終わりまで楽しんでいたりしていました。

琴欧州や把瑠都など東欧からの白人系力士が増えたことも影響しているのかも知れません。

 子供の頃、連合国のでかい白人系占領軍兵士の姿を見てきた身にとっては、世の中にはハングリーな白人たちもいて、

極東の金持ち国へきて、日本人なら違和感はないふんどし姿での出稼ぎもいとわないのだという、考えたらごく当たり前のことを、大相撲が教しえてくれています。


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9月24日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年09月25日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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月下美人が4っ同時に咲きました。    その2

2022年09月24日 | 花・草・木・生き物

 その1より少し時間が経ってからの画像です。

 

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映画「ゼロの焦点」を見ました。  松本清張の 同時代に生きた者へのレクイエム

2022年09月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年11月20日(金)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

ぐいぐいと引張っていくドラマ作りは骨格がしっかりしていました。これぞ映画館で見る映画だというほんまもんの映画でした。  

 好きな女優が三人出ているのと、原作が松本清張だという理由でこの映画を見に行きました。

女優3人とは広末涼子、中谷美紀、木村多江のことです。「おくり人」の広末涼子、「嫌われ松子の一生」と「白洲次郎」の中谷美紀、

「上海タイフーン」の木村多江。それぞれが今、旬の役者さんばかりで、3人それぞれがその個性をだして役割をリアルに演じていました。

この映画は太平洋戦争の結果、突然社会の下層に落とされた それまでは普通に暮らしていた生活者と、そこにからむ新婚夫婦の突然の暗転を描いた映画です。

結婚した夫がどんな人間か殆ど知ることがないまま、夫が失踪する。夫の過去を以前の任地である金沢に訪ねるしかない新妻。ある意味推理小説仕立てですが、それは本題ではありません。

 松本清張と太宰治。一人の人気作家が心中で死んだ頃、もう一人は全く無名の小説家志望者でした。その二人が共に今年生誕100年だそうです。

二人の生まれ育ちは両極端というほど違いますが、二人が生み出した作品は今も沢山の読者に読まれている。凄いことだと思います。

三島由紀夫が編集委員の一員で発行されたある日本現代文学全集。三島由紀夫が一人がんとして松本清張の作品を全集に入れることを反対して清張は外されたそうです。

この『ゼロの焦点』という原作は読んでいませんが、小説が取り上げた人間とその人生は、この映画を見る限り三島の審美眼、彼の生きた世界とあまりに違いすぎて、

三島にとってはおぞましく見たくもない日本人たちだろうと思います。

そのぶん、私には松本清張にとっては書かずにはおれなかった 彼が生きた時代の歴史の証言、あるいはその時代を生きた自分の仲間たちへのレクイエムのような気がしました。

冬の能登半島の荒涼とした風景や金沢の町並みはCGも使われているのかもしれませんが、エンドクレジットで韓国Unitの多くのキャストの名前が流れ、

ああ韓国でロケした場面が多いのだと知りました。 主役は広末涼子ではなく、実際は中谷美紀だと思いましたが、いずれにせよ木村多江と三人三様、

プロの女優が互いに火花を散らして演じるのを見せてもらいました。  引き込まれて見終わりましたが、なぜ耐火煉瓦会社(中谷美紀役の夫)の社長が自殺したのかは

自分には唐突でした。しかしよく出来た脚本のわずかなこのキズは、この映画全体の価値を貶めるものではありません。

それにしてもラストの「オンリーユー」の曲の使い方を見ても、この監督の遊び心があちこちにあるのがわかり、この映画も海外マーケットを視野に入れているのだろうと思いました。

キャストとスタッフが力をあわせ、今年発表された日本映画のラインアップの中でも上位にいく映画を作り上げた。秀作だと思いました。  本稿は Yahoo 映画レビュー欄に掲載clickされた。

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神戸市灘区の石屋川から都賀川まで二駅分を歩く              11年前の今日 2011年9月24日の本ブログに掲載

2022年09月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

☝二駅のあいだの六甲川。六甲山からは沢山の急流の小さな河川が流れ出す。

阪急電車の駅間でほぼ二駅分を歩きました。ルートは神戸市バスの路線の中で六甲山の麓に一番近い②系統のバスが走る道です。

 灘区の東端から歩きだして、王子公園駅そばの都賀川沿いの居酒屋“いなかもん”まで約6000歩の距離です。

日頃は車かバスで通るのであまり気が付かないけど、空き地に大きな新築の家が出来ていたり、新しいマンションの工事があったりと変わっていっています。

〇下は昭和20年代によくあった木製の外壁ですが、このあたりではこの一軒だけに残っています。


〇六甲登山口の交差点そばに、このプレートをかけた歯科、鹿島歯科は健在です。

〇このあたりに45,6年前に3年間ほど住んでいたのでやはり懐かしい。




〇居酒屋“いなかもん”には五M会の三人と小唄のお師匠さんの四人が集まりました。

亡くなった俳優の杉浦直樹さんとテレビドラマの仕事で付き合いがあった宮崎純さんから、彼は酒豪であったとか

彼にまつわるいくつかのエピソードを聞けたのはこの夜の望外の僥倖でした。

向田邦子ドラマに欠かせなかった杉浦直樹さん。このNHKドラマ「あ・うん」の主役フランキー・堺さんと同じで、

自分と同時代を生きた人が消える寂しさを感じます。杉浦さん、長く楽しませてくれてありがとう。

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9月23日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年09月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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亀戸のブラッスリー「Decary」でランチ

2022年09月23日 | 食べる飲む

ランチメニューの中から 二人とも魚を選んだ。皮の焼き加減が絶妙だった。たっぷりの新鮮なサラダ菜も全て腹に納まった。

パンもソースもチリの赤のグラスワインも旨かった。聞くと店をオープンして8年になると。続くだけのことはあると思う内容の店だった。

食べ終わって すぐ近くの最近できた商業施設モールの「亀戸クロック」をぶらぶらしたら本屋に

「散歩の達人 錦糸町 亀戸 平井」号が平積みされていて買ったら 「Decary」の取材記事が掲載されていた。

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小説家 原田康子さん死去、  北海道の釧路と九州の佐賀はつながっていた

2022年09月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年10月24日(土)

小説家の原田康子さんが81歳で亡くなった。自分と同時代の、活字で名前を知ってきた人が亡くなると、なんとなく寂しく感じる。

昭和31年に出版された当時28歳の原田康子さんの小説「挽歌」は、社会的現象になるほどのベストセラーになった。

当時中学生だった私は、小説を読んだ記憶はないが、映画化もされたりして、北海道の釧路が舞台だということは頭に残っている。

作者が東京在住ではない若い女性だというのも、当時話題になった理由の一つだった。

     釧路を旅行したとき、佐賀に多い「古賀」という苗字のお店が多いので不思議に思った。

その疑問は、帰宅して間もなく原田康子さんが書いた一族をテーマにした大河小説「海霧」のお陰で晴れた。 

「日本あちこち記#15 <釧路から旭川へ その二> 2002.10記」
から一部抜粋

③ 釧路市街を走っていると、古賀電気店とか、古賀内科とか佐賀発祥の古賀姓の看板がよく見えました。

相方に「おかしかよねー、なじょうして釧路に佐賀の苗字が多かやろね」と九州なまりで言って、いい加減にやめなさいと怒られながらも、

それから一時間ほど九州弁もどきを喋りながら走りました。

この旅行から帰って暫くして新聞で、吉川英治文学賞を原田康子さんが、「海霧」で受賞という記事が出ました。

あらっ、「挽歌」の原田康子さんってまだ小説を書いていたんだと思いながら記事を読みました。

それによると、明治維新早々、当時の旧佐賀藩が明治政府から釧路地方の開発、統治を委託され、佐賀から士族、商人、農民から漁民まで殖民で沢山の人が移民した。

そのうちのある一族の女系三代記を書いたものが「海霧」だと書いてありました。

そうか、釧路に佐賀の苗字「古賀」が多いのも それなら納得と相方に得意顔ですぐ報告しましたが、「ああ、そうなん」という返事のみでした。

< 釧路から旭川へ その二>の全文はこちら

#14  釧路から旭川へ その一

昨年10月の連休に釧路から旭川まで3日間走って来ました。
秋晴れの下、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、三湖全部をきれいに見ることが出来ました。

北海道は、学生時代の1965年にぐるっと全体を、3週間ほど一人旅をしたのが最初です。
大阪から急行「日本海」で青森に出て、青函連絡船で函館に入り利尻、礼文島を含め
道南地方を除いた殆どの北海道を回りました。
 当時は夏休みにユースホステルを使ったり、駅で寝袋で泊まったりして北海道を学割の
周遊券を使い、貧乏旅行でまわるのが関西の学生のはやりでした。

 仕事で何回か行った事を除くと、その次は十数年前、会社から勤続25年で
もらった旅行券に金を足して、道南地方を3泊4日、レンタカーで相方と今回と同じ
紅葉の時期にまわりました。

 その折り、ふだんは家に車を持たない人間が運転していても、土地の人が地道を時速
100キロで普通に走る状況に合わせて走らざるをえず、1日が終わるとホテルで
肩がこって仕方ありませんでした。無意識ながら相当緊張して運転していました。
 北海道は当時も今も車の死亡事故日本で一番多い。それは運転するとすぐ納得
出来ます。高速道でなくとも、直線状の地道をどの車も100キロ走行が通常ですから。
いったん事故があれば必ず死人がでて不思議ではないスピードで走っています。
 
今回は、まず釧路に飛び、自宅のインターネットで予約していたレンタカーをピックアップしました。
空港近くのレンタカー会社で手続きをして、乗る事になった車が一度運転してみたかった
スバルのレガシーツーリングワゴンだったので、ついていました。
予約ではエンジン容量は指定しますが、車のメーカー名、車種までは確定してくれません。
これから阿寒湖や摩周湖を廻って旭川空港で車を返すまでほぼ丸3日間を運転する訳
ですから幸先がいいと嬉しくなりました。
 
走り始めの最初は丹頂鶴のコロニーに行きました。
 

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