阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。あちこちでShootする写真日記。お遊びもあり。

餘部鉄橋

2007年01月04日 | ゲストルーム
新年に神戸市灘区にお住まいのK・O先輩から頂いたメールに嬉しい画像が添付されていました。

「ところで、昨秋、餘部鉄橋に行ってきました。
今年、コンクリの橋になるとか新聞で知り、急に行きたくなりました。
この写真の光景は、もう見納めです」とのことです。

O先輩、貴重な画像を有り難うございました。素晴らしいアングルで撮影されましたね。
学生時代にこの鉄橋の上を走る列車に乗ったような記憶があるのですが往時茫々ではあります。


参考;兵庫県香住町(現、香美町)から兵庫県浜坂町(現、新温泉町)付近の日本海沿いは厳しい山岳地形であり、当初より線路の敷設については必然的に山間部を通す必要があった。

しかし、余部集落付近については、特に地形の特殊性から、集落を見下ろす形で京都方面、鳥取方面より伸びてきた線路を、集落を跨ぐ形で繋がねばならず、当時の鉄道院技師、古川晴一により、アメリカ人技師の意見を取り入れてトレッスル橋と呼ばれる方式にて建設が始まった。橋脚の鋼材は、アメリカンブリッジ社のペンコイド工場より九州の門司港経由にて余部沖に運ばれ、1910年(明治43年)8月に陸揚げされた。完成までには33万円を超える巨額と、延べ25万人を超える人員を投入し、また大変危険な工事であったため、作業員には2万円もの保険が掛けられていた。

この橋の建設は山陰本線建設において西隣の桃観トンネル(桃観峠大隧道)に次ぐ難工事であり、この橋と桃観トンネルの完成により京都駅から出雲今市駅(現・出雲市駅)までが全通となった。完成より90年を超えた現在でも、トレッスル橋としては国内最大であり、初期の鉄道建築としても、高い存在意義を有している。

1911年(明治44年)、「鉄道唱歌」に倣って作成された「山陰鉄道唱歌」(作詞:岩田勝市、作曲:田村虎蔵)では、「山より山にかけ渡し み空の虹か桟(かけはし)か 百有余尺の中空に 雲をつらぬく鉄の橋」と歌われた。

1927年3月7日の北丹後地震では橋桁が落下し、山陰本線が一時不通となっている。

この記事はこちらからの引用です。詳細は引用先でお読みください。
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1 コメント

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餘部鉄橋 (磯のすー)
2007-01-04 22:46:54
本当に素晴らしいアングル、又、2~3時間に一度ではないかと思うタイミング撮られた素晴らしい画像だと思います。
何回も乗ったルートです。当方も永久保存させて頂きます。

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