シリーズ「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録━震災の中の人々━」 。
全画像を撮影されたのは報道写真家の栗田格さんです。 ©Kaku KURITA
「取材者の記憶」
あの日は、神戸の地震のニュースを息子の電話で知りました。「大きな地震らしい」というのが第一報でした。それを聞いて即座に行動を起こしました。
まずは、現地へセスナで行くために飛行場へ向かいました。東京はあの日は一面の青空で、とても暖かい日でした。スライドのフィルムをカメラにつめて、
美しい富士山を眺めてから伊丹に向い、伊丹を過ぎると2分もしない間に空は、真っ黒になりました。
急いで高感度のネガフィルムをカメラに詰め替えました。それまでの青空が突然真っ黒な空に変わったのです。
神戸上空に入り風上にまわると、無線で低空飛行の禁止が出て パイロットに緊張がはしり、安全な方向からの撮影となりました。
下を見ましたが消防車は見えなく、人と炎が見えました。消防車は道が通れなかったのですね。また消火したくとも水も無いのが現状だったのです。
上空からの撮影を終えて大阪の八尾飛行場に向かいましたが、着陸希望の飛行機が多すぎて、降りられませんでした。
やむなく名古屋の小牧に向かいましたが、その時は、全員がトイレに行きたくなっていたことを思い出します。
名古屋から、新幹線で東京に着いたのが、夜の9時すぎ、現像所にフィルムを入れて、それをスキャン、
そしてパリに伝送(デジタル送信のスタート時代でした)が終わったのが明け方でした。そのまま再び、始発6時の新幹線で大阪に向かいました。
「取材者の記憶」は次回へ続く
「取材者の記憶」は次回へ続く
☆ 災害現場には東京、大阪はじめ日本全国のテレビ局・新聞社は勿論、全世界から取材の報道カメラマンが阪神、神戸に入りました。
しかし彼らの多くは被害を受けた市民から撮影を拒まれたそうです。なぜなら彼らは、被害者に声をかけずに、了解もなくシャッターを切ろうとしたからです。
栗田さんは、画像に残る人びと全員と言葉を交わし、写真を撮ってもいいよと了解をもらった場合だけ撮影されたそうです。
翌日撮影の画像
倒れた阪神電車の高架
絶対に倒れないと建設省が言っていた阪神高速道路
壊れた家屋
昼ごはんを食べる応援者
栗田格報道写真家のインタビュー記事はこちら。
忘れてはならない、出来事でした。誰も予測も出来ない大震災でした。東北、北海道、海外もどこに起こるか予想出来ない地球異変、無事が有り難い現実を大切に、次の世代が、無事である事を祈ります。
インタビュー記事は 昔も今も変らない根っこがあります。再度、カメラを持てるのは???
どこに地震が来るか未だ、誰も予測ができません。世界に天災が多いこの頃、自衛のしようも無いです。日常無事が一番大切な宝かと。
毎年、掲載頂き、写真で見る事実は、大切です。撮影した人のお役目です。昔から言います。一枚の写真は何文字の言葉より、真実を伝える。真実は過酷でもあります。
感謝
貴重な写真の数々をあらためて拝見しています。
当時渦中にいた人間には全体像はわかりませんでした。ブログを続ける限り毎年掲載したいと思っています。
これは、写真が語る 真実です。あれから、26年、人は忘れてはならない出来事です。現場の写真がどんな言葉に勝ります。
息子にメールしました。彼の早い電話が、出来事のスタート、記録の早さ、大切さを感じます。
神戸のご家族の現場報告は本人しか書けない真実です。でもご無事で、何よりでした。
今日の朝日に 奥さんと赤ん坊だった3男を亡くし父親が、3人の子供を育てた話しがあります。感動しました。
地震は何処にくるか誰も分りません.ここ、千葉、東京にくるか? 最低限の用意は必要です。水とリックはあるのですが?