阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

「1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録-震災の中の人々-」     第三回/全五回

2022年01月16日 | 1995年1月17日 阪神淡路大震災の記録 

(初出 2010年5月30日。)

報道写真家・栗田格さんの記録シリーズ第3回です。全写真©.Kaku KURITA


 地震の翌日、大阪から電車で甲子園口に向いました。鉄橋を挟んで大阪側は、何も変わらない風景、鉄橋を渡った西宮側は、全く別の風景でした。
甲子園口から歩き出すと、家がつぶれていて、別世界に入りました。
○どんどん歩いて行くとあちこちに避難のテントが出来ていました。避難のテントのまわりに子供達が普段と同じ状態で遊んでいる。
まるで、キャンプを楽しんでいる様子に出会いました。後ろでは、大人達が茫然自失の状態でぼんやりしていました。
大人達は、現実に呆然、子供達の周りは、明るくにぎやかな空気がありました。
(トップの画像)
***
ハイウエーから落ちたトラックが炎上して、積んでいた飲料水などサイダーや、カンが路上に散らばっていました。30時間以上そのままで
散らばっていたのです。1人の子供がカンをひろって飲みました。大人 達は、目の前にある現実にもどり、2分後には、何も無くなりました。
外国の記者が「日本はすごい、海外ならば 自販機なども、壊して中味 は、直ちに略奪される」と言いました。それだけ地震のショックに大人達は思考力を
失っていたと思いました。カンを拾う人々は見ましたが、写真は撮りませんでした。
日本人には、他人様のものをと言う意識があります。子供の力は、すごいものだと感じた一瞬でした。
***
○地震の次の日、最初に自分が声をかけた人は、壊れた家の中に入る人でした。中を見てくれと、こんなになったんだと招き入れてくれた人は多分家族は
助かったのだと感じました。印象的だったのは、被災者にもかかわらず、表情が穏やかだったのです。人間、極限状態になると、反対におだやかになれる
事が驚きでした。


○広い道を歩いていたら、道ばたに老夫婦が休んでいました。24時間前に被災して駅に向かう途中の様でした。
二人の後ろは、何も変わらない家がありました。途方に暮れた感じでした。


○もう、6日後ですが、近所の人にささえられている男性に出会いました。彼は、家の中に息子がいると信じて、目を離すと家に入ろうとするのです。
 近所の人達が 連れ戻す日々だそうです。ご近所の人達のやさしさです。今の東京では、隣りの人が誰かも知らないですが、
古い町は、人々のつながりの優しさがありました。当たり前の連帯感です。最近は、困った時に助け合う、当たり前が無くなりました。


○家族は無事であることを聞いてから、金沢からかけつけた大学の先生が、屋根の上で家がなくなったと驚いている姿にであいました。
古い家の 瓦は、重いので、そのまま家が沈み屋根が残るのが日本の家屋です。彼は、金沢大学の先生で、屋根の上で呆然としていました。


○周りが崩壊している中、いつもの様に立ち話をするおばさん二人に出会いました。
まるで昨日と同じです。極限を超えてお互いの安全を語り合っていたのでしょうね。


◎人間が極限を超えた時の 人々のすばらしさに沢山出会いました。それとは逆にカメラを向けると、後ろを向いて行ってしまうのは、他地方からの
泥棒さんだと、後で新聞報道で知りました。
◎取材をしていたとき、自分が最初に長野から東京に来た昭和22年の戦後を思い出していました。
子供には、見る物が、珍しく大人達は、これからどうしようと言う悲壮感と呆然自失がありました。戦時中の記憶と、神戸地震の人々の様子が重なりました。


写真を見ると、自分と家族が27年前のあの日以降に体験した記憶は、その歳月の間にかかなり薄れていることに気がつきました。
人間はどうしても思い出したくないことは、無意識に記憶から削除する能力?があるそうですが、そういう部分が私にもあったのだと思います。


☆Kaku Kurita Photo Salon はこちら



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