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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

小沢昭一の「わた史発掘 戦争を知っている子供たち」を読んでいます。

2022年12月02日 | 音楽・絵画・映画・文芸
 
2010年05月12日(水)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

この間から、文庫本でありながら頁数は429Pで値段も1,260円という 小沢昭一が書いた厚い本を読んでいる。

 面白いのでつい一気に読んでしまいそうになるのを抑えて、1日50ページくらいをチビチビと。

オリジナルは昭和51年頃に雑誌「話の特集」に2年にわたり連載されたものだそうだ。

そのころはもう「話の特集」の定期購読はやめて、たまに気が向いたときだけ買っていたので、この連載を読んだ記憶はない。

webによるとこの本の概要は:「戦後民主主義を改めて手にしてみたい」という切なる願いをこめて、「昭和の長男」の一人である著者が自分史を発掘する。

昭和四年の出生から小中学校・海軍兵学校時代、二十年の終戦・復員を経て、早稲田大学入学、二十四年の俳優座養成所入所まで。

母や友人との対話を重ね、激動の時代を浮き彫りにしながら綴る、画期的な「お父さんの昭和史」。

[目次]

出生篇;続出生篇;日暮里篇;蒲田篇;高円寺・良寛篇;小学校篇;初恋篇;村沢先生篇;相撲メン 鯱の里篇;芸能的環境篇

;父の血篇;道塚篇;中学校篇;国領先生篇;海軍兵学校前篇;海軍兵学校後篇;「死」と空襲篇;復員篇;ギンシャリと芸能祭篇;青春多忙篇;青春混沌篇;俳優志望篇;年表篇

  小沢昭一がこの自分発掘をやったのは、敗戦から30年たった時期で、その契機は、世の中の戦前体制復帰のキナ臭い動きに、彼が不安感を持ったことに始まる。

そしてこの本が昨年、文春文庫から版元が変わり、岩波現代文庫で復刻されたのは、それからまた30年が経過してからだ。

 彼が中学受験で府立一中の入試に落ちて、挫折感を持って入学したのが滑り止めの麻布中学。

この中学の同学年がまた凄い。フランキー堺、大西信行、仲谷昇、なだいなだ、加藤武などなど。

その中学時代の生活も面白いし、新潟県境の信州の村で生まれ紆余曲折を経て、東京の蒲田で小澤写真館を開いた父親の人生も辛くて悲しくて面白い。

 この本は昭和4年に生まれた日本人が、どのように最後の海軍兵学校・将校生徒になり、戦後は俳優となって生き延びてきたかを真面目に書いた本で、下手な歴史書よりはるかに面白い。

面白いはずで、ご近所から遊び友達など細部全てが固有名詞で成り立っている。

昭和17年に旧制中学校に入学した彼や、彼のまわりの人らも、今年は81歳になるかそれ以上の年齢になっている。

 まだ小沢昭一が生きている間に、彼の体験に同化してこの本を読めて良かったと思う。

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桐野夏生の小説「ナニカアル」を読みました

2022年11月26日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年05月04日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

2日かけてまず200ページ読んで、昨夜はとうとう最後まで読み通さずにおれなくなって、残りの200ページあまりを読み終え、

ふっとため息をついて本を閉じたら夜中の3時20分でした。
 
なんと面白い、というか、次が気になって途中で止めるわけには行かない本でした。

☆女の作家が実在した林芙美子という女の作家を主人公にした。

夫がいる林芙美子の、年下の男とのアジアの占領地での激しい恋。

40歳で産んだ実子を孤児として引き取る。

  彼女が生きた戦争体制下の「日本国」の実情。「防諜」の一言でどこの誰でも令状無しに捕まえて好きなように拘留できた。

憲兵と特高が目を光らせていた。ずっと見張られる彼女の日々の恐怖。

今の北朝鮮が戦時中の日本のやり方をコピペしていることがよくわかる小説でもある。

この小説に書かれたのは公表されないまま焼却されてしまった林芙美子の作品なのか、真実の記録なのか。

無論、作者の桐野夏生が書いた小説だが、そんなように思わせる構成そのものも面白い。

 気になってはいたけど読んだことがなかった桐野夏生という人は、全く一級品の物書きだと思う。

林芙美子という人間が作った短いが濃い生き様と、その人間が生きた時代は遠い昔のことではなく、いまも同じように続いていると思わせる現代小説でもありました。

[ナニカアル]とは・・

一抹の雲もない秋の昼の山々
七彩の青春に火照る木の間よ
神々も欠伸し給ふ

大地を埋め尽くす静寂の落葉
眼閉じ何もおもはず
吾額に哀しみを掬ふなり
悠々と来たり無限の彼方へ
彼方へ去り行く秋の悲愁よ。

刈草の黄なるもまた
紅の畠野の花々
疲労と成熟と
なにかある・・・・
私はいま生きてゐる。 

☆ここで「なにかある」は反語。何もない。
この小説は一筋縄ではいかない。

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京都国立博物館の「細川家の至宝展」に行きました。        11年前の今日 2011年11月17日の本ブログに掲載

2022年11月17日 | 音楽・絵画・映画・文芸

阪急京都線の終点、河原町で下りて、四条大橋を渡って京阪電車の四条駅から七条へ。


七条駅の地上に出たところで相方からメールで、2番出口1分のインド料理屋の店名が来た

800円のランチはカレーが2種類でスープとチャイもついている。値段なりに可もなく不可もなく。

自然に西宮北口の「デリーキッチン」のレベルの高さを思い出す。

京都国立美術館は七条駅から歩いて7分ほどで、かって正月に大的の弓を引いたことがある「三十三間堂」の真向かいにある。


最近は展示会では、ワンコイン払って「音声ガイダンス」セットを借りる価値があるのがよくわかったので、今回も使用した。

相当人は多かったが、幸いすべてを目の前で鑑賞できる範囲の混雑だった。

鑑賞する対象は700年の範囲のものだから驚く。「細川家」を維持すると言うことは「一つのシステム」を維持することと

同じだなと思いついた。脈略なく、「システム」は日本語でも「システム」と使われているが、大和言葉に直したら

どういう言葉がいいのかなあという考えが見てまわっているうちに浮かんだ。「拵え(こしらえ)」「構え(かまえ)」??

それにしてもこのコレクションは凄い。細川ガラシャや豊臣秀吉の自筆のレターにも驚いたが、1300年代の大型の

軍旗が残っていることも凄い。細川護煕理事長も音声ガイドの中で語っていたが、細川家は戦乱の時代にも

なにしろ大きな火事に会わなかったということは考えられない僥倖だったと。

侍大将と言えども、そもそもを言ってみれば、火つけや強盗の集団からはじまっている。しかし安定期が続くと

「美しいもの」を人の世の最善最上の価値あるものとみなして、それらを集めるパトロネージの精神が自然にこの列島にも現れた。

徳川260年の安定期のお蔭もあって、また細川家代々にも人を得て、これらの中国と日本の「美の極致」が今に残ったと言える。


時計を見ると館内に2時間半いたことになった。ずっと立ったまま、イヤフォーンの説明を聞きながら結構根を

詰めて見て歩いたので疲れ果て、三条大橋袂の舟橋屋に寄って固オカキを買うのは止めて、十三経由神戸線乗換の同じルートで神戸に戻った。

 連続写真アルバム「細川家の至宝 京都国立博物館'11/11/16」 左下のをclickでスタート。

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吉良町の宮崎医院と詩人茨木のり子さん

2022年11月09日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年04月06日(火)

茨木のり子さんのことをネットサーフィンしていたら、愛知県幡豆群吉良町(「人生劇場」を書いた作家・尾崎士郎の出身地であり、また、次郎長の兄弟分、吉良の仁吉が出たところ)

にある「宮崎医院」のHPに出会いました。

HPの“宮崎医院の歴史→初代院長 宮崎洪”を読んで、この病院が茨木のり子さんの長野市出身である父親が創設した病院だとわかりました。

二冊買った茨木のり子の詩集の中に「花の名」がありました。この詩を読んで彼女がどれほど父親を好きだったかを強く感じました。

いま、彼女は早くに亡くなった夫の故郷である山形県鶴岡市加茂の淨禅寺の墓に夫と共に眠っています。

彼女の係累が愛知県で彼女の父親の医院を継いでいるのを知って嬉しく思いました。

 むかし、娘にこんな風に追憶され続けた父親がいたのです。


茨木のり子詩集「鎮魂歌」より   

     花の名

「浜松はとても進歩的ですよ」
「と申しますと?」
「全裸になっちまうんです 浜松のストリップ そりゃ進歩的です」
 なるほどそういう使い方もあるわけか 進歩的!
 登山帽の男はひどく陽気だった
 千住に住む甥っ子が女と同棲しちまって
 しかたがないから結婚式を挙げてやりに行くという
「あなた先生ですか?」
「いいえ」
「じゃ絵描きさん?」
「いいえ
 以前 女探偵かって言われたこともあります
 やはり汽車のなかで」
「はっはっはっは」


 わたしは告別式の帰り
 父の骨を柳の箸でつまんできて
 はかなさが十一月の風のようです
 黙っていきたいのです


「今日は戦時中のように混みますね
 お花見どきだから あなた何年生まれ?
 へええ じゃ僕とおない年だ こりゃ愉快!
 ラバウルの生き残りですよ 僕 まったくひどいもんだった
 さらばラバウルよって唄 知ってる?
 いい唄だったなあ」


 かってのますらお・ますらめも
 だいぶくたびれたものだと
 お互い目を据える


 吉凶あいむかい賑やかに東海道をのぼるより
 しかたなさそうな
「娯楽のためにも殺気だつんだからな
 でもごらんなさい 桜の花がまっさかりだ
 海の色といいなぁ
 僕 色々花の名前を覚えたいと思ってンですよ
 あなた知りませんか? ううんとね
 大きな白い花がいちめんに咲いてて・・・・・」
「いい匂いがして 今ごろ咲く花?」
「そう そう」
「泰山木じゃないかしら?」
「ははァ 泰山木…僕長い間
 知りたがってたんだ どんな字を書くんです?
 なるほどメモしとこう」


 女のひとが花の名前を沢山知っているのなんか
 とてもいいものだよ 
 父の古い言葉がゆっくりよぎる
 物心ついてからどれほど怖れてきただろう
 死別の日を
 歳月はあなたとの別れの準備のために
 おおかた費やされてきたように思われる
 いい男だったわ お父さん
 娘が捧げる一輪の花
 生きているとき言いたくて
 言えなかった言葉です


 棺のまわりに誰も居なくなったとき
 私はそっと近づいて父の顔に頬をよせた
 氷ともちがう陶器ともちがう
 ふしぎなつめたさ
 菜の花のまんなかの火葬場から
 ビスケットを焼くような黒い煙がひとすじ昇る


 ふるさとの海べの町はへんに明るく
 すべてを童話にみせてしまう
 鱶に足を喰いちぎられたとか
 農機具に手を巻き込まれたとか
 耳に蚊が入って泣きわめくちび 交通事故
 自殺未遂 腸捻転 破傷風 麻薬泥棒
 田舎の外科医だったあなたは
 他人に襲いかかる死神を力まかせにぐいぐい
 のけぞらせ つきとばす
 昼も夜もない精悍な獅子でした


 まったく突然の
 少しも苦しみのない安らかな死は
 だから何者からのご褒美ではなかったかしら


「今日はお日柄もよろしく・・・仲人なんて
 照れるなあ あれ! 僕のモーニングの上に
 どんどん荷物が ま いいや しかし
 東京に住もうとは思わないなあ
 ありゃ人間の住むとこじゃない
 田舎じゃ誠意をもってつきあえば友達は
 ジャカスカ出来るしねえ 僕は材木屋です
 子供は三人 あなたは?」


 父の葬儀に鳥や獣はこなかったけれど
 花びら散りかかる小型の涅槃図
 白痴のすーやんがやってきて廻らぬ舌で
 かきくどく
 誰も相手にしないすーやんを
 父はやさしく診てあげた


 私の頬をしたたか濡らす熱い塩化ナトリウムのしたたり
 農夫 下駄屋 おもちゃ屋 八百屋
 漁師 うどんや 瓦屋 小使い
 好きだった名もないひとびとに囲まれて
 ひとすじの煙となった野辺のおくり
 棺を覆うて始めてわかる
 味噌くさくはなかったから上味噌であった仏教徒
 吉良町のチエホフよ
 さようなら


「旅は道ずれというけれど いやあお蔭さんで
 楽しかったな じゃ お達者でね」
 東京駅のプラットホームに登山帽がまったく
 紛れてしまったとき あ と叫ぶ


 あの人が指したのは辛夷(こぶし)の花ではなかったかしら
 そうだ泰山木は六月の花
 ああ なんといううわのそら


 娘の頃に父はしきりにそう言ったものだ
 「お前は馬鹿だ」
 「お前は抜けている」
 「お前は途方もない馬鹿だ」
 リバガアゼでも詰め込むようにせっせと
 世の中に出てみたら左程の馬鹿でもないことが
 かなりはっきりしたけれど
 あれは何を怖れていたのですか 父上よ
 それにしても今日はほんとに一寸 馬鹿

かの登山帽の戦中派
花の名前の誤りを
何時 何処で どんな顔して
気付いてくれることだろ

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水木しげる原作テレビドラマ「鬼太郎が見た玉砕」

2022年11月05日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年03月29日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

昨夜NHKで24:10から戦記マンガ『総員玉砕せよ!』などを原作にしたドラマ『鬼太郎が見た玉砕ー水木しげるの戦争』が再放送されました。

このテレビドラマは2007年8月12日にNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として放送されていて、当時私も見ました。

今朝からNHKで水木しげるの奥さんを主人公にした朝ドラがスタートすることから再放送になったのかも知れません。

原作の『総員玉砕せよ!』はその90%が水木の実体験がベースになっているとのことで、Wikipediaによると

『やがて太平洋戦争が始まる。「召集されれば死だ」と考えた茂は、「人生の意味」を求めるため、哲学書や宗教書などを濫読する。その中で、一番気に入ったのが、

ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』だった。ゲーテにはその後も心酔し続けており、「自分の生き方の基本はゲーテ」と語っている。ーー

召集令状を受け取った茂は、鳥取歩兵第四〇連隊に入営した。ラッパ手を命じられたが信号ラッパがどうしても上手く吹けず、転科を願い出たところ、歩兵として南方行きが決定した。

1943年10月、その後の人生に大きく影響したニューブリテン島ラバウルへ岐阜連隊・歩兵第二二九連隊(連隊長に平田源次郎大佐)の補充要員として出征する(当時21歳)。

乗船したのは日本海海戦で「敵艦見ユ」を打電した老朽船・信濃丸だった。ラバウルへ向かう途中敵潜水艦に襲われたものの、なんとか無傷で現地に上陸する。

このニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は

玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。児玉はその後自決した。

その後、水木はマラリアを発症し、死線をさまよう。さらに療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けた。

だがマラリアも負傷も快復して終戦を迎え、九死に一生を得て駆逐艦・雪風で日本本土へ復員できた。』

☆このドラマを見て、この「水木しげる」という人間が生き延びて日本に帰還したのは偶然かもしれないが、彼はそのことを偶然とは受け止めず、

亡くなった上官や戦友のための語り部の役を与えられために、自分はこの娑婆に存在していると思うようになった気がしました。

ラバウルの本部に最後の全員突撃の電報を打った若い少佐が戦死したあと、全員玉砕命令にも関わらず戦闘の歯車の狂いで、生き延びてしまった81人の兵員たち。

味方の陣地にたどり着いた彼らを待っていたのは、既にラバウルの全軍人に玉砕した軍神たちと祭り上げられていたためこの世に生存してはいけない存在になっているという現実でした。

81人は自決を暗に強制された尉官3名を除き、再度玉砕攻撃を命じられて重傷を負った少数を残して戦死しました。

生き延びた水木しげるがこのことを書かなければ、帝国陸軍の公式記録にはないこの事実は闇から闇へ沈んでいたことになります。

3年前に見たときに比べると、このドラマが自分の中で衝撃が大きかったのは外国であるポーランドの将校たちの理不尽な死を画いた映画「カチンの森」を見ていたからだと思います。

国や兵と将校の違いはあっても、戦争での「理不尽な死」に変わりがないと。

そしてちょっと変わった妖怪漫画家である「水木しげる」という存在が、その後自分の中で変容してきたことにあります。

鶴見俊輔が認めている「自分の戦争体験」の物書きの中に「野坂昭如」と並んで、「水木しげる」が上げられていることも気づきの一つのきっかけになりました。

ドラマを見終わってしばらくしたら、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダと、日本の漫画家水木しげるは全く同一線上に立つ同時代人だとそんな思いがわいてきました。

なお、主役の香川照之はまたアンタかいと思ったのは事実ですが、大した役者です。奥さん役の田畑智子は変わり者の旦那をリスペクトしながらあしらういい演技をしてました。

ドラマのHP

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五歳の人間には・・・・  石井桃子さんの言葉

2022年11月01日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年03月16日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 
「五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。

それをとらえて、人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です。」

 101歳で亡くなった石井桃子さんの言葉。

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鶴見俊輔「言い残しておくこと」を読む     母親による初期化との 子供の戦い。

2022年10月30日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年03月04日「阿智胡地亭の非日乗」
 

今年88歳になる鶴見俊輔が昨年2回にわたり、インタビューを受けた。

インタビューと、そのインタビューに出てくる話題に関わる彼が書いた文章を、多くの著作から拾い出して掲載している面白い構成の本だ。

内容説明

善人は弱いんだよ。善人として人に認められたいという考えは、私には全然ない。

I AM WRONG.悪人で結構だ! 戦前・戦中・戦後の87年間、一貫して「悪人」として日本と対峙してきた哲学者が、自らの思索の道すじを語る。

目次
第1部 “I AM WRONG”
(私にとって、おふくろはスターリンなんです
『共同研究 転向』は、私のおやじに対する答えなんだ
もう一つの物差し―後藤新平
江戸と明治、二つの世を生きた「エリート」たち
つくる人とつくられる人
張作霖、鬼熊、阿部定)

第2部 まちがい主義の効用
(「まちがい主義」のべ平連
東大から小田実のような人間が出たのは奇跡だ
『世界文化』と『思想の科学』をつなぐ糸
『死霊』をどう読むか
花田清輝に叩かれて開眼する
桑原武夫、あるいは勲章のこと
埴谷雄高の見事な所作と丸山眞男の思想史的つぶやき)

第3部 原爆から始める戦後史
(執拗低音としての敗戦のラジオ放送
映画『二重被爆』が語る原爆の意味
科学者はみなハイド氏になった
丸山眞男の被爆体験
「無教育の日本人」の知性の力
“誤れる客観主義”からいかに逃れるか
私は人を殺した。人を殺すことはよくない)

☆もう15年も前になるが、ある日、ある人に「日本の母親は諸悪の根元です」と言われたことがある。

その人は「日本の母親は」と一般論化してそう言ったが、その人と母親との長い葛藤の積み重ねから出た言葉のようにも思えた。

  鶴見俊輔の本を読むと、必ずこの言葉を思い出す。

彼は岩手出身の政治家“後藤新平”の娘を母親として生まれ、母親に愛されつくして、そこから逃げて逃げて大きくなった。

この本でもまず、母親と彼との長い長い確執の日々のことが出ている。 

☆鶴見俊輔は自分が演説で人を動かすことが出来る人間ではないことを知っている。その彼は自分と全く違うタイプの“小田実”を知ったおかげで、

彼と共に役割分担をしてジョイントで同じ目的の社会活動が出来たことを強く感謝している。

☆私にとっては小田実は彼のフルブライトアメリカ留学とそのあとの世界旅行記である「何でも見てやろう」という本の出会いからスタートした。

この本から始まり、別の人の「ロンドン東京5万キロドライブ」や「まあちゃん、こんにちは」など当時の日本人の海外体験物の本に興味を持った。

  小田実はアメリカにフルブライト留学した体験から、アメリカ人は自国の相手はTamed indianだけが好きだ、と書いてあって当時、高校生の私には衝撃的な表現だった。

つまり、アメリカ人はアメリカ人に歯向かうアメリカインデアンは徹底的にやっつけるが、飼いならされたインデアンにはとてもやさしくしてくれる

アメリカ人にとっては日本人もtamedかどうかだけしかない

辞書を引くとTameには「手なずける」という意味もあった。そう言われると高校生の自分には当時の岸信介首相はまさに『Tamed Prime minister』そのものに見えた。

そして最近では、ブッシュ大統領の前でプレスリーの真似をして大統領を苦笑いさせた、エアーギターを弾いた小泉日本国元首相をテレビで見たときに

忘れていた「Tamed indian」という言葉を思い出した。

☆いろんな意味で小田実のこの本は、私の世界を見る目の物差しの一つになっているが、その小田実に鶴見が敬する気持ちを持っているのが、嬉しい。

☆また、鶴見は戦争体験者の水木しげる野坂昭如の画いたもの、書いたものを評価している。

そんなこんなでどこかで共通するのか、鶴見の本が出るとつい手が出てしまう。

    余談ながら、最終の東京行き新幹線に乗るべくJR芦屋駅で京都行き新快速に乗りかえようとした6年ほど前、

ホームで黒いコートの背中の広い大柄な男のすぐ後ろについた。電車が入ってくるとき横顔に電車の前方ライトが当たり、そのがっしりした顎の男の横顔が浮かび上がった。

小田実さんだった。確か当時彼は家族で芦屋に住んでいた。

高校生の時から40数年ずっと本も買ってきた憧れの人が目の前にいることに驚き嬉しかった。

二人だけの列は誰も降りてこないドアから乗ったあと、右と左に分かれて座った。

彼も新大阪で降りて、新幹線の改札口に向かった。恥ずかしながらミーハー辛好の大切な思い出です。

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高峰秀子のスピリット 「高峰秀子の流儀」を読む

2022年10月28日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年03月02日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

目次

高峰秀子という知性
動じない
求めない
期待しない
振り返らない
迷わない
甘えない
変わらない
結婚
怠らない
二十七歳のパリ その足跡を訪ねて
媚びない
驕らない
こだわらない
ひとこと 高峰秀子

☆高峰秀子の書いたものは、40年以上前に週刊朝日に連載された「わたしの渡世日記」を毎週待ち遠しく読んだのが最初だ。

 彼女は55歳で俳優を引退し、今年は85歳になるそうだ。斉藤明美という人が書いた「高峰秀子の流儀」は、高峰秀子の近況を綴った本だ。

読み終わって高峰秀子は相変わらず、女優とか女とか言う前に人間としてとてつもなく秀でた人なんだと思った。

4歳で実母と死別して以来、養母とその係累を20数年食べさせながら、つぶれずに高峰秀子を作り上げた人間。それが彼女だ。

私にとって高峰秀子は映画「二十四の瞳」の大石先生につきる。

高峰秀子と旦那の松山善三の現況を知ることが出来たのは嬉しかったし、ありがたかったが、私には斉藤さんの文章が少し粗く感じられた。(「目に一丁字もない」など慣用句の多用など)

やはり高峰さんの書いたものを直接再読した方がいいと思った。

高峰さんの著作では「にんげん蚤の市」もどうしようもなく面白かった。高峰さんが骨董屋を開いていたとき以来の「中島誠之助」との付き合いの話は忘れられない。

人にやさしく、自分は突き放すという高峰さんが書いたエッセイは、どの本も一味違っていて読み出したら止まらない。

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映画「キャピタリズム-マネーは踊る」  ヤキがまわったか? マイケル・ムーア監督

2022年10月25日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年02月10日(水)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

唖然とするしかないアメリカの庶民の惨めな生活の実情を、これでもか、これでもかと全くの直球勝負で描写していく。

今回は自分の最後の映画と決めたからか、元GMの工員だった実の父親も登場させ、30年ほど前、工員だった父親が勤務していた製造工場と、

家族が幸せに暮らしていた住宅街の今も映していく。

ひねりも くすぐりも 何もない。まさに荒涼とした廃工場、あるいは跡地、そして誰も住めなくなった住宅地が画面に出るかと思えば、突然料率が上がった住宅ローンを払えないため、

保安官に住まいを追い出される老年の家族が映し出される。  ありのままの、見ていても辛いフツーのアメリカ人たちの今。

もうマイケル・ムーアに、現状を笑いのめすだけの余力は残っていないのだと思った。想像を越えるあまりの社会変動についていけず、彼にもヤキがまわってしまったのかも知れない。

中学生の頃テレビで見た「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」や「アイラブ・ルーシー」のアメリカの、あの憧れの中流家庭はどこに行った?

  
(画像はwebから引用)

 地球上のどこかで、いつも武器と弾薬とヒトを消費させる仕組みを作った軍産複合体と、サブプライムローンを考えだした金融才人たちに、

いつのまにかフツーの生活の基盤を崩されてしまった名もない多くのアメリカ人たち。

見ているうちにスタインベック原作の「怒りの葡萄」が映画化されたトム・ジョード(ヘンリー・フォンダが演じた)とその家族が画面に重なっていった。

映画は「蟷螂の斧」や「負け犬の遠吠え」かも知れないが、この作品は多くの映画賞の候補になっている。

☆昨日から「ルポ貧困大国アメリカⅡ」を読みだした。不思議なほど映画とコンテンツが重なる。本の概要はこちら



この本を読んでいくと、今のフツーのアメリカ人は全員が大きな「蟹工船」に乗せられ、死ぬまで下船することなく、海上で使役されているように思えてくる。

興味のある方は半澤健市さんのレヴューをお読みください。こちら

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映画「カティンの森」

2022年10月22日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年02月11日「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

監督は1926年(昭和元年)生まれのアンジェイ・ワイダ。「地下水道」や「灰とダイヤモンド」などの作品で知られるポーランド人。本作品は2007年に製作・リリースされた。

彼は元々画家を目指したこともあり、日本の浮世絵などの愛好家で、日本美術を東欧へ紹介したことを多とし、稲盛財団の“京都賞”を1987年に受賞している。

その賞金の4500万円を基金として、クラクフに日本美術技術センターが設立されている。

 本題の映画に戻る

裁判も尋問もなく、ポーランド軍の将校団がソ連のカチンの近くで銃殺され穴の中に埋められた。

このことは、長い間旧ソビエト連邦の意向で、ナチス・ドイツの犯罪であるとされてきた。

ワイダ監督の父親も帰らなかった将校の一人で、50歳で亡くなった監督の母親は真相を知らないまま、死ぬまで夫の帰還を待ち続けていた。

映画は将校たちの両親、妻、子供の戦中戦後を軸に当時のポーランドの生活が描かれる。

映画は淡々と進む。どこにも激するところはない。ラスト15分を含めて。

 ラスト15分。収容所から処刑の森までの行程と、一人一人の死が克明に描かれていく。



 将校を呼びだし後ろ手にしばる、二人の兵が両脇をかかえる。別の兵が後頭部にピストルの銃口を向け引き金を引く。

血煙が上がる、脳漿がまわりに飛び散る。穴に放り込む。はいその次、はいその次、はいその次と続く。

一つの穴が一杯になると、兵隊が一人穴に降りて、いまだ絶命していないのを見つけると銃剣で止めをさす。

ブルドーザーがきて穴に土をかぶせていく。

 20数年映画化を温めていたワイダ監督の思いがこの15分に詰まっている。彼はおそらく理性の人だと思う。

しかしこの映画に彼は彼と彼の家族のどうしようもない「怨念・痛恨・悲哀」を込めたのだと私は思った。しかしそんな言葉はこのシーンの前では殆ど意味はない。

あくまでこれは私自身の器の限界の理解のようだ。

 ワイダ監督自らはこう書く。

「試行錯誤を重ね、熟考を続けた結果、わたしはある確信に至った。カティン事件についてこれから作られるべき映画の目的が、

この事件の真実----その追究は、歴史的・政治的な次元で、すでになされている----を明るみに出すことだけであってはならない、と。

今日の観客にとって、史実は、出来事すなわち人間の運命の背景であるにすぎない。観客の心を動かすのは、あくまでもスクリーンに映される登場人物の運命である。

私たちの物語を展開するための場所が、あの時代のすでに記述されている歴史のなかにある。


したがって、私の考えるカティン事件についての映画は、永遠に引き離された家族の物語である。

それは、カティン犯罪の巨大な虚偽と残酷な真実の物語になるだろう。ひとことで言うならば、これは個人的な苦難についての映画であり、

その呼び覚ます映像は、歴史的事実よりはるかに大きな感動を引き起こす。

この映画が映し出すのは、痛いほど残酷な真実である。主人公は、殺された将校たちではない。男たちの帰還を待つ女たちである。

彼女たちは、来る日も来る日も、昼夜を問わず、耐えられようもない不安を経験しながら、待つ。

信じて揺るぎない女性たち、ドアを開けさえすれば、そこには久しく待ち受けた男性(息子、夫、父)が立っているという、確信を抱いた女性たちである。

カティンの悲劇とは今生きている者に関わるものであり、かつ、当時を生きていた者に関わるものなのだ。

長い年月が、カティンの悲劇からも、1943年のドイツによる発掘作業からも、我々を隔てている。90年代におけるポーランド側の調査探求にも拘わらず、

さらには、部分的に止まるとは言え、ソ連関係文書の公開が行われた後でさえも、カティン犯罪の実相について、我々の知るところは、いまだにあまりにも少ない。

1940年4月から5月にかけての犯行実施は、スターリンと全ソビエト連邦共産党政治局に属するスターリンの同志らが、1940年3月5日、モスクワで採択した決定に基づいている。

ひょっとしたら父は生きている、カティンの被害者名簿一覧には、ワイダと姓があったが、名はカロルと出ていたのだから----。

このように永年にわたり、母やわたしたちが信じていたのは、少しも不思議ではない。

母はほとんど生涯の終わりに至るまで、夫の、すなわち、わが父の生還を信じ続けた----ヤクプ・ワイダ、騎兵第二聯隊所属、第一次世界大戦(1914−18)、

ポーランド・ソ連戦争(19−20)、シロンスク蜂起(21)、並びに1939年9月戦役に従軍の勳功により、戦功銀十字架勲章騎士賞を受けた。

とは言え、この映画がわが個人的な真実追究となること、ヤクブ・ワイダ大尉の墓前に献げる灯火となることを、わたしは望まない。

映画は、カティン事件の数多い被害者家族の苦難と悲劇について物語ればよい。ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンの墓上に勝ち誇る嘘、

カティンはナチス・ドイツの犯罪であるとの嘘、半世紀にわたり、対ヒトラー戦争におけるソビエト連邦の同盟諸国、すなわち西側連合国に黙認を強いてきたその嘘について語ればよい。

若い世代が、祖国の過去から、意識的に、また努めて距離を置こうとしているのを、わたしは知っている。現今の諸問題にかかずらうあまり、

彼らは、過去の人名と年号という、望もうと望むまいと我々を一個の民族として形成するもの----

政治的なきっかけで、事あるごとに表面化する、民族としての不安や恐れを伴いながらであるが----を忘れる。

さほど遠からぬ以前、あるテレビ番組で、高校の男子生徒が、9月17日と聞いて何を思うかと問われ、教会関係の何かの祭日だろうと答えていた。

もしかしたら、わたしたちの映画『カティンの森』が世に出ることで、今後カティンについて質問された若者が、正確に回答できるようになるかもしれないではないか。

「確かカティンとは、スモレンスクの程近くにある場所の名前です」というだけでなく......。

アンジェイ・ワイダ


"集英社文庫「カティンの森」(工藤幸雄・久山宏一訳)より引用。

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余談 その1

ポーランドという国を自分が最初に意識したのは、ノーマン・メイラーの小説「裸者と死者」を読んだとき、日本軍と戦う米軍のポーランド系アメリカ兵士が兵隊の間で、

個人の名前を呼ばれずに「ポラック」(ポーやろう?)という蔑称で呼ばれていたことからだ。

後から他国に移った連中は、それ以前に渡った連中から肉体労働の仕事を安い賃金で奪うことになるので、お互い社会下層どうしで必ずいがみあう。

アメリカに渡った日本人はアイルランド系やイタリー系アメリカ人に「ジャップ」と言われ、日本で朝鮮人は「TYOUSEN」や「hantoujin」と呼ばれて小馬鹿にされ、差別されてきた。

勿論、知識としては「キュリー夫人」や「ショパン」がポーランド人であることは知っていたが、フツーのアメリカ人の中ではポーランド系は「ポラック」と小馬鹿にされていたらしい。

 どんな時代でもどんな国でも、人間は自分が住んでいる国でつらい目にあっていると、他の集団に対して「自分らはあいつらよりまだましや」と思うことで、

自分が属する集団の感情のバランスをとるようだ。

それは、その時々の支配層からすると、不満が自分たちに向かわずに、彼らのエネルギーが彼ら下層どうしのいさかいの中で消耗されるわけだから大いに歓迎していいことだ。

昔から世界各国で移住者へ参政権を与えるかどうかは必ずもめるが、歴史的にも各国の時の支配層は、フツーの連中どうしが大いに揉めるように、

巧妙にメディアを使って闘争を煽ってきた。アメリカの新聞やラジオのおかげで、当時の日系人がどんなに痛い目にあわされたか。

余談その2 -映画の公式HPより引用

 本作はワイダ監督自身の両親に捧げられている。
父ヤクプ・ワイダ(1900−1940)は1939年9月戦役でソ連捕虜となり、スタロビェルスク収容所に抑留され、ハリコフ近郊ピャチハトキで虐殺された。カティン犠牲者リストには「カロル・ワルダ中尉」の名があり、生年月日も父と一致していた。名が誤記されていたため、母アニェラ・ワイダ(1901−1950)は死去するまで、父が無事生還するとの希望を待ち続けた。
ワイダ監督は1957年、カンヌ映画祭で『地下水道』を上映するためにフランスを訪れた際、アンデルス将軍の序文つきの「カティン事件」資料集を読み、初めて事件の真相を知った。それから、映画完成までに半世紀を要した。

「東欧革命」(1989−90)で社会主義から資本主義に体制が変換するまで、ソ連の犯罪と虚偽を暴露する映画の製作は問題外だった。ワイダは1990年代半ばから、ライフワークとして「カティンの森虐殺事件」の映画化を切望した。それから、完成までに17年の歳月が必要だった。
ワイダ映画(そして、彼が代表する「ポーランド派」)の魅力は、すぐれた文学作品を創造的に映画化したことにある。カティンを素材とした文学作品が(本作中、収容所の場面でイェジが言及するズビグニェフ・ヘルベルト(1924−98)の詩「ボタン」を例外として)存在しないことが最大の障害として立ちふさがった。

虐殺されたポーランド将校は、ドラマの主人公になりにくい、という理由から、別のストーリー展開が模索された。

2001年1月から2003年11月まで、小説家ヴウォジミェシュ・オドイェフスキ(1930− )の協力を仰いで、戦後のクラクフを舞台にロマン・マルティニ検察官(ソ連の指令で、ドイツをカティン事件の犯人として告発しようとして、逆にミンスクでソ連の犯罪証拠文書を発見。その後、1946年3月にクラクフの自宅で何者かにより殺害される)を主人公にする可能性が模索されたが、実現に至らなかった。当時の映画の仮タイトルは、『カティン----痕跡を求めて』だった(オドイェフスキの「原作」は、『敗れざる者たち、歩く者たち』(03)として刊行されている)。
その後、アンジェイ・ムラルチク(1930− )が映画用の短篇小説(未刊行)を執筆し、のちにそれをもとに長篇小説『死後』(07)を執筆した。映画封切り数か月前に出版されたこの「映画物語」の舞台は、1945−46年のクラクフと21世紀初頭のカティン、主要な登場人物は、「カティン事件」の被害者アンジェイ・フィリピンスキ家の人々(母ブシャ、妻アンナ、娘ヴェロニカ)とヤロスワフ(映画のイェジ)、イェジ〔ユル〕(映画のタデウシュ〔トゥル〕)である。アンジェイは回想にしか登場しない。

一方、アンジェイ・ワイダ、ヴワディスワフ・パシコフスキ、プシェムィスワフ・ノヴァコフスキの3名は、ムラルチク執筆の短篇小説のモチーフを基に、シナリオを執筆した。プロデューサーの証言によると、1990年代半ばから数えて30番目のヴァージョンにあたるという。
撮影開始時、映画の表題は「原作」と同じく『死後』だったが、公開の半年前の2007年4月に、『カティン』に変更された。当初、登場人物は一切姓を持たず、演じる俳優のプライベートの名前で登場するという、かつて『すべて売り物』で試みたことのある手法の採用が検討されていた。ワイダ監督自身が画面に登場する案もあったが、いずれも制作途中で放棄された。

監督自身、カティン犠牲者である父を息子として待ち続け、夫を待ち続ける母の苦悩も身近に目撃している。小説『死後』のような小規模な「家族映画」を作るのはむしろたやすかったかもしれない。しかし、シナリオ執筆者たちは「原作」を大きく改変して、多様な登場人物による歴史パノラマを作り上げた。

ワイダ監督は、ムラルチクの小説とシナリオの関係を次のように説明している。「原作をもとにしたシナリオは、製作の準備段階と撮影中に多くの変更を受けました。しかしこの小説あればこそ、わたしは撮影を開始することができると信じられるようになったのです」「シナリオを4つの物語に分けることで、史実の中に発見された場面・情況・人物をより豊富に導入することが可能になりました。それによって、人物の運命のパノラマが拡大し、一家族の物語を超えた映画になりました。また、主題と直接関係のない要素を原作から排除して、全体の物語を時系列に沿って展開できるようにしました。このことが映画の受容を容易にしたはずです」

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五木寛之「サンカの民と被差別の世界」

2022年10月21日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年02月15日(月)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

いま、五木寛之が書いた小説「親鸞」がよく売れているそうだ。これまで親鸞を描いた小説のどれとも違った破天荒の「親鸞」らしい。

今回読んだ「サンカの旅と被差別の世界」は、小説「親鸞」を書いた五木の基層を作った取材をまとめた本だと思う。

目次

第1部 海の漂泊民、山の漂泊民

海を住処とする「家船」の人びと
幻の「サンカ」を求めて
漂泊者の思想とその豊饒な文化

第2部 東都の闇に生きた被差別の民

「浅草弾左衛門」と呼ばれた賎民の王
生と死、聖と賎、美と醜の境界
「フーテンの寅さん」への憧れ

出版社 / 著者からの内容紹介

消えゆく記憶と、消してはいけない歴史語られることのない、日本の歴史の深層を真摯に探訪する。

かつてこの列島には、土地に定住することなく、国家に帰属することもなく自分の身分証明をした人びとがいた。

海の漂泊民「家船」と山の漂泊民「サンカ」である。そして関東には、江戸・東京を中心とした被差別の世界があり、

社会の底辺に位置づけられた人びとがたくましく生きた。賤民を束ねたのが浅草弾左衛門、非人頭は車善七だ。

 < 著者のことば>

私は、隠された歴史のひだを見なければ、"日本人のこころ"を考えたことにはならないと思っています。

今回は「家船」漁民という海の漂泊民から「サンカ」という山の漂泊民へ、そして、日本人とは何かという問題にまで踏みこむことになりました。

それは、これまでに体験したことのなかった新しいことを知り、自分自身も興奮させられた旅でした。

 本のはしがき「原郷への旅」から一部引用

引用開始・・私は自分が九州出身であるため、熊襲が討たれる話などを聞くと、つい討たれる側に同情してしまう。

しかも「古事記」にしても「日本書紀」にしても先住民たちが天皇軍の謀略によって滅ぼされるという話が多い。

例えば、昼間酒を飲まされて、油断して寝込んだところを夜討ちをかけられてあっさり負けてしまうのだ。

古代のこうした神話を読んでいると、CIAそこのけの策略戦だったことに驚かされる。素朴でナイーブだった先住民たちが、

だまし討ちのように苦もなく滅ぼされていくのを見ていると、なんだか義憤さえ感じてしまうのだ。

そうした過去の歴史はすっかり忘れられている。そして、相変わらず「日本人単一民族説論」が信仰されているのが現実ではないか。

最初からそれはイリュージョンであるにもかかわらず、アイヌ民族の存在を無視したような発言をいまだに聞くことがある。

沖浦氏の話では、少なくとも学会ではいま、日本人単一民族論をいう人など誰もいないと言う。日本人は複合民族であって、およそ六系列ぐらいの民族が存在している、

というのが学会での常識になっているそうだ。

そうした学会での常識が、なぜ一般の日本人の間では常識になっていないのだろうか。それが私には不思議でたまらない。

中略

それは、いまのマスコミの状況とよく似ている。たとえば、政府の経済対策にしても財政の問題にしても、一部の人はよく知っていることが

広く一般の人びとには知らされていない。みんなが知ったほうがいいにもかかわらず、本当のことが隠蔽されているという気がしてしかたがないのだ。

その隠蔽体質を解消して、情報を開示していこうではないか、というのがこのシリーズのひとつのモチーフだと私は思っている。

引用終わり。

2006年3月8日 第2刷 講談社

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

☆昭和7年生まれの五木寛之は戦後、親の故郷である九州で、朝鮮からの「引揚者」と、周囲から差別された体験を持って育った。

彼の書くものの原点にこの体験が抜きがたくあるようだ。

☆私は沖縄へ旅行したとき、地元の人に自分が「ヤマトンチュウ-大和人」と言われたのになぜか抵抗を感じた。

自分が大和朝廷を作った民族系列に属しているとおもえないからだ。このことは「鶴見俊輔」と「網野善彦」が対談した「歴史の話」で網野が同じことを書いていた。

 網野善彦は山梨県出身なので、出来たら沖縄の人は自分をヤマトンチュウ(大和人-日本人)と呼ばずに、甲州人と呼んで欲しいと思ったと笑いながら言っている。

その伝にならえば、私も沖縄人にヤマトンチュウ(大和人-日本人)と呼ばれるよりは信州人と呼んで欲しい。

☆余談ながら、最後の十三世弾左衛門は、明治の最初の頃に撮影された帯刀羽織袴の写真が残っている。

そして、彼は養子で十三世浅草弾左衛門となったのだが、驚いたことには生まれ育ったのは攝津国兎原郡住吉村だと書いてあってびっくりした。

現在の神戸市東灘区から浅草に養子に行って、彼は関八州のえたの最後の総元締めになったことになる。

   阿智胡地亭は高校生のころ三重県四日市市から引っ越して、昔の攝津国兎原郡住吉村、今の神戸市東灘区住吉町に住んでいた。

☆お笑いを一つ!!
 
 五木寛之はある講演会で司会者からこう紹介されたことがある。

皆様、本日講演をお願いしましたのは「さらば息子は愚連隊」でご存知の五木ひろしさんです! 

 

   五木のベストセラー「さらばモスクワ愚連隊click」

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新・根津美術館の中には3700年の空間が広がっている             13年前の今日2009年10月8日の本ブログに掲載

2022年10月08日 | 音楽・絵画・映画・文芸

東京・青山にある根津美術館が、3年半のリニューアル期間を置いて、10月7日に新・根津美術館として開館しました。

雨と風が台風の兆しを示している中、途切れない入場者の一人になりました。

建築家・隈研吾の設計による美術館は、機能的でありながら、ゆったりと心地よい空間を作っていました。

疲れることなく集中できるレイアウトと展示方法は,明らかに他の美術館とは違います。

手ぶれがありますが、世界屈指の青銅器コレクションの一部です。

これを作った職人群が今から3700年ほど前の完成時に、我が作品をほれぼれと見ほれた姿が目の前に浮かんでくるような気がしました。

今でこそ南青山は都会の真ん中ですが、明治・大正の頃は斉藤茂吉の青山脳病院が開院していたような東京市の郊外だったようです。

美術館がある場所は山梨県出身の実業家、根津嘉一郎の屋敷跡です。傘を借りて庭園を歩きましたが、相当なスケールの日本庭園なのに驚きました。


 

エントランス

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[西加奈子]という新進作家・浪速の女3人作家衆は田辺聖子さんの流れ

2022年10月07日 | 音楽・絵画・映画・文芸

2010年01月07日(木)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

新進作家“西加奈子”が書いて、つい最近文庫本になった小説「通天閣」を病室に持ち込んで読みました

終わりに近づくと、まだづっと続いて欲しいという気持ちと、早く先が読みたいという気持ちがないまぜになってあせりました。最初の方にこういう箇所があります。

    「 店の名前は「サーディン」。意味が分からずアルバイト情報誌で選んでしまった私が阿呆だった。

サーディンはいわし、オーナー曰く「パーッといわしたろか」という意味だそうだ。そんな意味だと知っていたなら、絶対に電話をかけなかったのに。」

  それまでもこの小説を読み出したら、乗りにくい箇所もあったが、思わずにやりと笑ってしまう箇所が多い中、ここでは大笑いしてしまいました。

地の文は共通語で会話は大阪弁というスタイルが板についていると思います。

田辺聖子さんの立派な後継者がここにもいると嬉しくなりました。

ここ数年の間に、まず“川上末映子”が「乳と卵」で表舞台に出てきて、次に“津村記久子”の「ポトスライムの船」を連載で読んでいたら、

「乳と卵」と同じくこれも芥川賞を取ってびっくりしました。大げさかも知れないけど、これは近松門左衛門の浪速文芸世界が今に続いていると思いました。

そしてこの“西 加奈子”です。ストーリーテラーとしての力量もあるし、細部を書き込む描写のチカラはテダレの技を思います。

 3人が3人共に、田辺聖子さんが持つ小説家としてのあの底力を持っているように感じます。そしてまた、共通して、彼らは厚くてはがせない「かさぶた」を持っている人のような気がします。

それは田辺聖子さんの一見明るい小説を読んでいて時に感じるのと同じです。誰にも言わない深い傷を覆っているかさぶた。

表紙カバー裏の作者紹介を読むと、西加奈子は1977年、テヘランで生まれ、エジプトで育ち、ずっと大阪で生活していると書いてあります。

川上も津村もこの西もみんな田辺さんと同じく大阪で育った大阪女です。

  私は阪神間育ちの“村上春樹”さんの小説より、なぜか浪速育ちの小説家の書いたもんの方が肌が合います。

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スティーブ・ジョブズさんが愛した川瀬巴水の浮世絵

2022年10月06日 | 音楽・絵画・映画・文芸

スティーブ・ジョブズさん 没後11年で振り返る川瀬巴水の浮世絵

【画像集】

群馬県の法師温泉の大浴場にゆったりと入る男性。山梨県の山中湖畔で朝焼けに赤く染まる富士山……。日本の美しい風景が叙情的に描かれています。
 
 

アップルの創業者、スティーブ・ジョブズさんが膵臓がんで亡くなってから、10月5日で11年となる。亡くなる3カ月前、娘のリサ・ブレナン・ジョブズさんは病床の父を訪ねた。

回顧録「Small Fry」の中で、部屋にはジョブズさんが愛好していた川瀬巴水(かわせ・はすい)の絵が飾ってあったと明かしている。

■「新版画」の旗手だった川瀬巴水とは?


川瀬巴水は1883年(明治16年)に東京に生まれた。27歳のときに日本画家の鏑木清方(かぶらき・きよかた)に師事し、2年後に「巴水」の画号が与えられたという。

大正・昭和期に浮世絵のニューウェーブ「新版画」の旗手として抒情あふれる風景画を数多く残した。続き

国立国会図書館のデジタルコレクションから、ジョブズさんが収集したのと同じ5作品を紹介。

01.「明石町の雨後」(1928・昭和3年)

トップの画

02.「市川の晩秋」(1930・昭和5年)

03.「山中湖の暁」(1931・昭和6年)

04.「上州法師温泉」(1933年・昭和8年)

05.「京都清水寺」(1933・昭和8年)

 
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笹井(筒井)宏之という若い歌人を知りました

2022年10月05日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2009年12月06日(日)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

冬ばつてん「浜辺の唄」ば吹くけんね ばあちゃんいつもうたひよつたろ

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

風という名前をつけてあげました それから彼を見ないのですが

ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした

今日のNHK総合の番組で「笹井宏之」という佐賀の若い歌人(本名 筒井宏之)を知りました。

何気なく見た番組でしたが、彼の歌を聴いた瞬間、全身にじわっとにきました。引き込まれて最後まで番組を見ました。

知った時には本人はもう亡くなっていました。

しかし彼が作品を発表していたブログ「些細」は、いまも残り、彼の和歌を読むことができます。

そして彼の作品が好きな人たちの交流の場になっているそうです。

いろいろ考えた末、閉鎖せずにブログを続けることにしたお父さんに感謝します。

上記の歌はブログ「些細」から

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

笹井宏之『えーえんとくちから』解説  穂村弘    引用元

彗星のように短歌界にあらわれ、2009年、26歳の若さで惜しまれながら亡くなった夭折の歌人・笹井宏之。その透明でやさしく、

繊細にして鋭敏な数々の短歌はいまも多くのひとに読まれ続けています。2019年、没後10年を機にベスト歌集である『えーえんとくちから』がちくま文庫に収録され、
 
解説を笹井さんが敬愛した穂村弘さんにお書きいただきました。ご覧ください。
 

 ⇒    笹井宏之の歌には、独特の優しさと不思議な透明感がある。

 ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

「あなた」に対する思いの深さを感じる。「ワンピースに実を落とす」ことがモノや言葉を直接渡すよりも優しく思えるのは何故だろう。

この歌の背後には、人間である〈私〉と「樹」とが区別されない世界像がある。

 拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません

 ここでは「手紙」と「あなた」が同化している。そして、「手紙」が記される紙とはもともと「樹」から生まれたものではないか。

笹井ワールドの中では、〈私〉や「樹」や「手紙」や「あなた」が、少しずつ形を変えながら繋がっているように感じられる。

 あるいは鳥になりたいのかもしれなくて夜をはためくテーブルクロス

 風であることをやめたら自転車で自転車が止まれば私です

 しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう

 さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから

〈私〉→「樹」や「手紙」→「あなた」と同様に、いずれの場合も、一つのものから別のものへ、一首の中で存在が移り変わっている。

「テーブルクロス」→「鳥」、「風」→「自転車」→「私」、「にんげん」→「まくら」、「あなた」→「海」。本書の中に、このタイプの歌は多くある。

従来の短歌の枠組みの中で見れば、それらは時に比喩であり、擬人化であり、アニミズムであり、成り代わりであり、夢であり、輪廻転生であるのかもしれない。

だが、そう思って読もうとすると、どこか感触が違う。表面的にどのように見えようとも、笹井ワールドの底を流れている感覚はいつも同じというか、

さまざまな技法というよりもただ一つの原則めいた何かを感じる。敢えて言語化するなら、それは魂の等価性といったものだ。


 私やあなたや樹や手紙や風や自転車やまくらや海の魂が等価だという感覚。それは笹井の歌に特異な存在感を与えている。

何故なら、近代以降の短歌は基本的に一人称の詩型であり、ただ一人の〈私〉を起点として世界を見ることを最大の特徴としてきたからだ。

 真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり   正岡子規

 桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり   岡本かの子 

 いずれも近代を代表する有名歌だが、共通するのは、「星」や「桜ばな」と「吾」が命懸けで対峙するという感覚である。

ここには、何とも交換不可能なただ一人の〈私〉の姿がある。他にも与謝野晶子や斎藤茂吉といった近代の歌人たちは、作風の違いはあっても、

それぞれにこのような〈私〉の命の輝きを表現しようとした。その流れは現代まで続いている。

 そんな〈私〉中心の短歌に慣れていた私は笹井の歌に出会って驚いた。

 みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成されたバンドのドラム

「みんな」がいて〈私〉がいない。しかも、「みんな再結成されたバンドのドラム」だって? 

近代の和歌革新運動を経た歌人たちは、戦後の前衛短歌運動を担った歌人たちは、九十年代のニューウェーブと呼ばれた歌人たちは、

誰もが「〈私〉は新結成されたバンドのボーカル」だと思っていたんじゃないか(近代にはバンドやボーカルって言葉はないけれど)。

だが、〈私〉のエネルギーで照らし出せる世界がある一方で、逆に隠されてしまう世界があるのではないか。

笹井作品の優しさと透明感に触れて、そんなことをふと思う。

笹井ワールドにおける魂の等価性と私が感じるものは、一体どこからくるのだろう。

その源の一つには、或いは作者の個人的な身体状況があるのかもしれない。

 どんなに心地よさやたのしさを感じていても、それらは耐えがたい身体症状となって、ぼくを寝たきりにしてしまいます。(略)
 短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。
 あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。
(歌集『ひとさらい』「あとがき」より)

 ここには鳥やけものや風や水や大地と「ぼく」との魂の交歓感覚が描かれている。私は本書のタイトルとなった歌を思い出す。

 えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

 口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。

「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。

前述のように、多くの歌人は〈私〉の命や〈私〉の心の真実を懸命に詠おうとする。そのエネルギーの強さが表現の力に直結しているとも云える。

だが、そのような〈私〉への没入が、結果的に他者の抑圧に結びつく面があるのは否定できない。

読者である我々は与謝野晶子や斎藤茂吉の言葉の力に惹かれつつ、余りの思い込みの強さに辟易させられることがある。

これを詩型内部の問題としてのみ捉えるならば、魂の過剰さとか愛すべき執念という理解でも、或いはいいのかもしれない。

だが、現実の世界を顧みた時はどうか。我々が生きている現代は、獲得したばかりの〈私〉を謳歌する晶子や茂吉の時代とは違う。

種としての人類が異なる段階に入っているのだ。人間による他の生物の支配、多数者による少数者の差別、男性による女性の抑圧など、

強者のエゴによって世界に大きなダメージを与えている。それは何とも交換不可能なただ一人の〈私〉こそが大切だという、

かつては自明と思えた感覚がどこまでも増幅された結果とは云えないか。そう考える時、笹井作品における魂の等価性とは他者を傷つけることの懸命の回避に見えてくる。

 さかなをたべる
 さかなの一生を、ざむざむとむしる
 さかなは死体のように
 横たわっている

 さかな、
 二〇〇六年の夏に生まれ
 オホーツク海の流氷のしたを泳ぎ
 二〇〇八年初春、投網にかかったさかな

 いいかさかなよ、
 わたしはいまから
 おまえをたべるのだ

 容赦なく箸をつかい
 皮を剝ぎ、肉をえぐり、
 骨を抜き、めだまをつつくのだ

 さかなよ
 まだ焼かれて間もないさかなよ
 わたしは舌をやけどしながらも
 おまえをたべる

 このように始まる「再会」という詩の続きはこうだ。

 二〇〇八年初春の投網が
 あすのわたしを待ち受けているかもしれないのだから

 ここに見られるのは「さかな」と「わたし」の運命の等価性だ。種のレベルの課題に対して、個の意識としての対応が試みられている。

 きれいにたべてやる
 安心して、むしられていろ

 そして、
 今度は二〇〇六年夏のオホーツク海で
 奇跡的な再会を果たそうではないか

 そんなことを考えながら、改めて本書を開く時、笹井宏之が遺した一首一首の歌が、一つ一つの言葉が、未来の希望に繋がる鍵の形をしていることに気づくのだ。

 それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした

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