鈴木さんと亡くなったアーティストのムムリクさんはお互いをリスペクトするアート界の同志でした。
鈴木直樹さんとムムリクさんは なにごとも手を抜かず、一生懸命うちこむところが似ています。
鈴木さんには「ムムリクさんを偲ぶ会clickでお会いしました。鈴木さんの演奏は杉並公会堂clickで聞いて本当に楽しかった。
2021年のポスターにはムムリクさんのイラストが登場しました。
鈴木さんと亡くなったアーティストのムムリクさんはお互いをリスペクトするアート界の同志でした。
鈴木直樹さんとムムリクさんは なにごとも手を抜かず、一生懸命うちこむところが似ています。
鈴木さんには「ムムリクさんを偲ぶ会clickでお会いしました。鈴木さんの演奏は杉並公会堂clickで聞いて本当に楽しかった。
2021年のポスターにはムムリクさんのイラストが登場しました。
1965年の夏に就職の面接試験の待合室で出会ってからの付き合いだからもう長い 大阪中津の野本さんからメールがありました。
⇒ 「27日土曜日に3年ぶりの淀川花火がありました。
今年は万博に向けて淀川左岸工事が進行中で梅田側の観覧席はなくなっていますので
弊社前の通りは例年のようなごった返すような人出はありませんがそれでもかなりの人出でした。
今年は屋上での水耕栽培もやめていますのできれいに清掃した屋上で家族やご近所様と楽しく鑑賞させてもらいました」。
以前の屋上の花火大会⇒こちら。 阿智胡地亭撮影の当日の花火のYouTubeも掲載しています。
☟画像をクリックすると花火の動画をみることができます。
『久々に見られて嬉しい』水の都の夜空に大輪の花「なにわ淀川花火大会」3年ぶり開催 | MBSニュース https://t.co/7KQUYBsYH9
— 阿智胡地亭 辛好 (@achikochitei2) August 29, 2022
先ごろも書いたが阿智胡地亭一家は神戸で阪神淡路大震災を被災した。 震災後しばらく経ってから夫婦は神戸大学医学部病院で中井久夫先生の診察を受けたことがある。
相方は何かのことで自宅のお嬢さん(文中の医者になられた方)と電話でしばらくお話させてもらったこともあるようだ。
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2022/8/9 10:33神戸新聞NEXT
阪神・淡路大震災の被災者の精神的なケアに尽力し、文筆家としても多くの業績を残した精神科医で神戸大名誉教授、文化功労者の中井久夫(なかい・ひさお)氏が
8日午前11時5分、肺炎のため神戸市の介護施設で死去した。88歳。奈良県出身。自宅は神戸市。
葬儀・告別式は近親者のみで行い、供花、弔電は辞退する。喪主は長男伸一(しんいち)氏。
京都大医学部を卒業し、東京大などを経て1980年、神戸大医学部教授に就任。統合失調症研究の第一人者として知られる。
95年の阪神・淡路大震災後、被災者の心のケアの必要性を早くから訴え、支援体制の構築や支援者の育成に精力的に取り組んだ。
中井氏が責任者を務めた心理的ケアの拠点が発展する形で、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の研究や治療、相談などに当たる全国初の
「兵庫県こころのケアセンター」(神戸市)が2004年に開設、初代センター長に就任した。
97年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の遺族らとも関わり、犯罪や災害の被害者や家族の心理的な回復をサポートする
「ひょうご被害者支援センター」(神戸市)理事長として活動。甲南大教授も務めた。
90年から2012年まで本紙でコラム「清陰星雨」を執筆。歴史や文化を巡る高い見識に基づき、政治や戦争をはじめとする幅広いテーマに深い洞察を示し、
無名の人々に温かいまなざしを向けた文章は多くの人の共感を呼んだ。
阪神・淡路の直後の医療現場や患者らの苦難をつづった「災害がほんとうに襲った時」のほか、「関与と観察」「精神科医がものを書くとき」「樹をみつめて」など著書多数。
著作の一部は東日本大震災後に復刊された。
優れた語学力を生かし、米国の精神科医サリヴァンやフランスの詩人ヴァレリーの訳書も手がけた。
著書「家族の深淵」で毎日出版文化賞。01年兵庫県社会賞。13年文化功労者
報告
(butterfly)効果を狙った訳ではありませんが、一人ても多くの国民が意見を伝える時だと感じましたので、生まれて初めて、
自民党本部、自民党府連、富田林自民会派の人に下記意見電話しました。シェアーさせて下さい🙇‼️
1、国葬
①反対
理由
今国政も自民党も旧統一教会問題で信頼が揺らいでいる。その元凶とも言える安倍さんを国葬にするのは自民党不信に輪をかけるだけ。
②国際的に約束したから止められないと言うのなら、 せめて、個人は勿論、事業者や弱い立場の学校に弔意を求めないで欲しい。
2、旧統一教会
①党としては調査しないと閣議決定したと聞いていますが、党としてこの問題を徹底解明してこそ、自民党の評価は上がる。
②調査すると結果次第では処分しないといけなくなる と言うのが調査しない原因とすれば、今こそ「泣いて馬謖を斬る」時。
長期的にはこれが一番選択すべき道。
⏫
富田林を地盤とする自民党国会議員にも電話しょうと思いましたが、今回の選挙で維新に負け、誰も居ませんので、
一応維新の本部に、国の問題として、同じ内容の意見で電話をしました🙇‼️
追伸
ガンジーは言いました。
「社会が変わるとは思えないが、自分が社会に飲み込まれない為に、私は、行動するのだ」
私もこの言葉をモットーにしたいと思っています😁‼️
(原文 あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである)
もう1つマリリンモンローの言葉
「自分が自分らしくなければ、何をしても意味なし」
(原文 Always be yourself. Retain individuality. Listen to the truest part of yourself.
Marilyn Monroe
いつでも自分らしくありなさい。個性を保ちなさい。自分自身の真実の部分に耳を傾けなさい。
大分県は国東半島にある「平川農園」。 農園主から 「ベランダのムラサキ山芋の葉っぱのカーテンの画像を見ましたよ、本家の葉っぱの写真も送ります」と便りがありました。
あの剛毅としかいいようのない「ムラサキ山芋」はなるほどこうやって育っている!!!
メールに返事しました。⇒「写真を見た瞬間 夫婦二人 思わず息をのみました。そして感嘆のため息を!!!立派なものですね。こうしてあのムラサキ山芋が出来るのですね。
今年も豊かなる収穫を当方も厚かましくお待ちしています(笑)」
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以前に頂いたムラサキ山芋
平川さんが所属した事業部の本部は東京・田無にあり、私も自分が所属した事業体の本部が東京中央区・新川にあったせいか、
大阪支社の各営業部の社内配置では 二人が所属した会社では傍流だった二つの事業グループの営業部は フロアーの一番はしっこに置かれ
そのお陰で平川さんと机の位置が隣同士になりました。
二人は 平川さんが田無から大阪に赴任してきて、すぐに話をかわすようになり 定時過ぎに在社していて目が合えば
隣のビルの地下にある「小ぼけ」で飲むようになりました。
他の人と飲む時より平川さんと飲む時は結構な量の日本酒を飲んでいたような気がします。薩摩人である平川さんは酒も強かった。
呑み助同士ということで知り合ったが、彼も私も会社の「久富さん」という方をリスペクトしていたのも共通していました。
1997年に阿智胡地亭は大阪支社から広島の中国支社に転勤になったので、現役時代に一緒に飲むのはその時点で終わりました。
初めて一緒に飲みだしてから30年近く経ち、平川さんは退職後 所沢市から大分県に移り住んだが 互いにその後も連絡を取り合って、
機会があれば神戸、大阪、東京などで時々一杯やってきたご縁が続いているのはありがたい。
カメラマン 笠原克生さんは カメラマンの故栗田格さんを通じて知り合った海外の通信社のトップカメラマンの方で、
長年 世界を取材して来られました。
笠原さんは 最近 写真に俳句をつけて楽しんでいます。
最新作は「温暖化 釣られ飛び出す ナツアカネ」
ホームページはこちらです。是非お立ち寄りください。
小嶋千鶴子はジャスコ発足後の十数年間で最も腐心したのは、「見えざる資産の蓄積」だとのべている。目に見える資産の典型的なものとしては「お金」があげられる。お金や建物などは目に見えて計算可能であり、こうした資産は常にコスト削減や売り上げ増を追求し増やしていかねばならない。
その一方で、資産には見えざる資産がある。「知識」「技術」「人脈」といったものだ。こうした資産はBS(貸借対照表)には表れてこない。
経営者が会社を成長させていこうとするとき、何よりも早く手をつけなければならないのが、この3つの見えざる資産の蓄積である。なぜならこうした見えざる資産の蓄積にはより多くの時間と労力を要するからだ。これらの蓄積がないかぎり、立派な建物ができたとしても、企業の成長は止まる。
特に小売業の場合、「店舗」は人材育成・錬成の場として大きな意味を持つ、と小嶋千鶴子はいう。
「店の仕事は単調で日々同じことの繰り返しである」という声を耳にすることがある。確かにそうした一面もあるが、仕事は単純化するだけではだめだ。店で働く人は、お客さまの変化を察知し、それに対して素早い対応をするといった人間らしい、人間なればこその仕事をしなくてはならない。
そのため店長はパートタイマ―をはじめとして、従業員に、お客さまの変化、市場の変化について常に質問する習慣を身につけ、疑問に対しては的確な「答え」を用意しなければならないという。
オカダヤ時代、小嶋はある店長に対してこう言い放った。
「店長としての君の役割は業績を挙げることはもちろんであるが、若いうちに能力のある者を発見して適切な指導や教育をすることも大きな店長としての役割や」
「自分のことばかり考えて部下のことを考えないのは店長失格、そんなことでは大事な従業員を預けられへんな」
続きはこちら。
元の勤務先の友人の安藤さんが ご身内の方の法事で関西から上京されたので 安藤さんと同じ部門だった森山さんと三人で亀戸天神にお参りしてから一杯やりました。
安藤さんから 手土産に彼が現在お住まいの兵庫県三田市の「エス コヤマのバームクーヘン」を頂いた。
我が相方も私も「エス コヤマのバームクーヘン」の事は知っていた。嬉しいお土産を頂いた。
柔らかくて滑らかで口の中でじわっとほどけていく・・。六人家族で頂いたバウムクーヘンはやはり凡百のバウムクーヘンとは別物のおいしさだった。
みな美味しいバウムクーヘンに大満足でした。謝謝!!
安藤さんは愛媛県の出身で 現役時代は標準・量産機械本部に属し 阿智胡地亭が生まれ育った三重県の四日市市にもおられたことがあるそうだ。
現役時代お互いに仕事上は全く関係がなかったが 酒と麻雀などで共通の友人たちにつながり 私的にもいろんなことで共通することがあり 今も交流が続いているのがありがたい。
(奥様は阿智胡地亭も一年生の一学期だけ通った三重県立四日市高校の卒業生と伺っている)。
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エスコヤマのサイトから一部引用
誕生に秘められたオリジナルな物語と味わう「小山流バウムクーヘン 思い出の大きな木」
エスコヤマのバウムクーヘンのほんのりやさしい黄色は、播州地鶏の有精卵の色。兵庫県の山あいにある多可町加美の美しい自然の中で育まれたこの卵は、シェフ小山にとっての"おいしい卵" のルーツとも言える特別な存在です。「この卵があったからこそ、このお菓子が生まれた」とシェフ。小山流バウムクーヘン『思い出の大きな木』には、幼い日のシェフが、加美にあるおばあちゃんの家でカブトムシを捕って遊んだ、夏休みのワクワク、楽しい思い出がいっぱいに詰まっています。分厚い童話の本をイメージした4種類のパッケージには、そんな思い出をベースにした4つのオリジナル・ストーリーが綴られています。丁寧な物作りの心を持つ日本人ならではの感性で焼きあげた、どこか懐かしい卵の風味香る、ふんわり、しっとりしたメイドインジャパンのバウムクーヘン。その豊かな味わいを、このお菓子の誕生に秘められた物語といっしょにお楽しみください。
小山流バウムクーヘン ~おいしさの理由~
こんもりとした黄身が美しい播州地卵
やや大ぶりの赤玉で、割るとこんもりとしたオレンジ色の黄身が鮮やか。この卵が持つまろやかなコクと風味は、そのままバウムクーヘンの味わいとなって表れています。
トップの画像は哲学の道。
「古都の春のいま」の画像付きのメールを京都を訪ねた友人のKさんから頂きました。
☞「今日、京都に来ました。千鳥ヶ淵の桜と同じで 何とか満開に間に合いました。左近の桜は少し葉桜でしたが、滑り込みセーフです。
今日は平安神宮や哲学の道を歩きます。
平安神宮
この日もも快晴、日中23~24度ぐらいまで上がり無風、昼間は半袖で観光日和でした。
嵐山から天龍寺、仁和寺、竜安寺の石庭と廻ったら約2万歩で、ソロソロ散り始めといったところ。
天龍寺で撮ったもの、これがツツジだそうです。
御室桜です。
それにしてもホント中・韓国人観光客のいない京都は静かな感じ、ノンビリ観光できます。」
お礼の返信☞「写真楽しみました。京都は神戸から年に何回も たまには泊りでもぶらぶらしに行ったので懐かしいです。
哲学の道は以前 歩いてみてネーミングのブランド力ってあるんだなと思いました。(笑)
外国人観光客のいない古都京都をゆっくり楽しんできてください。
京都は行くといつも京都の人は 日本全国と言うか世界中から「よそのヒト」が自らお金を持ってやってきてくれるパリやローマの人と同じで
何百年も楽を決め込んで暮らしてきたのだなあと思っていました。
が、こんどのパンデミックでは 京都人の経済生活はよその生産都市の何倍もダメージを受けたのではないだろうかとも思っています。
しかし歴史をみると応仁の乱や明治維新やもっと大きな変化をも飲み込んで来た街でもあるのでしぶといのかなとも。??」
頂いた翌日のお昼に 早速 下仁田ネギと、じゃが芋の一皿を楽しんだ。何とも言えないあまさととろみが口の中に沁みとおって旨かった。
平川さん いつもおいしい野菜をありがとうございます。
彼の所属した事業本部は東京・田無にあり、私も所属本部が東京・神田だったせいか、大阪支社の席の社内配置では二人が所属したそれぞれの営業部は
フロアーのはしっこに置かれ、そこで部は隣同士になった。
二人は すぐに互いに話をかわすようになり 定時過ぎに在社していて目が合えば 隣のビルの地下にある「小ぼけ」で飲むようになった。
他の人と飲む時より平川さんと飲む時は結構な量の日本酒を飲んでいたような気がする。薩摩人である平川さんは酒も強かった。
呑み助同士ということで知り合ったが、彼も私も会社の「久富さん」という方をリスペクトしていたのも共通していた。
1997年に阿智胡地亭は大阪支社から広島の中国支社に転勤になったので、現役時代に一緒に飲むのはその時点で終わった。
初めて飲みだしてから30年近く経ったが、互いにその後 退職してからも連絡を取り合って、機会があれば神戸、大阪、東京と一杯やるご縁が続いているのはありがたい。