帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (235)人の見ることやくるしきをみなへし

2017-05-24 19:27:24 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 235

 

忠岑

人の見ることやくるしきをみなへし 秋霧にのみたちかくる覧

(歌合の歌と思われる)        (ただみね)

(人の見ることが、恥ずかしく・嫌なのか、女郎花、秋霧にばかり隠れているだろう・どうして……男どもの見ることが、気に入らないのか、遊びめよ、おとこは・厭き切りに、立ち隠れ逝くだろう・山ば嵐)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「見…目で見ること…見て思うこと…覯…媾…まぐあい」「くるし…苦し…堪え難い…嫌だ」「をみなへし…女郎花…秋の草花…女花…をみな部し…遊女…をみな圧し」「秋霧…白くかすんで見えなくするもの…厭き切り」「たち…接頭語…断ち…断絶…立ち…起立」「かくる…隠れる…失せる…逝く」「覧…らむ…だろう…推量の意を表す…らん…見…覯…媾…まぐあい…嵐…山ば荒らし…乱…心の乱れ」。

 

人に見られるのが嫌なのか、女郎花、秋霧に隠れてばかり、なぜか・姿見せないだろう。――歌の清げな姿。

男どもの見が気に入らないのか、をみな圧し、厭き切りに立つもの隠れ逝くだろう・心乱れ山ばは嵐。――心におかしきところ。

 

人に見られるのが苦痛なのか、遊び女よ、秋霧にばかり隠れているだろう、「必ずしもこの世に在るべきではない業である」からなあ・思い乱れる。――このような意味もあるだろう。

 

紀貫之土佐日記(二月十六日)、船着場の山崎の夕方の様子は出立した五年前と変わっていなかった。遊びめ(さげすんで、曲がり大路という)。「売り人の心ぞしらぬ(春うる女の気が知れない)」と帰京した国守一行の女たちはいう。「かならずしもあるまじきわざなり」とある。「これにもかえりごとす(これにも、返礼する・銭を支払う)」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)